宮原誠一の神社見聞牒(157)
令和2年(2020年)11月01日

 

No.157 大波羅(大原)八幡宮から見る三人の八幡様

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八幡神と言えば多くの方々は、その神様は誉田別命(応神天皇)であると勘違いされています。多くの八幡神社の祭神は「八幡神」ですが、その八幡神は正八幡大幡主です。
誉田別命を祀る八幡神社といえども、その多くの八幡神は正八幡大幡主です。

■三人の八幡様
誉田別命を祀る八幡神社の本宮は、福岡県飯塚市大分(だいぶ 旧穂浪郡)の大分八幡宮となります。由緒に「宇佐宮託宣集に我宇佐宮より穂浪郡大分宮は我本宮なりとあり。筥崎宮の元宮として由緒正しく、聖武天皇神亀3年(726)御神託によって創建せられた」とあります。
現在の宇佐神宮の祭神・(贈)応神天皇と神功皇后は大分八幡宮から勧請されました。

大分八幡宮 福岡県飯塚市大分1272
祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫命

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現在の宇佐神宮の祭神は第一宮・応神帝、第二宮・宗像三女神、第三宮・神功皇后となっていて、(贈)応神天皇が主祭神です。中央殿の比咩大神(宗像三女神)は主祭神ではないのです。中央殿の祭神・比咩大神は、アカル姫、鴨玉依姫、宗像三女神と時代的に変遷しています。
左右殿の(贈)応神天皇と神功皇后は大分八幡宮から勧請されました。

次に余り目立たない八幡神が京都男山の石清水八幡宮(いわしみずはちまん)の八幡神です。鎌倉の鶴岡八幡宮は石清水八幡宮からの勧請で、宇佐神宮からの勧請ではありません。石清水八幡宮の八幡神は「はちまんのかみ」でなく、「やわたのかみ」です。
岩清水八幡宮は紀氏出身の僧・行教が「御所に近いところに鎮座したい」と宇佐八幡様がおっしゃったといって、ささっさと宇佐八幡を現在の岩清水八幡(男山)に貞観元年(859)勧請し開基しました。「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが起源です。
明治の初めに「男山八幡宮」と改称されているが、「石清水」の社号は創建以来の由緒深い社号であるため、大正7年には再び「石清水八幡宮」と改称され、現在に至っています。その勧請先は宇佐神宮とされますが、開基が今一つはっきりしません。
公式の石清水八幡宮の八幡神は現在の宇佐神宮の祭神と同じの応神天皇(中)、比咩大神(西)、神功皇后(東)となっています。

     石清水八幡宮 京都府八幡市八幡高坊30
     祭神 応神天皇、比咩大神、神功皇后

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                石清水八幡宮の神紋

しかし、八幡神は宇佐神宮の応神天皇でなく、本当は豊国主の大幡主となっています。
行教和尚の紋が橘であり、創建時の六宇宝殿を建立した木工寮は橘良基で橘族です。
石清水八幡宮の基底は橘族であり、その紋章は「橘」紋と「流れ三巴」紋です。
もともと、京都男山の伏見地方は大幡主の領域で、神霊を勧請するとなれば、この地域の神社から勧請できます。宇佐神宮からの勧請は見せかけです。

豊国主の大幡主が八幡神を示す神社が私の近くの鳥飼の八幡神社と福岡市の鳥飼八幡宮にあります。福岡県三井郡大刀洗町大字三川の鳥飼には、現在、印鑰神社が鎮座ですが、その以前は鳥飼八幡神社でした。
赤司八幡宮の縁起書『止誉比咩神社本跡縁記』に「身狭村主青(むさのすぐりあお)は呉(宋)の献じた二匹の鵝(がちょう)をもって御井に到る。是の鵝は水間君の従者・嶺縣主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ひでまろ)の犬に噛まれて死ぬ。」とあります。
鵝が犬に食べられた所に八幡神社が祀られ、後に、その宮は筑前国の早良郡に遷座し、今の福岡市中央区鳥飼三丁目3−5に鎮座する埴安神社の境内社・右殿八幡神社です。
この八幡神社は大幡主を祭神とする古八幡宮であり、福岡市中央区今川二丁目1-17に鎮座する鳥飼八幡宮の元宮となります。

     埴安神社 福岡県福岡市中央区鳥飼三丁目3−5
     祭神 埴安神(大幡主・埴安姫)
     [左殿]秋葉神社(右 大幡主)[右殿]鳥飼八幡宮元宮(左 大幡主)

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八幡神をまとめると次のようになります。

  1.正八幡・大幡主
  2.石清水八幡・大幡主、大波羅八幡・大幡主
  3.飯塚市大分の大分八幡宮の八幡神・誉田別命(贈応神天皇)

 

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宇佐神宮の変遷
宇佐神宮の変遷は四期に分けられます。
(一期) 宇佐神宮亀山の本当の主祭神(中央)の比咩大神はアカル姫です。
(二期) 八幡神は(贈)応神天皇(誉田別命)、比咩大神は鴨玉依姫です。
(三期) 筑前大分宮の(贈)応神天皇・神功皇后を勧請。
(四期) 比咩大神は宗像三女神です。

現財の宇佐神宮は第一宮は応神帝、第二宮は三女神、第三宮は神功皇后となっていて、(贈)応神天皇が偉いようになっていますが、宗像三女神のほうが格上です。中央殿の祭神・比咩大神は、アカル姫、鴨玉依姫、宗像三女神と時代変遷をしています。

社殿は、宇佐亀山に神亀2年(725年)に一之殿が造営された。以後、天平元年(729年)に二之殿、弘仁14年(823年)に三之殿が造営されて、現在の形式の本殿が完成したと伝えられています。

539年 欽明天皇即位
545年 八幡古表神社創建
571年 八幡神が宇佐の地に現れる。大神比義らが祀る。
649年 酒井泉社建立。辛島勝乙咩により宇佐大神が勧請された。
663年 白村江の戦い
706年 稲積六神社(稲積神社)創建、稲積山に鎮座
712年 辛島乙目が鷹居社を造り八幡神を祀る。
716年 辛島氏は鷹居社から八幡神を小山田社に移す。
725年 宇佐亀山に一之殿が造営
729年 宇佐亀山に二之殿が造営
823年 宇佐亀山に三之殿が造営

宇佐宮の当初の八幡神
宇佐宮八幡比咩は耀姫(アカルヒメ)で、亀山の祭神です。
宇佐宮八幡大神は正八幡大幡主で、御許山の大元神社(上宮)の祭神です。
八幡神の由来は、八幡大神の正八幡大幡主、八幡比咩の耀姫に基づくということです。宇佐八幡宮の由来は、すっかり、(贈)応神天皇(誉田別命)に取って変ってしまいました。


正八幡大幡主とイザナミノミコトの間の王子が豊玉彦で、豊玉彦と櫛稲田姫の間の姫君が鴨玉依姫です。鴨玉依姫と大山咋神を両親とするご子息が(贈)崇神天皇で、(贈)崇神天皇と神功皇后の間の王子が(贈)応神天皇(誉田別命)となります。
三人の八幡神は大幡主ファミリーとなります。
孫の誉田別命に八幡神の神格を与えられたのが、祖母の鴨玉依姫です。鴨玉依姫の父が豊玉彦で、豊玉彦の父が大幡主となり、三人の八幡神の流れは一貫しているのです。

 大幡主(正八幡)→豊玉彦┳鴨玉依姫(早吸日女)
            ↓
 神沼河耳命→天忍穂耳命┻大山咋神→崇神天皇→応神天皇(誉田別命)



■豊国の大波羅(大原)八幡から見る豊国主の大幡主
大分県日田市田島に大波羅八幡宮(大原八幡宮)があります。
現在の田島に鎮座するまで三回の遷座を行っているのです。
寛永元年(1624)5月、日田永山城主石川主殿忠総が神来町から現在の田島大原に遷座し、応神天皇、神功皇后、比売大神の神様を祀ります。
その前の元宮の祭神は「八幡大神」と表記され、通称名は不明のままです。八幡大神が大幡主なのか、豊玉彦なのか、誉田別命なのか、不明のままです。
しかし、それぞれの遷座を見ますと、「大波羅八幡大神」が豊国主の大幡主であることが当初から一貫しています。寛永元年(1624)、永山城主石川忠総により神来町から現在の田島大原に遷座し、八幡神を応神天皇と称していますが、八幡大神は豊国主・大幡主のままです。
さらに、福岡県京都郡の大原八幡神社は大原足尼命を主祭神としますが、日田の大原八幡宮から八幡神を勧請します。しかし、日田の大原八幡宮にかぎらず関連する各遷座神社には大原足尼命は祭神として存在しません。勿論年代も合いません。「大波羅(大原)」は何に基づくものか?大原足尼それとも大波羅八幡大神?

日田の大波羅(大原)八幡神とは?
福岡県京都郡の大原八幡神社の古宮は豊国主の豊日別國魂神を祀るようで、大原足尼命を祀る裏には後の豊日別國魂神が隠されています。豊日別國魂神とは豊国主の大幡主です。

 

大波羅(大原)八幡宮の変遷
1.神降の岩松ヶ峯 680年、日田市天瀬町馬原の鞍形尾に霊現
2.鞍形尾神社 日田市天瀬町馬原500に社殿建立
3.杉原元宮神社 704年、鞍形尾から求来里村の杉原に遷座
4.元大波羅(大原)神社 871年、初代日田郡司大藏永弘が社殿を新設し、
  杉原元宮を北側の求来里(神来町)に遷座
5.大波羅(大原)神社 1624年、日田永山城主石川忠総が神来町から現在の
  田島大原へ遷座。明治6年(1873)「大波羅神社」を「大原神社」と号す


「京都~♪ 大原 三千院♪ 恋~に疲れた♪女がひとり~♪」、歌謡曲「女ひとり」の大原ですが、大原神社の「大原」の古い表記は「大波羅」です。

日田市の大波羅(大原)八幡宮の変遷の概略をみていきます。


 

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1.神降の岩松ヶ峯
鞍形尾神社に着く前に「神降」扁額の鳥居があります。
さらに、鳥居の奥へ進むと「行宮跡」の石碑があります。神輿の折り返し休憩宮でしようか。さらに約300m程進むと鞍形尾神社に着きます。

岩松ヶ峰行宮跡 大分県日田市天瀬町大字馬原字鞍形尾

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『豊後國志』白鳳九年秋 有八幡大神降格之瑞 始祭岩松峯 後又移杉原
(白鳳九年(680)秋、八幡大神の降格の瑞(きざし)あり。始め岩松峯に祭り、後に杉原に移す)行宮跡が岩松ヶ峯で八幡大神が降臨された地でしょうか?鞍形尾神社が降臨の地でしょうか?


2.鞍形尾神社
天武天皇の御宇、白鳳9年(680)、日田郡(ひたのこおり) 靭負郷(ゆきいのさと)馬原村(まばるむら)の岩松ヶ峯に八幡大神が顕現した。
岩松ヶ峯に現在、鞍形尾(くらがとう)神社が鎮座する。

鞍形尾神社 大分県日田市天瀬町馬原500番地
祭神 八幡大神

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由緒(旧案内板)
豊西記によれば元慶元年9月朔日(877)、此の地(岩松ヶ峯)に八幡御示現せり
神白馬によって昇天し玉鞍松下にあり、依って岩松改め鞍形尾と号せりと
造領記には弘仁2年(811)、郡司鬼蔵大夫(大蔵永弘)、宇佐八幡を請して来り、岩松が峯に勧請し奉ると記されている。
祭典 2月19日、20日にして古来村民の信仰厚し
天然記念物
鞍形尾神社の森 暖帯自然林の形態を保ち林中に自然石(玉鞍石)を保存している。           昭和41年4月1日  天瀬町教育委員会

※この由緒も由緒の造領記も当てになりません。大蔵永弘と年代が合いません。弘仁2年(811)は郡司大蔵永弘の時代ではありません。
豊西記(江戸時代)によれば、「八幡神は白馬に乗り岩松ヶ峯に霊現され昇天された。八幡神が昇天したあと、松の木の下に玉の鞍が残されていたことから、岩松を改めて鞍形尾(くらがとう)と呼んだ。」とあります。

 

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  本殿の彫刻は「波」と「及ばぬ鯉の滝登り」            拝殿内の神輿
  本殿左には大幡主ゆかりの天満宮が鎮座です



3.杉原元宮神社
慶雲元年(704)、鞍形尾に鎮座する八幡大神は、求来里村杉原の杉の梢(こずえ 木の先端)に降り、村の乙女に神懸かりして、「永く豊前の地を守らむ」と神託の後、杉の元に白幣が出現したと伝えられる。この時、その所に神祠を建て、鞍形尾より遷座したと伝える。

杉原元宮神社 大分県日田市神来町410付近(大字求来里字元宮)
祭神 八幡大神

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  左は六角燈籠                    右の鳥居は元大原神社の第一鳥居



4.元大波羅神社
仁寿元年(851)、大藏(鬼蔵大夫)永弘が初代日田郡司職に任ぜられる。
貞觀13年(871)、大藏永弘(おほくら ながひろ)が社殿を新設し、杉原元宮の鎮座地より求来里(神来町)に遷座。この頃、宇佐神宮の橋本公則(はしもと きみのり)氏を社司(宮司)として迎える。

元大波羅神社 大分県日田市神来町423(大字求来里字元宮)
祭神 八幡大神、比賣大神、息長帶比賣命(神功皇后)

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        第二鳥居                 六角燈籠が一個残されています


延喜15年(915)、左殿に比賣大神、右殿に息長足姫命を勧請し、大波羅八幡宮(元大波羅神社)と称号す。この時、八幡大神は勧請されていません。元のままです。
建久4年(1193)、大友能直(おほとも よしなほ 鎮西奉行兼豊前・豊後守護)が大波羅八幡宮(大原八幡宮)を「豊西総社(豊後国の西の総本社)」と定め、宇佐八幡の拝礼形態から相模國の鶴岡八幡宮の拝礼形態に改めた。ということは、大原八幡神は石清水八幡・大幡主となります。
明治6年(1873)に『元大原神社』と号す。
上記の略記と年代はことなりますが、境内に神社の縁起沿革の案内板があります。

 

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※このブログに記載している略記は橋本宮司から頂いた「大原八幡宮略記」を基本にしています。


5.大波羅八幡宮(大原八幡宮)
寛永元年(1624)、豊後日田藩主(日隈の永山城主)の石川忠總(いしかわ ただふさ)が新社殿を寄進し、求来里(神来町)の元大波羅神社から現在地の田島大原に遷座。

大波羅八幡宮(大原八幡宮) 大分県日田市田島二丁目184(大字田島字大原184番地)
祭神 誉田別命(応神天皇)、息長足比売命(神功皇后)、比売大神

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 鳥居脇の両燈籠は五三桐紋入りの六角燈籠です


大原八幡宮略記
本宮の起源は、天武天皇の9年(680)に靱負郷岩松ケ峯(天瀬町鞍形尾)に示現された八幡神を祀ったのが起源と伝えられている。
慶雲元年(704)、元宮原(神来町)に遷座し、貞観13年(871)初代日田郡司の大藏永弘が社殿を造営し祭祀した。
寛永元年(1624)5月、日田永山城主石川主殿忠総が現在の田島大原に遷座し、応神天皇、神功皇后、比売大神を祀っている。
(以下略)


鞍形尾神社、杉原元宮神社、元大原神社の祭神は「八幡大神」と表記され、通称名は不明のままです。八幡大神が大幡主なのか、豊玉彦なのか、誉田別命なのか、不明のままです。江戸時代・寛永元年(1624)の遷座の時、大波羅八幡宮の祭神表記は誉田別命(応神天皇)、神功皇后、比売大神となっています。遷座の内容からして、祭神・誉田別命(応神天皇)は「大波羅八幡神」でしょう。この時に神社が創立されたのではありません。
大原八幡宮の古宮は大幡主・天照女神を祀る高良玉垂神社です。
古宮の大幡主・天照女神は追い出され、上宮の宮地嶽神社に移り、大波羅八幡神社が創立されたと推定しました。しかし、ここでも、比売大神は「比売大神」で、内容がはっきりしません。大波羅八幡神は宇佐八幡神誉田別命と重複された形です。
現在の社殿は八幡造りですが、拝殿の向拝は高良大社造りで、高良玉垂神社の名残があります。

 

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  上宮の宮地嶽神社 その下に大原山神宮寺があります



6.苅田町新津の大原八幡神社
豊前・豊後の国造の大原足尼(おおはらすくね)が新津に港を造り大いに栄え、没後、塚を造り祭る。さらに、京都地方を治める物部氏が祖先神として、港の正面の恩塚山に改葬し氏神として祭る。大原足尼を物部の祖・天火明命(饒速日)の10世の孫としている。
福岡県神社誌では、文正元年(1466)、苅田町の大原八幡神社の主祭神・誉田別命は日田の大原八幡宮からの勧請とありますが、文正元年(1466)時点では、日田の大原八幡宮の祭神・誉田別命八幡神はまだ存在しません。この時の勧請八幡神とは何神でしょうか?
苅田町の大原八幡神社の主祭神は大原足尼命です。日田の大原八幡宮の祭神に大原足尼命は見当たりません。文正元年(1466)時点での日田の大原宮の八幡神は豊国主・大幡主です。

大原八幡神社 福岡県京都郡苅田町新津1427
祭神 大原足尼命
追祀 饒速日命、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

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  2019年(平成31年)3月訪問


由緒
大原足尼命が神功皇后の御代、豊前・豊後の国造として、民を安じ徳望あり、特にこのころ新津に港を造り公私船舶往還の港となり大いに栄える。命が亡くなれると住民は、この徳を慕い大字新津字祖父墓の地に命の塚を造り祭る。
其後六世紀後半(西暦570年ごろ)、この京都地方を治めていた物部氏が祖先を同じとする命を、港の正面に恩塚山に大いなる塚(廟所)を造り氏神として祭る。
その後、饒速日命・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を御勧請し現在に至る。


神紋の剣花菱紋は九州王朝を身近に支えた方々の紋です。剣花菱紋の「剣」は金山彦の十字剣であり、金山彦は初期九州王朝を身近に支えました。
現在、本殿には八幡宮関係の三柱が祀られ、その他の神々(三柱)は本殿左の「大々式稲荷神社」に祀られています。この大々式稲荷神社は稲荷社としては不思議な神社ですが、詳しいことは別稿にて。
神社の祀る神々は本殿の八幡宮関係の三柱と大々式稲荷神社の三柱と計六柱となりますが、稲荷神社の主祭神が表記に抜けています。稲荷神社の祭神は大幡主、饒速日命、大原足尼命です。追祀の八幡宮関係の三柱が本殿におられ、本来の主祭神は境内社の稲荷神社に祀られています。追祀の八幡宮三神に乗っ取られた形です。

     大々式稲荷神社(境内摂社)

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「大々式」は正八幡大幡主の「大磯城」ではないか。
大幡主の諱(いみな)は磯城津彦(しきつひこ)です。
(磯城)島の 大和(大倭)心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」本居宣長



7.みやこ町の大原八幡神社
豊国の国造であった大原足尼は大久保地区の「雲屋敷」に住んでいたという。
没後に住民がその徳を慕って大原大明神として祭ったのが、この神社の始まりという。
本殿の造りは海神を祀ります。

大原八幡神社 福岡県京都郡みやこ町勝山大久保3015
祭神 大原足尼命(中)、饒速日命(東)、誉田別尊(西)

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  2019年(平成31年)3月訪問


由緒
豊国の国造であった大原足尼命が善政を行ったので、没後に住民がその徳を慕って大原大明神として祭ったのが、この神社の始まりという。
大原足尼命は、現在の大久保地区にあったという「雲屋敷」に住んでいたと伝えられ、この時、日々献上し水の湧く泉を御手水井といい、御手水という地名はその名残という。



■大原足尼命(おおはらのすくねのみこと)
豊国の国造らの祖で、物部の祖・天火明命(饒速日)の10世の孫で置津与曽命の子とする。苅田町新津・みやこ町勝山大久保の大原八幡神社に祀る大原足尼命は男神として祀られています。日田の大原八幡宮から八幡神が勧請されて、社号を「大原八幡神社」としています。江戸時代初期1466年以前の社号は何だったのでしょう?大原神社か?
※古代のスクネ(宿禰、足尼)は天皇になりうる身分、天皇に次ぐ者の称号。

苅田町の大原八幡神社の誉田別命(応神天皇)は日田の大原八幡宮からの勧請とありますが、大原八幡神社の主祭神は大原八幡神です。勧請配祀神によって「八幡」神社となっています。「大原」の名称は主祭神・大原足尼命から採られたのでしょうか、それとも、日田の大原八幡宮の大原から採られたのでしょうか。
日田の大原八幡宮の祭神には大原足尼命は見当たりません。日田大原八幡宮の誉田別命の勧請は大原八幡神の勧請となりますが、大原足尼命と重ねて大原八幡神・大幡主が隠されているとみるのです。

福岡県京都郡の両大原八幡神社の祭神は、豊国の国造らの祖・大原足尼命とするが、本当の古代豊国の祖が大原足尼の名の裏に隠されています。大原足尼命の「大原」は、日田の大原八幡神・大幡主を隠す良い名称です。苅田町新津の大原八幡神社の祭神の系図を見る限り、大原足尼命の後継者はいません。いかにも大原足尼命を差し込み(枝挿し)の感がする系図です。初期の神社は大原足尼を慕う住民によって祀られましたが、後の神社の維持に他の子孫が祀るには不自然です。
物部氏の始祖はウマシマジノミコトで、その父は天火明命(饒速日)で物部の太祖です。さらに、その父は正八幡大幡主です。「物部氏が祖先を同じとする命を氏神として祭る。」とあり、祀る氏神はウマシマジか天火明命となります。

福岡県京都郡の大原八幡神社の主祭神は大原足尼ですが、大先祖様を脇神に置き、子孫が主座に着くということは、一般に考えられません。
大原足尼は神功皇后時代の人となっていますが、神功皇后時代以前の人で、大原足尼は大原八幡神・大幡主の置き換えではないかとみています。
この神社の由緒は博多櫛田神社の由緒と似ています。主祭神大幡主は時代がずーっと下がり、どなたかの臣下として扱われています。大幡主は奴国の王様で、豊玉彦はその王子です。当時としては、天皇家姫氏を凌ぐ勢いです。


■豊国主・大幡主
古代豊国の祖とは、中津市の闇無浜神社(くらなしはま、別称・豊日別国魂神社・龍王宮)の祭神・豊日別国魂神となります。豊日別国魂神とは正八幡大幡主です。

 

闇無濱神社 大分県中津市角木(大字竜王)447
祭神 豊日別国魂神(とよひわけくにたまのかみ)=大幡主
   瀬織津媛神(せおりつひめのかみ)=天照女神
由緒
旧社号「豊日別宮」(とよひわけのみや)。
古くは「豊日別国魂神社」(とよひわけくにたまじんじゃ)、別名「龍王宮」と称した。明治5年(1872)「豊日別国魂神社」を「闇無濱神社」に改称。
建武元年(1334)3月、宮は丸山の城中(現・中津城)にあり、参詣不便のため神卜をもって宮地を撰び、本宮の北、中之御崎に宮を遷座し奉る。同年5月4日、下正路之御崎(現在地)の闇無浜に遷宮。(豊日別宮伝記参照)

※中津城は吉富町の八幡古表神社と中津市大貞の薦神社を結ぶ直線上に位置し、城の北東に闇無浜神社があります。遷宮前は八幡古表神社(アカル姫)と豊日別国魂神社(大幡主)と薦神社(大幡主)は直線上にあったと推定されます。
薦神社(祭神・比咩大神・応神天皇・神功皇后)の古宮の祭神は正八幡大幡主です。


豊日別国魂神は豊国主・豊日別(とよひわけ)であり、通称、大幡主です。
豊の国は大幡主の領域でした。
瀬織津媛は天照女神です。
豊の国は、正八幡大幡主、石清水八幡大幡主、鴨玉依姫(早吸日女)、大山咋神(日吉大神)、崇神天皇、応神天皇(誉田別命)と大幡主ファミリーの領域となります。
福岡県京都郡の大原八幡神社の主祭神・大原足尼命の裏には、日田の大原八幡宮の祭神・大幡主が隠されているのです。
結論として、大原八幡神は石清水八幡・大幡主となります。

祭神の表記を「八幡大神」とすれば、八幡神は正八幡大幡主、石清水八幡大幡主、宇佐八幡誉田別命と、いずれも採れます。無難な表現です。また混乱の原因です。
しかし、八幡神の基本は大幡主ファミリーですので、いずれの神でもいいのかもしれませんが、各八幡神の性格は随分と違います。


 

大原八幡宮略記まとめ
神功皇后の御代、大原足尼命を苅田町新津に祀る(苅田町新津の大原八幡神社)
白鳳九年(680)秋、日田市天瀬町馬原の岩松ヶ峯に八幡大神が降臨
        鞍形尾(くらがとう)神社が鎮座
慶雲元年(704)、鞍形尾の八幡大神、求来里村の杉原元宮へ遷座
仁寿元年(851)、大藏(鬼蔵大夫)永弘が初代日田郡司職に任ぜられる
貞觀13年(871)、大藏永弘が社殿を新設し、杉原元宮から神来町の元大波羅神社に遷座
延喜15年(915)、比賣大神、息長足姫命を勧請し、大波羅八幡宮(元大波羅)と称す
建久4年(1193)、大友能直が大波羅八幡宮の拝礼形態を鶴岡八幡宮の拝礼形態に改める
文正元年(1466)、苅田町大原八幡神社、八幡神を日田の大波羅八幡宮から勧請
寛永元年(1624)、日田藩主石川忠總が神来町の元大波羅神社を現在地の田島に遷座
明治6年(1873)、「元大波羅神社」を「元大原神社」と号す
(寛永元年(1624)以前の大原八幡神は大幡主と一貫しています)

※神社の変遷、祭神の入替えは、時の政治権力者が絡み、現在の由緒を持って神社の姿を判断するのは必ずしも良くありません。しかし、一般人はそれを見極める手段がありません。ただ神社の案内を信ずるしかないのです。