No.198 福岡県朝倉筑前町の倭五玉宮
宮原誠一の神社見聞牒(198)
令和4年(2022年)08月03日
倭五玉宮(わのいつたまぐう)は旧夜須町三箇山字藤原の「五玉神社」ではありません。
旧夜須町の平野部にある個人所有地に建つ個人の神社です。管理人さんが住んでおられます。弥生後期の墳丘墓(円墳)でしょうか、墳丘の端に管理人の家屋があります。
由緒も祭神も話を聞いていませんから祭神名もわかりません。
訪問したのは二度目で、5月1日の月次祭(つきなみさい)の日で、桐の花が落下してしまった日でした。そのためか、関係者の参拝がありました。にもかかわらず詳しい話は聞けませんでした。
そのため、この記事は紹介と想定が大部分となります。
墳丘墓(円墳)は旧陸軍航空隊の飛行場施設の建設予定地として工事に手を付けたところ、鏡や剣などが大量に出てきて、工事が中止になり、出てきたものは東京の博物館に持って行かれたということです。墳丘は半分が削り取られています。
「個人でお守りしているところです…」
「こちらは松のお屋敷なんです…」
「倭のイツタマグウ」と読むそうです。
墳丘には五つの祠が点在していますが、全て廃神となっています。
墳丘の廻りは有刺鉄線に囲まれて部外者はかってに入れません。管理人さんにお願いして、倭五玉宮に入らせて頂ました。
倭五玉宮の木の鳥居をくぐり、しばらく行くと、お堂みたいな社があります。
入口には「天御中主大神宮」の神額があり、「太古竺紫日向小戸之廟也」と書かれた掛札がありました。
張られている注連縄の形式が旧三井郡山川町阿志岐の高良玉垂命の御子九人を祀った高良御子神社(王子宮)と同じなのです。すぐに高良玉垂神社と関係があるのかなぁと思いました。関連するのは玉垂命(開化天皇)、神功皇后、仁徳天皇、大彦…と。「松のお屋敷」「倭五玉宮」が気になるところです。「松」は九州王朝のシンボルです。
張られている注連縄の形式が旧三井郡山川町阿志岐の高良玉垂命の御子九人を祀った高良御子神社(王子宮)と同じなのです
神額「天御中主大神宮」、掛札「太古竺紫日向小戸之廟也」
福岡市西区小戸には該当する神社が二社あります。
小戸大神宮 福岡市西区小戸2丁目6-1 天照皇大神(大日靈命)
小戸妙見神社 福岡市西区小戸2丁目6-1 天之御中主神(菊理姫)
小戸の妙見神社は2003年に創建された新しい神社です。
神棚には二つの鏡と二つの金幣があり、右の金幣には太陽のシンボルと「日輪太宮光」とあり、神額と掛札からして、天照皇大神と天之御中主神を祀るのでしょう。
墳丘には五つの祠が点在していますが、全て廃神となっています。
五つの祠の祀る神が「倭五玉」であり、鳥居の「倭五玉宮」と関連するのか。
神霊は社殿の神棚に移されているのでしょうか。
太宮社の奥の神棚です。
中央上部には、「景元魏寶」銭の説明額があります。景元(けいげん)は、三国時代の魏の元帝曹奐(そうかん)の最初の元号(260-264年)です。
右には、当太宮社の万葉歌が二首掲示してあり、旅人と憶良の歌です。全文を完全に読みきれませんでした。
当太宮社の万葉歌
千早ふる 五十鈴宮の増鏡 曇らぬ御代を 照らすそ耳君 (大伴旅人)
(五十鈴宮とは伊勢神宮の内宮)
君か代は 天かぐ山○○日の 照らすかきりに 尽きぬとそ思ふ (山上憶良)
(注)字句は正確ではありません。能力不足によります。
「景元魏寶」銭(けいげんぎほうせん)
景元(けいげん)は、三国時代、魏の元帝曹奐(そうかん)の最初の元号(260-264年)。
太陽廟社のお賽銭の一部と書かれています。太陽廟社とは福岡市西区小戸の小戸大神宮でしょうか、それとも伊勢神宮? さらに、神功女王の御代 西暦260年(景元元年)とあり、神功女王とヒミコ女王が同一視されています。日本書記の記述によるものでしょう。神功女王は347-389年の人で、ヒミコ女王は200年代の人です。神功女王とヒミコ女王は同一の人物ではありません。魏銭であれば、ヒミコ女王(?-248)後の魏国の表示がしっくりきます。
玄関前に桐が植えてありました。桐の花が落下してしまった後でした。
初めて、桐の花を見ました。
墳丘の半分が削り取られています。(緑色の部分)
北側から
西側から
倭五玉宮(わのいつたまぐう)とは
張られている注連縄の形式が高良玉垂命の御子九人を祀った高良御子神社(王子宮)と同じで、「こちらは松のお屋敷なんです…」と「松のお屋敷」となれば、「松」「三階松」は九州王朝のシンボルです。九州王朝関係社と想定できます。
関連するのは玉垂命(開化天皇)、神功皇后、仁徳天皇、大彦…と想定するのです。
玉垂命、仁徳天皇、大彦は、松野連系図で倭五王と関連づけできます。
縢(とう)=縢大臣(とうのおとど)は開化天皇です。
讃=仁徳天皇 仁徳天皇は開化天皇の長子となります。
珍=大彦 開化天皇の異母兄となります。
磐井の君「哲」は大彦の子孫となります。
牛慈は磯城嶋金刺宮欽明天皇(539~571年)の御宇服降により夜須評督となる、と
あります。
倭の五玉とは、神武天皇、懿徳天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇の九州王朝歴代天皇と想定していますが、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇は倭大国魂神(わのおおくにたましん)と云われ、三階松のシンボルとされます。その他の大国魂神として、大和大国魂神(大幡主)、堤大国魂神(大国主)があります。
※磯城嶋金刺宮
欽明天皇の宮「磯城嶋金刺宮」の名は大幡主、豊玉彦に由来します。
磯城嶋金刺国は越中富山(北陸)で、大彦、豊玉彦の地盤です。
欽明天皇は継体天皇の皇子ですが、継体天皇は誰の流れでしょうか。
記紀は継体天皇を応神天皇の五世の孫と記すが、応神天皇は正当皇統ではありません。
倭の五王
中国南朝の宋帝国の正史「宋書」に登場する倭国の五代の王、讃・珍・済・興・武をいう。
「宋書」(513年ごろ完成)には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、官爵を求めたことが記されている。(Wikipedia)
「倭の五玉」と「倭の五王」とは一致しませんので、「倭の五玉」とは九州歴代王朝天皇を指すのかもしれません。
墳丘墓(円墳)は旧陸軍航空隊の飛行場施設の建設予定地として工事に手を付けたところ、鏡や剣などが大量に出てきて、工事が中止になり、出てきたものは東京の博物館に持って行かれたということですので、東京の博物館とは「東京国立博物館」でしょうか、出土物が判明し、年代測定がなされるといい結果になると思うのですが。
修正・松野連<倭王>系図
阿米王→神武天皇とヒミコ王の父・帥升。
熊鹿文(くまかや)=神武天皇。
卑弥鹿文(ひみかや)=卑弥呼(神武天皇の異母姉となります)。
厚鹿文=懿徳天皇。
宇也鹿文=孝霊天皇 市鹿文はヒミコ宗女イヨで、孝霊天皇の皇后。
垂子=孝元天皇。
縢(とう)=縢大臣(とうのおとど)は開化天皇です。
讃=仁徳天皇 仁徳天皇は開化天皇の長子となります。
珍=大彦 開化天皇の異母兄となります。
磐井の君は「哲」で大彦の子孫となります。
「No.162 仮説・ミカサとイナサによる修正松野連倭王系図」2020年12月21日 から