No.160 日田の大波羅(大原)八幡宮と神功皇后


宮原誠一の神社見聞牒(160)
令和2年(2020年)11月29日


「No.157 大波羅(大原)八幡宮から見る三人の八幡様」の補足③ です。

680年鞍形尾神社創建、704年鞍形尾から求来里村(現 神来町かみくまち)の杉原へ遷座、871年初代日田郡司大藏永弘によって杉原元宮が北側の求来里(くくり 現神来町)に遷座し大波羅(大原)八幡宮が創立、1624年(寛永元年)5月、日田藩主(日隈の永山城主)の石川忠総(いしかわ ただふさ)が神来町から現在の日田市田島大原に遷座し、応神天皇、神功皇后、比売大神の神様を祀ります。

■大原八幡宮略記まとめ
白鳳九年(680)、日田市天瀬町馬原の岩松ヶ峯に八幡大神が降臨、鞍形尾神社創立
慶雲元年(704)、鞍形尾の八幡大神、求来里村の杉原元宮へ遷座
仁寿元年(851)、大蔵永弘が初代日田郡司職に任ぜられる
貞觀13年(871)、大蔵永弘が社殿を新設し、杉原元宮から神来町の元大波羅神社に遷座
延喜15年(915)、比賣大神、息長足姫命を勧請し、大波羅八幡宮(元大波羅)と称す
建久4年(1193)、大友能直が大波羅八幡宮の拝礼形態を鶴岡八幡宮の拝礼形態に改める
文正元年(1466)、苅田町大原八幡神社、八幡神を日田の大波羅八幡宮から勧請
明治6年(1873)、「元大波羅神社」を「元大原神社」と号す
(寛永元年(1624)以前の大原八幡神は大幡主と一貫しています)

 

石川忠総(Wikipedia参考)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
大久保忠隣の次男。外祖父・石川家成の家を継ぎ、家成流石川家3代として美濃大垣藩石川家第3代藩主、豊後日田藩主、下総佐倉藩主、近江膳所藩主を務めた。

日田藩概要(Wikipedia参考)
1594年(文禄3年)に宮城豊盛が、日田・玖珠郡の代官として日田郡に赴任して同郡竹田村隈に日隈城を築き居城する。
1596年(慶長元年)に播磨国明石から毛利高政が2万石で移封し、宮城家に代わって日隈城に居城した。
1600年の関ヶ原の戦いのち毛利家が豊後国佐伯に移封となり、1601年に小川光氏が日田に入る。
1616年(元和2年)、譜代大名の石川忠総が美濃国大垣から6万石(日田郡、玖珠郡、速見郡内)で日田郡に封じられ、丸山城(永山城)に移る。1633年(寛永10年)に下総国佐倉に転封し、領地は小笠原家2藩(中津藩・杵築藩)の預り地となる。
1639年(寛永16年)日田郡領は幕府直轄領として管理される。
1682年(天和2年)、播磨国姫路から松平直矩(結城松平家)が7万石で入封したが、1686年(貞享3年)に出羽国山形へと転封となった。
これ以降、日田郡は幕府直轄領として大名が所領することはなかった。

 

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■元大波羅(大原)神社 大分県日田市神来町423(大字求来里字元宮)
祭神 八幡大神、比賣大神、息長帶比賣命(神功皇后)

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仁寿元年(851)、大蔵(鬼蔵大夫)永弘(おほくら ながひろ)が初代日田郡司職に任ぜられ、貞觀13年(871)、社殿を新設し、杉原元宮の鎮座地より求来里(神来町)に遷座。この頃、宇佐神宮の橋本公則(はしもと きみのり)氏を社司(宮司)として迎える。
延喜15年(915)、左殿に比賣大神、右殿に息長足姫命を勧請し、大波羅八幡宮(元大波羅神社)と称号す。この時、八幡大神は勧請されていません。元のままです。
建久4年(1193)、大友能直(おほとも よしなほ 鎮西奉行兼豊前・豊後守護)が(元)大波羅八幡宮を「豊西総社(豊後国の西の総本社)」と定め、宇佐八幡の拝礼形態から相模国の鶴岡八幡宮の拝礼形態に改めた。ということは、大原八幡神は石清水八幡・大幡主となります。
寛永元年(1624)、日田藩主石川忠総が神来町の元大波羅神社を現在地の田島に遷座。
明治6年(1873)に『元大原神社』と号す。

 

※神来は「かみく」と呼んでいますが、「おとど」と呼ぶ地域があります。
 「おとど 大臣」は縢大臣(とうのおとど)で大幡主です。

 

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■大波羅八幡宮(大原八幡宮) 大分県日田市田島二丁目184(大字田島字大原184番地)
祭神 誉田別命(応神天皇)、息長足比売命(神功皇后)、比売大神

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         表参道の社頭、鳥居の扁額は「おおはらのみやしろ」

 

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               池と石の太鼓橋、第二鳥居

 

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         南参道の鳥居、扁額は「八幡宮」第四鳥居
         社地の南に古代道があり、ここが旧来の参道か?

 

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    第五鳥居脇の両燈籠は五三桐紋入りの六角燈籠です、扁額は「大波羅宮」

 

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      六角に五三桐紋入りの燈籠、筒は竹節があり、正八幡大幡主の燈籠

 

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         第五鳥居「大波羅宮」先は現在駐車場

 

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            参道は直に楼門に繋がっていません

 

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          社殿は八幡造りですが、拝殿の向拝は高良大社造り

 

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               扁額の型はクマソ関係です

 

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              楼門に入る前の(左横)神社案内板

 

大原八幡宮略記
本宮の起源は、天武天皇の9年(680)に靱負郷岩松ケ峯(天瀬町鞍形尾)に示現された八幡神を祀ったのが起源と伝えられている。
慶雲元年(704)、元宮原(神来町)に遷座し、貞観13年(871)初代日田郡司の大蔵永弘が社殿を造営し祭祀した。
寛永元年(1624)5月、日田永山城主石川主殿忠総が現在の田島大原に遷座し、応神天皇、神功皇后、比売大神を祀っている。
(以下略)


鞍形尾神社、杉原元宮神社、元大原神社の祭神は「八幡大神」と表記されていますが、八幡大神は大幡主です。
寛永元年(1624)の遷座の時、日田永山城主石川忠総が宇佐八幡宮を勧請し、大原八幡神社の祭神表記は誉田別命(応神天皇)、神功皇后、比売大神と宇佐八幡宮の祭神になっていますが、延喜15年(915)、比賣大神(左殿)と息長足姫命(右殿)は求来里の大波羅八幡宮時代に勧請されています。
よって、八幡大神が大幡主から誉田別命(応神天皇)に入れ替わったことになります。

しかし、石川家は蘇我氏の流れ、石川石足(667-729)の父は蘇我安麻呂で、686年、石川朝臣に改賜(元は蘇我氏)します。蘇我氏の太祖は正八幡大幡主で、馬子、蝦夷、入鹿の時代には、特に入鹿は天皇家と同様の振る舞いを行い、ひんしゅくを買いました。この時の蘇我氏を林天皇(林臣鞍作)と言います。正八幡大幡主は「記紀」では第三代安寧天皇(あんねい)であり、師木津日子玉手見命(古事記 しきつひこたまてみ)、磯城津彦玉手看尊(日本書紀)ですので、蘇我入鹿が天皇家と同様の振る舞いをしても当然だったかもしれません。
※玉手見命は大幡主が彦穂々出見命に玉手箱を与えたことに因みます。

八幡大神が大幡主から誉田別命(応神天皇)に
入れ替わっていない形跡が見られます。石川氏が自分のご先祖を誉田別命に入れ替えるはずがありません。何かの政治絡みで、表向きの表記にそうせざるを得なかったのでしょう

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          社殿は八幡造り、拝殿の向拝は高良大社造り

 

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                西側からの側面

 

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                東側からの側面

 

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拝殿の向拝の屋根には、五七桐紋、十六菊紋、左三巴紋が打ってあります。
棟には五七桐紋、左三巴紋、剣紋が打ってあります。
 五七桐紋、十六菊紋は天照女神
 左三巴紋は八幡大神
 剣州浜紋は大蔵氏の家紋です。

穂波の大分八幡宮には、神功皇后の神紋はありません。神功皇后が仲哀帝の妃であったのは一年足らずで、仲哀帝戦死後は開花天皇の皇后となられるのです。
玉垂神社では、五七桐紋は天照女神の、五三桐紋は大幡主の神紋となっています。

 

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■本殿後ろの境内社群

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       本殿の後ろには関連する重要な境内社が並んでいます

 

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      手前は大山祇神社、その手前に稲荷神社が離れてあります

 

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右側から紹介です

 

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大山祇神社 正八幡大幡主と二神併せて田の神様・タノカンサーです。

 

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醫祖神社 祭神・大国主命、少名彦命(すくなひこ)
少名彦は少彦名(すくなひこな)と表記されることが多いのですが、少名彦(須玖那彦)が正式です。少名彦は酒造りの神様、医薬の神様です。

 

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住吉神社 住吉三神を祀ります(開花天皇、崇神天皇、安曇磯良)
ここでは開花天皇が主神でしょう
大波羅八幡宮以前の高良玉垂神社の名残でしょう

 

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日田神社 日田鬼蔵太夫永季(大蔵永季 おおくらながすえ)を祀ります
大蔵永季は日田氏初代で、家紋は剣州浜紋です

 

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松尾神社 大山咋神を祀ります、大山咋神は少名彦と義兄弟で、少名彦に酒造法を教わり、酒造の神様となられます


境内社は正八幡大幡主に関係した神社となります。
この境内社群の存在でも、大波羅八幡宮がいかなる神社か察しがつきます。

大波羅八幡宮の鎮座地が「田島 たじま」です。
「田島」の地に鎮座する有名な神社が旧玄海町田島の宗像大社、佐賀県呼子町加部島の田島神社です。加部島はかつて「姫島」、「姫神島」と呼ばれていました。
現在の祭神は宗像三女神ですが、主祭神は市杵島姫です。その市杵島姫を祀る神社が日田の田島に見当たりません。大波羅八幡宮の境内社にもありません。
「田島」とは田心姫の「田」と市杵島姫の「島」からとった地名か?

日田盆地の中央には「玉川」の地名があります。玉川は豊玉彦・豊玉姫親子に因む地名。その豊玉彦・豊玉姫の痕跡が日田盆地からほぼ完全に消されています。そして、玉川には玉垂神社が鎮座です。
筑後の玉垂神社の祭神は武内宿禰ではありません。本来の祭神は玉垂命(天照女神)ですが、藩主有馬公により江戸時代初期、および明治政府によって強制的に祭神名を変更させられました。その影響が各地の玉垂神社に及んでいます。


■上宮の宮地嶽神社
石川忠総が神来町の大原八幡神社を田島大原に遷座した時、大原八幡神社が創立されたのではありません。
田島の大原八幡神社以前の古宮は大幡主・天照女神を祀る高良玉垂神社です。
古宮の大幡主・天照女神は追い出され、上宮の宮地嶽神社に移り、大波羅八幡神社が創立されたと推定しています。現在の社殿は八幡造りですが、拝殿の向拝は高良大社造りで、高良玉垂神社の名残があります。
また、南参道は現在の楼門、社殿に直結していません。古宮の高良玉垂神社が現在の社殿の西側にあったとすれば、南参道は古宮に直結します。

 

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        大波羅八幡宮の東口に宮地嶽神社の第一鳥居です
        その右横に真言宗大原山神宮寺があります

 

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               宮地嶽神社の第二鳥居

 

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             宮地嶽神社の第三、第四鳥居

 

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         手入れが行き届いた静かな佇(たたず)まいです

 

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境内は手入れが行き届いた静かな佇(たたず)まいです。
祠もまとまって、すっきりしています。日田で、私が好きな所です。

宮地嶽神社も高良玉垂神社も大幡主・天照女神を祀りますが、宮地嶽神社は開花天皇を隠して神功皇后が表向きです。高良玉垂神社は神功皇后を隠して開花天皇が表向きです。社紋は、宮地嶽神社が九州王朝の三階松紋、高良玉垂神社は五七桐紋と五三桐紋です。
祠の向拝の上には宮地嶽神社の三階松紋でなく、大幡主の五三桐紋が打ってあります。この日まで気づきませんでした。これは、宮地嶽神社としては初見です。

まず、ご挨拶です。
「遠路、久方に、会いに参りました、宮原○○です」
「○○様・・・・・・」
「これから、求来里の元大原神社、岩松ヶ峯の鞍形尾神社に参ります」
「無事着きますように」とお願いしました。

お願いして、退出しようと向きを変えたら、右腕をつかまれた感じで、右ひじを祠の一所に付いたまま、しばらく動けませんでした。
お別れの挨拶をして、境内を出ました。

 

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              宇佐神宮HPのトップ写真

 

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              穂波の大分八幡宮HPの写真

 

穂波の大分八幡宮 福岡県飯塚市大分1272
祭神 応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命
由緒 神亀3年(726)の創建と伝えられる大分八幡宮は、神功皇后の所縁の地で、筥崎宮の元宮とされています。
祭神である応神天皇(八幡大神)の神霊は、欽明天皇32年(571)に豊前国宇佐郡に所在する馬城嶽(御許山)に出現したと伝えられ、神亀2年(725)に現在の宇佐神宮の鎮座地である小倉山社(亀山)へ遷座します。その翌年の神亀3年(726)、御神託により豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、大分の由緒ある当地に鎮西第一といわれる壮麗な社殿、穂波宮(大分宮)が造営されたのが大分八幡宮の創始とされています。
宇佐宮御託宣集の延喜21年(802)6月1日の件にて『我宇佐宮より穂波の大分宮は本宮也』と記され、箱崎の松原への遷座の神託があり、3年後の延長元年(923)に遷御したことから筥崎宮の元宮とされています。


宇佐神宮HPのトップ写真をみていただくと、左から一之殿(八幡大神)、二之殿(比咩大神)、三之殿(神功皇后)となります。

 712年 
辛島乙目が鷹居社を造営し八幡大神(正八幡大幡主)を祀る
 725年 宇佐宮亀山に一之殿(八幡大神・大幡主)が造営
 729年 宇佐宮亀山に二之殿(比咩大神・アカル姫)が造営
 765年 妻垣神社、
石川豊成が建立 古宮は足一騰宮
 823年 宇佐宮亀山に三之殿(神功皇后)が造営

比咩大神が十六菊紋
八幡大神が流れ三巴紋で妻垣神社の社紋
天照女神が五七桐紋
と、それぞれの祭神の神紋が載せてあります。

八幡大神の一之殿は亀山の墳墓の西側に造営されました。すぐに、比咩大神の二之殿が一之殿の右の墳墓の上に造営されました。約100年後に神功皇后の三之殿が造営されました。
この時の八幡大神は正八幡大幡主、比咩大神は天照女神です。
神功皇后は穂波の大分八幡宮から勧請されました。この時、応神天皇(八幡大神)も一緒に勧請されたのでしょうか?穂波の大分宮が造営されたのは神亀3年(726)で、宇佐宮一之殿(八幡大神)の造営の後(725)です。
穂波の大分宮の由緒では、神亀2年(725)に宇佐宮の一之殿に応神天皇(八幡大神)が祀られたと表記されています。
宇佐宮の一之殿の八幡大神が応神天皇ならば、同じ八幡大神を穂波の大分宮から応神天皇を勧請する必要はありません。由緒のミスでしょうか。

この時期の本当の祭神は、
穂波の大分宮の八幡大神は応神天皇、
宇佐の一之殿の八幡大神は正八幡大幡主、
となります。

宇佐宮の一之殿の八幡大神は正八幡大幡主 二重亀甲に五三桐紋
宇佐宮の二之殿の比咩大神はアカル姫   流れ三巴紋(妻垣神社の社紋)
宇佐宮の三之殿は天照女神で穂波の大分宮から勧請 五七桐紋
となります。

現在の宇佐宮の祭神の表記は
一之殿の八幡大神は応神天皇
二之殿の比咩大神は宗像三女神
三之殿は神功皇后
となっています。

それにしても、宇佐宮の三之殿の神功皇后の神紋が五七桐紋とは、驚きです。
仮に神功皇后の神紋が五三桐紋だったとしても、驚きです。
桐紋からすると、穂波の大分宮の神功皇后は開花天皇の皇后となります。仲哀帝の皇后とはなりません。桐紋の神功皇后の勧請は筑後地方の神社からとなります。
『我宇佐宮より穂波の大分宮は本宮也』はどうなるのでしょう


■真言宗大原山神宮寺
上宮の宮地嶽神社の下に真言宗大原山神宮寺があります

 

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             橘紋       財津家剣州浜紋    曽根家蔦紋

神宮寺が近くにあるということは、大波羅八幡宮の以前の古宮は相当の神社となります。
南参道は現在の楼門、社殿に直結していません。古宮の高良玉垂神社が現在の社殿の西側にあったとすれば、南参道は古宮に直結します。
やはり、大波羅八幡宮の以前の古宮は高良玉垂神社と推定します。

その大原山神宮寺の墓地に財津家の墓が家紋付きでありました。
財津家は大蔵氏流れです。その家紋が大波羅八幡宮の紋の一つである剣州浜紋と同じなのです。大蔵日田氏が剣州浜紋ですから当然かもしれません。
すると、大蔵氏は太祖が正八幡大幡主となります。
これからも、大原八幡神は豊国主の豊玉彦となります。


鞍形尾神社、求来里村の杉原元宮、元大波羅神社の八幡大神は豊国主の大幡主と一貫しています。大原八幡神社の八幡大神も豊国主の大幡主となります。

一体、神社の祭神は本当の所、どうなっているのでしよう?
大原八幡神社の祭神の解析は実に難しい作業でした。真実であることを願っています。