No.250 天照女神と許黄玉と宮地嶽神社①
宮原誠一の神社見聞牒(250)
令和6年(2024年)06月08日
宮地嶽神社は、百嶋学では開化天皇と神功皇后とその皇子二人を祀るとしますが、実際は、開化天皇は隠されているとします。神社由緒では神功皇后とその皇子二人を祀ります。
福岡県神社誌の神社由緒によれば、宮地嶽大明神は安倍丞相とあります。
福津市の宮地嶽神社の祭神(福岡県神社誌由緒)
安倍丞相(じょうしょう) 息長足比売命
勝村大神(藤高麿)
勝頼大神(藤助麿)
二人の皇子の名に藤がつきます。
すると、安倍丞相は藤大臣の大幡主となります。宮地嶽神社の奥の院の宮地嶽古墳の神紋は大幡主の三笠松紋です。宮地嶽神社の主祭神は大幡主であり、開化天皇ではないのです。
丞相は「相国」であり、総理大臣級なので、高良玉垂宮神秘書では開化天皇は大政大臣としていますし、孝元天皇の大政大臣とすれば、安倍丞相は開化天皇となります。
開化天皇の名は大幡主を隠すためとすれば、安倍丞相は藤大臣(大幡主)となります。
そうであれば、大幡主に関する重要神社・大和神社(奈良県天理市新泉町星山306)は日本(倭)大国魂大神、左殿に大物主、右殿に天照大神を祀り、境内社に朝日神社(朝日豊盛神=勝村大神)、高龗神社、事代主神社、厳島神社と祀られているのが説明できます。
宮地嶽神社も「大幡主と天照女神」を隠すために、「開化天皇と神功皇后」は利用されていたのです。
宮地嶽神社の祭祀線を調べると、
宮地嶽神社奥宮→波折神社→楯崎神社 が祭祀線にのります。これは、祭神が「天照女神と大幡主」であること示しています。
百嶋先生はすでに、宮地嶽神社の祭神が安羅の大幡主と気づいておられた。宝満宮祭神も天照女神と大幡主、現人(あらひと)も大幡主と。財津氏の大蔵流も大幡主と。(No.243)
百嶋メモ資料
山頂祭祀線は
在自山(あらじやま)→荒地山→安羅山→宮地山→宮地嶽神社→安羅人
現人(あらひと)、荒人(あらひと)と「あらひと」は大幡主につながるのです。
宮地嶽神社本殿、宮地山、在自山の三点の祭祀線も直線に乗ります。
■宮地嶽神社
福津市の宮地嶽神社の祭神は天照女神と大幡主とその子の勝村大神(藤高麿)と勝頼大神(藤助麿)であり、
安倍丞相(じょうしょう)→大幡主
息長足比売命 →天照女神
勝村大神(藤高麿) →朝日豊盛命
勝頼大神(藤助麿) →暮日豊盛命
この関係の置き換えができ、奈良の大和神社の祭神に近づきます。
仁徳天皇(斯礼賀志命)は大幡主と天照女神の子となります。
大和神社 (おおやまとじんじゃ) 奈良県天理市新泉町星山306
祭神 日本大国魂大神(中殿)→天忍穗根命=大地主大神=大年神=大幡主
八千戈大神(左殿)→大国主=大幡主
御年大神(右殿)→天忍雲根命
千木は三殿ともに外削り(男神)
本来、天照大神とともに祀るとされる、倭大国魂は大幡主と天照女神です。
後に、天照女神は伊勢内宮遷座です。
境内社摂社
本殿の左横 高龗(たかおおかみ)神社 祭神:龍神=大幡主
摂社三社左から
厳島神社 祭神:市杵島姫命=天照女神
事代主神社 祭神:事代主神=大幡主
朝日神社 祭神:朝日豊明神=勝村大神
宮地嶽神社 第一の鳥居 福岡県福津市宮司浜4丁目2
一の鳥居正面「宮地嶽神社」
国道495から一の鳥居を望む
参道の延長は新宮町相島に向かいます
宮地嶽神社 福岡県福津市宮司元町7−1
社頭の二の鳥居
三の鳥居
許黄玉の石塔、左は楚の屈原の「せいくらべ」
二の鳥居、三の鳥居、光の道参道
四の鳥居
四の鳥居の後ろの元本殿跡、元本殿と光の道参道はつながっています、右は藤棚
五の鳥居、奥は神奈備の宮地山
六の鳥居と奥の神奈備の宮地山、右に折れると社殿
天照・大幡の藤棚
大幡主の蘇鉄
社殿前の鳥居
神紋の「三笠松」
鳥居横の椿
随神門
東方の宮地山
拝 殿
拝殿の大しめ縄・拝殿向拝の四本柱は高良神社の形式(祭神・天照女神・大幡主)
本 殿
本殿の平削ぎ女千木と七本の鰹木、主祭神を女神に男女神を祀ります
本殿裏門・三笠松紋
本殿右手の境内社・須賀神社
本殿左手の境内社・六社神社の、この六社の祭神はすべて大幡主でした
右から、海積神社、愛宕神社、宗像神社、五穀神社、竃神社、菅原神社
大幡主大きな六角灯籠
大幡主の「ふくろう」
奥の宮八社巡り入口
許黄玉の石塔
奥の宮八社巡り入口
扁額「奥の宮」
扁額「奥の宮」
宮地嶽古宮(奥宮)・不動神社
奥宮の三階松紋と三笠松紋
稲荷神社
三宝大荒神社
鶴(天照女神・大幡主)が対でいます
竃・三宝荒神社は竃門神社でした、祭神・大幡主と天照女神
薬師神社
三笠松紋
薬師神社の祭神は大幡主
淡島神社と三宝荒神社の間の「結びの神」男女シンボル
■許黄玉と天照女神
宮地嶽神社は天照女神と許(ほ)黄玉の痕跡が色濃く残されていました。
天照女神(大日靈)は許黄玉の母系子孫です。
許黄玉の痕跡は神奈備の宮地山とごつい灯籠石塔です。
六の鳥居と奥の神奈備の宮地山、右に折れると社殿
許黄玉の灯籠石塔
許黄玉の墓
ブログ「韓国語&韓国旅行てんこ盛り日記」から
インドから伽耶王に嫁いだホ・ファンオク 首露王妃陵 2024年01月31日(水)
https://ameblo.jp/q-bi/entry-12838653731.html
許黃玉の王妃陵(慶尚南道 金海市 駕洛路 190番キル1)
許黄玉の墓は円墳ではありません、神奈備の土盛です
許黄玉が伽耶に渡る際、船に積み込んで持ってきたものと言われる
金官伽耶
大伽耶高霊郡の背後にある伽耶山の女神である「正見母主」と天神「夷毗訶 イビガ」とから二人の兄弟が生まれ、兄(悩窒朱日)が大伽耶の始祖となり、弟(悩窒青裔)が金官伽耶の始祖となる金首露王(しゅろおう 鉄の王キムスロ)です。首露王の王妃が許(ほ)黄玉で、48年にインドアユタ国から船に乗って伽耶に至り、首露王の妻になります。許氏のルーツはインドのアショカ王の家系であり、その時にアユタ国から石塔と鉄物を持参したという。許黄玉は息子10人を生み、長男は金海金氏(金官伽耶)となり、二人の息子は許氏を名乗ったという。(Wiki)
世代が数代下り、その許氏伽耶姫と姫氏帥升の王女が大日孁(おおひるめ)=天照女神とします。金海金氏の孫が「金越智」。
伽耶(任那)諸国は6世紀になると百済や新羅の侵略を受け、西側伽耶諸国は百済へ倭から割譲あるいは武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった。532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされ、562年には洛東江流域の加羅諸国が新羅に滅ぼされた。
金首露王が許黄玉を迎える(百嶋メモ)
伽耶韓国 https://indiaindia-27.amebaownd.com/posts/4501440 2018.07.07
金首露の許黄玉皇后の船で一緒について来た兄のアユタ国王子「宝玉仙人」は首露王につかえるのではなく、洛東江を遡った伽耶山を修行の場所とします。
首露王には十男二女の子供がいたが、宝玉仙人はその中の七人の王子を呼んで伽耶山中にて修験者の生活を一緒に送った。その七人はこの地で成仏し、それを知った首露王がここに「七仏寺」を建立したという。
また、娘の妙見王女もこの地で修行に励んで「妙見信仰」の祖になったと伝えられている。
伽耶山に海印寺(ヘインサ)ができたのはずっと後の時代で、新羅時代の僧侶・義湘が802年に伽倻山に建てたのが始まり。海印寺は、世界でも希少な木版の大蔵経「高麗八萬大蔵経」が納められているお寺。
お寺の名前になっている「海印」とは「竜王の印」を意味し、竜王の印というのは「打ち出の小槌」のような品で、三回叩くと願った品物が現れるという。
※「打ち出の小槌」は、大幡主を祀る神社の彫刻、鬼瓦の紋にあります。
大巳貴神社 福岡県うきは市浮羽町高見540