No.243 香春のツヌガアラシトと現人神社②

 
宮原誠一の神社見聞牒(243)
令和6年(2024年)04月03日
 

香春岳三ノ岳の以北の神社群巡りです。
  
古宮八幡宮  福岡県田川郡香春町採銅所2611
現人神社   福岡県田川郡香春町採銅所1797
天照皇太神宮 福岡県田川郡香春町採銅所(1320-1)

 

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古宮八幡宮(こみやはちまん)
古宮八幡宮については、前回、阿曽隈社との関連でさわりを述べています。古宮八幡神社の元宮が阿曽隈社で、阿曽隈社の祭神・豊比咩命(とよひめ)を主祭神に祀ります。養老4年(720)宇佐八幡宮の託宣で、三ノ岳の銅を掘って長光公が鋳造した神鏡を宇佐宮放生会に奉納した縁で、貞観元年(859)応神天皇・神功皇后を勧請追祀して八幡神社となります。
豊比咩命のご神体は古宮八幡神社(こみやはちまん)に奉安されていて、香春神社例祭の時には香春神社へ下向され、例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻されます。
  
古宮八幡神社 福岡県田川郡香春町採銅所(字鷹巣)2611
祭神 豊比咩命 合祀(神功皇后・応神天皇)

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社頭 左端は蛭子社

 

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扁額「古宮八幡宮」注連縄の形式は香春神社と同じ、こちらの注連子(玉下り)が五個

 

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階段が急です

 

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階段を登り切り拝殿の前に出ると、子供の猪が左から右へ走り抜けていきました
猪に乗った摩利支天(天御中主=大幡主)の歓迎にビックリ、猪を身近に見るのも初めて
ここは猪の神が鎮座です

 

摩利支神社 福岡県宗像市東郷1丁目6−16
祭神 天之御中主大神(摩利支天) 葛城一言主神(一言主は天御中主と同一神)
創建は飛鳥時代の中期の朱鳥5年(691)、時の宗像大領の秋恵氏が、郡の中央の地の東江郷(現在の東郷)に「天之御中主大神(摩利支天)」及び「葛城一言主神」を奉齊し「摩利支神社」と称するようになったのが始まりとされる。

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天之御中主神「御神像守」摩利支神社HPから
 https://marishi-jinja.jimdofree.com/
  
摩利支天
摩利支天は、仏教の守護神である天部の一尊で日天の妃ともいわれる。摩里支菩薩、威光菩薩とも呼ばれる。仏教の摩利支天を連想しますが、ここの神社では、摩利支大神は、天之御中主のこととされる。

 

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本殿の千木は平削ぎで女神が主祭神、鰹木は三本

 

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由緒(神社案内)
古宮八幡神社は平安時代にできた「延喜式」の「神名」に挙げられている豊比咩命神社の本社であり、その最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曾隈という所である。
創祀は元明天皇和銅2年(709)今より実に1280余年の古社である。
香春岳三山に祀られる神々は式内社豊前国座のうち三座で、その一ノ岳に鎮まる香春神社の神は辛国息長大姫大目命で「豊前国風土記」に新羅の神が渡ってきて住みついたとある。
三ノ岳の古宮八幡神社は豊比咩命を祀り、養老4年(720)宇佐八幡社の託宣で、三ノ岳の銅を掘って長光公が鋳造した神鏡を宇佐宮放生会に奉納した縁で、貞観元年(859)応神天皇、神功皇后を勧請して八幡神社の呼び名となる。
永禄4年(1561)大友義鎮日向肥後豊後の軍勢三万余騎を率い、香春岳城主原田五郎義種と交ゆるとき社殿宝庫を焼失、その後慶長4年(1599)旧社地より現在地に移御する。
現在の社殿は安政4年(1857)の再建であり、悉く楠材を以って建立されており、殊に神殿の結構彫刻等は実に荘厳優雅を極め近郊に稀な建築物で神徳万古に朽ちない尊さを偲ぶことができる。(神社略縁起から)
境内社:白鳥神社、蛭子社

 

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神紋は「違い鷹羽」鷹羽紋は阿蘇の専属紋ではありません

 

主祭神の豊比咩神は大日孁(おおひるめ)=天照女神=豊姫神で、筑紫の水沼君が祀る神です。その豊比咩神は、香春三ノ岳の東麓の古宮ヶ鼻の阿曽隈社に、日置絢子によって祀られていました。
和銅2年(709)一ノ岳南麓に香春三神を合祀して新宮・香春神社を建立の際、三ノ岳東麓の阿曾隈社に祀られていた豊比咩命が勧請されました。
「延喜式神名」では「豊比咩命神社」ですが、貞観元年(859)宇佐八幡宮から応神天皇・神功皇后が勧請追祀され「古宮八幡神社」となっています。それ以前の社号は「古宮社 こみや」あるいは「鷹巣社」と称した。
  
糸島市高祖山の麓に彦火々出見尊と高礒姫を祀る高祖神社があり、旧名「鷹巣神社」といいました。この「鷹巣神社」は香春と同名です。高祖神社と対面するように三雲に細石神社があり、祭神の表記は木花開耶姫と磐長姫(罔象女神)となっていますが、彦火々出見尊(猿田彦神)を主祭神に、相殿に大幡主と瀬織津姫(天照女神)を祀るようです。細石神社の社殿は博多の櫛田神社(大幡主と天照女神)に向かい、「八龍の森」を通ります。参拝線は一貴山の大田神社に向かいます。さらに細石神社の参道の向う祭祀線は宇美八幡宮、大分八幡宮へと向います。(No.224)

 

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本殿彫刻 上から鶴(天照)、鳳凰、右下に亀蛇に乗った翁(大幡主)、左下に弁財天(天照)

 

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一の鳥居から急な階段を登りきった所の右手に、奈良東大寺にある手向山八幡宮(たむけやまはちまん)の模造灯籠一基が寄付されていました。

 

手向山八幡宮 奈良県奈良市雑司町434
祭神 応神天皇、姫大神、神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇
由緒略歴 奈良市街東部の手向山麓に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)があります。天平勝宝元年(749)東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の鎮守神として勧請された。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座していたという。後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180) 平重衡による南都焼討で焼失する。
文治4年(1188)に東大寺大勧進職の重源によって仮殿が建てられ、建久8年(1197年)に社殿が再建される。その後、建長2年(1250)に北条時頼によって境内地が東大寺千手院の跡地である現在地に移されたという。

  
手向山八幡宮は天平勝宝元年(749)東大寺建立にあたって宇佐八幡宮より東大寺の鎮守神として勧請されたという。灯籠はそれに関連しているようです。

 

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白鳥神社(日本武尊) 左は忠霊塔、その石塔頂部には羽を広げた鷹の銅像

 

白鳥神社の前に大きな羽釜が置いてあります。何を意味するのでしょうか。
白鳥は日本武尊神話に登場します。それで日本武尊の白鳥神社となるのでしょうが、ここ香春では日本武尊とは縁が薄いようです。
佐賀、筑後の「しらとり神社」の祭神は大幡主と天照女神が多いです。

 

白角折神社(おしとり)  佐賀県神埼市神埼町城原
神埼荘の鎮守として櫛田宮および高志神社とともに三所大明神、三社宮と称された。三社は城原川流域に南北に並んでおり、白角折神社は山地から平地へ流れ出る場所にある。明治4年(1871)の神社調差出帳によれば明暦年間の火災で、他の伝承では慶応2年(1866)6月の水害によって古い記録は失われたとされ、足利氏や少弐氏に関する文書があったという。1866年の水害では社殿も流失し、その後現在の拝殿と神殿が再建された。
明治44年(1911)9月に日吉神社(同年10月に仁比山神社と改称)へ合祀され、神体も同社に移された。その一方で社殿・境内は残され、朝日地区の氏子らによって維持されるとともに、現在も夏祭りが催されている。江戸時代までは神楽(能舞)が奉納されていた。神殿には女神と男神の二体の神像を所蔵する。女神は貞和2年(1346)の銘がある楠を用いた木像。男神は桐の一木造の像である。
 
白角折神社 (しらとりじんじゃ) 福岡県久留米市白山町180
祭神 日本武尊 中筒雄尊 応神天皇

  
「白角折」を「おしとり」と呼びます。「しらとり」と私は読むのですが。
神埼の白角折神社は櫛田宮と高志神社とともに三所大明神として同一扱いです。
ご神体は女神と男神の二体の木像と紹介されており、大幡主と天照女神を祀ります。
  
大きな羽釜は盟神探湯(くがたち)の釜か?
橘神社である若宮神社(滋賀県甲賀市土山町大河原)では、10月15日の大祭で、拝殿前にて御湯(みゆ)式が行われ、この神事は巫女さんが拝殿前で熱湯に笹の葉を浸し、身に振りかけて五穀豊穣と無病息災を祈念して舞を奉納されます。この儀式が盟神探湯(くがたち)を連想させるのです。

 

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採銅所の現人神社(お申様)
初め都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシト)が祀られていましたが、中世になって香春岳城の城主であった原田五郎義種(はらだよしたね)が合祀されました。神社由緒から、ツヌガアラシトは意富加羅国(おほからくに:朝鮮半島南部の大加羅=大伽耶)の王子であるという。
 
現人神社 福岡県田川郡香春町採銅所1797
祭神 都怒我阿羅斯等命 追祀 原田五郎義種尊

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一の鳥居 扁額「現人神社」、猿田彦大神石塔、由緒案内板

 

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本殿階段横には猿の石像

 

由緒(神社案内)
第一産の大神は意富加羅国(おおから大伽耶)の王子で、垂仁天皇の時代に新羅の姫神(比咩語曾神)の後を慕ってこの地に御鎮座しました。
第二産の大神は筑前三笠城主原田次郎種直公13代の子孫で、香春岳城主でしたが、永禄4年(1561)豊後大友義鎮に攻められ討ち死にしました。
没後、この里に疱瘡、疫痢が流行した時、神霊のお告げ「今より阿羅斯等神の許に鎮まり猿を使いとして万民を救う」があり、現人大神と合祀しました。それ以後、この地方に流行の疱瘡が治りました。
往古より武運長久、疱瘡又は小児に多い「ちり」と言う病を守護する大神で、綿布の「くくり様」は諸病退除のお守りです。
毎年旧の10月初申の日が大祭で、「金の猿」替えも行いました。
境内社:貴船社、須佐社

 

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境内社:貴船社、須佐社

 

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拝殿天井の由緒書 社頭の略由緒案内とほぼ同じです。

  
  
都怒我阿羅斯等は何者ですか?
都怒我阿羅斯等は意富加羅国(おおから大伽耶)の王子である、ということは
高木神(大伽耶王)と天照女神の子となります。
それで、都怒我阿羅斯等(=崇神天皇)はニニギ命と同一人なのか?
  
しかし、おかしいです。香春三山まわりの神社の祭神は大幡主と天照女神です。
由緒に疫病を抑えたのは現人大神とあり、疫神は大幡主です。それに原田氏の氏神は大幡主です。百嶋学では、大伽耶王は高木大神です。
この由緒を疑問視しなければ、本当は、大伽耶王は大幡主ではないのか?
すると、日本書紀の天孫降臨に出てくる高木大神は何者?となります。
  
佐賀市の高木瀬に草野氏がおられたので、草野氏の先祖は高木大神という説がありますが、草野氏のご先祖は大幡主と想定です。
それに、由緒には「くくり様」がいきなり出できます。「くくり様」は「菊理姫」であり、「くくり様」は天照女神です。結果、都怒我阿羅斯等は大幡主となります。
  
荒神様は、福岡県一帯では、「荒人」「荒仁」「現仁」「現人」の名が付く神社に所々出てきます。
福岡県那珂川市に現人(あらひと)神社があり、福岡住吉神社の元宮という。
福岡県瀬高町に荒仁(あらひと)神社(現仁宮)があり、玉垂神社と並んで鎮座です。
那珂川市の現人神社の主祭神は大幡主(都怒我阿羅斯等)です。
瀬高町の荒仁神社の祭神も大幡主(大山祗神)で、荒仁神社社殿右横に天照女神を祀る玉垂神社が並び、合わせて高良玉垂宮です。
現人(あらひと)神は大幡主です。
  
  
由緒からの都怒我阿羅斯等
現人神社(田川郡香春町採銅所)の由緒から、都怒我阿羅斯等が意富加羅国(大伽耶)の王子であるとし、百嶋学から都怒我阿羅斯等が崇神天皇とすれば、崇神天皇、天武天皇、持統皇后がつながります。崇神天皇は許氏高木神と天照女神の子となります。ニニギ命は崇神天皇の置き換えとすると、国譲りの神話は、大幡主が崇神帝に倭国を譲ったことになります。崇神帝はハツクニシラススメラミコトです。
  
太宰府市通古賀の王城神社縁起から、崇神天皇と五十鈴姫の子が応神天皇となります。
大幡主と天照女神の子が仁徳天皇となります。仁徳天皇系は武烈天皇で断絶です。代って、応神天皇5世孫の継体天皇が継ぐことになります。漢風諡号「継体天皇」は「継体持統」から継体と名付けられたという。
  
仁徳天皇が大幡主と天照女神の子であれば、
高良玉垂宮神秘書でいう開化天皇と神功皇后の関係は大幡主と天照女神の置き換えになってしまいます。仁徳天皇が大幡主と天照女神の子であればこそ、仁徳天皇は強大な国家権力を手にすることが出来たのでしょう。
福津市の宮地嶽神社の祭神は大幡主と天照女神とその子の勝村大神(藤高麿)と勝頼大神(藤助麿)であり、
  
 安倍丞相(じょうしょう)→大幡主
 息長足比売命     →天照女神
 勝村大神(藤高麿)   →朝日豊盛命
 勝頼大神(藤助麿)   →暮日豊盛命
  
この関係の置き換えができ(No.231)、奈良の大和神社の祭神に近づきます。
仁徳天皇(斯礼賀志命)は大幡主と天照女神の子となります。

 

大和神社 (おおやまとじんじゃ) 奈良県天理市新泉町星山306
祭神 日本大国魂大神(中殿)→大地主大神=大幡主=天忍穗根命=大年神
   八千戈大神(左殿)→大国主=大幡主
   御年大神(右殿)→天忍雲根命
千木は三殿ともに外削り(男神)
本来、天照大神とともに祀るとされる、倭大国魂は大幡主と天照女神です。
後に、天照女神は伊勢内宮遷座です。
境内社摂社
本殿の左横 高龗(たかおおかみ)神社 祭神:龍神=大幡主
摂社三社左から
厳島神社 祭神:市杵島姫命=天照女神
事代主神社 祭神:事代主神=大幡主
朝日神社 祭神:朝日豊明神=勝村大神

  
  
氣比神宮と氣多大社の祭神 (メッセージ15 22)
両社ともに都怒我阿羅斯等に関係します。
  
氣比神宮(けひじんぐう)  福井県敦賀市曙町11−68
祭神 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)

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(写真はWikiから)
天照大神の両部鳥居、六角灯籠(土公元宮)、「五七桐」と「右三つ巴」の神紋があります。
気比大神・御食津大神(みけつおおかみ)・笥飯大神(けひおおかみ)・保食神とも称する
結宮(けつのみや)=天照大神
猿田彦神社 氣比大神の案内をされる神様。
兒宮(このみや)児宮(このみや)=彦穂々出見尊
兒(こ)の舞は彦火々出見命を浦島太郎に因んだ神楽です。
氣比神宮の祭神は天照女神と大幡主です。
  
  
氣多大社(けたたいしゃ)  石川県羽咋市寺家町ク1-1
祭神 大己貴神=大幡主

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天照女神の両部鳥居
奥宮 須佐之男尊、奇稲田姫命 → 大幡主と天照大神の置き換え
摂社 白山神社(菊理媛神) 若宮神社(事代主神)
境内社 奥津島神社(奥津島姫命) 太玉神社(天太玉神)
氣多大社の祭神は天照女神と大幡主です。
  
  
久麻加夫都阿良加志比古神社 (くまかぶとあらかしひこ)
石川県七尾市中島町宮前ホ部68-1-1
祭神 阿良加志比古神(あらかしひこ)
配祀 都奴加阿良斯止神(つぬがあらしと)
境内社 薬師社(本地仏熊甲薬師如来=大幡主)、加茂社

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(写真は「御朱印集めには神社がいいね」https://jinja-bukkaku.net/)
天照女神の両部鳥居、神紋は蛇の目=大幡主、加藤清正公の神紋
本殿、薬師社の向拝は四本柱で高良神社の形式です
猿田彦が先導するお熊甲祭「イヤサカサー」の掛け声は「弥栄、いやさか、やさか」、祇園社の八坂神社(いやさか)は「やさか神社」として広まった、八坂神社(祇園社)は本来、大幡主を祀ります。熊甲安羅加志彦(クマカブトアラカシヒコ)=都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)=大幡主
祭神は天照女神と大幡主です。
  
弥栄神社 (やさか) 島根県鹿足郡津和野町後田67
祭神 須佐之男命 牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園神社
天照女神の両部鳥居があります、古典芸能神事である鷺舞、鷺神社は大幡主(大国主)を祀ります。須佐之男命、奇稲田姫は大幡主と天照女神の置き換えです。
  
  
熊野十二所権現
社殿       神座      祭神名         本地仏
上四社  第一殿 西御前(結宮)  天照女神(白山姫)     十一面千手観音
     第二殿 中御前(速玉宮) 速玉大神(大幡主)     薬師如来
     第三殿 証誠殿     家津御子大神(耀姫)   阿弥陀如来
     第四殿 若宮(若一王子) 天照大神(彦穂々出見尊)  如意輪観音
中四社  第七殿 児宮(このみや) 彦穂々出見尊      如意輪観音

 

  
  
  
採銅所の天照皇太神宮
香春駅の案内板では、神功皇后が仲哀天皇に祟る神を知るため、神託を聞いたと伝えられています。神功皇后伝説で仲哀天皇に祟る神を撞榊木厳御魂(天照女神)として祀る神社が伊勢天照御祖神社(四柱神社)です。この神社は筑紫の水沼君が創立しました。水沼君が斎祀る神が豊比咩神で、大日孁(おおひるめ)=天照女神です。この豊比咩神が古宮八幡神社の元宮である三ノ岳の阿曽隈社の祭神です。

 

伊勢天照御祖神社(四柱神社) (No.57)
久留米市北野町赤司の八幡神社の南の今寺区に「四柱神社」があります。
四柱(よはしら)神社は、赤司八幡神社の「止誉比咩神社本跡縁記」の一説から、撞賢木厳之御魂(ツキサカキイツノミタマ)を祀る伊勢天照御祖神社として開基します。祭神は天照大神です。
神功皇后は、仲哀天皇に祟った神が天照大神の撞賢木厳之御魂とわかり、御魂を鎮めるために、伊勢天照御祖神社を建立されました。後に、熊野大権現、川上大明神、高良玉垂命を勧請合祀し、四所大明神を祀る四柱神社となります。
今では、「四柱神社」の神社名によって、古宮が伊勢天照御祖神社であるということが、すっかり忘れ去られています。今寺の神社は「伊勢天照御祖神社」の本宮・元宮です。
  
「止誉比咩神社本跡縁記」の中の「伊勢天照御祖神社」一説
時に皇后、神の語(ことば)を得て、教えのままに祭り給う。よって、祠壇を道中の蚊田の高嶋に興(たて)て、撞賢木厳之御魂を遷し鎮まり給う。
後の人、その祠壇を号(なづ)けて、伊勢天照御祖神社という。御霊(みたま)の形(みかげ)ます金鏡(こがねかがみ)、千々星霜歴(すぎ)れども、なお、曇蔭無し。
天平11年(739)に至り、聖武天皇の勅により、神宮寺を起(たて)て安陽寺と号す。これ「日の神を安んずる」の趣意なり。
後の世の住僧、熊野、川上、高良の三神を勧請す。よって、御祖の神の相殿に遷座す。
また、天疎向津媛命は道主貴(みちぬしのむち)の幽(かくれ)名なり。
よって、中瀛宮(なかつみや)に祭り鎮まり給う。
  
※道主貴の貴(むち)は宗廟の尊称
道主貴(宗廟)の祭神は大日孁(おおひるめ)=天照女神=豊比咩神。
道主貴の「道」は西海道即ち九州を指します。

  
天照皇太神宮 福岡県田川郡香春町採銅所(1320-1)

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香春町観光協会HP
https://kawara-kankoh.com/spot/shrine/1369.html
一人の農夫が田畑を耕していた時、一つの鷹の羽が降ってきました。家に持ち帰って、夢の中で「朕は天照大神なり、この地に鎮座する」と言われたため仮殿をしつらい、その後、神殿、拝殿が造営され現在の形となりました。

 

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近くの民家が火事になり放射熱で焦げています、鷹、桐の彫刻

 

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本殿の沢瀉(オモダカ) 古宮八幡神社にもありました

 

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ヤブツバキ(藪椿)ツバキ(椿、海柘榴)

 

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椿は伊の神(猿田彦=椿大神)の象徴です

  
東大寺二月堂の「お水取り」の供華が椿(良弁椿)とは知りませんでした。
世の中は知らないことだらけ。
香春の神社巡り、よく椿が植えてあり驚きでした。しかも椿の花満開。
これ偶然でしょうか、それとも、お神に行かされたのでしょうか。

 

二月堂のお水取りと紅花
奈良東大寺で毎年行われる「お水取り」は1250年以上の歴史があります。お水取りの際に二月堂の十一面観音に捧げられる椿の造り花の花弁には,紅(ベニ)で染めた深紅の和紙が使われます。深紅,白,クチナシで染めた黄色の3色の和紙を組み合わせた造り花を,椿の生木につけて飾ります。
この椿には、「糊(のり)こぼし」という別名があります。修二会では、この造花は僧侶の方々が和紙で作りますが、ある時、真っ赤な和紙にうっかり糊を零(こぼ)してしまったという。零れた糊の部分が白く染まり、その風情が良弁椿に似ていることから、それ以降、紅白の花弁を組み合わせた造花で飾り付けを行うようになった、と伝えられている。

 
香春神社本殿観音菩薩像群の後ろの椿、天照皇太神宮の二本の椿、現人神社の猿の石像をみていると、

猿田彦=椿大神=伊(猪)の大神=大幡主
天鈿女命=大目命(大女命うずめ)=大日女(おおひるめ)=大日孁(おおひるめ)=天照女神
熊甲安羅加志彦(くまかぶとあらかしひこ)=都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)=大幡主

と感ずるのは私だけでしょうか。
  
  
香春(かわら)とは
今までの考察からすると、香春は高良であり、香春神社は高良神社です。
高良玉垂神社の祭神は大幡主八幡大神(高良大神)と天照女神(豊姫大神)となります。
高良神社は甲羅神社、高羅神社とも書きます。甲羅は亀、高羅は鷹とヤタガラスに関係します。香春岳の廻りに展開する神社群は水沼の君(みぬまのきみ)が深く関わっていると想定できます。