No. 205 持統皇后病気平癒の勅願寺・久留米市山本町の永勝寺

 
宮原誠一の神社見聞牒(205)
令和4年(2022年)10月09日
 

永勝寺(勅願寺)と持統天皇の話です。
福岡県久留米市山本町豊田に、天武天皇が皇后・鵜野讃良(うのさらら 後の持統女帝)の病気平癒を祈願する勅願寺の永勝寺(えいしょうじ)があります。
どうして、久留米市山本町(草野の西横)に天武天皇の勅願寺があるのでしょう。

天智天皇と天武天皇は舒明天皇と斉明天皇の皇子とされます。
天智天皇は佐賀脊振山南麓に、天武天皇は久留米高良山の麓に住んだことがあるといわれています。さらに、天武天皇は白鳳二年(662) 高良下宮社の創建に係わったと伝わっています。

 

高良下宮社 福岡県久留米市御井町387
祭神 高良玉垂命、左・物部膽咋連命、右・武内宿禰命
合祀 味耜高彦根命(鵜草葺不合命)
境内神社 素盞鳴神社(素盞鳴神)
     幸神社(大倭根子彦国牽天皇=孝元天皇)、
     天満神社 (菅原神)

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これらを考慮すると、久留米市山本町に、天武天皇の皇后・鵜野讃良(後の持統女帝)の病気平癒を祈願する勅願寺があってもしかりと思うのです。
なお、680年、天武天皇は発願により、薬師如来を本尊とする薬師寺の建立に着手。完成しないうちに天武天皇が崩御されたので、持統天皇がその遺志を継いで完成させています。

 

※参考 白村江の戦い
660年7月 百済が唐と新羅によって滅ぼされる。
661年7月24日 斉明天皇が68歳で崩御。
662年5月 百済王子豊璋、王位につく。
663年8月28日 白村江(錦江河口)で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突。
   軍船400は燃え上がり、倭国軍は大敗。筑紫君薩野馬は捕虜となる。
663年9月7日 百済が陥落し永遠に滅亡。
   百済の熊津に唐の出先機関である熊津都督府を設置した。
664年5月17日 百済駐留の唐の鎮将・劉仁願は朝散大夫・郭務宗を倭に派遣。
665年11月 司馬法聡を派遣するとともに境部連石積らを筑紫都督府に送ってくる。
668年1月3日 天智天皇が即位する。
668年 高句麗が唐・新羅連合に屈する。
673年3月20日 天武天皇が即位する。

※664年5月 唐の朝散大夫・郭務宗に大野城(筑紫都督府)は占領されています。

 
 
 
永勝寺 福岡県久留米市山本町豊田2155

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帰り際、この入口で住職と会い、お互いに永勝寺について立ち話をしました。

 
山号・柳坂山 永勝寺(りゅうばんざん えいしょうじ)
日本三大薬師如来の一つで、本尊は「出雲の一畑」「伊予の山田」とともに日本三大薬師の一つに数えられる。もみじ寺とも呼ばれている。
天武天皇8年(680) 11月鵜野讃良皇后(後の持統女帝)の御病気御平癒を祈願のため藤原京に薬師寺を建てられた。
永勝寺は天武天皇のその勅願で創建された。
白川天皇は本寺を尊崇され、勅願救国に及んだ。当時の本坊を禅定本三薬師とあおがれ鎮西一の巨刹として36坊を有した偉容を誇った。
天正18年(1590)キリシタン大名毛利秀包が当地を領有したとき、堂宇仏像ほとんど放火に遭ったが、筑後新領主田中吉政の代、再興され、草堂に薬師佛が奉安された。その後は一薬師堂草庵として村民によって維持されてきたが、その間廃庵となったこともあった。
現在の本堂は明治9年(1876)、戸長、村民相計って建立されたもので、明治10年(1877)に説教所が建てられ、正式に永勝寺として再興され、従前は天台宗であったが、再興年に曹洞宗となった。(案内板)

※勅願所(ちょくがんしょ)
 時の天皇・上皇の勅願により、鎮護国家・玉体安穏などを祈願する神社

 

本薬師寺跡と西ノ京の薬師寺
本薬師寺跡:奈良県橿原市城殿町279
西ノ京の薬師寺:奈良県奈良市西ノ京457
本薬師寺跡(もとやくしじあと)は西ノ京の薬師寺の前身にあたる寺の跡。
天武天皇が鵜野讃良皇后(うのささら 後の持統天皇)の病気平癒祈願のために建立された寺。
680年、天武天皇発願により、薬師如来を本尊とする寺の建立に着手。完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させた。
文武天皇2(698)年、藤原京に完成した。
710年、平城京遷都に伴い、現在地の西ノ京に移築される。
本薬師寺跡は遺構として金堂跡と東西両塔跡に大きな礎石だけが残されている。
伽藍配置については西ノ京の薬師寺と全く同じものであったという。金堂跡の巨大な礎石群が、かつての大寺を今に伝える。

 
永勝寺 福岡県久留米市山本町豊田2155

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「日本三薬師如来」の額はクマソ物部の神額 九州王朝の神社神額にも使用される
幔幕の紋は曹洞宗本山の両山紋

 

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菊水紋は南北朝時代の楠木正成の関与による

 

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天皇系図38~50代
 
天智天皇

 和風諡号は
天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)
天武天皇
 和風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。
持統天皇
 和風諡号は高天原廣野姫天皇 大倭根子天之広野日女尊
 大倭根子(おおやまとねこ)は九州王朝の天皇の和風諡号の一部
 
 
持統天皇
第41代天皇(女帝)で、称制686~689年、在位690~697年。
鸕野讃良(うのさらら)皇女といい、日本諡号は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)又は大倭根子天之広野日女(おおやまとねこあまのひろのひめ)という。
父は天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の女(むすめ)遠智娘(おちのいらつめ)で、父の弟大海人(おおあま)皇子の妃となる。
大海人皇子は天智天皇の皇太子であったが、天智天皇の晩年に意思の疎通を欠き、671年、朝廷を去って吉野山に入り、鸕野讃良皇女もこれに従った。天智天皇の没後、持統女帝の異母弟の大友皇子が天智天皇の後を継いだが、大海人皇子は672年壬申(じんしん)の乱で大友皇子を倒して皇位につき、天武天皇となり、飛鳥浄御原に都を定め鸕野讃良皇女を皇后とした。 (日本大百科全書 参考)

持統天皇の有名な歌

「春過ぎて 夏きにけらし しろたへの 衣ほすてふ 天の香具山」

大和三山の天香具山を歌ったとされますが、異説が多くあります。
藤原京の大極殿から天香具山の麓は見えません。北の耳成山は見えるのですが。(南の「甘樫丘」か東の麓に登れば天香具山は見えます。)
福岡県筑豊の香春町の香春岳(天香山、耳成山、畝尾山)を眺めて詠んだ歌であろう、と言われます。香春岳は石灰岩の山です。石灰岩のその白く点在する山肌を「しろたへの衣」とみたのではないかと。
そうすると、鸕野讃良皇女は天智天皇と共に九州に居られたことになります。仮設です。

有名な歌を詠まれた持統天皇ですが、そんな持統天皇に強権的なイメージが残されています。
「記紀」への歴史改ざん編集
「瀬織津姫」の迫害と追放
です。

 

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「私の直方の風景」 2016年6月16日 香春岳;「青春の門」の舞台 烏尾峠よりの風景
https://blog.goo.ne.jp/nonbiri-arukuyama/d/20160616
香春岳は南側の一ノ岳(右)から北側の三の岳(左)の三山から成ります。
奈良時代以前、三山は右の一ノ岳からそれぞれ、畝尾山(うねび)、耳成山(みみなり)、天香山(あまのかぐやま)と呼ばれていたそうです。写真は昭和初期の姿です。
現在の香春岳の姿は、このブログ「私の直方の風景」で閲覧ください。