No.177 安曇族(鰐)と宗像族(白兎)と大国主 ①


宮原誠一の神社見聞牒(177)
令和3年(2021年)07月18日

 

佐賀県神埼市、吉野ヶ里町をまたぐ吉野ケ里遺跡の北の山麓に志波屋(しわや)と呼ばれる大字があり、ここに二社の鰐(わに)神社があります。鰐大明神の神額を掲げる竹原(たかわら)の神社は王仁博士を祀るかも知れない神社として有名になりました。竹原集落には王仁博士顕彰公園が整備され観光地となっています。
竹原の鰐神社には「王仁(わに)天満宮」という石の祠が境内社として祀られています。
この祠は日本書記応神記に記載される、応神天皇に招かれて百済から多くの技術者をつれて渡来し、日本に初めて漢字の「千字文(せんじもん)」と「論語」を伝えたとされる王仁博士を祀ったものではないか、といわれています。王仁博士の一行は朝鮮半島の南西端にある上台浦(霊巌)から渡来したと伝えられていますが、日本のどこに上陸されたかは記録もなく不明です。

王仁博士が鰐大明神というわけではありませんが、ここでは鰐族と春日氏の関係、さらに、春日氏の父系先祖である佐田大神(若き日の天葺根命 あめのふきねのみこと)と安曇族との関係をみていきます。

日本書記応神記によると、
太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、阿直岐(あきち)を師としていました。天皇は阿直岐に問うて言われるに「お前に勝る学者は他にいるのか」に答えて言わく「王仁という人がいます」。そこで使者を百済に遣わし、王仁を召しださせ、菟道稚郎子は王仁を師とされ、もろもろの典籍を王仁から教わることになります。

鰐神社 佐賀県神埼市神崎町志波屋(竹原)823

 

菟道稚郎子にはエピソード(挿話)があります。
太子の宇道稚郎子は仁徳天皇に天皇位を譲ろうとします。仁徳天皇の方は即位を辞退し、空位が3年続いたという。宇道稚郎子はついに自殺までして天皇位を仁徳天皇に譲ることになります。
仁徳天皇(大鷦鷯尊 おほさざきのみこと)と宇道稚郎子は確かに異母兄弟です。
しかし、応神天皇を親とする異母兄弟ではありません。応神天皇と仁徳天皇は同世代の人です。仁徳天皇と宇道稚郎子は開化天皇を父とする異母兄弟です。
二人の皇子の出来事も近畿地方の話ではありません。話の舞台も近畿地方でなく、北部九州(福岡県北部から西部)の話です。

時代は300年後半の話です。
大鷦鷯尊を若宮といい、宇道稚郎子を春宮といって、両者とも太子扱いです。
よって、日本書記応神記の宇道稚郎子の父である天皇は応神天皇でなく、開化天皇となります。宇道稚郎子を祀る乙子神社が志賀島にあり、宇道稚郎子は安曇族と関わってくるのです。詳しくは「No.97 宇道稚郎子と仁徳天皇の皇位継承舞台の地・那珂川の乙子神社」2019年3月13日 を参照
安曇族は安曇磯良(あずみいそら)と豊姫(ゆたひめ)夫妻を祖とします。遡れば大幡主(国常立尊)ご一統です。安曇磯良と豊姫は宇道稚郎子を祀る乙子神社がある志賀島の志賀海神社のご祭神です。
この安曇族が鰐族(鰐大明神)と春日氏に関係してきます。


■鰐(わに)神社
佐賀県神埼市神崎町志波屋823
祭神 鰐大明神、熊野三神
境内社 天満宮、實盛宮、乙宮、王仁天満宮

この神社は「佐賀県神社誌要」に記載はありません。
拝殿の後ろには、熊野社(左)と鰐大明神(右)の祠があります。熊野社(三社)の祠には三体のご神像です。

 熊野三神
 左・事解男命(ことさかお)
 中・速玉男命(はやたまお=大幡主 おおはたぬし)
 右・熊野夫須美命(ふすみ=天照女神)

当初この社地には熊野社が祀られていて、西北にあった鰐神社が洪水で被害に遭い、鰐神社が熊野社の社地に遷宮されたとされています。よって、鰐神社の本来の神社は熊野社です。
熊野社がある集落は竹原(たかわら)で、その北の志波屋南、的(いくは)に二社の鰐神社があったことになります。

鰐神社 佐賀県神埼市神崎町志波屋(竹原)823

 

 

 

 

熊野社               鰐大明神

 

鰐神社由緒
鰐大明神と王仁天満宮(境内案内板)
この神社の創建は定かではないが、正面の鳥居は元禄十二年(1669年)に氏子三村から寄進されたものです。
御祭神として鰐大明神と熊野三社が祭られているところから渡海者の安全を祈願されたものと思われますが、当社には王仁天満宮と刻まれた小さな石祠も祭られています。
「王仁」というのは、4世紀後半に応神天皇に招かれて百済から多くの技術者集団をつれて渡来されたと古事記、日本書紀等に記載され、日本に初めて漢字の手本である「千字文」と儒教の原典である「論語」を伝えた王仁博士ではないかと思われます。
王仁博士の一行は朝鮮半島の南西端にある上台浦(霊巌)から渡来したと伝えられていますが、日本のどこに上陸されたかは記録もなく不明です。
もし、吉野ヶ里の渡来人と同じく目の前の有明海から北上したとすれば、ここ竹原地区付近に上陸したと思われ、ロマンに満ちた夢は大きくふくらんできます。

 

本宮祠左側    實盛宮    王仁天満宮    乙宮

 

神埼市地域資源資料室 かんざき@NAVI
「鰐大明神」は伝承によれば、「伊勢参りに船で行く途中、鰐に襲われたため、当地に鰐大明神をお祀りした」と伝えられています。慶長年間の絵図には、熊野社と記されています。境内には、古事記・日本書紀に記載されている「王仁博士」に関係すると考えられている「王仁天満宮」の石祠も残されています。

 

伝承によれば、「伊勢参りに船で行く途中、鰐に襲われたため、当地に鰐大明神をお祀りした」と伝えられています。慶長年間(1596-1614)の絵図には熊野社と記され、現在の鰐神社は小規模の熊野社だったことになります。鰐大明神社が移転され、熊野社は吸収され、現在の鰐神社になったと考えるのです。

「王仁天満宮」の石祠は鰐大明神社にあり共に移転してきたのか、現在の竹原の神社に祀られた石祠なのか、はっきりしません。
本来ならば石祠銘は「鰐天満宮」となるのでしょうが、「王仁天満宮」とあるために、古代の王仁博士が結びつくのでしょう。王仁博士を祀るのであれば、神号は「王仁社」「王仁明神」といった類になるかと思うのです。

天満宮である以上、永延元年(987)以降のものとなります。
「○○天満宮」であれば、祭神は一般に菅公となり、○○は祭神通称名、地名等が当てられます。

王仁博士が鰐大明神というわけではありませんが、この地とどのように関わりがあるのか不明です。王仁博士が宇道稚郎子の師として関わる地域は福岡市の西部から那珂川市の一帯と考えられるからだす。
大事なのは、お祀りした鰐大明神がいかなる神様なのか?王仁博士といかなる関係があるのか?です。

 

拝殿のかえる股には「剣花菱紋」です。剣花菱紋は開化天皇(九州王朝)を支えた人々の紋章です

 

 

左の写真は現在の鳥居の扁額です。特別に特徴はありません。
右の写真は社殿後ろに置かれた鳥居の扁額です。鰐大明神と熊野三神の祠に刻まれたものと同じ神額です。どこにあったのでしょう?この神額は脊振山南の仁徳天皇を祀る神社に使用されます。この神額が元の神額であったとすれば、この竹原の鰐神社は仁徳天皇が関わっていることになります。
「剣花菱紋」「仁徳天皇」が関われば開化天皇も関わることになり、さらに、由緒から菟道稚郎子も関わり、「王仁を召しださせ、菟道稚郎子の師に王仁を」が現実的となます。
それにしても、王仁博士を祀る祠が「天満宮」なのでしょうか?王仁博士の子孫は菅原道真公と縁者になるのでしょうか。
菅原家は、天穂日命(あめのほひのみこと)を祖とし、大幡主ご一統の流れとなります。
「鰐天満宮」の名称で天穂日命(豊玉彦)、埴安彦(大幡主)を祀るのであれば、鰐族として祀ることになります。天満宮の祭神は菅公のみならず、天穂日命、埴安彦を祀ることがあります。
「鰐天満宮」に「王仁天満宮」のわかり易い漢字を当てたのか?
王仁博士は韓半島での鰐族であったのか?鰐族であるから「王仁天満宮」なのか?
「王仁天満宮」の謎は簡単に解けません。

竹原の北に、もう一社の鰐神社が志波屋南にあります。
神社の格は志波屋南の鰐神社が上のようです。この神社では王仁博士に関するものはありません。詳しくは次回に述べます。

鰐族の埴安彦(大幡主)を祀るから「
鰐天満宮」「王仁天満宮」の可能性が大です。

 

 

 

■志波屋の後背地
背振山の城原川(じょうばる)の脊振谷となっており、
まず、ヤマトタケルを祀る白角折(しらおとり)神社があり、
金山彦を祀る八天宮(八天神社)があり、
右手に大山咋神、日本武尊を祀る仁比山(にいやま)神社があり、
その向かいの左手には土器山があります。土器山の「土」は土に「、」が付き、「王器山」となり「おうき山」と読み、事代主に因む山となります。
その上の山地に素戔嗚を祀る今屋敷の倉岡神社、櫛稲田姫を祀る倉谷の倉谷神社があり、現在、両神社は合祀されて、倉谷の倉岡神社となっています。
さらに、山中に進みますと、
その広瀧の西の鹿路には一言主(七郎天神・事代主)を祀る鹿路神社があります。
更に西の三瀬村大字杠には野波神社(神功皇后、事代主)、乙宮神社(豊玉姫、大雀命、菟道椎郎子)があります。
三瀬村の東部には広瀬の廣瀬神社(豊受大神)、土師の八龍神社(豊玉彦)、井手野の玉里神社(少名彦命)、山王社があります。
志波屋の後背地は大山咋神、事代主を中心とした大幡主ご一統を祀る傾向の強い地域となっています。

 

仁比山神社 佐賀県神埼市神埼町的1692
祭神 大山咋命 日本武尊

創建 天平元年(聖武天皇) 729年、この地に殿字を建て都の松尾大社の御文霊を祀り国家安泰、五穀豊穣の勅願所として松尾明神を祀るを創始としする。
その後、承和11年(844年)慈覚大師唐より帰朝の際、国家安泰の祈願の為神水を得る時、土中より日吉宮の額を発見したことを朝廷に奉上す。時の仁明天皇、比叡の神威を感じ、勅命を以って江州坂本日吉宮の御分神を合祀し朝廷の祈願所とする。
この地を仁明天皇の仁と比叡山の比山とで
仁比山という。

 

 

福岡県朝倉市旧杷木町に志波豊満宮(豊玉彦を祀る)が志波地区にあり、この地名は神埼市の志波屋の移動ではないかと推察しています。
また。西隣に的(いくは)という集落があり、これも福岡県旧浮羽町、現在のうきは市「生葉いくは」への地名の移動と見ているのです。

「竹原」の地名は八代神社(妙見宮)が鎮座する熊本県八代市にもあります。
大幡主ご一統が上陸された地が「竹原ノ津」で、そこには天之御中主神を祀る竹原神社が鎮座です。「妙見神が亀蛇に乗って竹原ノ津に上陸した」と、由来記にあります。
志波屋の「竹原」も同類となり、「竹原」の地名は大幡主ご一統に因む地名となります。


鰐大明神を奉祭する氏族を「鰐氏」とします。
王仁博士が鰐大明神というわけではありません。
境内社に「王仁(わに)天満宮」という石の祠があり、これが王仁博士と関連づけされているのです。王仁博士がこの地に留まり、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となられたかは不明です。
鰐氏は志波屋地域にあって、大幡主ご一統と同類となりますが、鰐氏の始祖が誰であるか?そして、鰐氏の子孫の氏族は何氏か?
これが今回のテーマです。


■志波屋の南の影面地(かげものち)
志波屋の南には有名な吉野ケ里遺跡があります。
倭国大乱の折、長髄彦・素戔鳴尊軍とヒミコ・大国主のヤマト連合軍が激突、激しい戦闘が行われた地域です。戦闘の激しさは、吉野ヶ里柵(遺跡公園)の西の墓地群を見れば、その激しさが分かります。
吉野ヶ里柵の南の外れの田手川の高地に田手大神宮があります。女王「ヒミコ」の荒魂・撞賢木厳之御魂(つきさかきいつのみたま)を祀ります。戦乱を戦い抜く女王「ヒミコ」が吉野ヶ里を見つめた所となります。

戦後処理で、素戔鳴尊が天照大神(ヒミコ)にお詫びするために考え出されたのが、天叢雲の剣の献上でした。金山彦が天叢雲剣を打って、献上の使者となったのが、大山咋神(おおやまくい)の若き日の天葺根命(あめのふきねのみこと)でした。


田手神社(田手大神宮) 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1527
祭神・撞賢木厳之御魂(つきさかきいつのみたま)

 

さらに、田手大神宮の南西の神埼市役所の隣には櫛稲田姫を祀る櫛田神社が鎮座です。
現在の櫛田神社の祭神は、素戔嗚尊(右)、櫛名田比売命(中)、足名椎手名椎尊(左)ですが、古宮は博多の櫛田神社の大幡主を祀ります。神額は「櫛山櫛田宮 くしざんくしだぐう」、本殿の屋根の千木は外削ぎの男千木で、主祭神は男神です。
本殿の後に、「神埼発症の地、櫛山(くしざん)」の案内板があります。櫛山櫛田宮が櫛田大神(大幡主)を祀る神社創建と伝えています。
主祭神が櫛稲田姫となったのは、大幡主の神霊東遷が行われた後と想定します。


櫛田神社 佐賀県神埼市神埼町神埼419

 

よって、神埼の櫛田神社と博多の櫛田神社は繋がりがあります。
それは櫛稲田姫から見た場合の父方の系統が金山彦であり、母方の系統が大幡主の妹の埴安姫であり、博多の櫛田神社と繋がります。
志波屋の南の影面地も大幡主ご一統を祀る傾向の強い地域となっています。


■佐賀の鰐氏から奈良の和珥氏へ、さらに春日氏へ
佐賀の鰐氏(鰐族)が祀る鰐大明神がいかなる神様なのか。
大幡主ご一統の神々となりますので、考えられるのは、大幡主、彦火々出見命、事代主、安曇磯良等の海神となります。これは和珥氏にとって母系の神様となります。
和珥氏の父系は大山咋神の若き日の天葺根命(あめのふきね)であり、その父は天児屋根命(あめのこやね 海幸彦・天忍穂根命・春日大神)となります。

和珥氏の祖は「彦国葺命(ひこくにふき)」で、父は天葺根命、母は島根県の日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)の社家の鰐族小野氏の娘さんとなります。
和珥氏(和珥臣)の支族に春日氏、小野氏等がおられ、和珥春日氏は本流・春日氏に改姓されます。後に蘇我氏が勢力を伸ばすと、春日氏の政治勢力は衰退します。

 

 

春日氏(Wikipedia)
孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする和珥氏(和珥臣)の支族。
姓は臣。和珥氏一族の一部が大和国添上郡の春日に移住し、その地名を姓として名乗る。
春日姓を称し始めた時期は明らかでないが、雄略朝以降と考えられている。
なお、枕詞としての「ハルヒ(春日)のカスガ」があり、転じて「かすが」に「春日」の漢字を当てるようになったとされる。
5世紀ごろに奈良盆地内の勢力範囲の各地に分岐し分住して、6世紀頃に春日氏、小野氏、粟田氏、柿本氏、大宅氏、櫟井氏など別姓を名乗るころから和珥春日氏が和珥氏の中心となり、そのころに和珥春日氏から春日氏に改姓する。
春日氏となって後に蘇我氏が勢力を伸ばすと、春日氏は急速に政治勢力として衰退し、表面から消え、他の分岐した小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏などが、各方面で活躍する。
(記紀の記述)
崇神天皇の時代、彦国葺命(ひこくにふき)が武埴安彦の反乱軍を討伐して有功。
仲哀天皇の崩御後、武振熊命(たけふるくま)が将軍として忍熊皇子の反乱軍を討伐。

日本足彦国押人尊
孝昭天皇(天忍穂根命・春日大神)の長男(若宮)の天足彦国押人命は、孝安天皇(天押雲根命・春日若宮神)の日本足彦国押人尊で、天足彦国押人命は記述ミスとみます。
日本足彦国押人尊は大年神(海幸彦・天忍穂根命・春日大神)の御子で、御年神(若宮)は別名、天押雲根命で春日神社若宮です。

日御碕神社(ひのみさきじんじゃ) 島根県出雲市大社町日御碕455
祭神 神の宮(かむのみや 上の宮) 素戔嗚尊
   日沈宮(ひしずみのみや 下の宮) 天照大神
由緒 後方の隠ヶ丘にあった「美佐伎社 みさき」を遷したのが「上の社」。
その後、天葺根命(あめのふきねのみこと)が経島(ふみしま)に行かれた際に天照大神が降臨し、「吾はこれ日ノ神なり、此処に鎮りて天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに吾を祀れ」との神勅があり、「百枝槐社 ももええにす」として大神を祀られたという。村上天皇の天暦2年(948)前面の経島にあった「百枝槐社」を遷したものが「下の社」で、以後は両社を総称して「日御碕大神宮」と称するようになったという。
(近世は「日御崎大神宮」と称したが、明治4年(1871)「日御碕神社」と改称)
「日沈宮」の名前の由来は、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」との「勅命」を受けたことにあるという。
大晦日に行われる神剣奉天神事は、素戔鳴尊が八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得た時、小野家の祖・天葺根命を使いとして天照大神に奉献した故事に因むという。
日御碕神社の社家は小野家。

『和漢三才図会』による日御碕神社の祭神の表記
祭神は波屋志明神で神主(小野氏)の祖神であるという。
波屋志明神は佐賀県神埼の志波屋明神=鰐大明神ととれます。
上社(神の宮)は八束水臣津野命(やつかみずおみつの) 、即ち八束水神
下社(沈の官)は大日孁貴(おおひめめむち)、即ち天照大神

八束水神(やつかみずのかみ)
上社の祭神・八束水神とは、出雲国風土記に国引きの神として登場する八束水臣津野命(やつかみずおみつの)で出雲風土記にのみ登場する神。古事記にみる素盞鳴尊三世の孫・淤美豆奴神(おみづぬのかみ)ともいう。

日御碕の地は、八束水臣津野命が新羅から引き寄せた国であるという。それからすると祭神を素盞鳴尊とするには無理があります。
八束水臣津野命は大国主です。上社の本当の祭神は大国主となります。
大分県安心院町木裳(きのも)の水沼社(三女神社の根宮もとみや)のご神体の水沼井(おみず)は八束水臣津野命=大国主を祀ります。

「三柏」社紋の由来
神代の昔、素盞嗚尊出雲の国造りの事始めをへて、根の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い「吾が神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と仰せられてお投げになったところ、柏葉は風に舞い遂に美佐伎なる隠ケ丘に止った。よって、天葺根命はここを素盞嗚尊の神魂の鎮まります処として斎き祀り給うと伝う。当神社神紋の由来もここにあるという。

社家の小野家の家紋は細三柏紋です。
「細三柏紋」は猿田彦の紋章で、「つる三柏紋」はエビス神の紋章となります。

 

日御碕神社の社紋「細三柏紋」 エビス神の「つる三柏紋」

 

 

■稲羽の素兎の大国主命と鰐族と白兎族
童謡「だいこくさま」の「大黒様と白兎」は有名ですが、神話の大国主命と因幡の白兎(稲羽の素兎)の内容から採られています。
この「因幡の白兎(稲羽の素兎)」の神話の舞台は因幡(鳥取県)でなく、本当は宗像大社が鎮座する福岡県の遠賀川下流、福岡県北岸の話と言われています。
現在の宗像大社の祭神は「宗像三女神」とされますが、本来の主祭神は大国主命です。
本殿の千木は外削ぎの男千木です。男神を主祭神とします。本殿の奥地に大国主命を祀る高宮跡があります。

神話の主役は大国主命ですが、大国主命とありますから、時代背景は大国主命の時代と思われがちですが、実は、西暦663年8月白村江(錦江・クムガン熊川河口)で、新羅・唐軍と百済・倭国連合軍が激突し倭軍は大敗します。その後始末を「因幡の白兎」の神話に表現したものとみています。天武天皇に大国主命、鰐に安曇氏、白兎に宗像氏を当てはめ、安曇族と宗像族の勢力比べを神話に表現したのでした。「オキノシマ」は山陰の隠岐島でなく、宗像の沖津島となります。

この白村江海戦の作戦は、倭国艦隊が百済に救援兵を上陸させるのが目的でした。そのため、艦艇は上陸用の中型舟艇で艦隊決戦用の船ではありませんでした。
唐軍はその事を察知し、大型艦艇で待ち伏せしました。海上戦闘の勝敗は明らかに大型艦艇でない倭軍の負けに決まっています。百済寄りの安曇艦隊の被害はひどく、新羅寄りの宗像艦隊の被害は安曇艦隊ほどではありませんでした。当初から唐艦隊は新羅寄りの宗像艦隊を避け、安曇艦隊を集中攻撃したことになります。

 

大将軍大錦中安曇連比羅夫(だいきんのちゅう あづみのひらふ)は、662年船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。663年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江で破れ、8月27日戦死します。
安曇比羅夫は長野県の穂高神社の9月27日の例祭・御船祭の主役であり、安曇氏の英雄として若宮社に祀られています。

穂高神社 長野県安曇野市穂高6079
中殿:穂高見命(ほたかみ) 別名・宇都志日金拆命(うつしひかなさく)
左殿:綿津見命(わたつみ) 海神で、安曇氏の祖神
右殿:瓊々杵命(ににぎのみこと)
別宮:天照大御神(あまてらすおおみかみ)
若宮:安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふ)
若宮相殿:信濃中将(しなのちゅうじょう)
安曇氏の流れは、大幡主→豊玉彦→彦火々出見命(豊玉姫婿)→鵜草葺不合尊→安曇磯良となります。

惨敗の安曇族は志賀島に社家の安曇氏、氏子の坂本さん達を残し、長野県安曇野へ配転となりました。配転の屈辱は、現代に至って良い結果をもたらしました。現在の長野県は日本一の健康優良県となっています。長野県の高原と山々の環境が影響しています。白村江海戦のきっかけは西暦660年7月18日百済が唐と新羅によって滅ぼされたことにあります。

 

この白村江敗戦の様子が、「因幡の白兎(稲羽の素兎)」の神話に投影されました。
天武天皇に大国主命、鰐に安曇族、白兎に宗像族が当てられ、被害者は鰐の安曇族ですが、神話では白兎の宗像族が被害者となっています。
天智天皇は百済寄りで、安曇族を捨てて熊本県玉名へ、斉明天皇は四国へ逃避されました。
この天武天皇・宗像族の新羅寄りの関係は、後の壬申の乱に影響します。結果は天武天皇(大海皇子)の勝利です。

ここで、鰐族は安曇族になりますが、鰐大明神はいかなる神様なのか?
安曇氏の流れは、大幡主→豊玉彦→彦火々出見命(豊玉姫婿)→鵜草葺不合尊・事代主→安曇磯良となります。この中の誰かでしょう。
鰐の名が付く地名は全国にありますが、全国に鰐大明神を祀る神社が他にありません。

関連する神社で、香川県木田郡三木町下高岡に鰐河神社(わにかわじんじゃ)があり、祭神は豊玉姫です。由来記には珍しく、浦島太郎の由来が語られています。乙姫は豊玉姫、浦島太郎は彦火々出見命とされています。
彦火々出見命は塩土の翁(大幡主)に案内されて、メナシカゴ(目無籠)によって対馬の竜宮に着きます。実は彦火々出見命は塩土の翁(大幡主)の子です。(「No.04 3人の豊姫ともう一人の玉依姫」2017年3月1日)

 

鰐河神社(わにかわじんじゃ) 香川県木田郡三木町下高岡1843
祭神 応神天皇、豊玉姫命
由来 紀元前浦島太郎が竜宮を去った後、乙姫は太郎を慕って浦生の里に辿りついた。浦生は今の屋島西町である。姫は太郎の子を身籠っており男の子を生んだ。
この子は鵜茅草葺不合尊と呼ばれ神武天皇の父となった。(安曇磯良の父です)
乙姫は豊玉姫と呼ばれ浦島太郎は彦火火出見尊と呼ばれた。
乙姫は鵜茅草葺不合尊を生むと鰐に乗り新川をさかのぼり三木町の高岡郷に着きここで永住した。
鰐川神社は豊玉姫を祀る神社である。

岡田神社の熊手宮 福岡県北九州市八幡西区岡田町1-1
大国主命(おおくにぬしのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
県主熊鰐命(あがたぬしくまわにのみこと)

日本書紀第六の一書
日本書紀第六の一書では「事代主神化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也」とあり、事代主神が八尋鰐と化し三嶋溝樴姫あるいは玉櫛姫のもとに通い、媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれたという記述があります。玉櫛姫は活玉依姫、五十鈴媛は荒木静姫です。

和仁熊野座神社 熊本県玉名郡和水町和仁386
祭神 熊野三神


鰐(わに)「姓氏/珍姓・難姓・奇姓/地名」のブログ
丸、丸邇、和爾、和珥、とも書く。古代の超名族。五世紀から六世紀にかけての豪族。大和国添上(そえがみ)郡和邇(わに) 庄(奈良県天理市)発祥。大和朝廷に后妃を多く入れて外戚として栄える。雄略朝(ゆうりゃくちょう)に春日に本拠を移し春日氏を称する。古代史に大きな影響力を持った。
ワニとは器(うつわ)のことで、丸の文字が示すように湾曲地形か、丸(まり)、すなわち椀(まり)・器(丸型の金属製品か?) をつくった部民に由来する。

ハニ(埴)に対する語。(鰐=埴)

 

鰐河神社の祭神からして、安曇族は鰐族であることは確かですが、鰐大明神を明確にする神社は他に見かけません。
日御碕神社の社家の小野家からして、
鰐大明神は大幡主の可能性が強いのですが?決め手はありません。


もう一社の鰐神社が、「竹原」の北の「志波屋南」にあります。
神社の格は志波屋南の鰐神社の方が竹原の鰐神社より上です。
この志波屋南の鰐神社では王仁博士に関するものはありません。
志波屋南の鰐神社が鰐大明神を明かしてくれそうです。
詳しくは次回に述べます。