No. 248 大分県の穴森神社と宇田姫神社①

 
宮原誠一の神社見聞牒(248)
令和6年(2024年)05月17日
 

5月の連休は人ゴミの中に出るのがいやで、ゆっくりしようと思っていましたが、とうとう引っ張り出されて、3人で神社巡りです。大分県九重町、小国、久住山麓、竹田市神原、大野市清川宇田、由布岳と豊後久住一周の巡礼でした。行った甲斐があり、巡った神社から、また新たに多くのことを学びました。
 
久住山の麓に久住神社(竹田市久住町久住)があり、かつて祭神は、久住山頂に上宮として山神の姫神を、麓に下宮として健男霜凝日子を祀っていました。
久住神社を「くじゅう・じんじゃ」と読んだら、神社の本質がわかりません。
「久住」→「くすみ」→「久須美」=「夫須美」=「牟須美」→「結み・結び」と続くと、山神の姫神はおのずと分かります。
同様に、健男霜凝日子(たけおしもこりひこ)の「健男」は「武雄」で、霜凝日子は「しおこりひこ」と読むと霜凝日子の神がわかります。
久住神社の祭神は結びの神でした。久住神社の男女神は佐賀県武雄・嬉野・鹿島・塩田(旧藤津郡)を第二の故郷とする天御祖神(あまつみおやのかみ)でした。
 
祖母山に祀る神は、誰の祖母か?と考えるとわからなくなります。
祖母山に祀る神は大神庶幾(おおがこれちか)を嫗嶽大菩薩(うばだけだいぼさつ)としますが、これは後のことです。竹田市の穴森神社と大野市の宇田姫神社をセットにして考えると、これも天御祖神を祀ります。
 
福岡市志賀島(しかのしま)に海人族の志賀海神社があります。社号を「しかうみ・じんじゃ」と読ませています。祀る神は綿津見三神(わたつみさんしん)とされます。この表現では神社の本性はわかりません。
志賀海を「しかわた・鹿綿」と、綿津見三神を「綿績神」と置き換えると、木綿(ゆふ・ゆう)の神が想像できます。綿津見三神の一柱を神紋・州浜紋の「阿曇磯良・あづみいそら」としますが、本殿に祀られる神は織姫の女神です。安曇磯良は摂社今宮に祀られています。
 
竹田市神原(ごうばる)の穴森神社の祭神は大蛇神の大幡主で、大神惟基(おおがこれもと)の父・庶幾(これちか)が被さっています。
大野市宇田(うた)の宇田姫神社の祭神は天照女神(水神)で、宇田姫(華ノ本)が被さっています。

 
 
三輪伝説と穴森伝説の嫗嶽大菩薩
松尾芭蕉(花本大神)は豊後大神氏(おおが)の流れで、その豊後大神氏の始祖は大神惟基(おおがこれもと)とします。大神(大太 だいた)惟基の出自については、三輪山伝説の内容と同じ趣旨の「嫗嶽(うばだけ)大菩薩伝説」が語られています。大神氏流れの緒方家の出である松尾芭蕉(忠右衛門宗房)の神号の請願に、この伝説が使われています。
大神惟基の父は大神朝臣良臣(よしおみ)の息子・庶幾(これちか)。芭蕉の神号の請願に使われた系譜では、大神庶幾は嫗嶽大菩薩(うばだけだいぼさつ)となっています。母は藤原伊周(ふじわらこれちか)の娘で花御本(はなのもと)=宇田姫となります。

 

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仁和2年(886)2月、大神良臣が豊後介となって豊後国に赴任した。寛平4年(892)3月、大神良臣の任期が終わる時、大神良臣の徳政によって百姓が大神良臣を慕い、せめて子息を留めてほしいと国府に願い出た。大宰府はこれを許し、大神庶幾(これちか)を大野郡領に任命。大野郡領になった大神庶幾は三重郷に入って豊後大神氏の祖となり、庶幾(これちか)の嫡男である大神惟基(これもと)が豊後大神一族の始祖となります。
 
大神惟基には5人の男子があり、惟基は5人を豊後国南部を中心とした地域に置いて勢力の拡大を図っている。
長男:高千穂太郎政次 - 日向国臼杵郡高千穂郷を本貫とし、三田井氏の祖となる。
次男:阿南次郎惟秀 - 豊後国大分郡阿南郷を本貫とし、阿南氏の祖となる。
三男:稙田七郎惟平 - 豊後国大分郡稙田郷を本貫とし、稙田氏の祖となる。
四男:大野八郎政基 - 豊後国大野郡を本貫とし、大野氏の祖となる。
五男:臼杵九郎惟盛 - 豊後国海部郡臼杵荘を本貫とし、臼杵氏の祖となる。
 
穴森神社の寄付石碑の名には「三田井」「阿南」が多くあります。
 
 
No.66 三輪伝説と穴森伝説と下照姫 2018年06月28日の摘要
嫗嶽(うばだけ)大菩薩伝説
嫗嶽大明神(大神庶幾これちか)の子が大神惟基(これもと)。
関白道隆二男、藤原伊周(ふじわらこれちか)が豊後国緒方郷の片山里に配流となり「塩田大夫」というものに預けられ、やがて一人の娘が生まれる。娘の名を花御本(はなのもと)と云う。大神惟基の母となります。後の、松尾芭蕉の神名・花本大神の諡り名の元となります。
「花本大神」とは、松尾芭蕉に下賜された神号「花本大明神」で、神号は天保14年(1843)芭蕉150回忌にあたり、天保三大俳人の一人・田川鳳朗 が京二条家に請願し下賜されました。

 

嫗嶽大菩薩伝説
藤原伊周の娘のもとに、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆(そそのか)されて、娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後を付けると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える。
やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。これが後の大神惟基である。

 
大神惟基系譜には「九國にて狼藉はたらき召し上げられ四条河原で断首の刑に成りそうになり、辞世の詩を詠んだ。『惟基乃都詣乃唐衣頸与利哉末津裁始気牟(惟基の都詣りの唐衣頸よりやたちはじめけむ)』、この詩を聞いて感じ入り赦免された。この後、菊池大納言隆家の婿になった。」と系譜は記す。

 

 

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大野市清川の宇田姫神社
大分県豊後大野市清川町三玉(みたま 宇田)に宇田姫神社があります。
祭神は宇田姫であり、由緒に大神惟基の嫗嶽大伝説が記載され、祭神・宇田姫は「華ノ本」といい、「宇田」はここの地名で、宇田の姫となります。
祖母山の麓の穴森神社(竹田市神原1432)の洞窟は、この宇田姫神社のご神体洞穴の湧水につながっているという。
 
ここ三玉の宇田に宇田姫は住んでおられ、大神惟基の出産地にお堂「萩塚様」が奥岳川数百mの上流にあります。萩塚様を望む県道45号沿いの岡に大神惟基神碑があります。
 
宇田姫神社 大分県豊後大野市清川町三玉(宇田)1493

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拝殿左外に居た時、突然、左の花瓶の榊が床に落ちました、
風もないのに、どのようにして落ちたかわかりません、
慌てて、モー君がもとに戻しました。

 

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拝殿左格子の大蛇

 

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本殿屋根下は龍の彫刻

 

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本殿の外削りの男千木(大幡主)と鰹木は4本の天照女神

 

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本殿左手の土神社(大幡主)と御神水の洞穴

 

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御神水の洞穴(女神の御神体)
神水の湧出する穴そのものが御神体で女神を表すという
ご神体洞穴の湧水は祖母山の麓の穴森神社の洞窟の湧水につながっているという

 

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巨木の椿(椿大神と天照女神を象徴) 天照女神に椿が供えてあります
 

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宇田姫社案内板
宇田姫社の祭神は華ノ本であり、
神殿の清水の湧出する穴そのものが御神体で女神を表すという。
御神体の洞穴(女神の御神体)は、遠く祖母山の麓の姥嶽岩窟に通じ、
武将大神惟基の生誕にまつわる歴史と伝説を秘めた由緒ある社です。
華ノ本姫のロマンと神秘に満ちた神婚伝説の物語は「源平盛衰記」に 詳しく登場し現在に語りつがれている。
なお、大神惟基生誕の地と伝えられる萩塚様は、安産祈願の神としてお参りする姿が絶えない。  昭和63年6月 清川村教育委員会 

 
宇田姫社の祭神の基底は天照女神であり、宇田姫の華ノ本が被さっています。
大幡主は本殿左の土神社に祀られています。

 
 
 
竹田市神原の穴森神社
祖母山の麓の穴森神社の洞窟は、大野市三玉の宇田(うた)の宇田姫神社のご神体洞穴の湧水につながっているという。
穴森神社は、大神惟基(これもと)の父・大神庶幾(これちか)を嫗嶽大菩薩(うばだけだいぼさつ) として祀ります。
 
穴森神社 大分県竹田市神原1432

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後方は障子岩の手前の岳(見えないが、その左が倉木山) 2024.05.03
倉木山は由布院盆地の宇奈岐日女神社の南にもあります、香春三ノ岳の東にも障子ヶ岳がありました。「障子」「倉木」は天照女神と関係がありそうです。
「玉木」は天照女神の夫であり大幡主となります。
神紋は大幡主の「右三柏紋」

 

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大きな大幡主の六角灯籠

 

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神額「穴森神社」

 

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天照女神の鳥居と灯籠

 

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拝 殿

 

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神紋は大幡主の「右三巴」紋

 

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拝殿壁の龍の彫刻

 

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姥嶽(祖母山)大明神のご神体の穴森洞窟

 

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穴森洞窟の鳥居から拝殿を見上げる

 

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洞窟湧水は、宇田姫神社のご神体洞穴の湧水につながっているという

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生目社と淡島社

 

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左の生目社(大幡主)と右の淡島社(大幡主と梟鳥社 ふくろうしゃ)

 

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穴森神社と大蛇伝説
穴森神社は、古くは池の明神、池社と呼ばれていた。
岩窟は水をたたえた池であったと言われ、池の中には大蛇が住んでおり、ご神体として崇められていました。
江戸時代初期に岡藩三代藩主、中川久清の命により池に穴を開けて水が抜かれ、元禄16年(1703)には池底の洞窟から大蛇の骨が発見されたと伝えられています。
 
由緒
御神体は、姥嶽(祖母山)大明神の化身である大蛇が住んでいたという岩窟である。実際、元禄16年(1703)に大蛇の骨がこの岩窟から発見され、宝永2年(1705)に藩命によって岩窟を神体として祀ることになったと記録される。
この大蛇にまつわる伝説は、『平家物語』巻八に登場する。九州に落ち延びた平家を駆逐した、豊後の豪族・緒方三郎惟栄(これよし)の5代前の祖先が、この神の化身である大蛇と里の娘との間に生まれた子供であると紹介されている。
豊後の里に住む娘(『源平盛衰記』では塩田大太夫の娘とされる)に許に、夜な夜な男が通った。そのうち娘は身籠もったが、相手の男の正体は分からない。そこで男の着物の襟に針を刺して緒環(おだまき)を付けておいた。翌日、緒環の糸の後を追うと、姥嶽の下の大きな岩屋に辿り着く。娘が呼びかけると、岩屋の奥から「私の姿は見てはいけない。身籠もった子供は男児で、弓矢や打ち物を取っては九州に並ぶ者がないだろう」と声がした。娘がさらに懇願すると、声の主が岩屋から現れた。それは15丈(約4.5m)もある大蛇であり、喉笛に針が刺さっていたのであった。
その後、娘は無事に男児を産み、祖父の名前から“大太”と名付けられた。子供は7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたために“あかがり大太”と呼ばれたという。これが緒方三郎惟栄の祖先であり、大神惟基(これもと)となる。
 
 
緒環伝説(おだまき)
神体山の神を蛇とした神婚伝説は、緒環型蛇婿入伝説と呼ばれ、奈良県の大神神社に伝わる三輪山伝説から派生しています。祖母山(嫗嶽)大明神である大蛇が里娘に通い婚する伝説は、天照女神を大幡主が支える姿を想像するのです。御倭(みわ・巳倭・巳環・巳輪・三輪)の神は天照女神です。大神神社の祭神は天照女神です。後に大幡主が追祀されます。
緒環(おだまき)は糸を巻き取ったもの。「環 たまき」は古代貴婦人が腕に付けた貝環で、天照女神も環をつけていたそうです。天照女神が織姫であるとされることから、宇田姫に天照女神を重ねて、私は見てしまうのです。

 

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正八幡神・大幡主のしめ縄です

 
御神体は、姥嶽(祖母山)大明神の化身である大蛇が住んでいたという岩窟になります。
豊後の豪族・緒方三郎惟栄(これよし)の五代前の祖先・大神惟基(これもと)は、この神の化身である大蛇と里の娘(宇田姫の華ノ本)との間に生まれた子供であるとする。
神の化身の大蛇である大神庶幾(これちか)を嫗嶽大菩薩(うばだけだいぼさつ)として祀ります。大神庶幾は大神惟基(これもと)の父です。
 
穴森神社の祭神は、基底に天照女神と大幡主を祀り、大蛇神の大神庶幾が被さっています。
宇田姫社の祭神の基底は天照女神であり、宇田姫の華ノ本が被さっています。
 
 
 
萩塚様と大神惟基神碑
大神惟基(これもと)の生誕の地に、お堂「萩塚様」が宇田姫社より奥岳川数百mの上流にあります。萩塚様を望む県道45号沿いの岡に大神惟基神碑があります。
竹田市の岡城築城主の緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)は、大神惟基の末裔であるとされる。

 

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左手が萩塚様の入り口、右手の岡に大神惟基神碑 県道45号

 
萩塚様 大分県豊後大野市清川町三玉(宇田南津留)1376

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萩塚様を県道45号から望む 2024.05.03

 

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祠には「萩塚」の文字

 

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村指定史跡 萩塚様 (案内板より)
今を去ること千数十年の昔、延喜17年(917)の頃、藤原仲平が天皇の命令を受け、九州筑前国太宰府に安楽寺を建立するため下向し、豊後国緒方庄に館をかまえた。その頃、緒方庄宇田の里に塩田大太夫という歴代同名を称する富豪が住んでおり、仲平は大太夫の女を側女として、一人の女の子ができた。
その女の子の名前は『華ノ下』と名づけられて、成長するにつれて絶世の美人となり、余り美しいので里の人々は『宇田姫』と呼んだ。
近郷近在の若者達がこの天女の如き姫に何かの機会にふれようとしたが、寄りつくことができなかった。ところがその頃、この娘の心を強く引きつけ、娘をして瞬時も忘れさせることのできない若者が現れ、夜な夜な二人は寄り添い、母親もそのことを知り若者の素性正体を確かめさせた。
結果は、不幸にして若者は蛇身であったので、親娘は動転するほどの驚きようだったが、娘は若者の分身を身籠っていた。驚くべきこの事実は、過ぎ去った悪夢であったと気をとりなおし、この子供を産むのだが、このお産所が萩塚様であると云われている。
姫は、多くの萩の小枝を産褥に敷きつめて、出産の潮時を待ったところ、極めて安産することができた。しかも生まれた子どもは武勇にすぐれた大神惟基で、かの有名な緒方三郎惟栄の祖となる。
現在でも、安産祈願の神としてお参りが多く、人間だけでなく、牛馬のお産の時でも萩の枝をもらい、お礼参りをしている姿を見かける。
  昭和63年6月1日 清川村教育委員会

 
清川村教育委員会の説明では、「華ノ下」の宇田姫は、緒方庄宇田の里の富豪・塩田大太夫の娘と藤原仲平との子であるという。藤原仲平は、延喜17年(917)天皇の命令により筑前国太宰府に安楽寺を建立するため下向し、豊後国緒方庄に館をかまえたとあります。
 
Wikiでは、藤原仲平は延喜19年(919)醍醐天皇の勅命を奉じて大宰府に下り、奉行として当所の天満宮の社殿を造営した、とあります。
 
松尾芭蕉(忠右衛門宗房)の神号の請願に使われた系譜では、
大神惟基の母である宇田姫は藤原伊周(ふじわらこれちか)の娘とあります。
藤原伊周は豊後国緒方郷の片山里に配流となり、緒方庄宇田の里の塩田大夫に預けられた、となっています。藤原伊周と塩田大夫の娘との子が宇田姫であるという。
 
宇田姫の父が、藤原仲平(なかひら)か、藤原伊周(これちか)か、どちらなんでしょう?
 
 
大神惟基神碑

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石碑前から萩塚様を望む、手前は県道45号

 

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風は吹いていませんでしたが、ここに到着すると「歓迎の風」が数分間吹き続きました

 

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大神惟基神碑