No.162 仮説・ミカサとイナサによる修正松野連倭王系図


宮原誠一の神社見聞牒(162)
令和2年(2020年)12月21日

 

松野連倭王系図の知識のない方は理解が難しいかもしれません。
以前、「No.127 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか」で基礎知識は説明しておりますが、再度、松野連倭王系図につて記事の中に説明を再掲しております。記載されている名前は古事記以前の名前となり、古事記で称される神々の名前はよく知られていますが、その元となる名前が記載されているのが松野連倭王系図です。
「古事記・日本書紀」は九州王朝の倭王(倭文)とその名を使うことができません。現日本史は近畿王朝が始まりで、九州王朝は存在しないことになっているからです。
例外もあり、日本書紀・景行紀に、襲国の厚鹿文(あつかや)・迮鹿文(さくかや)の二人を八十梟帥(やそたける)といい、厚鹿文の二人の娘を市布鹿文(いちふかや)・市鹿文(いちかや)と述べています。勿論、文面をその通りにとることはできません。その他に川上梟帥(取石鹿文 とろしかや)があります。
市鹿文は壱鹿王(いちか)で、ヒミコ宗女の壱与王です。ヒミコは卑弥鹿文(ひみかや)とあり、ヒミカ王(檜弥鹿王)です。

今回の記事は仮説の話です。今年のまとめです。(個人メモ帳として作成)

古事記の神代記は、列島創造のイザナギ・イザナミ、列島支配のニニギ・コノハナサクヤ、列島王権確立の崇神帝・五十鈴姫の三段構えになっています。ただし、古事記の列島王権確立の崇神帝は神武天皇の東征に置き換えられています。神武天皇はイザナギ・イザナミの時代の人です。崇神帝は近畿地方を征討され、ハツクニシラススメラミコトに即位されました。
これが古事記の神代記の大まかな流れです。

古事記を無視した実質的な列島支配の始めを、イナサ・ミカサの神に基礎を置きます。 そして、列島王権確立(近畿王権)は崇神帝・五十鈴姫皇后に始まります。 (No.96 崇神天皇を祀る那珂川の現人神社と住吉三神「二つの王朝(九州王朝・近畿王朝)の系図」参照)

前書きとして、イナサ・ミカサの神とは
 
イナサ(稲佐)=稲の霊(委奴の神 いなのかみ)=大幡主(伊勢外宮)=国常立神
 ミカサ(甕佐)=稲の霊を収める女神=ヒミコ(伊勢内宮)=天照大神
(No.133 私説・伊勢神宮 参照)
イナサ・ミカサの神はイザナギ・イザナミの神に相当します。
ヒミコ=天照大神の呼称は松野連倭王系図によれば、
ヒミカ王(文)=ミカサ王(文) となります。

文(や)を神、鹿文(かや)を王と解釈しました。
 梟帥(たける)の梟は「ふくろう」です。熊野神社の社殿の彫刻によくあります。

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■倭国に関する中国の記録

①『後漢書』倭伝 范曄(はんよう 398-445)編集
 建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬
 (訳)建武中元二年(57年)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。
 倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。

 安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見
 (訳)安帝の永初元年(107)、倭国王帥升等は生口百六十人を献じて、請見を願う。

②『翰苑』倭国の条 『後漢書』からの引用 唐の張楚金 660年編纂
 後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王帥升至
 (訳)後漢書に言うには、安帝の永初元年(107)、倭面上國王帥升が来た。
 「面上國」は「面土國」の間違いと思われます。

③ 北宋版『通典』 唐の杜佑(とゆう) 801年成立
 安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口
 (訳)安帝永初元年(107) 倭面土國王師升等が生口を献じた。

④『三国志』の「魏書」魏志倭人伝 陳寿(233~297年)
 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支
 次曰奴佳鞮。可七萬餘戸
 (訳)南の邪馬壹国に至る。女王が都する所である。水行10日、陸行1月。
 官は伊支馬(いきめ)が有る。次に弥馬升(みましょう)という。次に弥馬獲支という。
 次に奴佳鞮という。推計7万余戸である。
 其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
 (訳)その南に狗奴国があり男子を王と為し、その官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。
 女王に属せず。
 景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都
 景初二年(238)6月 倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わし、
 天子に朝獻を求める。太守の劉夏は吏將をつけて京都(魏の都)に送った。

⑤ 魏略 魚豢(ぎょかん)著 三国志より古い
 自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子
 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
 (部訳)自ら太伯(たいはく)の後と称していたとある

●要約
建武中元2年(57年)、倭奴国が朝貢。倭国の極南界にあり。光武帝以って印綬す。
安帝永初元年(107年) 倭面土國王帥升が朝貢。
景初2年(238年) 倭(ヤマト国)の女王が大夫の難升米等を遣わす。その南に狗奴国があり、その官を狗古智卑狗という。



■松野連<倭王>系図(平野雅廣氏著『倭国史談』2000年8月8日 熊本日日新聞)

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己婁伊加(きるいか) 布怒之(ふどの) 
 建武中元2年(57年)、倭奴国が朝貢。倭国の極南界にあり。光武帝以って印綬す。
 安帝永初元年(107年) 倭面土國王帥升が朝貢。
 景初2年(238年) 倭(ヤマト国)の女王が難升米等を遣わす。その南に狗奴国があり。


松野連<倭王>系図
「松野連<倭王>系図」は、幕末から明治時代にかけて、古代氏族の系譜収集に生涯を費した在野の研究家、鈴木真年の厖大な集成本中の一つである(ただし草稿写本)。
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。地名など一部は、あるいは原本のままかもしれないが、これについて、論考『埋もれた古代氏族系図』の著者、尾池誠氏は、次のように書いている。

 

私はかなり早い時期に既に名前のみの系図になっていたのではないかと推理する。『日本書記』を編纂するにあたって、編者は主な氏族譜や記録を資料として用いた。当然松野連の『倭王系図』も「景行紀」において採用された。それは「態襲」の「謀叛」として、厚鹿文・迮鹿文・市乾鹿文・市鹿文・取石鹿文などを登場させたものだった。『日本書記』完成後に松野連が見たものは、当然伝世の歴代倭王の事蹟とはおよそかけはなれたものだったであろう。
かつての倭王の事蹟が、大倭朝廷に対して、はばかられるべきものであることを考慮して、倭の五王の事蹟をはじめとする伝来のほとんどの記録の抹消を余儀なくされたことであろう。このため「牛慈」が服降したという以前は、歴代名のみという極めて特異な系図と化してしまったのである。・・・・


松野氏の居所分布についてみると、二代目の「順」は委奴に居す、とあり、肥後から筑紫へ移った分家の存在がある。
国会図書館所蔵系図には、「呉王夫差の支庶忌(字は慶父)、孝昭天皇三年(前四七三)来朝して火国菊池郡山門に住す」とある。後代の「宇也鹿文(別名、鬼毛理)」の傍注には、「火国菊池評山門里住、永初元年十月通漢」とあるので(静嘉堂文庫所蔵系図)、本家は続いて肥後にあったものと考えられる。
(中略)
私の手許にあるのは二通りの系図写本であるが、主として始めの部分に世代数の差、名前の違いが見られるゆえ、もともと別の二系統の系図があったのではないかと考えられ、それが後世のある時期において、一つのものに統合されたものではないかとも推察される。
私の考えでは、系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。

例えば、卑弥呼や壹与などの比定が果たして確実か疑わしいものがあるし、事蹟についても、第一系図の宇閇「後漢光武帝中元二年正月貢献(57)」や、玖志加也「永初元年十月貢献(107)」の後の刀良の傍注が「宣帝時遣使礼漢(地節7年、前68)」と、年代順が混乱している。

また、第二系図の迮鹿文には、「景行十二年熊襲梟帥也」(82)としている横に、「新羅阿達羅尼師今廿年遣使」(173)と並べている。これは卑弥呼の最初の遣使の年で、『三国史記』にも出ているが、成務天皇43年に当たるのである。

景行紀に出る市鹿文は、女性で、「火国造」を賜ったとあるが、傍注に、「魏正始八年立為王、景初二年貢奉、被称壱歟」とある。壱与が王となったのは13歳の時で(247)、景初二年(238)卑弥呼の朝貢と混記している。

第一系図に卑弥鹿文がいるが、これが卑弥呼ではあるまいか。「鹿文」は尊称と思われるが、これの付いた名が十数名もあるからだ。
彼女の死後、宗女壱与が王位に就いたが、第二系図の市鹿文がそれで、第二系図が宗家で肥後にあり、第一が分家で筑紫にあったものであろうか。それが交替で王位に就き、後で、一本になったものであろう。

日本武尊に殺された川上梟帥(取石鹿文)は、第一・第二系図に重複している。
また、第二系図の宇也鹿文は、火国菊池に住むとあり、「永初元年十月通漢」の注があるが、『後漢書』の同年(107)に朝貢した倭国王帥升と同一人物であろう。ただし、第一系図の玖志加也(加志古)にも同様の注があるので、やはり重複であろう。

第一の宇閇と第二の態鹿文にも同じく、「後漢光武帝の中元二年正月貢献、印綬を受けた」旨の注記があるが、志賀島の金印のことであることは明らかである。
両方の系図に、名前が異なるのに同じ事件の注が付いているということは、肥後と筑紫双方の後継者それぞれが、お互い相談する機会もなく、不確実な記憶によって注記した結果ではあるまいか。

私の手許にあるのは、系図再製以後江戸期まで、子孫代々書き継いで来た原本を基に、鈴木真年が手を入れた写本原稿(そのコピー)と考えられる。傍注にある「国・評・里」と「国・郡」制による住所の混記から察すると、原本の成立は『日本書記』に成立からあまり下らぬ時期に、傍注を伴ったものが一応出来ていたのではないだろうか。鈴木がことさら「郡」と「評」とを後年において別記することはあり得ないと思うからである。

考えるに、この系図には前記に指摘したいくつかの欠点は認められるものの、「日本書記」態襲征伐記事に見る名称や、中国史書に現われる倭の五王との名前の一致からして、無視することのできないものがある。
(以下略)

 

鈴木真年 略歴
天保2年(1831)江戸神田鎌倉河岸で出生。
幼名房太郎のち今井源太郎、また真年と改める。竹亭また不存と号す。源牟知良と改名、新田愛氏と号す。俳号・松柏。
栗原信充に入門。主に系譜学を学ぶ。紀州藩士となり、系譜編纂事業に任ず。
明治政府の弾正台勤務。司法省へ転じ、文部省図書館員を兼務。参謀本部編纂課へ転出。東京地学協会社員。山縣有朋・田中光顕邸で『古事記』講義を続け、交詢社名誉会員。
帝国大学で『大日本編年史』編纂に従事。晩年主として系譜編纂に従事し、傍ら態野神社を中心として、国学校の設立に尽力。明治27年(1894)没、64才。



■No.126 金印の委奴國王と面土國王帥升と熊本県球磨郡あさぎり町 2019年10月28日
松野連<倭王>系図の再掲の要約

金印の「委奴国 いとこく」は熊本県球磨郡免田村(現あさぎり町免田)を中心とした球磨郡一帯であり、二代目の順王は球磨郡一帯を委奴国と定めたと推考しています。
「委奴国」の九州北部への移動が「魏志倭人伝」にいう伊都国となります。
松野連<倭王>系図は、系図の作成経緯からして「曖昧」が存在することを前提とします。

松野氏の居所分布についてみると、二代目の「順」は委奴(いと)に居す、とあり、肥後から筑紫へ移った分家とされる。国会図書館所蔵系図には、「呉王夫差の支庶忌(字は慶父)、来朝して火国菊池郡山門に住す」とある、となっていて、呉王は菊池から出発したことになりますが、熊本県球磨に居住したことがすっぽり抜けています。
注記を書き入れた鈴木真年は、人吉・球磨の事を全く御存じ無かった、念頭にも無かったと考えるのです。

呉王姫氏は忌王を初代に熊本県八代に上陸し熊本県球磨郡に移って来られます。
松野連系図では、いきなり、熊本県菊池から始まっていますが、松野氏の居所を考慮しますと、先祖は菊池から始まったと推定されたのでしょう。

中国史書に関係する倭王を松野連系図から拾うと、
光武帝建武中元二年(57年)に関係する倭王は宇閇王(第一系)、熊鹿文(第二系)。
安帝永初元年(107年) に関係する倭王は玖志加也(第一系)、宇也鹿文(第二系)。

熊本県球磨郡の地名と重なる倭王は、

宇閇王(うえおう)  → あさぎり町上(うえ) → 委奴國王(いとこくおう)
玖志加也(くしかや) → あさぎり町久鹿(くしか) → 倭国王帥升(めんどこくおう)
布怒之王(ふどの)  → 球磨郡水上村江代不土野峠(ふどの)

松野連系図からみる中国史書に関係する倭王は第一系の

光武帝建武中元二年(57年)の金印の委奴國王は宇閇王(うえおう)
安帝永初元年(107年)の倭面土國王師升は玖志加也(くしかや)=玖志加王
景初2年(238年) 倭(ヤマト国)の女王は卑弥鹿文(ひみかや)=ヒミカ王

と推考しました。


羽黒神社 福岡市南区柏原372

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福岡市南区柏原に鎮座する羽黒神社の丘は、卑弥呼女王、神武天皇の姉弟の王城(おおき)と言われています。(No.136 神武天皇を祀る福岡市南区柏原の神社)


■松野連倭王系図を修正
松野連系図からみる中国史書に関係する倭王は
第一系では
光武帝建武中元二年(57年)の金印の委奴國王は宇閇王(うえおう)
安帝永初元年(107年)の倭面土國王帥升は玖志加也(くしかや)=玖志加王
とみるのです。
すると、百嶋神代系図では、帥升は阿米(あめ)王に当たり、ここが一番の難点です。神武帝とヒミコ女王は帥升の子とされるからです。
大日孁貴(ヒミコ)は帥升と大伽耶姫(高木おば)の姫君で、神武帝の姉になり、神武帝は帥升と神玉依姫(白王大幡主の姉)の皇子とみます。
ヒミコ女王は200年頃の人となっていて、帥升は100年台の人で間違いない、とみます。
よって、百嶋神代系図で神武帝とヒミコ女王を阿米王の子と変更します。


景初2年(238)6月 倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わし、天子に朝獻を求める。太守の劉夏は吏將をつけて京都(魏の都)に送った。

「松野連<倭王>系図」で熊鹿文(熊津彦)の注記では、熊津彦が「委奴國王」を僭称して、光武帝に私通漢土して印綬した、とあります。
つまり、熊津彦は委奴國王と成り済まし皇帝に朝貢して金印を受けているのです。
那(奴)国の王様・大幡主は子息・豊玉彦を使者に密かに朝貢していることになります。それが「私通漢土」という表現なのでしょうか。
そして、使者の豊玉彦は「中郎将」の称号を受け、日本では「中将」様と呼ばれています。

 

金印のこれまでのまとめ
関係ブログ、No.124 ~ No.130 に掲載しました、そのまとめです。
「倭国に金印が三個印綬されたのか?」
光武帝から印綬された球磨の宇閇王への金印は「
漢倭國王」と想定します。この金印は、ヒミコの金印「親魏倭王」と同様に、未だ見つかっていないことになります。宇閇王の金印「漢倭國王」は球磨の神殿原に収蔵されていたのかもしれません。この二個の金印は「倭國王」「倭王」への印綬と考えます。倭王の金印だからこそ秘匿されているのか?倭王は九州王朝の肩書きです。倭王であってはまずいのでしょう。
大幡主の時代、倭面土國王帥升が朝貢した時、帥升は倭王でありながら金印を印綬されていません。「倭國王」の肩書きでないからでしょうか。
現存する金印「
漢委奴國王」は豊玉彦を使者に「委奴國王」を称して、大幡主が印綬された金印とみます。大幡主は倭王ではありません、「委奴國王」は倭王ではありません、にもかかわらず金印印綬です、不思議です。この金印の件は中国史書に見られません、史書の欠落か(考えられません)、それとも、大幡主の工房で作られものか、それとも他の要因によるものか、真実はわかりません。倭国に金印が三個印綬されたのか?金印は謎だらけです。

 

 

結果、百嶋神代系図での帥升は阿米(あめ)王とし、神武帝とヒミコ女王を阿米王の子とします。
上記を参考にして、松野連系図を修正してみました。

 


修正・松野連<倭王>系図

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変更のポイント
系図の流れが途中で(第一系図)と(第二系図)が交差ミスしています。修正します。
第一列の(第一系図)と(第二系図)を入れ替えます。そして、重複している第二列の宇閇王を削除します。すると、第一列の(第一系図)と(第二系図)の流れが第二列・第三列に繋がります。
神武天皇、ヒミコ王の父を阿米(あめ)王とします。
熊鹿文(くまかや)を神武天皇、卑弥鹿文(ひみかや)を卑弥呼(檜弥鹿 ヒミカ)とします。
縢(とう)を縢大臣(とうのおとど)で開化天皇です。
珍は大彦で開化天皇の異母兄とします。
熊津彦は大幡主、難升米は豊玉彦で大幡主の王子となります。


阿米王→神武天皇、ヒミコ王の父
熊鹿文=神武天皇
卑弥鹿文=卑弥呼 神武天皇の異母姉となります。
厚鹿文=懿徳天皇
宇也鹿文=孝霊天皇 市鹿文はヒミコ宗女イヨで、孝霊天皇の皇后として独立させます。
垂子=孝元天皇
縢(とう)=開化天皇 縢大臣(とうのおとど)は開化天皇です。
讃=仁徳天皇 仁徳天皇は開化天皇の長子となります。
珍=大彦 開化天皇の異母兄となります。
熊津彦=大幡主
難升米=豊玉彦 大幡主の王子になります。

磐井の君は「哲」または「満」と大彦の子孫となります。
第二系図に熊津彦=大幡主、難升米=豊玉彦とすることにより
白王家大幡主(第二系図)と呉王姫氏(第一系図)は同系で皇統は一つに繋がります。



■二つの皇統
百嶋神代系図では二つの古代皇統があり、独立した系統になっています。
二つの皇統とは、呉王姫氏系と白王家・阿蘇家系です。

 

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呉王姫氏系は神武天皇に始まり、武烈天皇で終わります。
もう一つの系統は神武天皇の姉・天照大神系統です。天津神系統と云われるものです。
大幡主と天照大神(ヒミコ)の王子が豊玉彦で、天忍穂耳命は天照大神の養子となります。
また、大山咋神は鴨玉依姫の入り婿であり、生まれる子は大幡主・豊玉彦家系となります。
よって、その皇子の崇神帝の宮は
磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや)で、大幡主の諱・磯城津彦を引き継いでおられます。
(白王家系→阿蘇家系→継体天皇→  阿蘇系は男系、白王系は女系)

白王家大幡主が呉王姫氏に繋がれば、皇統は一つに繋がります。
現在の皇統は第二系図の白王家・阿蘇家系となります。
松野連倭王系図では、白王家大幡主(第二系図)と呉王姫氏(第一系図)は同系で皇統は一つで、松野連倭王系図は概略では実態を表しているようです。


      二つの王朝(九州王朝・近畿王朝)の神代系図

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