No.227 嘉穂の馬見神社と荒穂神社

 
宮原誠一の神社見聞牒(227)
令和5年(2023年)07月25日
 

平成の合併で、筑豊の山田市と嘉穂郡三町(嘉穂町、碓井町、稲築町)が合併され嘉麻市となりました。昭和の生まれにとって、広域の嘉麻市と聞いてもピンときません。今でも、山田市、嘉穂町、碓井町(うすい)と聞くとピンと来ます。
その旧嘉穂町には神社研究調査する者にとって重要と見られる神社が沢山あります。
その中でも特に、
 馬見神社 旧嘉穂町馬見1575
 荒穂神社 旧嘉穂町牛隈1911
 鮭神社  旧嘉穂町大隈542
 竹生嶋神社 旧嘉穂町西郷754
 天神社  旧嘉穂町上西郷877
これらの五社が興味を引きます。

 

嘉麻市に合併前の嘉穂町
明治時代は大隈町、後に嘉穂町となる。
1955年(昭和30年)大隈町、千手村、宮野村、足白村が合併し嘉穂町となる。
2006年(平成18年)山田市と嘉穂町、碓井町、稲築町の嘉穂郡三町が合併し嘉麻市となる。
旧大隈町 牛隈、大隈、大隈町、上西郷、貞月、中益
旧千手村 芥田、泉河内、嘉穂才田、千手、大力、東畑
旧宮野村 小野谷、上、九郎原、桑野、宮吉
旧足白村 馬見、椎木、屏
※大隈、千手、宮野、馬見の地名は大幡主の領域です。

 
今まで、色んなブログ記事で馬見神社を見させていただきました。特に興味を引く馬見神社でありながら訪問する機会に恵まれませんでした。強いお呼びがかからないのです。
6月に、ふとっ、馬見神社の祭祀線を見る機会が与えられました。
すると、ダイレックトに力強く、志賀海神社の摂社・今宮神社(祭神:宇都志日金拆命(ウツシヒカネサク)=穂高見命)に繋がるではありませんか。
早速、翌日、腰が軽く上がり、馬見山麓の馬見神社に行ってきました。
ついでに、鮭神社にも寄ってきました。
そしたら、鮭神社境内に大葉の槇(イヌマキ)の大木がありました。
我が家にも大葉の槇の大木がありました。某歯科大に卒業同窓記念樹として植えてあります。もう45年前の話です。その槇の大木が重なって見え、懐かしく思いました。

 

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鮭神社前から馬見山(左)、屏山(右)を望む

 
 
志賀海神社摂社の今宮神社
馬見神社の祭祀線は福岡市の志賀海神社の摂社・今宮神社に繋がるのです。
今宮神社は本殿西横にあり、祭神は宇都志日金拆命(うつしひかねさく)=穂高見命で、彦火々出見命で猿田彦神です。(No.180)

志賀海神社 (しかうみじんじゃ) 福岡市東区志賀島877
祭神:豊姫(ゆたひめ) 阿曇磯良神(志賀明神)

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摂社・今宮神社
祭神:宇都志日金拆命(ウツシヒカネサク)=穂高見命
   住吉三神=開化天皇(底) 崇神天皇(中) 阿曇磯良神(上) 天児屋根命(アメノコヤネ)
   阿曇磯良丸命をはじめとする阿曇諸神

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 今宮神社の由緒略記
 綿津見神は阿曇連等の祖神
 阿曇連等は綿津見の神の子、宇都志日金拆命の子孫
 綿津見神を奉祭するのは宇都志日金拆命の子孫である阿曇家
 当社は代々阿曇家が宮司を奉職

穂高神社
宇都志日金拆命を祀る神社が、長野県安曇野市に穂高神社としてあります。
百済救援の折、663年、新羅・唐の連合軍との戦いにて白村江で破れ、戦死した大将軍大錦中安曇連比羅夫(だいきんのちゅう あづみのひらふ)を若宮として祀ります。

 

穂高神社 長野県安曇野市穂高6079
中殿:穂高見命(ほたかみのみこと)
   別名、宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと) 綿津見命の子=彦火々出見命
左殿:綿津見命(わたつみのみこと) 海神で安曇氏の祖神=大幡主
右殿:瓊々杵命(ににぎのみこと)
別宮:天照大御神(あまてらすおおみかみ)
本殿は穂高造という右殿・中殿・左殿が並ぶ独特の三殿方式で、この三殿の横に天照大御神を祀る小さい別宮・神明社が一直線に並ぶ。
※穂高神社とは大幡主・天照女神を親神として、彦火々出見命と瓊々杵命の皇子を祀る

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志賀島にある関連神社
御霊神社 福岡県福岡市東区勝馬1761
祭神は宇賀御魂神(大幡主)、別名、宇賀神社といいます

志賀海神社 沖津宮(おきつぐう)  福岡県福岡市東区勝馬
祭神:表津綿津見神、天御中主神=大幡主

志賀海神社 仲津宮(勝馬宮)  福岡県福岡市東区勝馬1787
祭神:仲津綿津見神、大幡主


坂本と阿曇と稲員
志賀島の坂本氏は阿曇姓から変更されたかのように島の住民は坂本姓が多く、阿曇姓は宮司家関係のみです。坂本命を奉斎する高良八神官筆頭の福岡県大城の稲員氏(いなかず)は大幡主の流れとなります。姓に「稲」が付く氏族はほとんどが大幡主奉斎です。
稲荷神社の祭神は宇迦之御魂(うかのみたま)、倉稲魂と書きますが、「宇賀魂」がわかりやすく、男神の宇賀魂は大幡主、女神の宇賀魂は天照です。

久留米市の荒木地区は荒木シズ姫(五十鈴姫)の地区ですが、坂本命が管轄されていました。
神代系図からして、
 坂本命→国片姫→荒木シズ姫→活玉依姫→鴨玉依姫→豊玉彦→大幡主
 坂本命→国片姫→荒木シズ姫→事代主 →彦火々出見命・豊玉姫→豊玉彦→大幡主
と、坂本命は海神族へと繋がっていくのです。

坂本命の父と母は開化天皇(物部保連)と国片姫としていますが、坂本命は曇磯良(物部大連)と豊姫(ゆたひめ)の養子関係にあるのではないか、と思っています。そうであれば、坂本命の管轄地である久留米市の上津荒木(上村)に豊姫を祀る事情が想定できるのです。仮に、坂本命が豊姫(ゆたひめ)の子であっても、祖は海神族へと繋がっていくのです。
 坂本命→豊姫→鵜葺草葺不合命→彦火々出見命・豊玉姫→豊玉彦→大幡主
そして、坂本命は福岡市の志賀海神社の祭神、豊姫(ゆたひめ)と安曇磯良(あずみいそら)の綿津見(わたつみ)神と繋がってくるのです。



馬見神社
筥崎八幡宮の祭祀線(参拝線)は三郡山通って馬見山へ向かいます。
馬見山は大幡主の山です。筥崎八幡宮に参拝することは、大幡主を遥拝していることになります。その馬見山の麓には、白馬大明神を祀る馬見神社があるも、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からないという。
古宮は馬見山上(987m)にあって、馬見大明神ともいう。
約1300年前、鎮西八郎為朝によって現在の馬見神社(下宮)が建立されるも、祭神の論議が絶えません。瓊瓊杵尊(ににぎ)を祭神するが、本来は五十猛(いそたける)であるとされて確かでないのです。
往古、馬見大明神が勧請され、嘉麻市牛隈に荒穂神社が創設されています。はじめは日尺山に鎮座し「稲穂大明神」と称していたが、明和4年(1767)、村民が石鳥居建立の時、現在地に移し「荒穂神社」と改名しています。
このように馬見神社と荒穂神社(稲穂神社)は繋がっているのです。

馬見神社の現在表記の祭神は伊弉諾尊・天津彦火瓊瓊杵尊・木花咲哉姫命。
「筑前国続風土記」は馬見山上に馬見大明神の社があり、白馬大明神ともいい、祭神不詳とする。
「筑前国続風土記附録」によると、祭神は天津彦火々出見尊・瓊瓊杵尊、相殿に賀茂大明神・荒穂大明神を祀る。

しかし、馬見神社には隠された大事な地域特徴があります。
馬見神社がある旧筑前国嘉穂郡馬見郷は「馬見物部」の地なのです。
それで、馬見神社は「馬見物部神社」と言ったほうが適切かもしれません。
神社由緒記は、完全に「物部」を隠されています。祭神の伊弉諾尊・天津彦火瓊瓊杵尊・木花咲哉姫命は物部とは関係ありません。

馬見神社 福岡県嘉麻市馬見1575

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一の鳥居の扁額は「大明神」、右手には藤棚があり高良物部社を想定

 

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一の鳥居前の宮屋神社か厳島神社(天照)と右の猿田彦大神石塔

 

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一の鳥居前の志賀海神社(州浜紋があり、豊姫と安曇磯良夫婦神を祀ります)
馬見神社の祭祀線は福岡市の志賀海神社に向います。

 

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二の鳥居の扁額は「馬見神社」

 

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二の鳥居後ろの六角灯籠の土台(灯籠は撤去されたようです)

 

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三の鳥居の扁額は「大明神」

 

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階段を登りきった右手に貴船神社の祠があります

 

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二神(柱)を祀ります、不布禰神社は木布禰神社(きふね)では

 

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木布禰神社から階段を登り左に折れ、さらに登ると社殿です

 

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本殿の屋根には外削ぎの男千木と五本の鰹木で、男神を祀ります、横にはイヌマキです

 

馬見神社由緒略記
祭神 伊弉諾尊
   天津彦火瓊瓊杵尊
   木花咲哉姫命(大山津見の女 日本一の美人神)
由緒 上宮の創立は不詳であるが、三千年前といわれる。馬見山頂(987m)の頂上近く御神所岩の巨岩あり、ここに鎮座。瓊瓊杵尊は天孫降臨の御神で、日本民族の祖。比類なき神徳をもって尊崇。
中古仏法隆盛の頃、約1300年前、鎮西八郎為朝現在の神社(下宮)建立。また神木寺も建つ。
天正前後、武家政治となり、秋月藩主秋月種実公、毎年参拝せられ尊崇を集めた。
福岡県神社誌によれば
神武天皇御東征の時にここに参拝せられ御新馬の足が白い馬(足白)で、又馬見の地名が起こったとも言われる。
  平成八年春  縄田小観 記

福岡県神社誌 上巻
縣社 馬見神社 嘉穂郡足白村大字馬見字宮小路
祭神 伊弉諾尊、天津彦火瓊々杵尊、木花咲哉姫命
由緒 上宮創立年記は不詳と言えども 神代より御鎮在せられたりれり 瓊々杵尊は天孫降臨の御神なれば 深慮にして比類稀なる旧社なるを以て 上下の尊崇も殊に厚く其御神徳は古書に著明也 下宮(今の本社)中古佛法盛なる時 天下の大社に宮寺を立つ神佛混淆なりし頃 当社にも鎮西八郎為朝公 仁平年新宮(下宮)御建立と同時に宮寺を立てられ其寺号を大光寺神木寺と言う 天正前後は秋月種実公 当社を最も尊崇あり 後藩主黒田家祖先より代々尊敬ありて 毎年二月八日五晝夜間五穀成就の祈願 或は気候不順のときは代参を以て祈願せらる。往古より嘉麻郡の惣社なり 修繕等は郡中に計り継続せり。
氏子区域及戸数 百六十戸
境内神社 宮屋神社、不布禰神社

 
祭神は別名「白馬大明神(馬見大明神)」とされ、物部の太祖・饒速日命(ニギハヤヒ)を祀るともいわれる。(貝原益軒「筑前国風土紀」)

 

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龍と菊花の彫刻です、神紋は抜かれています

 

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宇麻見神社とあります

 

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本殿左側の彫刻、右側(南)は覆いがあって見れません

 

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社殿がある丘の上の平地は狭いです

 
馬見神社の祭神は白馬大明神ともいう。
神様が乗った馬が足の白い馬(足白)で、足白村馬見の地名が起こったとも言われる。
白馬と言えば、伊勢神宮の内宮・外宮の二頭の神馬がおります。
外宮の神馬は二頭とも白馬で、内宮の神馬は二頭とも栗毛の神馬です。
白馬に乗った神様は大幡主です。伊勢神宮外宮の豊受大神は豊宇賀神でもあり、白馬、伊勢外宮、豊受大神(豊宇賀大神)と大幡主へと繋がっていくのです。
馬見神社の上宮の祭神・白馬大明神は大幡主です。
馬見山は大幡主(=大国主)の山です。

由緒記によると、祭神は次のようになっています。
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
 天津彦火(天津日高彦)瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
 木花咲哉姫命(大山津見の女 日本一の美人神 このはなさくやひめ)

伊弉諾尊は大幡主と彦火々出見命を隠すための神名でしょう。
木花咲哉姫は瓊瓊杵尊の妃で、本拠地の南九州では夫婦神ですが、北部九州では離婚され豊玉彦と一緒になられています。

馬見山の祭神をまとめると次のようになります。

 豊受大神大幡主
 天津日高彦火々出見尊
 天津日高彦瓊瓊杵尊

日本一美人神の木花咲哉姫の神名がなくなってしまいました。

また、社頭の参道右手には藤棚があり高良物部社が想定されます。
高良下宮社は大幡主と彦火々出見尊と開化天皇を祀ります。高良下宮社には藤と蘇鉄が植えてあり、高良下宮社は物部神社なのです。

物部氏に関する『先代旧事本紀』の天神本紀には、ニギハヤヒ(彦火々出見尊)の降臨に同行した面々の記載があります。

 天物部ら二十五部人、おなじく兵伏を帯びて、天降り供奉らしむ
 01二田物部 筑前鞍手郡二田郷、筑後竹野郡二田郷
 02当麻物部 肥後益城郡当麻郷
 03芹田物部
 04馬見物部 筑前嘉穂郡馬見郷
 05横田物部
 (以下省略)

馬見神社がある筑前嘉穂郡馬見郷は馬見物部の地なのです。
それで、馬見神社は「馬見物部神社」と言ったほうが適切かもしれません。
神社由緒記の祭神は、完全に「物部」を隠されています。隠さざるを得なかったのでしょう。「物部」が追いやられる時代がやって来るのです。
対外的に神社の実態を隠したものはいいものの、時がたち、伝承が途絶えた時、神社の実態も祭神もわからなくなるのです。この馬見神社の祭神の論議がいい例でしょう。

すると、瓊瓊杵尊と木花咲哉姫の夫婦神は物部神社に似合いません。
馬見神社が物部神社であることを優先しますと、瓊瓊杵尊と木花咲哉姫の夫婦神名は消されて、 豊受大神大幡主と天津日高彦火々出見尊が祭神となります。

 

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社務所の亀と鶴

 

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本殿の鶴と亀に乗った翁

 

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菖蒲(あやめ)

 

仁徳天皇と菖蒲の花
体調を崩し寝込まれた仁徳天皇の夢枕に味耜高彦根神(アヂスキタカヒコネ神=大幡主)が立ち「枕元に菖蒲の花を祀ると治る」とお告げがあり、そのようにされたところ病気が平癒したという故事があります。仁徳天皇の夢枕に立った神は幡主で、あやめ紋のある所に天照女神も祀られているのです。

 

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拝殿横の遥拝所(臼杵に向うも特定できず)

 
さらに、本殿の鶴と亀と「あやめ」を参考にすると
馬見神社の祭神は大幡主と天照女神夫婦神と彦火々出見尊となります。

馬見神社の祭神は次のように置き換えることができます。
伊弉諾尊 → 大幡主
瓊瓊杵尊 → 猿田彦
木花咲哉姫(日本一美人神) → 天照女神



嘉麻市牛隈の荒穂神社
嘉麻市牛隈(うしぐま)の荒穂神社は、往古、馬見大明神が勧請され創設されています。はじめは日尺山に鎮座し「稲穂大明神」と称していたが、明和4年(1767)、村民が石鳥居建立の時、現在地に移し「荒穂神社」と改名しています。

 福岡県神社誌
 福岡県大隈町大字牛隈字下射場(牛隈1911)
 祭神 瓊々杵命
 由緒 不明
 境内神社 須賀神社、貴船神社、恵比須神社

荒穂神社は馬見神社の勧請なので、祭神は大幡主(豊受大神)と天照女神と彦火々出見命(猿田彦)となります。境内神社も祭神を表現しています。須賀神社は大幡主、貴船神社は大幡主と天照女神、恵比須神社は大幡主を祀ります。
参道の階段を振り返ると、左に白馬大明神(大幡主)を祀る馬見山、右に天照女神を祀る白山宮上宮の古処山を眺めることができます。

恵比須神社は事代主を祀るのではないかと推論がありますが、恵比須神の姿は大幡主です。大幡主の趣味は釣りで、左に鯛を抱き、右手に釣り竿を持つ姿は海神・大幡主の釣りを表現しています。
野芥の櫛田神社(福岡市早良区野芥四丁目24-46)には、拝殿前の右にドーンと恵比須神社があり、さらに宇賀御魂(大幡主)を祀る稲荷神社が並び、本殿右横の丘には社日社(大幡主と天照女神)があります。野芥の櫛田神社は大幡主を祀る社殿だらけです。

 

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参道から見る馬見山(左)、屏山(木の枝上)、古処山(右端)
馬見山は大幡主を祀り、古処山は天照女神を祀ります

 
荒穂神社 福岡県嘉麻市牛隈1911

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一の鳥居の扁額は「荒穂社」

 

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一の鳥居横の「猿田彦大神」石塔

 

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二の鳥居の扁額は「荒穂宮」

 

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二の鳥居前の左の恵比須神社

 

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拝殿

 

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拝殿向拝の牡丹の彫刻

 

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拝殿屋根の大幡主の「三つ巴紋」と天照女神の「桃の実」

 

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本殿障子の鷹と松(左)、龍(右)

 

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本殿左、龍と牡丹と波、天照女神の「にわとり」

 

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本殿右、龍と牡丹と波と馬

 

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常夜燈の十二菊紋

 

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境内社左・貴船神社(馬見神社にもありました)の大幡主と天照女神

 

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境内社右・須賀神社(大幡主) ※扁額には須佐神社とあります

 

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境内社右・須賀神社の祠の屋根には一つ巴紋 扉には大幡主の三つ巴紋

 

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拝殿右手の遥拝所(東北東を向いていますが特定できず)

 

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新参道と旧参道と社殿の向きは一致しません、旧参道は屏山に向います

 
イザナギ、イザナミの「イザ」は最初と云う意味。「なぎ」「なみ」は海の状態です。海神であり、日本の御祖神(みおやのかみ)です。
本当の日本の御祖神は大幡主と天照女神です。日本書記は大幡主と天照女神の関係を完璧に消し去り、国産みをすっかり、イザナギ、イザナミに置き換えてしまいました。
近くの鮭神社(旧嘉穂町大隈542)の由緒の表面を剥ぎ、深く洞察すると、ここの祭神も大幡主と天照女神です。

 

 
 
個人覚え書メモ・日本の御祖神は大幡主と天照女神
神社由緒の祭神で、伊弉冉尊(イザナミ)、伊弉諾尊(イザナギ)の名を見たら、次のように置き換えすると、そこの神社の本来の姿が見えてきます。

伊弉冉尊 →天照女神
伊弉諾尊・八幡神 → 大幡主
瓊々杵尊・天照大神→ 猿田彦・天照女神
木花咲哉姫・市杵嶋姫 → 天照女神


篠栗の太祖神社と福岡西区の飯盛神社
東の若杉山に坐す太祖神社(伊弉諾尊)と西区の飯盛山に坐す飯盛神社(伊弉册尊)は夫婦山にあって対面され、古代より国産み伝説の基であります、と云われます。
若杉山と飯盛山は夫婦山であり、大幡主(若杉山)と天照女神(飯盛山)が対面されています。

 飯盛神社 創始貞観元年(859)
 東王子 天照皇大神 → ニギハヤヒ(猿田彦) 木瓜紋
 相殿  八幡宮 → 正八幡大幡主
 主神  伊弉册大神 → 天照女神 女千木鰹木六本
 相殿  宝満宮 → 大幡主
 西王子 月読大神 → 大幡主、猿田彦 木瓜紋


浅間大社
所在地 静岡県富士宮市宮町1-1
主祭神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)
別称:浅間大神(あさまのおおかみ)
相殿神 瓊々杵尊(ににぎのみこと)大山祗(おおやまつみ)

浅間大社は本来、大年御祖神(おおとしみおやの神)を祀った。大年御祖神は大幡主。
百嶋神代学の入れ替えを行なうと
主祭神 大年御祖神(大幡主) 男千木鰹木五本で主祭神は男神
相殿神 天照御祖神(天照女神)、猿田彦
となります。

 

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富士山本宮浅間大社HPから


ヒミコ宗女のイヨ姫
大年御祖神(大幡主)、天照御祖神(天照女神)
豊玉彦、木花咲哉姫
猿田彦、天鈿女命
これら夫婦三神は同列か?
するとヒミコ宗女のイヨ姫が理解できます。