No.222 若八幡と正八幡と白山姫

 
宮原誠一の神社見聞牒(222)
令和5年(2023年)05月29日
 

若宮八幡宮はよく聞く宮号です。「記紀」の応神八幡に関連して若宮八幡があります。若宮八幡は応神八幡の若宮ではありません。開化天皇の若宮を指します。「八幡神」の称号はそのまま頂いて「若宮八幡」と申します。開化天皇の長子で、仁徳天皇=大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)を若宮八幡神と申します。
それでは、若八幡宮の「若八幡神」は誰を指すのでしょう。今回の主題です。

福岡県糟屋郡久山町久原に若八幡宮があります。近くの粕屋町大隈に御霊神社があり、その境内摂社に若八幡宮があります。これら神社は多々良川流域にあり、その下流の福岡市東区多々良にも若八幡宮があります。

以前、2020年5月に篠栗町の神社を訪問したのですが、大隈の御霊神社は行きませんでした。由緒から御霊信仰に基づく御霊神社(ごりょうじんじゃ)と思い込み、避けていました。ところが再度篠栗町に行く機会がありまして訪問すると、怨霊鎮魂の御霊神社でなく普通の氏神神社の御霊神社だったのです。

粕屋町大隈の御霊神社
町名は粕屋町ですが、隣の篠栗町と関係します。
篠栗町のほぼ中間に篠栗多々良川一帯の宗廟神社だったといわれる古代の「宗廟田中神社」があります。秀吉の九州統一の時に社殿を失い再興したが、江戸時代の宝暦年間の洪水で破壊され、和田村に転社して、田中、和田、高田、津波黒、大隈の五村の産土神として祀られました。
明治までは五村の産土神社であり、その後、高田、津波黒、大隈は村ごとに、田中、和田は二村協同で和田八幡神社を奉祀し、明治17年、田中村も独自の神社を奉祀することになり、田中八幡神社を和田神社から分離しています。(高田村は天神社、津波黒村は御霊神社、大隈村は御霊神社を奉祀)
田中八幡神社は福岡県神社誌に記載がなく,祭神も由緒もよく分っていないのが現状です。
田中村は田中大神に因む村名です。西の大隈村・和田村は大幡主に因む村名です。東の高田村、津波黒村も大幡主に因む村とみています。(No.143)

※大隈御霊神社と田中八幡神社は対面されています

大隈の御霊神社 福岡県糟屋郡粕屋町大隈1144

1

一の鳥居 左手には如意輪観音堂と手前には蘇鉄

 

2

如意輪観音堂(猿田彦神を祀る)

 

3

二の鳥居

 

4

左手には若八幡宮、右手には末社一宇

 

5

本殿屋根には外削ぎの男千木と鰹木五本 
向拝の四本柱は高良社の仕様、波の彫刻群

 

6

若八幡宮

 

7

末社 左から愛宕神社、祇園、川伯、天満、大山祇の神社群、貴船神社の三殿

 
由緒をみれば、祭神は早良親王、伊豫親王、吉備大臣、文屋宮田丸、橘逸勢、藤太夫人(藤原吉子)、藤原廣嗣、火雷神であり、怨霊鎮魂の御霊神社の内容ですが、実態は大幡主を祀る普通の氏神神社の御霊神社だったのです。祇園社の御霊神である大幡主を祀る御霊神社だったのです。(No.215)

一の鳥居の横にあった観音堂は如意輪観音を祀るお堂でした。本地垂迹(ほんじすいじゃく)は猿田彦神=彦穂々出見尊です。
本殿の左手に境内摂社の若八幡宮があります。若八幡宮の祭神は猿田彦神でした。
道理で、一の鳥居の横に如意輪観音(猿田彦神)を祀るお堂があったのでした。

正八幡神は大幡主であり、その若宮は若八幡であり、若八幡神は猿田彦神となります。

大隈の御霊神社の宮司さんは豊丹生氏です。
豊丹生氏は猪野の伊野天照皇大神宮に合祀された伊勢大神を古宮跡に持ち込んだご先祖です。
氏子さんは八尋、田代、黒瀬、城戸さん等です。八尋さんは大幡主奉斎の代表格です。

社紋は天神社としての梅紋ですが、釘隠しの金具は至る所に日輪紋が打ってあり、大幡主、猿田彦神、天照女神を祀るかのようです。この神社は天神社(てん神社)のようです。

また、不思議なことに、阿蘇の祖神を祀る貴船神社が末社としてあります。
福岡市南区柏原の埴安神社には摂社として貴船神社がありました。
貴船神社は阿蘇の祖神である神沼河耳命と神俣姫を祀る神社なのでしょうか?全く異質の夫婦神を祀るように思えてなりません。

 

8

 

9

 

10

 
 
久山町久原の若八幡宮
久山町久原の若八幡宮は粕屋町大隈の御霊神社と同じ趣があります。
久山町誌によれば、城戸家・荒津家の鎮守として弘長2年(1262)に創立。天正2年(1574)、立花道雪の家臣である城戸次郎左衛門と荒津伝兵衛の両家の鎮守を現在の地に遷し、村の鎮守としたのが始まりという(筑前國続風土記拾遺、久山町教育委員会の案内)。南方300m程に若宮神社旧宮跡があります。
福岡県神社誌によれば、祭神は伊弉諾命、仁徳天皇、海童神、事代主神(木寄神社を大正12年合祀)とありますが、現地を訪問すると、これらの祭神には違和感を覚えます。
この神社は彦穂々出見尊(=猿田彦神、高良神)、大幡主(正八幡神)を中心とする高良社の趣があります。

※久山町教育委員会の案内板は説明が行き届いていて大変参考になりました

久原の若八幡宮 福岡県糟屋郡久山町久原3497

11

一の鳥居「若八幡宮」

 

12

 

13

二の鳥居前の大幡主の六角灯籠

 

14

三の鳥居

 

15

拝殿、社紋は左三つ巴紋

 

16

拝殿前の大幡主の六角灯籠

 

17

本殿、向拝の四本柱は高良社の仕様

 

18

本殿、龍の彫刻に釘隠しの金具は菱紋

 

19

本殿、鳳凰の彫刻、瓜にカブの彫刻、波にウサギの彫刻

 

20

本殿障子の鷹の彫刻

 

21

本殿左手(西側)の薬師堂                          
久山町教育委員会によると、この薬師堂は旧本殿であった可能性があるという。
本尊の薬師如来の本地垂迹(ほんじすいじゃく)は大幡主です。        

 

22

本殿右手の境内社、二瀬宮、祇園宮、若八幡宮、八幡宮

 

二瀬宮 糟屋郡久山町久原(下久原公民館付近)
祭神 瀬織津姫神、速秋津姫神
「二瀬神社」とも「おやしろさま」とも呼ばれています。牛馬の神様として駄祈祷などが行われていました。ここは、久原川と新建川が昔合流していた場所で、「落合」という地名が残っています。祭神は、瀬織津姫神、速秋津姫神です。明治四十四年、若八幡宮に合祀されていましたが、昭和初期にもとの場所に戻ってきました。この地にはかつて大きな
山桜がありました。江戸時代の終わり頃にかかれた『筑前国続風土記拾遺』にはその様子が次のように書かれています。
「花の時は雲をこらし雪を翻し所さえ川に臨みて風にかをり水にうつる色香殊に深く見所多し。遠近の貴賤樹下に群集し賞心の輩引きもきらず。国中第一の大木也。」  平成25年 久山町教育委員会

 

23

「Google マップ」から「二瀬宮」

 
四柱の祓戸大神(はらえどのおおかみ)
①瀬織津比咩  → 天照女神(大日孁貴=ヒミコ)
②速開都比咩  → 萬播豊開津姫(よろずはたとよあきつひめ)=豊玉彦の正妃
③氣吹戸主   → 大幡主=軻遇突智神(かぐつちのかみ)
④速佐須良比咩 → 鴨玉依姫(かもたまよりひめ)=大山咋神(おおやまくいのかみ)の妃

 

24

本殿左手(西側)の薬師堂横の境内社(不明)


福岡県神社誌によると、境内社が五社あります。罔象女神(みづはのめのかみ)、天御中主神(大幡主)、須佐之男神、瀬織津姫(天照女神)、速秋津姫神とあり、瀬織津姫(天照女神)と速秋津姫神は二瀬宮であり、天御中主神(大幡主)を祀る境内社の可能性が高い。

社殿の形式は高良社となっています。
本殿左手(西側)に薬師堂があります。久山町教育委員会によると、この薬師堂は旧本殿であった可能性があるという。本尊の薬師如来の本地垂迹は大幡主です。古宮は大幡主を祀る神社です。後に、彦穂々出見尊(=猿田彦神、高良神)の若八幡神を祀ったようです。
向拝の四本柱は高良社の仕様、本殿の龍の彫刻に釘隠しの金具は菱紋、本殿の鳳凰の彫刻、瓜にカブの彫刻、波にウサギの彫刻、本殿障子の鷹の彫刻等は高良社の様式です。

福岡県神社誌によれば、祭神は伊弉諾命、仁徳天皇、海童神で、本殿の男千木と鰹木は男神を祀りますので、これに高良の神を当てはめると、彦穂々出見尊(=猿田彦神)、開化天皇(菱紋、鳳凰)、大幡主(龍、鷹、三巴紋)となります。

※伊野天照皇大神宮
久原の若八幡宮は大隈御霊神社と伊野天照皇大神宮の祭祀線上にあります。
豊丹生佐渡守が室町時代末、京都から豊前の英彦山、さらに糟屋郡伊野に奉安した伊勢大神は彦穂々出見尊(猿田彦神=天照大神)と大幡主(豊受大神=正八幡神)か。
さらに、伊野天照皇大神宮は古賀市小山田斎宮と久原の白山神社と球磨八代神社(妙見宮)に参拝線と社殿の向きがあり、黒田藩主が伊野天照皇大神宮に勧請した神は天照女神(撞賢木厳御魂)となります。後の明治に、豊丹生氏の伊勢大神が伊野天照皇大神宮に合祀されています。
よって、現在の伊野天照皇大神宮は天照女神(撞賢木厳御魂)と大幡主(豊受大神)と彦穂々出見尊(猿田彦神=天照大神)の三柱を祀ることになります。(水取宮の合祀を除いて)
 
 
 
福岡市多々良の若八幡宮
若宮神社は仁徳天皇の若宮でなく、十一面観音(=天照女神)に関する若宮です。
福岡市今泉の若宮神社の祭神は豊玉姫で、豊玉彦の嫡女だから若宮です。
また、正八幡神は大幡主であり、その若宮は若八幡であり、若八幡神は猿田彦神となります。
正八幡神・大幡主と天照女神の若宮は猿田彦となります。
ここ多々良(多田羅)にも天照ゆかりの大神(おおがみ)さんがかたまって住んでおられるとは、また驚きです。(1889年4月、町村制施行に伴い多田羅村、土井村、名子村、蒲田村、八田村、松崎村、津屋村、名島村が合併して多々良村が成立。)
 

多々良の若八幡宮 福岡市東区多々良26

25

鳥居の後ろには蘇鉄 桜庵幸縁のブログ「ミステリー「383」若八幡宮」から

 

26

 

27

右手は五穀神(大幡主)の石塔

 

28

氏子に大神(おおがみ)さん

 
氏子に天照女神(ヒミコ)奉斎の大神(おおがみ)さんが多いです。
福岡市南区桧原二丁目(大字檜原字猿田)の五社神社の氏子さんと同じです。
この多々良の若八幡宮は猿田彦(若八幡)と大幡主(正八幡)と天照女神のファミリーを祭る神社ではないか。
 
 天照大神とは(天照三神)
 天照大神(大日孁貴=ヒミコ=天照女神)
 豊受大神(豊の宇賀神=大幡主)
 天照国照彦天火明命(饒速日=猿田彦=天照大神)


修正 熊野十二所権現
熊野十二所権現の表記は次のようになっています(No.217)

熊野十二所権現
社殿       神座      祭神名        本地仏
上四社  第一殿 西御前(結宮)  夫須美大神(伊邪那美) 千手観音
     第二殿 中御前(速玉宮) 速玉大神(大幡主)   薬師如来
     第三殿 証誠殿     家津御子大神(耀姫)  阿弥陀如来
     第四殿 若宮(若一王子) 天照大神       十一面観音
中四社  第七殿 児(このみや)  彦穂々出見尊     如意輪観音

熊野若王子神社(京都市)の由緒から分かったこと

熊野十二所権現
社殿       神座      祭神名         本地仏
上四社  第一殿 西御前(結宮)  天照大神(白山姫)    十一面千手観音
     第二殿 中御前(速玉宮) 速玉大神(大幡主)    薬師如来
     第三殿 証誠殿     家津御子大神(耀姫)   阿弥陀如来
     第四殿 若宮(若一王子) 天照大神(彦穂々出見尊) 如意輪観音
中四社  第七殿 児宮(このみや) 彦穂々出見尊      如意輪観音

若宮(若一王子)は彦穂々出見尊(猿田彦)の天照男神でした。
第一殿はイザナミでなく、天照女神(白山姫)でした。
熊野権現は天照大神(白山姫)が消されていました。
若宮が天照大神であるという。
正八幡大幡主の若宮は若八幡であり、
若八幡は彦穂々出見尊(猿田彦)となります。
 
 
 
久山町久原の白山神社
白山神社近くの首羅山観音堂の由来によれば、天平年間(729-749)に白山権現が虎に乗って百済から白山(首羅山)に渡ってきたと伝わる、という。
白山神社の祭神は白山姫(=天照女神)ですが、現在の祭神表記は五十猛神(いそたける)となっています。
一の鳥居には大幡主のしめ縄が張ってありました。
神社形式の痕跡からは、白山姫と大幡主を祀る神社と言えます。

久原の白山神社 福岡県糟屋郡久山町久原188

29

一の鳥居「白山宮」、大幡主のしめ縄が張ってあります

 

30

二の鳥居

 

31

二の鳥居後の対の大幡主の六角灯籠

 

32

二の鳥居後の対の菱形の水盤

 

33

 

34

 

35

拝殿、左手は境内社・大山祇神社

 

36

本殿の屋根には外削ぎの男千木と鰹木五本、釘隠しの金具は至る所に日輪紋

 

37

三重亀甲に瓜花紋=白山姫の神紋

 

38

菊花の彫刻

 

 
由緒
拝殿は大正9年(1920),本殿は昭和2年(1927)の建立です。それ以前,白山神社は白山山頂付近の花ノ木原にありました。山頂付近には延享4年(1747)銘の石製の祠があり,現在も「上の白山さま」として信仰が続いています。現在の祭神は五十猛神(いそたけるのかみ)ですが、近世には白山権現社(はくさんごんげんしゃ)として、菊理姫神(くくりひめ)、伊弉諾命(いざなぎ)、泉道守神(よもつちもりのかみ)を祀っていたようです。
白山は「首羅山(しゅらさん)」とも呼ばれ,伝承では天平年間の開山とされます。「筑前国続風土記」には,昔は大社で,白山頭光寺泉盛院(はくさんとうこうじせんせいいん)を社僧とし,三百五十もの坊がありましたが,天正年間にすべて焼亡したと記載されています。現在も山内には坊跡や堂宇の跡が随所に残り,当時の繁栄の痕跡をよく残しています。
  平成21年 久山町教育委員会

 

白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)
フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)から
所在地:石川県白山市三宮町二105
ご祭神:菊理媛尊
石川県白山市三宮町にある神社(白山神社 はくさんじんじゃ)
式内社、加賀国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に2,000社以上ある白山神社の総本社である。通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも。神紋は「三子持亀甲瓜花」。

 

6

 
三子持亀甲瓜花
六角亀甲形を七五三の厚さに配した三つ子持ち、
すなわち三重の構えをめぐらし、その中に瓜の花を描いた紋。
 

 

 
福岡県神社誌の祭神表記は五十猛神(いそたける)です。
神社形式の痕跡からは、白山姫(天照女神)と大幡主と五十猛(猿田彦)を祀る神社と言えます。

「まにまに」のブログ(佐月)の「白山神社(久山町)2019年04月17日」の記事では、ここの白山神社は「石川県の白山比咩神社の元宮」らしい、と記述があります。石川県が本宮でなく、こちらの久山町が本宮とは驚きです。白山姫の神紋も全く同じです。(No.216)

 

39

 
白山の「虎の首と首羅山」伝説について
虎の首と十一面観音を祀ったから首羅山という、とんでもない由来記です。
現地で、この由来記を読んでいたら、吐きそうな違和感を覚えました。

首羅山観音堂の由来によれば、天平2年(730)に白山権現が虎に乗って百済から白山(首羅山)に渡ってきたと伝わる、という。
虎の神様である大幡主と天照女神が朝鮮半島南部(任那)から大幡主の大型船で白山に渡ってきた、と解釈するのが自然でしょう。大幡主と天照女神時代はもっと古く3世紀前半頃です。

 

白山神社近くの首羅山観音堂の由来(福岡県糟屋郡久山町久原)
伝承では天平年間(729-749)に白山権現が虎に乗って百済から白山(首羅山)に渡ってきたと伝わる。その際に乗り捨てられた虎の猛威に恐れた村人が虎を殺害したところ、その虎の首が輝いた。そこで首を薄絹で包んでその上に十一面観音を安置した。これが当観音堂の始まりだと伝わる。
近世の文献によれば、当観音堂はかつては山頂付近にあった白山神社の下にあったといわれるが、万治年間(1658-1661)、麓(この地?)に移されたようだ。近年、堂内からは修験の重要な法具である、股木が発見された。
古来より伝えられていた十一面観音像は昭和40年(1965)代に盗難に遭い現在は地元の方によって奉納された観音像が祀られている。  平成21年(2009) 久山町教育委員会

※羅は絹織物という意味があります

※「首」とは長という意味
首相、元首、首長、党首、首領、頭首、首里、首都とありますが、首相とは大臣の長です。「羅」は条理(網の目)であり、首羅は条理が整った都です。
虎の神様は奴国の国王であり大幡主で、十一面観音の白山姫(=天照女神)と共に祀った山だから首羅山というのか?
高良大社の「高良」は高羅(甲羅)と書きました。
羅針盤の「羅」はどういう意味があるのでしょう?(北を指す)

追記 首羅山は本来「首露山」と書くのが正しいようです。
金官伽耶の金首露王と王妃の許黄玉(天照女神の先祖)の山となります。

 
 
 
個人覚え書・貴船神社の祭神は大幡主と天照女神ではないか?
不思議なことに、粕屋町大隈の御霊神社に阿蘇の祖神を祀る貴船神社が末社としてあります。福岡市南区柏原の埴安神社には摂社として貴船神社がありました。
貴船神社は阿蘇の祖神である神沼河耳命と神俣姫を祀る神社なのでしょうか?
全く異質の夫婦神を祀るように思えてなりません。

埴安神社 福岡市南区柏原四丁目20-41
祭神 埴安比古命 埴安比売命
末社 貴船神(左)若国大明神(右)

40

 

41

手前の末社 貴船神社

 

42

 
 
埴安神社(福岡市南区柏原)の末社・貴船神社の祭神は大幡主と天照女神ではないか
末社 貴船神 若国大明神
古くは南方にあったが、現在地の社日神(大幡主)の丘に遷宮
これが原記です。

埴安神社に阿蘇の祖神を祀る境内社の貴船神社が摂社の形式であるのが不思議です。
粕屋町大隈の御霊神社にも貴船神社が末社としてあります。
伊野天照皇大神宮の末社にも貴船神社があります。
大幡主と天照女神を祭神とする神社に、どうして貴船神社があるのでしょう。
貴船神(神沼河耳命と神俣姫)を水神または龍神とするには無理があります。
埴安神社も貴船神社も祭神は大幡主と天照女神とすると説明がつきます。
若国大明神は貴船神あるいは埴安神の息子と取れます。
「貴船」は海神に因む名前とすれば理に合います。
福岡市南区柏原の埴安神社は天照一家の三神を祀るのではないか。

 天照大神とは(天照三神)
 天照大神(大日孁貴=ヒミコ=天照女神)
 豊受大神(豊の宇賀神=大幡主)
 天照国照彦天火明命(饒速日=猿田彦=天照大神)

貴船神社が阿蘇の祖神(神沼河耳命と神俣姫)を祀るのであれば、阿蘇を中心に中九州に多く存在してもよいはずです。
ところが、福岡県北部に集中するのです。不思議です。境内社も含めるとさらに数は増します。

 

43

 

44

 
貴船神社の祭神名は、高龗神(たかおかみ)と闇龗神(くらおかみ)で、阿蘇の祖神である神沼河耳命と神俣姫に当てられます。しかし、龗(おかみ)は龍や水神の意味。神沼河耳命と神俣姫は龍や水神に当てはまりません。

本来の表記は、高龗は鷹龗(鷹の龍)、闇龗は眩龗(まぶしい龍)ではないか。
 
 ※龗(おかみ)
 龍の古語で、龍は水や雨を司る神様。「高」は山の上を、「闇」は谷間を指す言葉。
 高龗は山上の龍、闇龗は谷間の龍という意味になります。

高龗神社は奈良の大和神社の摂社です。関係するのは天照大神と大幡主です。
天照大神と倭大國魂神(大幡主)は共に崇神帝の瑞籬宮に祀られていたが、両大神の神威を畏れた帝は宮中から出して祀ることにした。天照大神は崇神帝の皇女・豊鍬入姫を斎王として笠縫邑に遷し祀られた。倭大国魂神(大幡主)は渟名城入姫に託されたが、祭祀が続けられなくなり、市磯長尾市が祭祀する。

貴船神社は天照大神(大日孁貴=ヒミコ=天照女神)と豊受大神(豊の宇賀神=大幡主)を祀る神社ではないのか。闇龗は眩龗=天照大神、 高龗は鷹龗=大幡主がよく似合う。

天照大神(大日孁貴)と豊受大神(豊の宇賀神)は倭国の祖神です。
そう思うと、「記紀」で云う、伊弉諾尊(いざなぎ)と伊弉冉尊(いざなみ)による国産みの神話は、九州を舞台にした大幡主と大日孁貴(ヒミコ)による国産みの神話を土台にしたのではないか。淡路の伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀る伊弉諾神宮(淡路市多賀)は日本書記によるテーマパークの神社ではないか。1930年(昭和5年)本殿を開くと伊弉諾尊と伊弉冉尊が祭祀されていたという。伊弉諾尊と伊弉冉尊の神霊はどこから持ってきたのでしょう?
 
 
日吉大社の神輿と社殿から分かったこと
日吉神社 福岡県那珂川市(筑紫郡南畑村大字)市ノ瀬字日吉前
祭神 天御中主神、大己貴神、彦火々出見命 → 白山姫、大幡主、彦火々出見命
福岡県那珂川市の日吉神社が本宮で、主祭神は彦火々出見命(猿田彦)です。

日吉大社 滋賀県大津市坂本五丁目1-1
西本宮祭神:大己貴神(大国主神に同じ)→ 大幡主(大宮)
東本宮祭神:大山咋神 → (二宮 大山咋神)
五摂社
牛尾宮:大山咋神荒魂 → 天葺根命(大山咋の幼名)
樹下宮:鴨玉依姫命 → 彦火々出見命(猿田彦)
三宮宮:鴨玉依姫命荒魂 → 三宮 鴨玉依姫(大山咋神の妃)
宇佐宮:田心姫神 → 大幡主
白山宮:白山姫神 → 天照女神

日吉大社は、元宮である那珂川市の山王宮日吉神社に、大山咋神が割り込んでおられました。