宮原誠一の神社見聞牒(158)
令和2年(2020年)11月11日
No.158 大波羅(大原)八幡宮の元元宮・鞍形尾神社
「No.157 大波羅(大原)八幡宮から見る三人の八幡様」の補足資料① です。
大分県日田市田島に鎮座する大波羅八幡宮(大原八幡宮)は現在の田島に鎮座するまで三回の遷座を行っています。
場所的には二回の遷座です。杉原元宮神社と元大波羅(大原)神社は隣接の状態にあります。
■大波羅(大原)八幡宮の変遷
1.神降の岩松ヶ峯 680年、日田市天瀬町馬原の鞍形尾に霊現
2.鞍形尾神社 日田市天瀬町馬原500に社殿建立
3.杉原元宮神社 704年、鞍形尾から求来里村の杉原に遷座
4.元大波羅(大原)神社 871年、初代日田郡司大藏永弘が社殿を新設し、
杉原元宮を北側の求来里(神来町)に遷座
5.大波羅(大原)神社 1624年、日田永山城主石川忠総が神来町から現在の
田島大原へ遷座。明治6年(1873)「大波羅神社」を「大原神社」と号す
大原八幡神が霊現した大波羅(大原)八幡宮の元元宮、天瀬町岩松ヶ峯(馬原 まばる)の鞍形尾神社の補足資料となります。
■鞍形尾神社の概要
鞍形尾神社 大分県日田市天瀬町馬原500(字鞍形尾 くらがとう)
祭神 八幡大神
由緒(旧案内板)
豊西記によれば元慶元年9月朔日(877)、此の地(岩松ヶ峯)に八幡御示現せり
神白馬によって昇天し玉鞍松下にあり、依って岩松改め鞍形尾と号せりと
又造領記には弘仁2年(811)、郡司鬼蔵大夫(大蔵永弘)、宇佐八幡を請して来り、岩松が峯に勧請し奉ると記されている。
祭典 2月19日、20日にして古来村民の信仰厚し
昭和41年4月1日 天瀬町教育委員会
造領記は当てになりませんが、豊西記(江戸時代)によれば、「八幡神は白馬に乗り岩松ヶ峯に霊現され昇天された。八幡神が昇天したあと、松の木の下に玉の鞍が残されていたことから、岩松を改めて鞍形尾(くらがとう)と呼んだ。」とあります。
『豊後國志』に「白鳳9年(680)秋、八幡大神の降格の瑞(きざし)あり。始め岩松峯に祭り、後に杉原に移す」とあります。
白鳳9年(680)、日田郡(ひたのこおり) 靭負郷(ゆきいのさと)馬原村(まばるむら)の岩松ヶ峯に八幡大神が顕現し、岩松ヶ峯に鞍形尾(くらがとう)神社が創祀されました。
■車で岩松ヶ峯の鞍形尾神社まで行けます
国道210号線から金場の市道に入り、岩松ヶ峯の鞍形尾神社まで車で一気に登ります。
市道から林道への入り口、小型車(5ナンバー)の短い車体であれば通行可です
途中の離合帯は3箇所で、離合帯では警笛を鳴らして下山車を待ちます
(注)神社下の林道が変っています、高圧送電線も東の本宮の左に移動しています
■鞍形尾神社の行宮跡
鞍形尾神社に着く前に「神降」扁額の鳥居があります。
さらに、鳥居の奥へ進むと「行宮跡」の石碑があります。さらに300m程進むと鞍形尾神社に着きます。
奥のヘアピンカーブを右に曲がり上るとすぐに行宮跡の鳥居前に出ます
扁額に「神降」とあります
行宮跡
行宮跡の石碑
行宮跡は岩松ヶ峯の頂ではありません。東約300mの鞍形尾神社の本殿がある所が「峯の頂」となります。行宮跡が霊現の地と見ています(未確認)。
北東方向の同天瀬町馬原(本村)の大分自動車道の下には大幡主を祀る高住神社があり、磐座 神社の形式で祀られています。
さらに東の同天瀬町馬原(高塚)には有名な高塚愛宕地蔵尊(大幡主)があります。
その北には月出山岳(かんとうだけ)があり、その麓に月出山(かんとう)集落があ
ります。月出山とは不思議な地名で意味深です。
天瀬(あまがせ)という地名も意味深ですが、玖珠川の「天の瀬」という意味でしょうか。
天瀬町馬原(まばる)の山々は霊験の地です、不思議な感覚を覚えます。
「月出」と「馬原」は大山祗・大幡主に関係する名称ですが、牛馬の守護神は筑後川(千歳川、玖珠川)の水神・荒五郎の大幡主です。
馬原(まばる)は大山祗、大幡主に関係する神聖な地となるのでしょう。
大原八幡神(祭神・八幡大神)は石清水八幡・大幡主となります。
■高塚愛宕地蔵尊の由来(高塚愛宕地蔵尊HP)
大分県日田市天瀬町馬原(高塚)3740
https://takatukasan.com/takatsuka/
今から千二百年余年前の天平12年(740)、行基という偉い僧が聖武天皇の命を承けて、筑紫の国を巡られました。
帰路、豊後の国日田郡を経て求来里村杉原に至り、緑深い東西の地形を眺めたとき、行基は身の引きしまるような霊気と、言いようのない有り難さに心を打たれ『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない』と予言されたのでした。
行基はそれから岩松ヶ鼻(現在の天瀬町馬原の鞍形尾)を通って、この高塚の里に着かれました。
山中で一心に地蔵菩薩を念じていた或る晩のこと、東南方にそびえる大きな公孫樹(いちょう)の中辺に、突然、金色の光を放つ三個の玉を見たのです。行基はおどろき、我が祈りが地蔵菩薩に届いたおしるしであろうと、なお一心に祈り続けました。
夜が白みかけても玉の光はおとろえません。行基は従者をしりぞけ、ひとり、いちょうの大木に登ってみると、三個のうち、ひときわ光る一個は乳房の形をした宝珠でした。
宝珠を捧げて地に降り立った行基は早速、みずからのノミをにぎって一体の地蔵菩薩を彫り、里人たちに『まことの心をもって宝珠、地蔵菩薩に祈願するなら広く万物は産み栄え、一切のご利益を与えられよう』と説かれたのでした。
その後、いちょうの大木は『乳銀杏』(ちちいちょう)と呼ばれ、永い歴史の間、子宝を恵む霊樹、母乳をさずける霊樹、子供のすこやかな成長をかなえてくださる霊樹として、人々の崇敬を集めてきました。
行基は天平21年(749)2月2日、82才で亡くなりました。その後、天暦6年(952)2月、行基の御遺徳を偲んだ里人たちが、大いちょうのかたわらに小さな御堂を建立し、行基のきざんだ地蔵菩薩を祀ったのが『高塚愛宕地蔵尊』の始まりです。
※行基が求来里村(くくりむら)杉原に至った時、鞍形尾神社は求来里村杉原に遷座しています。
愛宕勝軍地蔵
勝軍地蔵は別名、天村雲命地蔵尊と呼ばれ、大分県天瀬の高塚地蔵尊でよく知られています。勝軍地蔵の制作者は聖徳太子であり、大幡主の別称の一つです。なお、本地蔵は大分県日出町の愛宕神社にあり、この分霊が高塚地蔵尊となります。
私の近くにも天村雲命地蔵尊が祀られています
No.60 水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」 2018年5月13日
益影井がある大城小学校の南に筒井天満宮が鎮座されています。
境内の観音堂は豊姫神社の本寺堂であり、「天眞名井」を「潟の渟名井」として、ここにおさめられたという天村雲命(あめのむらくものみこと)の地蔵尊が祀られています。
豊姫縁起では、天孫降臨の時、従った神様に「熊野忍蹈命 くまのおしほみのみこと」がおられ、別名、熊野久須毘命(くすびのみこと)という、大幡主です。
行宮跡から東へ鞍形尾神社に向かいます、300m程進むと神社に着きます
林道から玖珠川対岸(左岸)を望む女子畑の山並み
■鞍形尾神社
行宮跡から東へ300m程進むと鞍形尾神社に着きます。5台程の駐車場有り。
社頭、駐車場横の大形常夜燈、その先に石段、中央の木陰に鳥居が見えます
鞍形尾神社 大分県日田市天瀬町馬原500(字鞍形尾 くらがとう)
祭神 八幡大神
鳥居の扁額は「八幡宮」
拝殿、茅葺屋根に板金が被せてあります
本殿、茅葺屋根に板金が被せてあります
「波」の彫刻
本殿向拝の「鯉の滝登り・天照女神」彫刻
本殿の男千木と十六菊紋
拝殿内の神輿
本殿左には大幡主ゆかりの天満宮が鎮座です
参考までに、天瀬町誌によると、鞍形尾神社の祭神は誉田別天皇、速須佐之男神、宇迦之御魂神、猿田日古神、大宮能賣神、菅原神となっています。
社殿を後にします
■杉原元宮神社への遷座
慶雲元年(704)、鞍形尾に鎮座する八幡大神は、求来里村杉原の杉の梢(こずえ 木の先端)に降り、村の乙女に神懸かりして、「永く豊前の地を守らむ」と神託の後、杉の元に白幣が出現したと伝えられる。故に、その所に神祠を建て、八幡大神は鞍形尾より遷座したと伝わる。
「神託の後、杉の元に白幣が出現したと伝えられる」とありますが、実際には顕現の印として白幣を立てたのでしょう。
行基が740年「求来里村杉原」に至った時、緑深い東西の地形を眺め、身の引きしまる霊気を感じ、言いようのない有り難さに心を打たれ『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない』と言っています。
求来里村、馬原村は霊地なのでしょう。