宮原誠一の神社見聞牒(147)
令和2年(2020年)07月16日

No.147 鵜草葺不合命を祀る宮崎県高鍋の鵜戸神社


「No.146 光と影の奈留多姫を祀る福岡県糸島の産宮神社」の鵜草葺不合命の続きとなります。
7月8日~14日の間、私の配慮至らずで、手術入院しておりました。入院の間、パソコン、ネット関係、資料、本等一切持ち込まず、雨雲を眺めながら、瞑想をしていました。
強烈に浮かんだのが、ウガヤフキアエズ命の件でした。まだ、ウガヤフキアエズ命について語るものが残っていることに気づきました。
ウガヤフキアエズ命の件は前回からの継続記事となります。

1.鵜草葺不合命
鵜草葺不合命(うがやふきあえず)は、彦火々出見尊と豊玉姫との間の御子です。新婚の地・対馬の竜宮で。鵜の羽と茅の産屋が作り合わせぬうちに出産されたので、「鵜草葺不合 うがやふきあえず」と申します。
ところが、豊玉姫は育児を放棄され、妹の(鴨)玉依姫が姉(豊玉姫)の子(甥)・鵜草葺不合尊(うがやふきあえず)の乳母となり、育てられます。鵜草葺不合尊が15才頃、乳母の関係から浮気の関係と進み、後に夫婦となり、その子が安曇磯良(あずみいそら)です。
佐賀県富士町下無津呂には乳母神社(めのとじんじゃ)があり、(鴨)玉依姫、大海祗(鵜草葺不合尊)を祀ります。

後の妃が奈留多姫で、その間の御子がクマソタケル(後の川上タケル)と豊姫(ゆたひめ)です。
さらに、倭国大乱をきっかけに、建御名方と奈留多姫は夫婦となられ、その間の御子が息長宿禰です。息長宿禰と葛城高額姫の姫君が息長足姫(神功皇后)で、息長足姫は開花天皇の皇后となられます。

高良玉垂宮神秘書 第1条
(中略) 豊玉姫、御子を捨て給いて、海宮に帰り給う。彦火々出見尊は、嘆き悲しみ給うところに、豊玉姫の妹・玉依姫、竜宮よりあがり給いて、その御子を養育し給うなり。この玉依姫は、彦波瀲武鵜草葺不合尊のために、浮気にておわします。この浮気玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊と、やがて夫婦となり給う。
彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神なり。
この御子に住吉の五神として、御子おわします。二人は女子、三人男子にておわします。
二人の女子の御名は、表津少童命、中津少童命なり。
男子三人おわします。嫡男大祝の先祖で御名は表筒男尊なり。次男崇神天皇の御名は、中筒男尊なり。三男高良大菩薩の御名は、底筒男尊なり。次男中筒男尊はこの地に留りて、崇神天皇となり給うなり。住吉大明神は明星天子の垂迹、大祝先祖 表筒男尊は日神(安曇磯良)の垂迹なり。高良大菩薩 底筒男尊は月神(開化天皇)の垂迹なり。


鵜草葺不合尊は大海祗(おおわたつみ)で、住吉大神の祖です。後に、住吉の地位を開化天皇にお譲りされます。さらに、四王子山に於いて、開化天皇に三種の神器と五七桐紋を返上お渡ししたのが、鵜草葺不合命です。高良大社では住吉大神として五七桐の神紋で祀られることになります。

開化天皇(高良玉垂命)と神功皇后は夫婦でありますが、福岡県那珂川市の裂田神社は日本最大の極秘事項を持つ神社で、開化天皇と神功皇后を夫婦で祀る神社です。
表記上では神功皇后を祀るとされますが、開化天皇が隠されています。
(贈)仲哀天皇の后は神功皇后でしたが、神功皇后と(贈)仲哀天皇がご夫婦であった期間は約1年間、(贈)仲哀天皇戦死後の約20年は開化天皇の后です。このことも超極秘事項といわれます。

高良玉垂宮神秘書 第1条
(続き) 仁徳天皇時、神功皇后、崩御され、高良明神、豊姫、玄孫大臣安曇磯良、その子、大祝日往子尊、武内大臣は皇宮をともに出られる。
武内大臣は、因幡国へ・・・・
豊姫(ゆたひめ)と玄孫大臣は、肥前国川上に留まりて、豊姫は河上大明神となりたまう。高良大明神、甥の大祝日往子尊は九月十三日に高良の山に遷幸あり。
神功皇后が存命の時、皇宮にて三種神祇の取り扱いを協議された。玉璽は、高良大明神(開化天皇)が預かり給い、宝剣は、神功皇后が持たれ、内侍は、玄孫大臣(安曇磯良)が預かり給うなり。


神功皇后が存命の時、皇宮にて三種神器の取り扱いを協議されています。玉璽(天子の印)は開化天皇が預かり、宝剣は神功皇后が持たれ、内侍(鏡)は安曇磯良が預かっておられます。
一般に言われる三種神器とは八尺鏡(大型内行花文八葉鏡)、八尺瓊の勾玉、草薙剣を指しますが、八尺鏡は伊勢内宮のご神体、八尺瓊の勾玉は伊勢外宮のご神体、草薙剣は熱田神宮のご神体として収まっています。
すると、天皇家が持たれる三種神器と伊勢内宮外宮・熱田神宮のご神体としての三種神器が二組あることになります。八尺鏡と八尺瓊の勾玉は複数の存在が考えられ、よいのですが、草薙剣は二本あったことになります。スサノオ尊は草薙剣を天照大神に二本献上したのでしょうか。
天照大神(ヒミコ)には彦火々出見命と瓊々杵命(ににぎのみこと)の二人の実子がおられ、二組の三種神器が二人の御子に与えられたのでしょうか。
瓊々杵命の三種神器は崇神天皇の御代に九州王朝神霊東遷とともに伊勢の各神宮に収められ、彦火々出見命の三種神器は子の鵜草葺不合命に引き継がれ、さらに、開化天皇へと渡ったのでしょうか。
また、瓊々杵命の三種神器は鵜草葺不合命が奪ったという伝承もあります。

以上のように、鵜草葺不合命と開化天皇は関係が強いのです。
その鵜草葺不合命を祀る神社が宮崎県に二社、鵜戸神社(うどじんじゃ)として鎮座です。

高鍋の鵜戸神社 宮崎県児湯郡高鍋町大字蚊口浦1-1
日南の鵜戸神宮 宮崎県日南市大字宮浦3232

日南の鵜戸神宮は社殿が大きく、立派で、鵜戸神社の本宮とされますが、実は高鍋町の蚊口浜に建つ鵜戸神社が本宮なのです。

日南の鵜戸神宮の創建ははっきりしませんが、桓武天皇の御代に、天台宗の僧光喜坊快久が勅命を受け、延暦元年(782)秋に神殿三宇と、寺院僧堂を再建し、鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺の勅号を賜わったという。その後、文安2年(1445)の伊藤六郎四郎の起請文に「鵜戸宮牛王宝印」の文字と鵜の絵が版で刷られており、地域信仰の核であった。天正6年(1578)には、島津義久が大友宗麟との合戦に際し、戦勝祈願を行い、日向の国の鎮守として、島津氏からの篤く崇敬されている。永禄3年(1560)飫肥領主伊東義祐が神殿を再興し、寛永18年(1641)に領主伊東祐久が修復、宝永6年(1709)領主伊東祐実が権現造の神殿など全般を新改築している。
権力に庇護された神社は経済力があり、社殿は立派なのです。が、社殿が立派と本宮とは別問題です。
明治維新の神仏分離、廃仏棄釈で、権現号ならびに六観音を安置した本地堂はじめ十八坊を教えた堂坊は廃止毀却され、仁王門は焼却されています。はじめ鵜戸神社と改称され、明治7年に鵜戸神宮(官弊小社)となり、同29年に官弊大社に昇格しています。
日南の鵜戸神宮も当初は鵜戸神社だったのです。


2.高鍋の鵜戸神社(うどじんじゃ)
高鍋の鵜戸神社は宮崎県高鍋町の小丸川河口の右岸の蚊口浦に鎮座です。傍を日豊本線が通過です。
鵜戸神社の創建の年代は詳かでないが、鵜草葺不合尊の上陸の旧地とされる。
社殿は質素です。

     高鍋の鵜戸神社 宮崎県児湯郡高鍋町大字蚊口浦1-1

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            みやざき観光情報旬ナビ(高鍋町観光協会)から借用
            https://www.kanko-miyazaki.jp/takanabe/kanko/11661.html

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     祭神
     鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
     天照大御神(あまてらすおおみかみ)
     天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
     穂々出見(ほほでみのみこと)
     須佐之男命(すさのおのみこと)
     邇々杵命(ににぎのみこと)
     大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

鵜草葺不合命はその叔母・鴨玉依姫を妃として、その間に五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神武天皇が生まれた、と『記紀』は記すが、前に述べたように、その子は安曇磯良であり、神武天皇以下三命の両親ではありません。神武天皇の母は神玉依姫であり、崇神天皇の母が鴨玉依姫です。
『記紀』は神玉依姫と鴨玉依姫を混同させて「玉依姫」と記しています。
「玉依姫」の使用を厳密化すると、崇神天皇の神武天皇僭称がバレルので、『記紀』は「玉依姫」の厳密使用ができません。

社殿の幔幕は一字紋が打ってあります。社紋も一字紋です。
この社紋は大物主(大山咋神)を祀る神社に見られます。現に「大物主」が祀られています。一字紋は日吉神社日吉様の神紋です。祭神は大山咋神で、その母は市杵島姫、その父はスサノオ尊です。

本殿の屋根は女千木に鰹木五本となっていて、女神が主祭神で、女神、男神を祀ります。
由緒では主祭神は男神の鵜草葺不合命となっています。主祭神の女神が見当たりません。天照大神がおられますが、該当しません。
候補としては、母の豊玉姫か妃の鴨玉依姫となりますが、鵜草葺不合命の上位神の鴨玉依姫となります。『記紀』は豊玉姫も鴨玉依姫も記したくない(認めたくない)事情があるのです。すると、鴨玉依姫と大物主(大山咋神)が夫婦で祀られていることになります。その子が崇神天皇です。

ところで、「鵜戸神社」の宮司家は、ブログ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」の「ひろっぷ」管理人のお母さんの実家になります。
ひろっぷさんのご父母さんは宮崎の新田原(にゅうたばる)で出会い結婚され、ひろっぷさんと弟さんが生まれました。因みに「母方」は「日向日下部氏」一族の「岩切氏」です。
その日下部氏の系図には土持氏や八木氏・海江田氏らが見られます。
お母さんは宮司家一族ですが、曾祖父は「宮大工」をされていたそうです。
さらに、母方の岩切家の家紋は「五七桐紋」だそうです。鵜草葺不合命の神紋・五七桐紋と関係があるのでしょうか。普通の家では五七桐紋は使えません。
球磨の稲積妙見神社のお父さんと鵜戸神社のお母さんの出会い、そして、ひろっぷさんの誕生、何か不思議なものを感じます。

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高良玉垂宮神秘書309条
住吉の御紋に桐のとうを使われることは、鵜戸の岩屋で鵜草葺不合命を生みになられる時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けたり。これにより、異国征伐の時も桐のとうを御紋として攻められる。住吉と申すは日子波瀲建(ヒコナギサタケ)鵜草葺不合命の御ことなり。


鵜戸の岩屋は宮崎県ではありません。
鵜草葺不合命の産屋は桐の木と桐の葉で造られたようです。これが神紋「五七桐紋」の由来となります。


3.日南の鵜戸神宮
日南の鵜戸神宮の由来は前記に述べました。
社殿は日南海岸の岩場にあり、太平洋の荒波を受け、その岩場は人を近づけません。
陸地での社地への進入も容易ではありません。今は参道トンネルがあり、容易に入ることができます。
島津氏から篤く崇敬され、飫肥領主伊東義祐が神殿を再興し、領主伊東祐久が修復、宝永6年(1709)領主伊東祐実が権現造の神殿など全般を新改築しています。
権力に庇護された神社は経済力があり、社殿は立派なのです。
明治維新の神仏分離、廃仏棄釈で、堂坊は廃止毀却されています。
はじめ鵜戸神社と改称され、明治7年に鵜戸神宮(官弊小社)となり、同29年に官弊大社に昇格しています。日南の鵜戸神宮も当初は鵜戸神社だったのです。

社殿の周りの地形を考えますと、豊玉姫が鵜草葺不合命を出産された場所とは到底思えません。社殿まで八丁あるので、八丁坂と呼ばれた坂を下ってお参りしたとのこと。
日本三代下がりの宮という神社がありのすが、熊本阿蘇高森の草部吉見神社(海幸彦=春日神社の神)、群馬県の貫前神社(猿田彦、ウガヤフキアエズの父)、宮崎県の鵜戸神宮(ウガヤフキアエズ)の三社があります。

日南の鵜戸神宮 宮崎県日南市大字宮浦3232(1991年9月)

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神宮の主祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
大日孁貴(おおひるめのむち = 天照大神)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと = 神武天皇)

高鍋の鵜戸神社の祭神・大物主大神(大山咋神)が神日本磐余彦尊(神武天皇)と入れ替わっています。
日南市の油津は、古くは「吾平津 あいらつ」と呼んでいたそうです。
同市風田に川上神社があり、鵜戸山の北側には鴨玉依姫を祀る宮浦神社があります。

私の一回目の鵜戸神宮参拝は、1974年(昭和49年) (財)日本気象協会在職時の宮崎出張の時でした。大田研究所長、緒方先生、矢野本部長と私で、仕事が終わって、油津の鵜戸神宮を参拝しました。その時の写真です。
当時、大田、緒方、矢野、宮原が鵜戸神宮を参拝する意義など知りようもありません。
今考えますに、この四氏は各一族を代表して参拝をしていることに気づきました。
大田は彦火々出見尊(山幸彦)、緒方は天忍穂耳尊(海幸彦)、矢野は橘本流(豊玉彦)、宮原は○○です。
当時の日本気象協会は『記紀』に出てくる関連性の名前の人、公家大名の名前の人が沢山おられ、この職場集団は一体何者だろうと不思議に思ったものです。

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            宮原 大田研究所長 緒方先生 矢野本部長



4.神門神社と百済王伝説と高鍋の蚊口浜
鵜戸神社が鎮座する高鍋の蚊口浜には、百済王族が漂着したとする伝説があります。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/013.html
甲斐亮典氏の「宮崎の神話と伝承」『13神門神社と百済王伝説』を参考にした要約です。

朝鮮半島の古代国家・百済から王族が日本に亡命、日向の国に漂着したとする伝説がある。南郷村・神門神社の社伝によれば、孝謙天皇の天平勝宝8(756)年頃のことという。
王族の一行は2艘の船に乗って瀬戸内海に入り、安芸の国(広島)の宮島に着いたが、追っ手を恐れて筑紫(福岡)に向かった。船は嵐に遭って流され、1艘は日向の金ケ浜、1艘は高鍋の蚊口浜に漂着。金ケ浜(日向市)が禎嘉王(ていかおう)一行、蚊口浜がその子・福留王の一行であった。
禎嘉王らは、すぐに向かうべき土地を占ったところ、西方7、8里によい土地があると出たので、そこへ向かった。着いたところが神門(みかど)であったという。
一方、福智王らも占った。西方に比木(木城町)という土地があることが分かり、そこに落ち着いた。
やがて追っ手が入り、禎嘉王らのいる神門に迫って来た。南郷村の入り口に近い伊佐賀の戦いは最も激しく、王の次子・華智王は戦死、禎嘉王自身も流れ矢に当たって亡くなった。
比木にいた福智王も急を知って小丸川に沿って渡川から鬼神野を経て神門に入り、父王を助けて戦った。苦戦したが、土地の豪族「どん太郎」が食料や援軍を出してくれ、ようやく追っ手を撃退することができた。
禎嘉王を葬ったところを「塚の原」と言い、古墳がある。この王を祀ったのが神門神社である。福智王も比木の人々に崇敬され、後に比木神社に祀られた。神門神社と比木神社は密接な神事も伝承している。
神門神社には、王族の遺品とされる古い鏡24面がある。その中には奈良の正倉院の御物と同一のもの、東大寺の大仏台座下出土鏡と同形のものなどがあって、王族伝説を単なる空説として無視できないことを示しているように思われる。
王族亡命を歴史の事実と照合するのは困難であるが、類似の伝説が田野の天建神社にもある。こちらでは、百済王の船は油津に着いたと伝えている。鵜戸神宮を関連の地とする説もある。


百済は660年、唐と新羅の連合軍により白村江の敗戦により滅ぼされています。
これにより百済から王族が日本に亡命。
その後、壬申の乱が発生。672年、天智天皇の太子・大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて衝突した。大友皇子を応援した百済王族は敗戦後、追撃を受けることになる。一行は近畿から九州に向けて避難します。それを天武勢力が追撃します。
神門神社の社伝によれば、孝謙天皇の756年頃のこという。年代がズレ過ぎています。
神門神社(みかどじんじゃ)は養老2年(718)の創建と伝えられる。

また、社伝の「追っ手」がどのような勢力かも明らかにされていませんし、史実の中に禎嘉王(ていかおう)という百済王の名もありません。事実関係が曖昧です。
神門百済王伝説は壬申の乱後の百済王族の敗戦悲話を語ったものではないか、と私は思っています。
百済王族が漂着した地が、鵜戸神社、鵜戸神宮が鎮座する地と一致するのも、背景に何かありそうです。