No.242 天忍骨命と豊比咩命と香春神社①

 
宮原誠一の神社見聞牒(242)
令和6年(2024年)03月27日
 

「五玉」は「御玉」ではないか、と No.226(2023年7月13日)にて論じました。
それで、倭五玉宮(わのいつたまぐう)について、
「五玉宮」は「御玉宮」で「みたまのみや」であり、「みたま神社」は「御魂神社」と。
福岡では「御魂神社」と言ったら「大国魂神社 おおくにたま」であり、
大国魂神社の祭神は正八幡大幡主と大日靈命(おおひるめ)=天照女神=ヒミコ です。
最近、福岡県田川郡の香春神社(かわら)を訪問し、「五玉=御魂」の考えが、福岡県朝倉郡筑前町三箇山の五玉神社にも当てはまるのではないかと気づいたのでした。
 
五玉神社 福岡県朝倉郡筑前町三箇山(さんがやま)1144-1

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五玉神社の祭神は五柱あり、これから五玉のお神を祀る神社と解釈してきたのでした。
それは今まで、天忍穂根命(天忍骨命)が天忍穂耳命(海幸彦)であり、五柱の神が単独でそれぞれ別の神様と考えてきたからです。
最新の考察から、天忍穂根命は正八幡・大幡主と結論に至っているのです。

 

No.240 熊野大社・正論覚書 令和6年(2024年)02月25日
英彦山神宮由緒によると、天村雲命(あめのむらくものみこと)によって、本宮は創立されたとあり、天村雲命は大幡主です。祭神・天忍骨尊(建御雷之男神)も大幡主となります。
 
熊野大神は、英彦山から四国愛媛の石鎚山、淡路の諭鶴羽山(ゆずるはさん)を経て熊野・神倉神社へ渡られたとされる説があるという。「福岡の英彦山神宮が元宮です」と。

 
春日大神は武甕槌命であり、=大幡主です。
天忍穗根命(天忍骨命)は大幡主。
春日大神の天忍穗耳命も武甕槌命であり、
天忍雲根命の父は天忍穗耳命であり、
大幡主=武甕槌命=天忍穗耳命となれば、
経津主神(山幸彦)=大幡主=天忍穗耳命(海幸彦)となり、
天忍雲根命の父は天忍穗根命(大幡主)となるのです。

 

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伊左奈岐神(イザナギ)は大幡主の置き換えだとすると、
(イザナギ=多賀神たかのかみ=大幡主)
五玉神社の祭神五柱はすべて大幡主となり、これらは異名同一神となるのです。
筑前町三箇山の五玉神社は大幡主を祀る「御魂神社」だったのです。
五玉神社の「黒髪の井戸」の伝説にある黒く染まったカラスも「ヤタガラス」であり、=大幡主です。
 
 五玉神社の祭神五柱
 熊野早玉神(くまのはやたま=熊野牟須毘命=熊野大神=大幡主)
 大国主神(おおくにぬし=大巳貴=大幡主)
 事代主神(ことしろぬし=西の宮=えびす神=大幡主)
 伊左奈岐神(イザナギ=多賀神たかのかみ=鷹神=大幡主)
 天忍穗根神(あめのおしほね=武甕槌命たけみかづち=大幡主)
 
 
福岡県田川郡の香春神社の祭神を調べるに機は熟したと、香春神社とその周辺の神社・遺跡を調査するトレッキングを実施しました。
 
トレッキング資料 香春神社、その付近の神社巡礼
香春神社   福岡県田川郡香春町香春733(791)
鏡山大神社  福岡県田川郡香春町鏡山705(699・1944)
須佐神社   福岡県田川郡香春町大字香春458
宮原遺跡   福岡県田川郡香春町採銅所4925
阿曽隈入口  福岡県田川郡香春町採銅所5038
阿曽隈社   福岡県田川郡香春町採銅所5191
清祀殿    福岡県田川郡香春町採銅所5746
神間歩採銅所 福岡県田川郡香春町採銅所(長光)
古宮八幡宮  福岡県田川郡香春町採銅所2611
天照皇太神宮 福岡県田川郡香春町採銅所(1320-1)
現人神社   福岡県田川郡香春町採銅所1797

 

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香春神社
社記「香春神社縁起」によれば、和銅2年(709)一ノ岳南麓に一社を建立、三神を合祀して香春宮と称した。社記「香春神社解文 弘安10年(1287)」では、その新宮合祀の際、日置絢子が三ノ岳東麓の阿曾隈社に祀られていた豊比咩命を勧請と記す、とあります。

 

福岡県神社誌(香春神社由緒記)
豊前国風土記に曰く
鷹羽郡、鹿春の郷あり、郡の東北にあり。此の郷の中に河あり、年魚あり。其の源は郡の東北の杉坂山より出でて、直に流れ下り、曾真漏川に合流。此の河瀬、清浄にして、故に清河原の村と號(なず)く。清河原は清鹿春の郷と謂う。昔、新羅の国の神、自ら渡り到来りて、此の河原に住み、鹿春の神と號く。

 
「田川郡」は、昔は「鷹羽郡」と書き、「たかは」が訛って「たがわ」になったようです。
鷹羽とくれば、ゆかりは大幡主です。香春神社は「かわら神社」であり、高良神社であり、大幡主、天照女神が関係します。
河原(かわら)、香春(かわら)、瓦は同義語で、甲羅神、高羅神、高良神に続きます。
 
 
香春神社 福岡県田川郡香春町香春733
祭神 一ノ岳 辛国息長大姫大目命(大女命うずめ) 瀬織津姫=天照女神
   二ノ岳 忍骨命(天忍穂根命) 大幡主
   三ノ岳 豊比咩命(とよ姫)  天照女神

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社頭、背後の山は香春一ノ岳

 

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一の鳥居「香春神社」、注連縄が独特です

 

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二の鳥居「香春神社」

 

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三の鳥居「香春神社」

 

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太鼓橋は「天の橋立」

 

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天照女神の鶴に大幡主の六角灯籠

 

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注連掛柱には「三階菱紋」、両側には大幡主と天照女神の「藤の棚」

 

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独特の回廊、大幡主の六角灯籠が多く並びます

 

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拝 殿

 

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拝殿の前には多くの大幡主の六角灯籠です

 

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鬼板には三階菱紋、鳳凰、波に対の鶴(天照女神)、亀蛇(大幡主)の彫刻

 

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本殿、天照女神・大幡主に関する多くの彫刻があり、桃(天照女神)の彫刻が印象的です

 

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本殿の向拝の四本柱は高良神社の象徴です、これで祭神は決まり

 

由緒(神社案内)
辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命を香春岳に祀る香春神社は、『延喜式神名帳』では名神小社に列格され、豊前国一宮とされた古社です。創祀は不詳ですが、社記『香春神社縁起』によれば、崇神天皇の御宇、辛国息長大姫大目命、忍骨命の荒魂、豊比咩命の三柱の御神を香春岳に奉祀したのが創始とされています。
一ノ岳に祀られた辛国息長大姫大目命は、神代に新羅国に渡り、崇神天皇の御代に日本へ戻った神です。一ノ岳の山頂には周り36歩ばかりの沼があり、黄楊樹(つげ)、及び龍骨があったと伝えられています。
二ノ岳に祀られたのは忍骨命の荒魂で、その和魂は南山(一ノ岳)に祀られたとされ、二ノ岳の山頂には銅、黄楊樹、及び龍骨があったと伝えています。
三ノ岳に祀られた豊比咩命は、香春神社の祭礼の時だけ香春神社に坐し、祭礼が終わると宇佐宮放生会で神鏡を奉納した採銅所にある古宮八幡宮に帰社するとされています。三ノ岳の山頂には龍骨があったと伝えています。
 
香春社解状 弘安10年
和銅2年(709)、一ノ岳麓に社屋を建立し、三社の神を新宮に合祀す。日置絢子、阿曽隈を崇め新宮に勧請す。香春社これなり。
 
阿曽隈社 福岡県田川郡香春町採銅所5191の石碑「阿蘇隈遺社」
香春宮奉崇最初の地にして、豊前国一之宮、六座の内三座
大目命、忍骨命、豊比咩命、三社の旧社地
 
福岡県神社誌(香春神社由緒記)
最澄は宇佐宮で唐への渡海安全を祈願したところ、八幡大神が示現し、新羅国から来住した香春大神は、新羅・大唐・百済の事を詳しく知っているので詣でるよう託宣。最澄は翌年の延暦24年(805)に唐からの帰朝の折、洋上で風波により船が沈没しそうになり、最澄が安全を祈念すると、八幡大菩薩が天童として虚空に現われ、香春大明神が碇石となって纜(ともづな)を結び、大龍となった竈門大菩薩は船を背に乗せて無事に岸へと辿り着き、心から神恩に感謝したのでした。
※竈門大神を大龍といっています。

 
香春神社、古宮八幡神社の元宮は阿曽隈社で、香春三ノ岳の東麓の古宮ヶ鼻に、日置絢子が豊比咩命を祀ったのが始りとされる。
普段は、豊比咩神のご神体は古宮八幡神社(こみやはちまん)に奉安されていて、香春神社例祭の時には香春神社へ下向され、例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻されます。それで通常は、豊比咩神は香春神社にはおられません。
阿曽隈社の祠右横の石碑によると、「香春宮奉崇最初の地」とあり、阿曽隈社が香春神社の発祥の社となります。

 

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本殿左の山王神社と観音菩薩像

 

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後ろには椿の木

 

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拝殿下左側の境内社、右から蛭子神社、諏訪神社、天穂神社

 
石鎚神社
香春神社社頭の東数十mのところに民間宗教団体の「石鎚神社」があります。
大幡主を祀る香春神社そばに石鎚神社があるのも不思議です。石鎚神社のご神体は西日本最高峰石鎚山です。石鎚山は彦山神宮縁起にも出てきます。

 

石鎚神社 福岡県田川郡香春町大字香春735−9
石鎚神社(石鎚本教香春教会) 初代 川津ミツコ
昭和60年、愛媛県西条市の石鎚神社・石鎚本教より和魂・奇魂・荒魂の三体の御神像を受け賜りました。神紋は丸に石の字
石鎚神社 愛媛県西条市西田甲797
685年に役小角(神変大菩薩)が開山、西日本最高峰石鎚山を神体山とする
 
熊野大神は、英彦山から四国愛媛の石鎚山、淡路の諭鶴羽山(ゆずるはさん)を経て熊野・神倉神社へ渡られたとされる説あり

 
 
昔の姿の香春三岳

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「香春町の文化財」から 南西方面から撮影、右から一ノ岳
https://www.town.kawara.fukuoka.jp/s032/030/040/040/20180131092927.html

 
 
 
阿曽隈社(あそくましゃ)
香春神社の元宮は古宮八幡神社であり、その元宮は阿曽隈社です。香春三ノ岳の東麓の古宮ヶ鼻にありました。日置絢子が豊比咩命を祀ったのが始りとされる。
現在、豊比咩命のご神体は古宮八幡神社(こみやはちまん)に奉安されていて、香春神社例祭の時には香春神社へ下向され、例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻されます。
それで通常は、豊比咩神は香春神社にはおられません。
祠右横の石碑によると、「香春宮奉崇最初の地」とあり、香春神社、古宮八幡神社の元宮の地となります。ここが香春神社の出発の地です。
 
阿曽隈入口 福岡県田川郡香春町採銅所5038

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鎖を外して、ここに車を停めます(右へ登る、背後は豊比咩命の三ノ岳)

 

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右へ登ります50m

 

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阿曽隈社 福岡県田川郡香春町採銅所5191

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「阿蘇隈遺社」石碑

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「阿蘇隈遺社」
香春宮奉崇最初の地にして、豊前国一之宮、六座の内三座
大目命、忍骨命、豊比咩命、三社の旧社地
 
(香春社解状)
和銅2年(709)、一ノ岳麓に社屋を建立し、三社の神を新宮に合祀す。日置絢子、阿曽隈を崇め新宮に勧請す。香春社これなり。

 
古宮八幡神社 福岡県田川郡香春町採銅所2611
祭神 豊比咩命 合祀(神功皇后・応神天皇)

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元明天皇和銅2年(709)創祀。豊比咩命神社の本社であり、豊比咩神の最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓の阿曾隈(古宮ヶ鼻)という所にあった。
養老4年(720)宇佐八幡宮の託宣で、三ノ岳の銅を掘って長光公が鋳造した神鏡を宇佐宮放生会に奉納した縁で、貞観元年(859)応神天皇、神功皇后を勧請して八幡神社の呼び名となる。

 
 
 
辛国息長大姫大目命
辛国とは古朝鮮の「加羅国 からくに」のこと、大目は「大女 うずめ」です。

 

伽耶
フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)
伽耶(かや、伽倻または加耶)、加羅(から)、または加羅諸国は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国を指す。広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。

 

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三国時代の朝鮮半島

 

任那諸国は6世紀になると百済や新羅の侵略を受け、西側諸国は百済へ倭から割譲あるいは武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった。532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされ、562年には洛東江流域の加羅諸国が新羅に滅ぼされた。
 
金官国(金官加羅)
建国神話は卵生神話型のものであり、初代の首露王は金の卵から産まれた為に姓を金と名乗ったという。
 
大加羅
高霊郡の背後にある伽倻山の神である正見母主と天神「夷毗訶 イビガ」とから生まれた兄「伊珍阿豉」(悩窒朱日・内珍朱智)が大加羅の始祖、弟「悩窒青裔」(首露王)が金官国の始祖であるとする。
 
その他の加羅
安羅加羅(慶尚南道咸安郡)
古寧加羅(慶尚北道尚州市咸昌)
星山加羅(慶尚北道星州郡)
小加羅 (慶尚南道固城郡)

 
辛国の加羅国とは、神社由緒からして「大加羅(大伽倻)」のこととなります。
この時代、朝鮮南部を
向倭(むこうやまと)といった。
 
宇佐宮の前宮となる鷹居神社(大分県宇佐市上田1435) を辛島(勝)乙目(からしますぐるおとめ)が元明天皇和銅5年(712)に創立しています。「乙目」は「乙女」です。それと同様に、大目は「大女 うずめ」です。

 

鷹居神社 大分県宇佐市上田1435
元明天皇和銅5年(712)、辛島(勝)乙目が鷹居社を創建。
正八幡大神の御社を最初に宇佐に奉建した霊地である。
辛嶋氏伝承では、八幡大神は、欽明天皇の御代、宇佐郡
辛国宇豆高島(稲積山)に天降りし、宇佐郡馬城嶺(御許山)に現われ、乙咩社、泉社、瀬社、鷹居社、小山田社、宇佐宮の地へと移ったとする。
※この八幡大神は正八幡大幡主です。

 
辛国息長大姫大目命(
加羅国沖長大日女大女命)に相当と考えられる人物
瀬織津姫=天照女神
阿加流姫(アカル姫)
天鈿女(あめのうずめ)
 
大女命(うずめ)の読みから天鈿女命(あめのうずめ)が考えられますが、大姫には相当しません。アカル姫は大幡主と天照女神の子であり、新羅の皇子・天之日矛(スサノオ)が日本に渡ったアカル姫を追いかけて妻とする神話があります。実情に近いですが、新羅皇子は大伽倻王子ではありませんので、アカル姫は没です。
やはり、大姫大女命は瀬織津姫=天照女神が相当します。辛国息長大姫大女命は比賣許曽神(ひめこそ)であり、七夕の比賣許曽神は天照女神です。

 

阿加流比売神(あかるひめ)
「日本書紀」巻第六垂仁天皇紀二年(一)の記述
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと) は自分の黄牛に農具を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。跡を追って村の中に入ると、老父いわく、汝の求める牛はこの村にあり。その村の郡役人が、「この牛の荷からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしている、この主を見たら物で償う」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい乙女になった。都怒我阿羅斯等が喜んでその娘と交わろうとしたが、ちょっと居ぬ間に娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻は、娘は東の方へ行ったという。娘は日本の難波に至って比売語曾社(ひめこそ)の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られたという。
※都怒我阿羅斯等(大幡主)と天照女神の子が阿加流姫とみています。

 

 

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豊比咩(とよ姫) No.230
豊比咩は大日孁(おおひるめ)=天照女神=豊姫神 です。
豊比咩神は筑紫の水沼君が祭る神です。
その豊比咩神が、香春三ノ岳の東麓の古宮ヶ鼻の阿曽隈社に、日置絢子によって祀られていた。

 

止誉比咩神社本跡縁記 赤司八幡宮(福岡県久留米市北野町赤司1765)
誉田別尊の誕生の翌年、豊姫命を道主貴(みちぬしむち)の神形代(みかたしろ)となし、右衛を竃門山に築き、左衛を山田(山川)の高牟礼(高良山)に築き、中瀛宮(なかつみや)を西海鎮護となす。豊姫命が中瀛宮に居ますことにより、世の人、道主貴を止誉比咩神社(とよひめじんじゃ)という。
 
「日本書紀」神代上 第六段一書第三
即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に存す。号けて道主貴と曰す。此筑紫の水沼君等が祭る神、是也。

 
※道主貴の貴(むち)は宗廟の尊称
 道主貴は大日孁貴(おおひるめのむち)の祭神→天照女神=豊姫神。
 現在での祭神表示では道主貴=宗像三女神となっています。
 
※宗廟神社が御井の高良にあった時は九州を「筑紫嶋」と言った。
 宗廟神社が宇佐に移って以降は九州を「宇佐嶋」と言った。
 よって、筑紫嶋も宇佐嶋も九州即ち西海道を指す。
 
※「海の北の道の中」
北野町の赤司八幡神社の「止誉比咩神社本跡縁記」では、当時、有明海が筑後川中流域まで及び、赤司がある大城を「中瀛海(なかつうみ)の北の浜」と呼んだ。
単に、「海北」とあるは、宗像の玄界灘を指すのではなく、中瀛海の北浜を言います。
その地が西海道(九州)の中央にあるという、よって道主貴の中津宮を「中央宮」と言った。
 

※「大姫」は「大日女 おおひるめ」です、さらに「大日女」は大日孁(おおひるめ)と表記されます。「辛国息長大姫大目命」は「加羅国沖長大日孁大女命」と書け、天照女神です。

 
 
 
日置絢子について 
豊比咩神は筑紫の水沼君が斎祀る神です。
その豊比咩神を日置絢子が田川香春の阿蘇隈社に祀っています。日置絢子は男性か女性かもわかりません。日置氏であることは確かです。
熊本県玉名郡司は平安時代初期頃まで在地豪族の日置氏であり、日置氏は製鉄と須恵器の生産に優れていたという。
 
丹後の地名地理歴史資料集によれば
(https://tangonotimei.com/doc/hioki.html)
丹後周辺から日置地名などを拾ってみると、
 
京都府福知山市夜久野町日置(へき)
京都府福知山市興(おき)
京都府綾部市八津合町日置(へき)
京都府綾部市睦合町草壁(くさかべ)
京都府船井郡八木町日置(ひおき)
福井県大飯郡高浜町日置(ひき)
兵庫県城崎郡日高町日置(ひおき気多郡日置郷)
丹波篠山市日置(ひおき多紀郡日置郷)
 
丹後与謝の日置氏は日下部(くさかべ)とも呼ばれ、日下部と与謝は密接にかかわっているといえよう、とあります。日置氏が「丹後」と「日下部」につながれば、間接的に水沼君につながります。
 
高良玉垂宮の五姓仕人は丹波氏、安曇氏、前田氏、草部氏、草賀部氏であり、
高良玉垂宮の八人の神官は稲員、田尻、小祝、外湯、諸司代、印塚、福成、福成であり、
稲員氏は草部氏であり、水沼君の本拠地の久留米市北野町大城稲数に居を構えています。
水沼君→稲員氏→草部氏→日下部→日置氏と流れていきます。
 
水沼君は北野町大城(赤司)に道主貴(大日孁貴)を止誉比咩神社として創建し、天照女神(豊姫神)を祀っています。さらに、北野町大城(今寺)に撞賢木厳之御魂(天照女神)を祭神とする伊勢天照御祖神社(四柱神社)を創立、さらにまた、大幡主を追祀し天照女神と共に祀る高良玉垂神社、宝満宮竈門神社を創建しています。
また水沼君は「蚊田の渟名井」の霊水を丹波の「與佐の真名井」に移し、豊比咩神(天照女神)を祭神とする水沼眞名井神社(みぬまない)を創建しています。
高良神社関係ご一統は筑後御井から但馬丹波丹後に移動しています。
(式内社
加和良神社 兵庫県丹波市氷上町香良177)
 
和銅2年(709)、大姫大女命(天照女神)、忍骨命(大幡主)を祀る香春神社(高良神社)が創建されると、日置絢子は阿蘇隈社の豊比咩神(天照女神)を遷座させています。
私にとって、突然現れた日置絢子は、豊比咩神を奉祭する水沼君ゆかりの者とまでしかわかりません。

 

※但馬(たじま)  多遅摩、但遅麻、田道間 (Wikiから)
但馬国は令制国のうちの一つで、現在の兵庫県北部にあたる。
現在の豊岡市、養父市、朝来市、香美町、新温泉町の3市2町で構成される地域にあたる。
但馬国造(但遅麻国造)大多牟坂王、息長宿禰王、日下部氏の複数の祖先の日下部君、日下部表米など。

但馬(三宅町)-奈良県磯城郡三宅町にある大字。
但馬駅-前述の奈良県磯城郡三宅町にある近畿日本鉄道の駅。
姓名 但馬氏(
田島氏)