No.219 古代七夕・高場大神宮の七夕彦(大幡主)と七夕姫(天照)
宮原誠一の神社見聞牒(219)
令和5年(2023年)04月09日
福岡県筑前町(旧朝倉郡三輪町と夜須町)には四社の大神宮があり、正八幡大幡主と天照大神を組み合わせて、七夕神を祀るような神社配置になっているのです。その地名が上高場と下高場であり、和名の高場星(たかばのほし)の七夕星を想起させる由来があるのです。
※牽牛(アルタイル)の鷲座、織女(ベガ)の琴座、白鳥座の星座を高場星(たかばのほし)と呼びました。
上高場の太神宮 福岡県筑前町上高場1784(旧朝倉郡三輪町大字上高場字西浦)
下高場の太神宮 福岡県筑前町下高場2249(旧朝倉郡夜須町大字下高場字本村)
小隈の元大神宮 福岡県筑前町下高場2736(旧朝倉郡夜須町大字下高場小隈地区)
長者町の大神宮 福岡県筑前町長者町614 (旧朝倉郡夜須町大字長者町字上浦)
「上高場の太神宮」はブログ「No.212 伊勢外宮社(鳥栖市田代大官町)2023年1月11日」
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12783603480.html
に紹介しております。社号は「太神宮」ですが、大幡主を主祭神に摂社に開化天皇を祀り、高良玉垂神社の様相を呈しています。
「下高場の太神宮」は天照女神を祀ります。
「小隈の元大神宮と天満宮」は下高場小隈地区にあって、大正12年、祭神同一につき、下高場の太神宮に合祀されています。大神宮と天満宮が下高場の太神宮と祭神同一ということは、小隈地区は大幡主を伊勢宮祭神として祀っていたことになります。下高場と小隈地区は別地区であり、明治の合祀令から外れると思うのですが、今は天満宮の鳥居が残っています。小隈の地名は大幡主系の地名であり、もし残っていれば、草場川を天の川に見たて、下高場の太神宮と小隈の元大神宮は七夕の織女(ベガ)と牽牛(アルタイル)に当たります。
下高場の太神宮と上高場の太神宮の関係も七夕の織女と牽牛に当たります。
※草場川
瀬高町草葉集落の集落名の伝承で、皇軍と田油津姫の戦場(清水小学校の北)となり、戦場(いくさば)が転じて久佐婆(くさば)、そして草場になったと言われています。
秋月の羽白熊鷲戦争では、安野、高場が決戦の戦場「層増岐野(そそきの)」と言われていますが、地元では、上秋月の愛宕神社前の「椿の森」が層増岐野と言われている。
「長者町の大神宮」は大幡主を主祭神に天照女神と共に祀ります。今は、祭神・大幡主は消されて、天照女神の単神を祀りますが、大幡主が祭神であったことは社殿の様式に痕跡として残されています。
■高場の地名
真鍋大覚氏は「儺の國の星」にて、「牽牛(アルタイル)と織女(ベガ)は胡語で鷲あるいは鷹であり、白鳥をもいれてこの星座を高場星(たかばのほし)と呼びました。」とあります。
「高場」は本来「鷹場」であり、地名名前の高尾、高田、高島、高見、高山等の「高」は本来「鷹」の字を当てました。
「昔、水城から博多までの間に卒川(いざかわ)、或は日佐川(ひさかわ)なる水路がありました。今は五十川(いそかわ、いとかわ)、或は曰佐(おさ)なる郷名にわずかに面影を留めております。有明海の高汐が余勢をのばして玄界灘に流れ下る急湍による地名と考えられます。白鳥座を”いそのほし”とよぶ所以が、何かかつての有明海と玄界灘を結ぶ釆水(はんすい)を雲漢天の川に見立てていたならば、博多櫛田神社だけに残る大幡主命の神名が思い出されます。天照大神の御手を引いて、西なる高来島から東なる宇佐島に遷し奉ったと云う物語は、何か牽牛と織女の七夕祭のはるか以前の神話ではなかったかと想像されます。那珂川では、昔から”あまのがわ”とは言わずに”いそのかあ”の名が通りました。」
真鍋氏は玄界灘と有明海は那珂川と宝満川(筑後川の支流)が水城付近の調整池で繋がれていたと想定されています。この場合の那珂川は三笠川でしょう。その水路を「針摺の瀬戸 はりすりのせと」と呼ばれています。
古代(平安以前)は、博多湾は福岡市高宮付近まで、宝満川は小郡市津古付近まで海の入江でした。両者の海を船で乗り降りすることなく一気に越すには、那珂川と三笠川をつなぐ水城付近に調整池なるものが必要ですが、その調整池なるもの痕跡は発見されていません。
私は、三笠川と宝満川の丘越えは、船を抱えて(かついで)船越しをしたと想定しています。
「大幡主が天照大神の御手を引いて、西九州から東九州の宇佐に遷し奉ったと云う物語は、何か牽牛と織女の七夕祭(海幸彦と市杵島姫の七夕祭)のはるか以前の神話ではなかったかと想像されます。」に惹かれます。
大幡主と女神の天照大神は七夕関係にあったというのです。
私は、それどころか、夫婦であったとみているのです。
「大幡主は天照の手を引いて宇佐嶋へ・・・」は、大幡主と天照大神を古典七夕神に見立てた七夕彦と七夕姫の七夕です。次世代の七夕神(たなばた)が犬飼神(海幸彦)と七夕姫(市杵島姫)で、次が山幸彦と天鈿女命の機織神(たなばた)です。
※織り姫(おりひめ)と彦星(ひこぼし)
日本では織女のことを「織り姫」(おりひめ)、牽牛のことを「彦星」(ひこぼし)または別称犬飼星と呼んでいます。織り姫はこと座の一等星・ベガで、彦星はわし座の一等星・アルタイルです。
アルタイルとベガは,アラビア語で「飛ぶ鷲」「落ちる鷹」
シュメール語でも「鷲」
日本では
アルタイルは七夕の「彦星」,中国名「牽牛」
ベガは「織り姫」、中国名「織女」
※こぐま座と北極星
北極星は天御中主であり、大幡主を当てます。その大神宮があった所が小隈(こぐま)。小隈の大神宮は大幡主を祭神とします。大正12年、下高場の大神宮に合祀されます。合祀されなかったら、小隈の大神宮と下高場の大神宮は草場川を挟んで良い七夕関係にあったでしょう。
※胡人
中国人が北方や西域の諸民族をいう汎称。前3世紀末に匈奴が勃興してからは,胡は匈奴の同義語として用いられたが,漢では西域人を胡ということもあった。唐代でも主として西域人を胡は匈奴の同義語として用いられたが,漢、唐代では西域人を胡という。
※真鍋大覚(まなべ だいかく)
1923年 5月14日 - 1991年 4月26日
日本の航空工学者。暦法家。九州大学工学部航空工学科助教授 経歴 福岡県糟屋郡箱崎町に生まれる。真鍋家は物部氏から続く代々暦法を生業とする家系であり、大覚も暦法に関する書物を著している。ご先祖は鹿島神宮の神官を務めたという。
■福岡県小郡市の七夕神社
宝満川を天の川に例えて、西岸の大崎の媛社(ひめこそ)神社の織女神に、稲吉の老松神社の境内合祀社に牽牛社犬飼神を祀り、七夕神社を形成しています。
小郡市の七夕神社 福岡県小郡市大崎1
一の鳥居は「媛社神社」、二の鳥居は「磐船神社・棚機神社」
小郡市大崎の媛社神社の祭神
1.主祭神 媛社(ひめこそ)神=天鈿女命
2.磐船大明神=饒速日命(彦火々出見命) 天鈿女命の夫
3.織女神 七夕姫=市杵嶋姫
小郡市稲吉の老松神社の相殿合祀・牽牛社
1.犬飼神=天忍穂耳命
2.老松神社の古宮=高良玉垂神社(開化天皇)
ここで、稲吉の牽牛社の祭神が牽牛神でなく、犬飼神であること。
境内左手に天満神社が本殿に向かって鎮座です。
神社案内板では、祭神は菅原道真公となっていて、大崎字中ノ前の天満神社、中屋敷の天満神社を大正五年に合祀とあります。
しかし、この境内社・天満神社は「天満神社」ではありませんでした。
字中ノ前の天神社と中屋敷の天神社の合祀で、祭神は埴安命(大幡主)と大日霊貴命(天照女神)の夫妻でした。小郡市大崎の七夕神社境内には、大幡主と天照女神の古典七夕神が祀られていたのでした。
境内社・天満神社ならぬ天神社(古典七夕神社)
■佐賀県鳥栖市の姫古曽神社と鳥栖市幡崎の幡崎神社
佐賀県鳥栖市姫方町の姫古曽(ひめこそ)神社の祭神は明治になるまでは、八幡大神を主祭神に武内宿禰と住吉大神が祀られていました。元の主祭神は市杵島姫でしたが、後に宇佐八幡宮より八幡神を分祀し、更に住吉高良の二神(高良大神、住吉大神)を合祀して八幡宮と称して来ました。主祭神の織女神(たなばた姫=市杵島姫)は、八幡宮の勧請の折、「たなばた屋敷」に遷され、明治維新後、主祭神を戻し、「姫古曽神社」と改称。さらに無格社、祭神彦火々出見命、国常立神(大幡主)を追加合祀して現在に至っています。
姫古曽神社 佐賀県鳥栖市姫方町189
祭神 市杵島姫命(織女神)
追祀 高良宮・八幡大神(大幡主) 高良大神(彦火々出見命) 住吉大神(鵜草葺不合命)
鳥栖市の姫古曽神社と小郡市大崎の媛社神社の由来が肥前風土記(730年頃)にあります。
媛社神社が祭る社、岩舟神社なり。後に、織女神を合祀する由縁は、肥前国風土記基肆郡(きいのこおり、今の三養基郡なり)媛社の郷に曰く。(意訳)
この郷の中に川があり、名を山途川(やまぢ)という。その源は郡の北の山から出て、御井の大川と合流する。(今の媛社郷の東を流れる山下川に千歳川と合流する)
昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分であった。そこで、この神が祟る理由を尋ねると、「今筑前国宗像郡の珂是古(かぜこ)にわが社を祭らせ、もしこの願いがかなうなら凶暴な心はおこさない」とあった。珂是古は幡を手に持ち祈祷し、「誠にわが祀りを欲するならば、この幡は風のままに飛んで行き、わが願う神のもとに落ちよ」といい、そこで幡を放した。すると、その幡は飛んで往き、御原の郡の姫社の杜に落ちた。(今の三井郡大崎なり)
また、旗は帰って行って姫方の地に落ちた。
その夜、珂是古が寝ていると夢に機織りの道具が舞うのを見て、これが女神様であることを知った。そこで社を立てて祭ると旅人は無事に通れるようになった。これ姫社神社のことなり。 ※朝鮮語で「社 やしろ」のことを「こそ」といった
この肥前風土記の記述が云わんとすることは、鳥栖市姫方の荒ぶる神が、ここに私(大幡主)と織女神(市杵嶋姫)を祀ってくれと頼んでいるのです。大幡主と天照大神との間の姫君が市杵嶋姫なのです。
よって、鳥栖市の姫古曽神社こそが、大幡主と天照大神を七夕神として祀る古代七夕神社なのです。(天照大神が消されています)
姫古曽神社の北に幡崎神社(鳥栖市幡崎町)があります。現在、山王宮日吉神社ですが、その以前の古宮は大幡主を祀る神社です。牟田宮総代によると、珂是古が幡を飛ばした地は鳥栖JCTの南西の所でした。(山下川のそばの墓地) 幡が飛んだ先が小郡市大崎の媛社神社であり、戻り幡の地が姫方の姫古曽神社付近となります。すぐ側に山下川も流れています。「たなばた屋敷」はその近くにあったようです。
幡崎神社 鳥栖市幡崎町957
今神(こんじん)の国常立命(大幡主)と天神社の二神が合祀されています、古宮は「倭大国魂神社」です。祭神は大幡主と大日霊貴命(天照女神)の夫妻となり、幡崎神社も古代七夕神社を呈しています。
■上高場の太神宮(No.212)
田代大神宮(佐賀県鳥栖市田代大官町)と同じ形式の神社が、福岡県筑前町(旧三輪町)上高場に「太神宮」としてあります。太字の太神宮です。
本殿の屋根には外削ぎの男千木、鰹木3本で男神を祀ります。
紋章は「十三菊紋」ですが、十二菊紋を隠したものと思われます。十二菊紋は九州王朝の紋章です。
本殿右横には、開化天皇の祠があり、その前には藤棚があります。宮地嶽神社の主祭神は阿部丞相(玉垂命=開化天皇)と神功皇后です。
上高場の太神宮 福岡県筑前町上高場1784
大幡主を主祭神に摂社に開化天皇を祀り、高良玉垂神社を呈しています。
奉斉地区は上高場、高上、大久保とあり、大幡主奉斉地区です。大久保、久保、大窪、窪は球磨の盆地を表し、窪地の意味です。窪権現は大幡主となります。
■下高場の太神宮
由緒に天明5年(1785)建立とあり、大正12年(1923)12月に小隈の大神宮と天満宮は祭神同一につき、下高場の太神宮に合祀となりました。
現在の社殿は昭和41年(1966)に火災にあったものを翌42年にコンクリート製で再建されたものです。よって、ご神体は消失し、天照大神のご神体は復元されましたが、大幡主関係の痕跡は一切無くなってしまいました。
小隈の天満宮は鳥居が残っています。小隈の地名は大幡主系の地名であり、もし残っていれば、草場川を天の川に見たて、下高場の太神宮(天照大神)と小隈の元大神宮(大幡主)は七夕の織女(ベガ)と牽牛(アルタイル)に当たります。
下高場の太神宮 福岡県筑前町下高場2249
「太」字の太神宮です
背後の竹藪は今はありません
社紋は十六葉八重菊紋です
平削ぎの女千木です
本殿右手の境内社、宮地嶽神社祭祀由来(左)、宮地嶽神社
■小隈の元大神宮と天満宮
大正12年(1923)に小隈の大神宮と天満宮は祭神同一につき、下高場の太神宮に合祀となりました。今は天満宮の鳥居が残され、社殿跡にはコンクリートのお堂に家庭用の神棚神殿が置かれ、菅原道真公が祀られています。
小隈の元大神宮と天満宮 福岡県筑前町下高場2736
古墳の上にあり社殿はありません、鳥居の扁額は「天満宮」
社殿跡に菅原公を祀るお堂があります
■長者町の大神宮
江戸時代、長者町は黒田長政公によって開拓された町のようです。
現在の祭神は天照女神の単神を祀りますが、かつては大幡主を主祭神に天照女神と共に祀られたようです。大幡主が祭神であったことは社殿の様式に痕跡として残されています。本殿の千木は外削ぎの男千木で、波と菊花の彫刻が残されています。
長者町の大神宮 福岡県筑前町長者町614
外削ぎの男千木です
本殿の波と菊花の彫刻
「波間の鯉」の彫刻はよく見かけるのでが?飛来天神(大幡主)と天照?
天照大神の姿は長い髪に白い服です
■その他に大幡主と天照大神を共に祀る大神宮
筑後川南岸地域に大幡主と天照大神を共に祀る大神宮が境内社として存在します。
○高御魂神社(妙見宮) 福岡県うきは市新川4362
祭神 天御中主神(大幡主) 明治六年妙見宮の社号を高御魂神社と改称
本殿右手の境内社、祇園社(左)、大神宮(右)
大神宮のご神体は二対の鏡です
○延寿寺の熊野神社 福岡県うきは市吉井町福益1358
本殿左手の境内社群、三光神社跡(左)、大神宮(中)、大神宮(右)、右端は本殿
大神宮、伊勢内宮 伊勢外宮
吉井町延寿寺の熊野神社の伊勢宮について
伊勢宮の左は内宮の天照女神で、右の石祠(鹿の彫刻あり)は志賀社を勧請し、該当するものは福岡の志賀海神社摂社の今宮になります。この今宮の祭神は宇都志日金拆命(ウツシヒカネサク)で、金拆命=金裂命は大幡主です。
伊勢宮の二祠は夫婦で対面する配置になっており、金裂命が上格になり、注連縄が張られていました。それで熊野神社の伊勢宮とります。外宮のご神体がないのは故意に外されたとみています。大幡主ではまずかったのでしょう。代わりに恵比寿が置かれていました。
下段の池中にある祠の大神宮には天照女神と大幡主が祀られていました。
埴安三神について
金裂命(かねさく)=埴安彦(大幡主)
根裂命(ねさく) =大幡主
磐裂命(いわさく)=埴安姫・天照女神
左後が大神宮の祠で、男女対のご神像、手前は彦火々出見命を祀る石塔
■天照女神は桃太郎ならぬ瓜子姫
桃太郎の女子版ともいえる「瓜子姫」。流れてきた瓜から生まれた瓜子姫はおじいさんとおばあさんに育てられて、歌と織物(技芸)に秀でた美しい娘に成長します。しかしあるとき、一人で留守番をしている隙をついて悪神である天邪鬼(中津国平定の折、高天原から派遣されたものの天津神側を裏切って国津神側についた天若日子) に殺されて埋められてしまいます。姫の血で蕎麦や粟や陸稲などの作物の根が紅くなったという。
姫は殺されて小鳥の姿になり、天邪鬼が殺された後、蘇って元の姿に戻ったという。
(コトバンク)
桃太郎の女子版「瓜子姫」
流れてきた瓜から生まれた瓜子姫、桃太郎の女子版で、桃太郎を瓜子姫に置き換えて、流れてきた瓜から生まれた瓜子姫となります。
瓜子姫がめざす鬼退治とは、天照(ヒミコ)による倭国大乱の平定となります。
天照(ヒミコ)=白山姫=瓜子姫
偶然か、白山姫の紋章が瓜の花です。
白山神社の社紋は「三子持(三重)亀甲瓜花」紋であり、「瓜花」紋は白山姫の紋章です。
三子持亀甲瓜花
六角亀甲形を七五三の厚さに配した三つ子持ち、すなわち三重の構えをめぐらし、その中に瓜の花を描いた紋。
※魏志倭人伝のヒミコ女王(天照大神)
魏志倭人伝のヒミコ女王の時代に、伊都国に長官がおり、「爾支 にき」という。
伊都国は今の糸島地方であり、長官の爾支はニギハヤヒ(山幸彦)であった。
投馬国にも長官がおり、「弥弥 みみ」という。
投馬国は今の宇佐地方であり、長官の弥弥は天児屋根命(あめのこやねの 海幸彦)であった。
さらに、邪馬壹国は女王の都する所で、その官(長官)を伊支馬(いきめ)といった。伊支馬は生馬(いきめ)・往馬(いこま)とも呼ばれ、こと大国主を指す名称です。副官は「ヒナモリ」です。現役時代のヒミコ女王を大日孁貴(おおひるめむち)と言いました。後の天照大神です。
往馬(いこま)大社(奈良県生駒市壱分町)の祭神は伊古麻都比古神で、大国主です。生目神社(宮崎県宮崎市大字生目)が古宮で、主祭神は平景清公ですが、本来の祭神は大国主です。
ヒミコ女王は倭国大乱前期の人、孝霊天皇イヨ皇后は倭国大乱後期の人となります。