No.133 私説・伊勢神宮(改訂)
宮原誠一の神社見聞牒(133)
令和2年(2020年)02月01日
令和7年(2025) 10年5日改訂
歴史の古い神社の由緒は確かな記録は少なく、不確かな伝承で創建が語られることが多いものです。確かな由緒と思われても、時代の変遷を受け、祭神に至っては表記上の祭神と本殿のご神体とは全く異なることもあります。
由緒、記録の文書は、歴史が長い程、災害(水害)、兵火等の火災によって失われることも多くなります。それで由緒が不明朗になりやすいのです。
さらに、祀られるご神体は本殿の奥に秘匿されるように奉安され、人目に見えるようになっていません。まして、ご神霊が相手なので、畏れ多いということで公開も憚れ、秘儀のままという神社が大部分です。地方・田舎の村神社では、祭りの時期は、ご神体が公開される神社もあり、このような神社は祀るご神体と祭神名は一致し、由緒も理に適っているものです。
ひどい場合、歴史も古く、社殿は荘厳で、社地も広く、由緒ある神社と見受けする神社を訪問し、時たま本殿内を拝見させていただく機会がありますが、その時の見た状況は、長い間のホコリにまみれ、御簾は千切れ落ち、祠の屋根は地震で崩れ落ち、そのままという状況を目にします。その時の驚き、複雑な気持ちです。公開され、手入れが行き届いていれば、こういう状況はないのでしょうが、ご神体の秘匿性も考えものだと思うことがあります。
氏子さんの氏神様であれば、氏子さんによる神社の手入れは、或る程度、秘部に踏み込んでもいいのではないかとの思いに至ります。
日本で最高の格式である伊勢神宮に至っては、神社の創建由来、ご祭神は、私たち一般人は正確に知るということは、まずあり得ないでしょう。永遠にないでしょう。
私は、今までのブログにて、伊勢神宮を垣間見るように触れてきました。
ここで、畏れ多くも、私説と言える「伊勢神宮」に九州王朝神霊東遷の流れから触れてみようと思います。
伊勢神宮を古記録、日本書紀から検討する資料は多く見かけますが、日本書紀を土台とするかぎり、本当の姿は全く見えてきません。日本書紀に登場する古代の神々の親子兄弟関係は、全く当てにならないというのが理由です。
地方の大神宮を見て周り、記録を調べ、考察することより、伊勢神宮の概観がようやく見えてくる程度です。
伊勢神宮の正式名称は「神宮」です。
さらに、伊勢神宮の内宮としての「皇大神宮」、外宮としての「豊受大神宮」があります。
皇大神宮の祭神は「天照大御神」、豊受大神宮の祭神は「豊受大御神 とようけおおみかみ」ですが、外宮の豊受大御神の正体が明確に見えてこないのです。
「天照大御神」は「あまてらすおおみかみ」として、名はよく知られていますが、天照大御神を正確に知ろうと思うと、また疑問符がつくのです。分かっているようで分かっていないのです。
1.伊勢神宮の神紋
伊勢神宮の神紋は「花菱紋」といいます。「花菱紋」の正式名称は「門光紋」といいます。
花菱紋(門光紋)は天照女神の紋章です。
天照女神の紋章「花菱紋」が、どうして伊勢神宮の神紋に採用されているのでしょうか?
「花菱紋」は摂津国一宮である住吉大社(大阪府大阪市住吉区住吉二丁目9-89)の神紋としても知られています。
住吉大社の配祀は、百嶋神社考古学では次のようになっています。
第一本宮 底筒男命(開化天皇)
第二本宮 中筒男命(崇神天皇)
第三本宮 表筒男命(安曇磯良)
第四本宮 息長足姫命(神功皇后 おきながたらしひめ)
住吉三神を整理すれば
表筒男尊 日神垂迹 玄孫大臣物部大連 安曇磯良 下関住吉神社の主祭神
中筒男尊 贈)崇神天皇・ツヌガアラシト 博多住吉神社の主祭神
底筒男尊 月神垂迹 大政大臣物部保連 開化天皇 摂津住吉大社の主祭神
となります。
神功皇后は当初(贈)仲哀天皇の后でしたが、仲哀帝死後、開化天皇の后となられます。
住吉の花菱紋は住吉神のどの神様の紋章でしょうか?
花菱紋(門光紋)
住吉三神を再度整理します。
第三本宮 表筒男尊 日神垂迹 大幡主. 下関住吉神社の主祭神
第二本宮 中筒男尊 (贈)崇神天皇・ツヌガアラシト 博多住吉神社の主祭神
第一本宮 底筒男尊 月神垂迹 天照女神 摂津住吉大社の主祭神
神社と関係する氏子さんを見て回りますと、この花菱紋は大幡主ご一統の氏子さんも使用されているのに気づきました。その名残が福岡市の名島神社にみられます。
神社由緒によれば、当初、大幡主を祭神としたが、市杵島姫が追祀され名島弁財天社となります。明治には名島弁財天社は分離され、宗像三女神を祀る名島神社となっています。佐賀県の脊振神社と同じ流れです。脊振神社も当初は、大幡主を祀ります。
本殿の千木が男千木であることは、今でも大幡主が祀られているのでしようか。
名前からして「那の志麻」の神社でしょう。奴国の離宮(砦)があったと伝える。大幡主(国常立神)がからみます。
※大幡主(国常立神)関連の名称 ナカ(那珂) クマ(玖麻) シマ(志麻) シキ(磯城・志岐)
※門光紋(花菱紋)
天照大神(ヒミコ)の倭国大乱の沈静の折、大幡主(国常立神)の庇護を求めて、天照女神が大幡主と会見のため四王寺山にお立ちになった時に、四方にまばゆい光が周囲に散った。その光が放射している状態を図案、中心には大幡主の十字剣。別名花菱紋
2.現在の伊勢神宮の配祀
現在の伊勢神宮の配祀は伊勢神宮HPをみますと、次のようになっています。
皇大神宮 伊勢神宮(内宮)
御祭神 天照坐皇大御神
<相殿>天手力男神 拷幡千々姫命
豊受大神宮 伊勢神宮(外宮)
御祭神 豊受大御神
<相殿>御伴神三座
内宮の正殿内では、天照大御神を主座に、相殿に二座二柱、
外宮の正殿内では、豊受大御神を主座に、相殿に二座三柱以上
となります。
内宮、外宮の正殿内の左殿、右殿の相殿の二座の神々については、古記録で色々述べてあります。
内宮の相殿の二座二柱は太玉命、天児屋命とする記録もありますが、これは日本書紀の天岩戸神話の舞台に基づくものでしょう。
外宮の相殿の二座三柱は太玉命・天児屋命(左殿)、天津彦彦火瓊瓊杵尊(右殿)といわれていますが、そもそも、豊受大神が明確でないので、この神々は疑問です。
内宮、外宮の正殿内の主祭神を見るには、本殿の構造を見れば、おおよそのことは想定できます。
内宮の本殿の屋根の千木(ちぎ)は平削ぎで女千木、鰹木(かつおぎ)は10本で、内宮の主祭神は女神となります。天照大御神です。
天照大御神=大日孁貴(おおひるめむち)=卑弥呼(ヒミコ)
外宮の本殿の屋根の千木(ちぎ)は外削ぎで男千木、鰹木(かつおぎ)は9本で、外宮の主祭神は男神となります。
伊勢外宮様は猿田彦妃・天鈿女命(あめのうずめのみこと)とされますが、女神ですので、外宮の主祭神ではありません。豊受大神は別の男神となります。天鈿女命は相殿(左殿)の一柱でしょう。すると、相殿(左殿)の二柱は夫婦神の猿田彦(彦火々出見尊)とその妃・天鈿女命となります。
内宮の皇大神宮
伊勢神宮HPによる
外宮の豊受大神宮
3.椎根津彦の子、黒砂(いさご=姉の倭姫)による天照大御神の伊勢遷宮
天照大御神は椎根津彦の子、黒砂(いさご=倭姫 姉)により笠縫邑檜原神社から伊勢に移られます。
日本書紀の垂仁紀では、
豊鍬人姫に代わり倭姫が天照大神を祭祀することになったが、倭姫は笠縫邑を離れ、天照大神を祀る適地を求めて旅をすることになります。適地を求めて旅をする詳しい理由は語られていません。日本書紀は、大和国内の宇陀の篠幡、次に近江国(滋賀県)、美濃国(岐阜県)を経て伊勢国に入ったと伝えます。
古事記では倭姫の巡行の記事はなく、伊勢大神宮に祭祀されたのみです。
鎌倉時代の「倭姫命世記」には多くの巡行地がありますが、笠縫邑の次は丹波の吉佐宮(元伊勢籠神社)となっています。日本書紀成立から80数年後の物語で信頼はありません。
大和国内の宇陀、近江国(滋賀県)、美濃国(岐阜県)を経て伊勢国に入った、あるいは、大和国の宇陀、伊勢本街道を通って伊勢国に、とみるのが現実的です。
九州王朝神霊東遷において、天照大神(卑弥呼)と大幡主(国常立尊)の夫妻の神霊は共に瑞籬宮に祀られていたが、大幡主は穴磯邑(あなしむら)の大市の長岡岬(ながおかみさき)に一旦祀られますが、奈良県天理市新泉町星山の大和神社に遷座となります。
天照大神は大幡主から引き離されて、笠縫邑の檜原神社に一時遷座され、倭姫によって大幡主の聖地、伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座されます。
伊勢を大幡主の聖地と申しましたが、そのきっかけは、神武天皇と大幡主を中心とした日本列島巡幸視察にあります。神武東征はありません。この後、崇神天皇による東征となります。
大幡主の列島領域は出雲(島根県)、丹後(京都府)、高志(越国)、秋田、宮城、千葉、埼玉を巡って三重県の伊勢に落ち着かれます。伊勢は福岡県糸島の伊勢の転出となります。
ここで、天照大神と大幡主夫妻の神霊が切り離され、笠縫邑と穴磯邑にそれぞれ分離祭祀されたか、との疑問が起こります。
天照大神(ヒミコ)は伽耶国の許黄玉(ホ・ファンオク)の流れで、関係神名には「ほ」の字がつきます。
「穂、火、ほ」の字を神名に使用する一族は、天照大神の流れに見られます。「ほ」の字を使用します。
天照大神の夫は、伽耶系の神と大幡主の白族系です。崇神帝は伽耶系であり、それぞれの母系は距離感があります。
それで、崇神天皇の周りでは、天照大神と大幡主夫妻の神霊が共にあることに反発があったのです。「気にくわない」ということになります。
よって、崇神帝の弟の椎根津彦の子、黒砂(いさご=倭姫 姉)によって、天照大御神の伊勢遷宮となります。
ところが、天照大御神の伊勢遷宮の後、天照大御神は申されます。
「食事、生活の基である御勢大神とその家族がいなくて寂しい」と。
※御勢は夫の尊称、伊勢は伊国の夫となります。
「食事、生活の基」の神とは、食の基「稲の神、五穀の神」である大幡主の神
英語で言えば次のようになります。
I miss you あなたがいなくて寂しい 天照大神(卑弥呼)
So do I 吾もそうです 大幡主(国常立神)
これが伊勢外宮の創建のきっかけとなります。
4.椎根津彦の子、真砂(まさご=弟の市磯長尾市)による大幡主の伊勢遷宮
伊勢に遷宮された天照大御神は「食事、生活の基である御勢大神とその家族がいなくて寂しい」と申されます。
これを日本書紀は「私の食事の神である豊受大神」をわが元にと要求されます。
ここで「豊受大神」が出てまいります。
「豊受大神」は食事の神である、というのです。
「豊受大神」は本来、「豊宇賀大神」→「豊うかの大神」と申しました。
「うか」は生み出すの意。つまり、「豊宇賀大神」は豊の国の多くの大神(家族)となります。
※扇祇神社 生命の根源の男女神
面足尊(おもだる 多細胞)= 大幡主 男根の神
惶根尊(かしこね 遺伝子)=天照女神 女陰の神
「豊受大神 とようけおおかみ」は「豊宇賀大神とようかのおおかみ」の変形とみています。
「豊受大神」を食事の神と見立てたことにより、伊勢神宮では、日本古来の食事と生活用品の伝統維持が行われることになります。
天照大御神は私の家族・親族をわが元にと要求されたのです。
天照大御神の家族・親族とは、大神の御子、御子の夫婦となります。
御子とは瓊々杵尊、彦火々出見尊。
これらの神霊を椎根津彦の子、真砂(まさご=市磯長尾市 いちしのながおち 弟)が伊勢遷宮の任を担うことになります。
また、大幡主は元伊勢豊受大神社(京都府福知山市大江町天田内60)からの遷宮となります。
これで、伊勢外宮の豊受大神が揃うことになります。豊受大神の主祭神は大幡主(国常立神)となり、外宮の正殿の屋根の千木(ちぎ)は外削ぎで男千木、鰹木(かつおぎ)は9本で、外宮の主祭神は男神ということが理解できます。
ところが、豊受大神の遷宮に難癖がつきます。
伊勢神宮(内宮)皇大神宮と並べて夫婦らしく祀ることがおもしろくないのです。
天照大神と大幡主夫妻の神霊を切り離して、笠縫邑と穴磯邑にそれぞれ分離祭祀され時と同じへ理屈です。
それで、豊受大神宮は距離をとり、宮川のほとり、伊勢度会郡の山田原にご遷座です。
5.天照大御神の御子
高良玉垂宮神秘書に彦火々出見尊と塩土の翁と天照大神の関係が記されています。
「No.4 3人の豊姫ともう一人の玉依姫」3.乙宮の祭神・豊比咩神社の祭神・豊玉姫」から「神秘書における彦火々出見命の竜宮物語」を再掲。
神秘書. 兄・彦火々出見尊 . 弟・彦ソソリノ尊
古事記. 兄・火照命(海幸彦) . 弟・火遠理命・彦穂々手見命(山幸彦)
日本書記 兄・火闌降命(海幸彦) 弟・彦火々出見尊(山幸彦)
高良玉垂宮神秘書 第1条
(前略) 天照大神の御子、四人おわします。三人は、天照大神より四代まで継ぎ給う。正哉吾勝々速日天忍穂耳尊、その御弟は天津彦々火瓊々杵尊、その御弟は彦火々出見尊、その御弟を彦ソソリノ尊と申し奉る。この彦ソソリノ尊は神代を継ぎ給わざる故に海の遠くへ参らせ給うなり。
ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借り給いて、兄の彦火々出見尊は海原に出給いて、釣針を海に入れ給う。アカメクチというもの、この釣針を食い切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なれば、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れて立ち給う所に、塩土の翁と云う者、着たり曰く。我皇子にて、御身の御徳を忘れず。今現れ来たりなり。その御礼を申さんとて、メナシカゴ(目無籠)と云う者に、彦火々出見尊を連れ奉り、海中に招き入れれば、ほどなく竜宮界に着き給われる。
これまでの事の次第を竜王に申し給えば、応えていわく、この世界に三年間逗留されれば、その間に願いを達して申すと云いければ、彦火々出見尊そのとおりに致す、と仰せられる。(以下省略)
「神秘書」では、古事記で語られる山幸彦と海幸彦の神話に登場する人物が異なっていますが、話の筋は概ね同じです。恐らく、この「神秘書」の話が神話の原典でしょう。
天照大神には三人の御子がおられ、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊と述べています。天忍穂耳尊は実子でなく、養子になります。
また、彦火々出見尊は塩土の翁(大幡主)の皇子と述べています。「塩土の翁」は大幡主です。大幡主は別名、神皇産霊神(かみむすびのかみ)であり、博多櫛田神社の主祭神です。
「皇子」とあれば、妃は天照大神(ひみこ)となります。大幡主と天照大神との間の皇子が彦火々出見尊と言っているのです。驚くべき記述です。「記紀」では絶対記載できない出来事です。
瓊々杵尊が大日孁(ヒミコ)と高木大神の皇子であり、それ故にヒミコの三種の神器を授けられた皇子であり、天孫降臨の主役となります。その舞台の地を魏志倭人伝から推察しますと、南九州の霧島山を中心とした高原(たかはる)、霧島の一帯となります。
日本書記は天照大神、天忍穂耳尊、瓊々杵尊の家族関係をチョッピリ誤魔化しています。
天忍穂耳尊は瓊々杵尊の親ではありません。
6.天照大神のご神体
『魏志倭人伝』の「ヒミコ」について
卑弥呼(ヒミコ)=大日孁貴(おおひるめむち)=天照大神(あまてらすおおみかみ)
と同一人物とします。
「ヒミコ」は、倭国大乱以後は魏志倭人伝では卑弥呼と呼ばれ、別に大日孁といい、神様になられては天照大神と呼んでいます。
「ヒミコ」の嫡男、嫡女は次のようにいわれています。
1.天忍穂耳尊(海幸彦):草部吉見を日子にさせてくれた日女たち
.拷幡千々姫、市杵嶋姫、瀛津世襲足姫(おきつよそたらし)、天鈿女命(あめのうずめ)
.天忍穂耳尊は4名の姫たちによって「ヒミコ」の皇子となられます。
.すなわち、市杵嶋姫の入り婿により、天照大神の子(養子)となられるのです。
2.彦火々出見命(山幸彦):大幡主と「大日孁」の間の皇子
.正しくは、天津日高日子穂々手見命と言う。
3.瓊々杵命(ににぎのみこと):高木大神と「大日孁」の間の皇子
.略しなければ天津日高彦瓊瓊杵尊と言う。
4.拷幡千々姫(たくはたちぢひめ):高木大神と「大日孁」の間の皇女
.日本書紀では天萬栲幡千幡媛命(あまよろづたくはたちはたひめ)
大日孁(ヒミコ)と高木大神の皇子・瓊々杵尊はヒミコの三種の神器を授けられ、伽耶から南九州の統治に向かわれます。記紀でいう「天孫降臨」です。
福岡県糸島市曽根(有田)に平原遺跡があります。
平原遺跡(弥生時代終末―古墳時代前期)
方形周溝墓(割竹形木棺墓)。鏡(40)、ガラス製の勾玉・管玉・小玉、
メノウ製の管玉・小玉、コハク製丸玉・管玉、刀子、鉄素環頭大刀。
40面の鏡が出土し、その中でも直径46.5 cmの鏡5面の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)が出土しています。この大型内行花文鏡の直径46.5 cmの外周は、鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから八咫鏡と同じ大きさになります。
鏡の文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示しています。
伊勢神宮の神家が著した神道五部書の一つ『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである、とWiKiは記します。
大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)
天孫降臨の神勅(宝鏡奉斎の神勅)
吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。
与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。
(我が子よ、この宝鏡を見るときは、まさに私を見るようになさい。
宝鏡はあなたと床や殿を同じにして、お祀りする神聖な鏡としなさい。)
この大型内行花文鏡が瓊々杵尊に授けられたヒミコの三種の神器の一つの鏡とみるのです。
この鏡が天照大神の鏡とみて、伊勢神宮内宮のご神体とみています。
高祖神社祭神・彦火々出見命の八葉の鏡
糸島の高祖神社は彦火々出見命と高礒比咩(豊玉姫)の夫婦神を祀ります。
高礒(たかぎ)比咩とは、豊玉姫です。
拝殿の前には彦火々出見命の「八葉の鏡」の石碑があります。
高祖神社 福岡県糸島市高祖1578
大幡主(国常立神)のご神体
那珂川市の伏見宮を北にに下った西の標高60m程の小高い丘の中腹に天神社が鎮座です。
社頭の鳥居の扁額は「勾玉の頸飾り」が施されています。
祭神の並びから埴安命(大幡主)と大日孁を夫婦神として祀ります。
「勾玉の頸飾り」は大日孁(天照大神)の三種の神器の一つですが、この八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が大幡主のご神体です。
(ブログ「No.123 大日孁貴(天照大神)伝承の地・福岡市南部の檜原)」から)
天神社 福岡県那珂川市(旧岩戸村)道善321
7.私説・伊勢神宮の結果
伊勢神宮の私説です。
皇大神宮 伊勢神宮(内宮)
御祭神 天照大御神
相殿 .(左殿)瓊々杵尊
. . (右殿)彦火々出見尊
豊受大神宮 伊勢神宮(外宮)
御祭神 国常立神
相殿. (左殿)彦火々出見尊と天鈿女命夫妻
. . (右殿)太玉命とその妃方
百嶋神社考古学によれば、太玉命とその妃方とは
6人の妃方とその子をまとめると次のようになります。
. (夫の名) . . . .(妻) . . . . . (子)
1.豊開(秋)津彦(トヨアキツヒコ) 万幡豊秋津姫 . . . 嫡女・豊玉姫
2.八意思兼命(ヤココロオモイカネ) 罔象女神ミズハノメ . . .八心大市彦(ヤゴコロオチヒコ)
3.建角身命(タテツノミ). . イカコヤ姫(櫛稲田姫) . 鴨玉依姫
4.天太玉命(アメノフトダマ) . 杉山大神(阿蘇津姫). . 天日鷲
5.大若子(オワクコ) . . 前玉姫(木花咲耶姫). . 神主玉命・橘一族の祖
6.天菩火命(アメノホヒ) . .武内足尼命(瀛津世襲足姫) 武夷鳥(タケヒナトリ)・菅家の祖
天鈿女命が一般に言われている「伊勢外宮様」となり、豊受大神と表記されていますが、
私の仮説から、豊受大神(主祭神)は大幡主(国常立神)、別名、神皇産霊神(かみむすびのかみ)となります。
伊勢神宮の私説であり仮説でした。
冒頭で申しましたように、
神宮の創建由来、ご祭神は、私たち一般人は正確に知るということは、まずあり得ないでしょう。永遠にないでしょう。ただ、「伊勢神宮を垣間見る」ことが許されるのみでしょう。
8.熊本県球磨郡相良村平の伊勢神宮
伊勢神宮は地方でも分社として多く祀られています。
特に、熊本県球磨地方、福岡県筑後川北岸、福岡県筑豊地方に多くみられます。
中でも、熊本県球磨郡相良村平の伊勢神宮はご神体が公開され、ご神体の解析がなされています。
ブログ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」ひろっぷ管理人
「親王様からの令旨 祈願の地「球磨」に奉納された御神像」2019-08-01 から
『上村重次氏 著 九州相良の寺院資料』には、普段は決してお目にする事は出来ない球磨の神社様、御寺様に伝わる御神像・御仏像を、自らの目で拝見する事が出来る素晴らしい書籍です。
熟読する事により、球磨の真実、球磨の古代が見えてくる!
私はそう確信致しました。
上村重次氏の御調査、ご研究は『球磨の古代』いえ『日本の古代』を理解するための『素晴らしい宝である』と私は思います。
全国の方々にぜひ、その事を御理解頂きたいと願い、あえて、勝手ながら転写させて頂く事を決意いたしました。
(中略)
そして・・・
『上村重次氏 著 九州相良の寺院資料』 174ページ に掲載の
球磨郡相良村平 伊勢神宮祠堂内の御神像と台座銘の写真を拝見した瞬間・・・
私は、頭の中が真っ白になるような、衝撃を受けました。
相良村平の伊勢神宮の祠堂の板書きをみますと、祭神は三体となっています。
右・八幡大菩薩
中・天照皇両大神
左・春日大明神
上村重次氏はご神体が二体ありとされ、伊勢大神と春日大明神とされています。
上村重次氏はなんの根拠をもって、二体のご神体を「伊勢大神」「春日大明神」と判断されたのでしょうか。
中殿は「天照皇両大神」と記載され、ご神体は二柱となります。
左殿・八幡大菩薩と右殿・春日大明神は脇配神としてよく記載されますが、実態は外部を誤魔化すための方策ととれます。よく神社の配神の在り方として見かけます。
中殿の「天照皇両大神」は、ご神体が二柱となります。
この天照皇両大神を、上村重次氏は伊勢大神と春日大明神と見立てのでしょう。
一般に伊勢大神は稜威(いつ)大神で大幡主です。大幡主は黒服を着用されます。
一方の春日大明神は「天照女神」= 勢至菩薩(女) とみました。春日様は白色の服を召される天照女神です。
上村重次氏は、春日大明神の顔は錦村新宮寺の秘仏・勢至菩薩と酷似している、と言っています。勢至菩薩は月姫であり、高良玉垂宮の玉垂命=天照女神です。
如意輪(子安)観音=十一面観音=千手観音=聖観音=天照女神
馬頭観音=大幡主
※錦村新宮寺
https://shinguuzenji.com/
新宮禅寺(新宮寺) 熊本県球磨郡錦町西久保宇野1670
相良三十三観音めぐりの32番札所。室町時代の応永12年(1405)に建立され、六観音像が安置されましたが、天正4年(1576)年の火災の際、全焼した本堂の灰の中から金色の尊像が発見され、18代相良家当主・相良義陽(さがらよしひ)が、この尊像を祀るために6体の観音を祀ったのが由来といわれています。
福岡県筑豊地方では、「天照伊勢神宮」を見かけますが、祭神は天照大神でなく、彦火々出見命、天火明命となっています。
彦火々出見尊は古事記では「山幸彦」、「猿田彦大神」であり、後に「五十猛」と呼ばれます。『先代旧事本紀』の天神本紀では、祭神名として天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしだまにぎはやひのみこと)となります。これは饒速日尊=天火明命であると云う意味であり、通称「ニギハヤヒ」と云っております。
大幡主は国常立尊であり別名、神皇産霊神(かみむすびのかみ)とも云う、櫛田神社の主祭神で櫛田大神です。そして那(奴)国の王様です。
天照大神宮 福岡県飯塚市蓮台寺375
ブログ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」ひろっぷ管理人
「地元に古代の「顔」が見えた」2018-11-24
祖母の実家「平川家」の氏神様をお祀りの「御神殿」(通称 御堂)
木札には
天津彦火火出見尊
天津彦火瓊々杵尊
月讀廿三夜比賣尊
『天之御中主神』様を奉斎する、うちの「宮原家」
『月讀廿三夜比賣尊』様を氏神様の一柱とする、祖母の実家の「平川家」
『神皇産霊日神』様をお祀りする、曾祖母(祖母方平川家)の実家の「深水家」
「宮原家」・「平川家」・「深水家」は姓は違っても堅い絆の一族なのだ!と、平川家から祖母の姉が養女に入って継いだ「椎葉家」のおじは私に言います。
祖母の実家の平川家の氏神様をお祀りの「御神殿」の神々様との関係です。
「御神殿」には、中央に「皇大神宮」の御札がお祀りされています。
横に、『他の御祭神を記した御札』
右から
天津彦火火出見尊 天津彦火瓊々杵尊 月讀廿三夜比賣尊
さらに、大黒天様(大国主命)をお祀りです。
祖母の先祖様は『木花咲夜姫命』様を月讀命つまり大山祇神様の娘様『月讀廿三夜比賣尊』様と理解していた、おそらく、古代の真実をかなり知っていた、と私は考えていました。
その祖母方の御先祖様が天津彦火火出見尊、天津彦火瓊々杵尊様方を天照大神様と御一緒に御祀りさせて頂いていた事が、ここだけ「通説に近い」のは何故?何???と疑問だったのです。
ひろっぷさんの祖母の実家の平川家の氏神様をお祀りの「御神殿」は天照大神を中に天津彦火々出見尊、天津彦火瓊々杵尊を祀ります。私の仮説、伊勢神宮内宮の配祀と一致します。
いずれにせよ、伊勢神宮の内宮・外宮に彦火々出見尊、大幡主(国常立神)が祀られていることは事実のようです。
豊受大神宮 伊勢神宮(外宮)は、本来、「豊宇賀大神宮 とよ うかの だいじんぐう」だったのかもしれません。
9.天照女神の祭祀を隠すために作られた多くの神名
月讀廿三夜比賣は月姫の天照女神(内宮)=木花咲夜姫となります。
天之御中主神=神皇産霊日神=国常立尊=大幡主(外宮)です。
彦火々出見命=大幡主、天鈿女命=天太女命=天照女神を仮説とします。
伊勢神宮創立時では、内宮が女神、外宮が男神でした。
いつの時代か、内宮が男神、外宮が女神に入れ替わって、現在に至ります。
よって現在は、豊受大神は女神となっています。(百嶋学では天鈿女命とされます)
女神を祀る多くの神社でも、女神から男神に変更されています。その例が若宮です。若宮は天照女神を祀りますが、仁徳天皇の男神に変更されました。
瀬織津姫、白山姫、湍津姫、市杵島姫や木花咲耶姫等の神名は後の名です。これらの神名は天照女神の祭祀を隠すために作られた神名です。
持統天皇と瀬織津姫の関係が書かれたアメブロの記事です。長文ですが、参考になります。各編の部分抜粋です。
http://ameblo.jp/coo-boo-toma/entry-11518581540.html
瀬織津姫様に繋がる真実が紐解かれて来た!(部分) 2013-04-26
佐賀の小城に瀬川神社があります。ここに、瀬織津姫は祀られております。
そして、この大和に来たばかりのときに娘と「貴船宮」が気になり、二人で感じたことだったのですが、ミズハノメノ神が隠されているとよく話しておりました。そのミズハノメノ神は瀬織津姫の事だったのです。
そして、この大和には嘉瀬川という川が流れております。この嘉瀬川の瀬川は、瀬川神社からお分かりのように瀬織津姫様を表します。その側には、淀姫神社があります。水の神で瀬織津姫なのです。
私は「七夕」から瀬織津姫様、ニギハヤヒ様が気になり、どんどん繋がって来ていることに驚いておりました。ですから、その頃に「中央様」も「貴船宮」も瀬織津姫様を祀られていると確信していたのですが、証明するものが今まではなく、いつか必ずサインが送られてくるだろうと待っていたのです。
「711年」。これは、古事記が完成する1年前。まさに、瀬織津姫様を消し去る争いが一番激化しているころです。しかし、隠しても瀬織津姫様のお力が怖くて、藤原不比等や空海、そして持統天皇などは、荒々しい部分だけを残し、浄化の神の部分だけを表に出していたのです。
この世を支配するためには、ニギハヤヒと瀬織津姫は邪魔だったのです。
神隠しはこれまでなのです。どんどん、瀬織津姫様とニギハヤヒ様は、私たち日本人に真実を見抜くようにとサインを送られてきているのです。
私が数十年前から神事をし、お札をいただいて来た神奈川の出雲大社分社と九頭竜神社は瀬織津姫様と関係していた神社だったのです。関係と申しますか、隠されていた神社ということです。九頭竜神社には、弁財天様が祀られておりました。
知らず知らずのうちにずっと瀬織津姫様とニギハヤヒ様と関わっていたのです。
コノハナサクヤ姫もイワナガ姫も弁財天様もイチキシマ姫もすべて瀬織津姫さまなのです。
https://ameblo.jp/coo-boo-toma/entry-11525891668.html
隠されたもの! 2013-05-07
今回は天山神社に隠されたもののお話を少しばかりさせて頂きます。
ここは表向き、上中下と3つの天山神社の下宮だと言う事です。
持統天皇のことが書かれていて、まずここで直ぐにすり替えが行われた事が分かりました。
天之御中主と宗像三女神など御祭神、小城にある1000年祭があったとされるT様のご親戚の方の本宮と言われる神社よりも古く、そしてご神木が並ぶところに石碑があり、気になり歩き出すと、奥に隠れたお社が二社、そして左方向を見ると表の鳥居よりかなり古い鳥居があり、鳥居を出て見上げて見るとそこには消えそうになっている文字が天山宮と彫ってあったのです。
宮は神社より格が上で隠されたと言う意味があります。まさに、驚きました。
宗像三女神は、瀬織津姫様なのです。天之御中主と瀬織津姫とニギハヤヒ、三柱で三位一体
天山神社の表のお社は藤原の関係上、伊勢の旗が中にかざってありました。
古事記、日本書紀で藤原不比等らが古代エジプト神話を捻り、支配する為の上下をつくる為に真実を隠してきた事。
もうじき、真実が皆様によって解明されるでしょう。
https://ameblo.jp/coo-boo-toma/entry-11567418876.html
7月7日と9月9日、そして菊理姫について! 2013-07-06
9月9日菊の節句。この日があまり知られておらず、突然気になりました。菊の節句といえば、菊理姫(キクリヒメ、ククリヒメ)、このお方様についてお話させて頂きます。
菊理姫は瀬織津姫様なのです。
藤原不比等や持統天皇が菊理姫とし、封印をしたのです。
九が二つ重なるククリヒメ。
菊は天皇を表し、菊の中にある文字、米を分解すると八十八となります。
八十八=八頭八尾といってヤマタノオロチを意味致します。
ヤマタノオロチは悪神とされ蛇と見なし、瀬織津姫を醜いものと仕立て上げたのです。
この9月9日の菊の節句は持統天皇の夫である天武天皇の時から重陽節句として始まったのです。
https://ameblo.jp/coo-boo-toma/entry-12227444789.html
神の真実!付け加え 2016-12-10
女性の神はすべて瀬織津姫であり、男性の神はすべて二ギハヤヒと申しましたが、恵比寿は二ギハヤヒのエネルギーを持ちつつも実は瀬織津姫であり、少彦名(すくなひこ)でもあります。
二ギハヤヒは大国主であり、瀬織津姫は事代主=恵比寿。
要するに女性性のエネルギーである瀬織津姫は多くの女性神を中心に名前を変えられたり男性神の名に変えられたり、いえ伝言ゲームのように聞いた名前が変化して神社や古事記、日本書紀など多くの神々が登場する事となり、女性性を思い出せないように消されていってしまったのです。
そこには、持統天皇のように支配したいという氣持ち、そのエゴによって女性性のエネルギーである瀬織津姫を消してしまうような行為もありました。
二ギハヤヒもまた同じように名前を変えられ、猿田彦だったり、アマテラス、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)、そして白鳥だったりするのです。
https://ameblo.jp/coo-boo-toma/entry-12400705385.html
神々の話その真実は? 2018-08-27
古事記も日本書紀もあらゆる世界の神々の話もかなり書き換えられている事は利理(元氣の源)が言うまでもなく、皆様ご存知ですよね。
スサノオが問題児に書き換えられておりますが、スサノオは本来不浄のものを焼き尽くす神です。浄化を表す神。スサノオのエネルギーは、瀬織津姫と不動明王、牛頭天王、そして国常立尊と同じエネルギー。利理はよく人に不動明王みたいだとか、(笑)瀬織津姫のエネルギーだとか、時々一刀両断するからか言われます。
時の政権に都合の良いように書き換えられ、持統天皇が藤原不比等の古事記に真実を書かないようにと。勿論、すべてを書き換えたのではありませんがね。歴史は書き換えられておりますが、真実は必ず表に出てまいります。
https://ameblo.jp/coo-boo-toma/entry-12547394274.html
何故闇が必要だったのか、真の意味!〜再度確認! 2019-11-22
何故、伊勢神宮ではなく、伊雑宮に行くのかはよく分かっています。
もう何年も前にこのブログでも瀬織津姫の事を綴っていた事があり、瀬織津姫とニギハヤヒの事を綴るように高次から追い立てられ、伊雑宮の事も綴り、行き着くところは統合に目覚めるようにだったのです。
伊勢神宮は持統天皇が国を支配するために伊雑宮のニギハヤヒと瀬織津姫の名前を隠し、大元の伊勢神宮である伊雑宮から伊勢神宮に内宮外宮とカモフラージュして造りました。
勿論、持統天皇の前の天皇らからですが、特に瀬織津姫の名前を隠し、国を支配したかった持統天皇が古事記や神社から瀬織津姫の名を隠すようにさせました。
持統天皇は天照大神になりたかったのです。
今の自分を受け入れ切れなかったからですね。
瀬織津姫の封印を進めたのが持統天皇(女帝)といわれる。
饒速日尊(天照大神=大幡主)と対で祀られているのが瀬織津姫(天照女神)で、天太目命=天鈿女命です。
持統天皇は全国的に勢力を持つ瀬織津姫を封印し、伊勢神宮の祭神である天照大神を女神化し、記紀から瀬織津姫の名を省き、各神社の祭神を瀬織津姫以外に変えるように命じた。その手段は容赦ないといわれる。驚くべく、このことは明治時代まで続いたと云われる。
持統天皇にとって、この列島支配するニギハヤヒと瀬織津姫は邪魔だったのです。
一般には、ミズハノメノ神も湍津姫(タギツ姫)もコノハナサクヤ姫もイワナガ姫も弁財天様(イチキシマ姫)もすべて瀬織津姫様とされる。持統天皇が隠したかった女神が全て瀬織津姫なのです。
そして、瀬織津姫は天照女神です。
※湍津姫(タギツ姫)は、宗像の古い記録では「湍織津姫(せおりつひめ)」と表記されましたが、後に「織」が全て消されて「湍津姫」となりました。
10.北斗信仰
北斗の神は大幡主(豊受大神)で、北辰の神は天照女神(天照皇大神)です。
北斗とは北斗七星、北辰とは北極星のことです。北斗の神は妙見神で、妙見菩薩とは七曜の星(北斗七星)のことです。
※天皇大帝(てんのうたいてい)について
天皇大帝は神格化された北辰(北極星)のこと。日本における天皇という称号の起源の有力な候補の一つと考えられている。北斗七星と混同されることもある。Wikiから
中国の皇帝の祭服の左袖には北斗七星、右袖には織女がデザインされている。宮内庁所蔵の孝明天皇の礼服は背中の中央上部にも北斗七星が置かれている。ただし、織女はない。
このことから、北斗信仰は天皇家の祖神に繋がることが想定されます。
平安時代の初期、桓武天皇の御宇、一般人が北斗七星を祀ることを禁じた「私幣禁断に類似する禁令」があります。
「私幣禁断」とは、一般には皇室の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。この制度によって参拝までも禁止されたわけではない。
伊勢神宮は、私幣(しへい)禁断とされており、私幣とは天皇以外の人々が神社に献げるお供えもののことで、お賽銭は私幣にあたるため、賽銭箱がない。
これに似た内容の禁令が以下のように出されている。Wikiから
796年、桓武天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。
799年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して「京畿の百姓」に「北辰に灯火を奉る」ことを禁じた。
811年、嵯峨天皇の御宇、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」を禁じた。
835年、仁明天皇の御宇、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」での「北辰に火を供えること」を禁じた。
967年、冷泉天皇の御宇、『延喜式』は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」ことを禁じた。
1811年、伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。