No.189 仁徳天皇を祀る難波神社とイザナギ神社⑩


宮原誠一の神社見聞牒(189)
令和4年(2022年)01月13日
 

以前のブログ「No.76 福岡県朝倉のイザナギとイザナミ ②」2018年9月14日 にて、福岡県朝倉市菱野の伊弉諾神社(イザナギ)を紹介しました。鳥居の扁額には「伊弉諾神社」とあり、本殿は神明造りであり、単神、伊弉諾尊を祀る神社という意識で境内に入りました。
そして、伊弉諾尊を単神祀る珍しい神社だなあ、という思いで境内を後にしました。

しかし、疑問が残っていました。
境内の側を妙見川が流れている、社地の字名が「妙見」、氏子さんは星野氏関係、そして、本殿の社紋(神紋)は「あやめ紋」でした。
どう見ても物部関係の神社です。
判らなかったことが本殿の神紋の「あやめ紋」でした。
当時、「あやめ紋」は、どなたの神紋か分かりませんでした。今まで九州では見かけたことがありません。そのまま時は流れました。

 

朝倉市菱野(妙見)から高良山(右端)を望む(2022年1月12日)

 
 
難波神社の抱き菖蒲(だきあやめ)紋
最近、仁徳天皇と多賀神社・難波神社、その子・草香皇子と神人車馬画像鏡を調べるうちに、ようやく神紋「あやめ紋」の持ち主がわかりました。「No.188 仁徳天皇の皇子・草香皇子四面の鏡を作る⑨」2021年12月28日 参照


神紋「あやめ紋」の持ち主は仁徳天皇でした。

 

難波神社 中央区博労町四丁目1-3
406年、反正天皇(仁徳天皇の皇子)が河内国丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや 現松原市上田七丁目)に還都を行った時、同地に父仁徳天皇をしのんで創建され、仁徳天皇、倉稲魂を祀る。 後に943年、松原市上田から現中央区本町の農人橋に遷座。
豊臣秀吉が大坂城を築く際に、天正11年(1583)博労町の現在の地に移転となる。
当地は上難波村といわれ、社号は「上難波神社」又は「仁徳天皇社」と称していたが、明治8年(1875)「難波神社」と改められた。

 
大阪市博労町の難波神社に「抱きあやめ紋」がありました。朝倉市菱野の伊弉諾神社のあやめ紋とは構図はことなりますが。

 

  難波神社の神紋「抱き菖蒲だきあやめ」紋  http://www.harimaya.com/o_kamon1/
大阪観光USJガイド(usj.taishoro.com)から   syake/view/NAMBA.html    

 

難波神社の御朱印帳 https://hotokami.jp/goshuin/osaka/

 

 

 
 
仁徳天皇と菖蒲の花
体調を崩し寝込まれた仁徳天皇の夢枕に味耜高彦根神(アヂスキタカヒコネ神=秋葉神)が立ち「枕元に菖蒲の花を祀ると治る」とお告げがあり、そのようにされたところ病気が平癒したという故事に因む
※仁徳天皇にあやめの花を勧めたのは秋葉神ですが、秋葉神は大幡主で、大幡主はあやめの紋章も使われます

 

朝倉市菱野の伊弉諾神社の神紋・菖蒲(あやめ)紋

 
 
何れが菖蒲か杜若(いずれが あやめ か かきつばた)
元々は美しい女性に対し使われていた言葉のようです。
私は美しい複数の女性にお会いした時、よく使います。
言われた女性の方は気を悪くされません。
わかったご婦人方は「あら~、誰のことかしら!」
「あんたですよって、あハハッ!」

アヤメは乾燥地に育ち、他のアヤメ属の種であるハナショウブやカキツバタは湿地に育つ。アヤメ類の総称として、ハナショウブやカキツバタを含めて、アヤメと呼称する習慣がある。

アヤメ    外花被片に網目模様がある 黄色い模様がある 乾いた所に育つ
カキツバタ  外花被片に網目模様がない 白い斑紋がある  水中や湿った所に育つ
ハナショウブ 外花被片に網目模様がない 黄色い斑紋がある 湿った所に育つ
 
 
朝倉市菱野の伊弉諾神社
旧朝倉町菱野の妙見川の傍に伊弉諾尊を単独で祀る伊弉諾神社があります。(表向き)
伊弉諾尊を単独で祀る神社としては珍しい神社です。伊弉冉尊は祀られていません。
2016年の朝倉豪雨水害で横の妙見川が境内をえぐり取り、敷地の中程が陥没しました。

伊弉諾神社 福岡県朝倉市菱野字妙見370

 

 

 

本殿の花あやめ紋

 

鳥居の扁額には「伊弉諾神社」

 

 

神殿祠の扉の「あやめ」の抜き紋

 
この神社は総じて、イザナギ命を祀る伊弉諾神社ではありません。
下朝倉の中山間地、宮野-山田の間は物部の地です。
境内の側を妙見川が流れ、社地の字名が「妙見」、氏子さんは星野氏関係、そして、本殿の社紋(神紋)は「あやめ紋」、どう見ても物部の神社です。
北には宮地嶽神社、宮野神社、近くには須川の月読神社、南の久重には老松神社があります。

北部九州では、仁徳天皇が天皇になる前の名、
大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)日本書紀、
大雀命(おほさざきのみこと)古事記、
で祀る若宮神社は沢山ありますが、仁徳天皇の名で祀る神社は見かけません。
仁徳天皇の名で祀る神社は福岡県大野城市牛頸の平野神社の奥宮があります。
仁徳天皇の名で祀る神社が北部九州にあっては、「記紀」からして、あってはいけないのでしょう。仁徳天皇は近畿の人ですから。

それで、朝倉市菱野の伊弉諾神社は仁徳天皇を隠して、伊弉諾尊を祀る伊弉諾神社としたのでしょうか、あるいは、淡路島の多賀の伊弉諾神社(神宮)を、仁徳天皇を祀る伊弉諾神社と承知の上で勧請されたのでしょうか。
淡路島の多賀の伊弉諾神宮の社紋は「十六菊紋」、朝倉市菱野の伊弉諾神社の社紋は「あやめ紋」と、ちゃっかりと仁徳天皇の神紋に変えられ、神号、社号は元のままです。
厳密に言いますと、仁徳天皇と日向髪長姫は伊弉諾尊と伊弉冉尊に置き換えられています。
参考までに、兵庫県明石市大観町の伊弉諾神社の社紋は橘紋です。どう見ても伊弉諾尊を祀る神社とは思えません。

九州では存在して欲しくない神々、開花天皇は武内宿禰に、正八幡大幡主は応神天皇あるいは素盞嗚尊に、仁徳天皇は伊弉諾尊に、崇神天皇は神武天皇に置き換えられています。これが「記紀」の常套手段のようです。
※伊弉諾尊と伊弉冉尊は大幡主と天照女神の置き換えが多いです

 

 
 
仁徳天皇と多賀神社
九州北部の筑豊、北九州市、行橋方面にイザナギとイザナミを夫婦神として祀る多賀神社があります。代表的な神社が直方市の多賀神社です。

 

多賀神社 (直方市)
所在地 福岡県直方市大字直方701
祭神 伊邪那岐大神
   伊邪那美大神
この神社の創建年代等については不詳。平安時代には既にあったという。
大内氏時代は妙見社と呼ばれた。元禄5年(1692)に妙見神社から社名を改めた。

 

 
「No.188 仁徳天皇の皇子・草香皇子四面の鏡を作る⑨」2021年12月28日「神人車馬画像鏡に見る仁徳天皇」から

 

仁徳天皇の皇子・尚盛王は東多賀国(琵琶湖東岸の多賀町多賀)の仁徳天皇・日向髪長姫の両親に会う為、四頭立ての馬車(車駕)に乗り、難なく着かれ、参賀されています。両親は天の力を得、吉を得て長命だったと。さらに、時節の天候も良く、風雨は時に節(かな)い五穀豊穣、民安んじ息す、と刻まれています。
尚盛王は、はるばる両親に参賀するため会いに東多賀までいかれています。すると、晩年の仁徳天皇皇后は河内から東多賀に移られたことになります。

 
神人車馬画像鏡の銘文と仁徳天皇の皇子・尚盛王の行動からして、多賀大社の祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命でないと推察します。
直方市大字直方の多賀神社の祭神はイザナギ命とイザナミ命です。しかも、古くは妙見神社と言われた。この多賀神社もイザナギ命を祀る神社とは思えません。朝倉市菱野の伊弉諾神社と同様の内容を持っています。直方市多賀神社の社紋は二羽の雀(すずめ)です。雀(すずめ)は古事記での仁徳天皇の大雀命(おほさざきのみこと)から採られたのでしょう。二羽の雀は仁徳天皇と日向髪長姫でしょう。
 

直方多賀神社社紋の訂正 2022.1.24
直方市多賀神社の社紋を二羽の雀(すずめ)としましたが、正式には「セキレイ」でした。セキレイはスズメ目セキレイ科に属する鳥の総称で、ハクセキレイとなります。拝殿の屋根の社紋は「五瓜に向鶺鴒 むかいせきれい」が打ってあります。
鷦鷯(ミソサザイ)は、スズメ目ミソサザイ科。

 

近江国犬上郡多何神社(琵琶湖東岸の多賀町多賀の多賀大社)と淡路島の淡路市多賀の伊弉諾神宮は同体と見られます。多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しています。伊弉諾神宮、多賀大社は大幡主を祀る神社と見ています。

 

球磨の宮原さんの話
朝倉にマテラ山があり、その東に宝満宮がある志波(しわ)地区、その東に高山(こうやま)があります。高山(たかやま)の本来の表記は「多賀山」です。

 
 
福岡県嘉麻市の馬見神社
馬見山の北麓の馬見足白(現・福岡県嘉麻市馬見1575) に馬見神社があります。
祭神は
  伊弉諾尊(イザナギ)
  天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
  木花咲哉姫命(このはなさくやひめのみこと)
となっています。
祭神は別名「白馬大明神(馬見大明神)」とされ、物部の太祖・饒速日命(ニギハヤヒ)を祀るともいわれる。(貝原益軒「筑前国風土紀」)
「筑前国続風土紀付録」では、馬見大明神は天津彦瓊瓊杵尊であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相殿に祭っている、という。この場合の賀茂大明神は豊玉彦、荒穂大明神は饒速日命となります。
饒速日命は筑紫では別名「五十猛」ですが、「いそたける」と詠むのでなく、物部式に「いとたける」と詠むと名前の意味がはっきりします。「伊都の猛」です。

瓊瓊杵尊と木花咲哉姫命は夫婦神であり、釣合いはとれますが、伊弉諾尊とは釣合いがとれません。馬見神社は物部の神社です。
「馬見」は「馬を見る」という意味ではありません。
「馬見」の本表記は「宇麻見」です。天空を見る、という意味で、星の観測です。物部らしい名称です。
これからすると、饒速日命が伊弉諾尊に祭神のすり替えが行われていると推察します。
饒速日命の若き日の名は天津日高彦穂々出見命(父大幡主)、天津日高彦瓊瓊杵尊(父高木大神)とは異父同母兄弟(母天照大神)です。(「No.08 ヒミコ宗女イヨ」2017年5月28日 参照) 瓊瓊杵尊は後の「向山土本毘古王 むこうやまとほひこおう」です。
馬見神社でも本祭神が隠され、伊弉諾尊で上書きされています。
また、篠栗町の太祖神社(福岡県糟屋郡篠栗町若杉1047) でも、本祭神が伊弉諾尊で上書きされています。

 

宇麻志麻治(下) うま しま じ
内陸にあっては、天空の星を治める神
海にあっては、大海原の島を治める神
馬見大神の本来の表記は「宇麻見大神」です。
宇麻志麻治は彦火々出見命の王子であり、物部の祖です。