宮原誠一の神社見聞牒(121)
令和元年(2019年)09月09日

 

No.121 祓戸の大神(瀬織津比咩)と櫛稲田姫②


No.120 櫛稲田姫生誕伝説の地・熊本県山鹿市の旧稲田村① からの続きとなります。

6.瀬織津姫と櫛稲田姫
瀬織津姫(せおりつひめ)は大祓詞に登場する神様で、古事記・日本書紀には記されない神名です。『倭姫命世記』『中臣祓訓解』等においては伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると記述される。
瀬織津姫についての通称名は色々と提唱されていますが、瀬織津姫は櫛稲田姫(くしなだひめ)です。饒速日尊[外宮天照大神(男)]と対に祀られているのが瀬織津姫ということで、瀬織津姫は天鈿女命とされることがありますが、瀬織津姫は櫛稲田姫です。
瀬織津姫はよく見慣れる神名ですが、その実態がどうして分からなくなったのか?

瀬織津姫の封印を進めたのが持統天皇(女帝)といわれる。
持統天皇は全国の瀬織津姫を封印し、『記紀』から瀬織津姫の名を省き、各神社の祭神を瀬織津姫以外に変えるように命じたといわれる。その手段は容赦ないといわれます。

櫛稲田姫=瀬織津姫を持統女帝は強力に排除しなければならなかったのか。
櫛稲田姫は八岐大蛇(やまたのおろち)紛争処理後、素戔嗚尊の妃になられ、その夫妻のお子様が長髄彦(ながすねひこ)=岐神(くなとのかみ) と瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)です。素戔嗚尊と罔象女神の夫妻のお子様が天鈿女命です。

長髄彦が神武天皇に対して弓を引き、倭国大乱を招いたのが長髄彦です。

 

日本書紀「神代下」第九段一書
「天に悪しき神あり。名を天津甕星(あまつみかほし)という。又の名は天香香背男(あめのかがせお)。請う、まずこの神を誅(ほろぼ)して、その後に下りて葦原中国を撥(おさ)めよう。」
長髄彦は「天の悪しき神、名を天津甕星」という。又の名は「天香香背男」という。
甕星は金星。香香背男は蛇。キリスト教聖書に出てくる「落ちた天使、明けの明星」金星と蛇のルシュファーと同じ表現です。

 

かくして、「長髄彦の反乱」の敗北結果、長髄彦とその奉斎氏族は東北地方に追いやられ、「岐(くなと)」、「来な人(くなと)」の人となられたのです。
また、長髄彦の姉・瀛津世襲足姫と天忍穂耳命の子であり、本拠地を南九州におく建南方(たけみなかた)が呼応して乱を起こされ、北部九州は倭国大乱の地となります。

倭国大乱の張本人・長髄彦の母が櫛稲田姫です。
それをお詫びするために長髄彦の親父である素戔鳴尊は大変苦労されて、何とか天照大神にお詫びする方法を考え出された。それが、天叢雲(あめのむらくも)剣の献上です。
素戔鳴尊は金山彦に叢雲剣の製作を頼まれました。天叢雲剣を打たれたのが、櫛稲田姫の父・金山彦(金鑚大神)です。
よって、長髄彦、櫛稲田姫、金山彦、瀛津世襲足姫は排除されるべき神様となられたのです。

長髄彦の反乱の詳細は「No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神」を参照ください。

高宮八幡神社 福岡県飯塚市伊岐須886-2

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      飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か?"鳥見の長脛彦は飯塚にいた"
              太宰府地名研究会古川清久


7.四柱の祓戸大神(はらえどのおおかみ)
6月の晦、12月の大晦に大祓(おおはらえ)の神事があります。
その神事で奏上される祝詞(のりと)が「六月の晦の大祓 みなづきのつごもりのおおはらえ」、12月は「しわすのつごもりのおおはらえ」で、内容は6月と同じです。
その祝詞の後半に、四柱の祓戸大神(はらえどのおおかみ)が出て来られます。

 ①瀬織津比咩(せおりつひめ)  → 禍事・罪・穢れを川から海へ流す
 ②速開都比咩(はやあきつひめ) → 海に流した禍事・罪・穢れを飲み込む
 ③氣吹戸主(いぶきどぬし)   → 速開津比咩が飲み込んだ禍事・罪・穢れを根の国
                  底の国に吹放つ
 ④速佐須良比咩(はやさすらひめ)→ 根の国・底の国の禍事・罪・穢れをさすらって消滅さす

祓戸の大神の通称名
 ①瀬織津比咩  → 櫛稲田姫(くしなだひめ)   素盞嗚尊(すさのを)の妃
 ②速開都比咩  → 萬播豊秋津姫(よろずはたとよあきつひめ)  豊玉彦の正妃
 ③氣吹戸主   → 金山彦(かなやまひこ)    軻遇突智神(かぐつちのかみ)
 ④速佐須良比咩 → 鴨玉依姫(かもたまよりひめ) 大山咋神(おおやまくいのかみ)の妃

瀬織津比咩(せおりつひめ)は禍事・罪・穢れを川から海へ流し、
速開都比咩(はやあきつひめ)は海に流した禍事・罪・穢れを飲み込み、
氣吹戸主(いぶきどぬし)は速開津比咩が飲み込んだ禍事・罪・穢れを根の国 底の国に吹放ち、
速佐須良比咩(はやさすらひめ)は根の国・底の国の禍事・罪・穢れを流離って消滅させる。
かくして、四柱の神によって、禍事・罪・穢れが消滅させられる。

最初、櫛稲田姫は禍事・罪・穢れを川から海へ流されるという。
大祓祝詞に持統女帝が強力に排除した神・瀬織津比咩(櫛稲田姫)が記載されている。
その櫛稲田姫が大祓祝詞の瀬織津比咩という重要な神に位置づけられている。

  大祓詞(おおはらえのことば)一部分 
  天の八重雲を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別(ちわ)きて
  速川の瀬に坐(ま)す瀬織津比賣と言ふ神 大海原に持ち出でなむ


速開都比咩は海神・豊玉彦の妃で海での祭事には長けておられる。海に流出した穢れを飲み込みこまれるという。
氣吹戸主は禍事・罪・穢れを根の国 底の国に溶鉱炉に熱風を吹き込むような息吹で吹放ち、
速佐須良比咩は大分県の東端の佐賀関の早吸日女神社(はやすひめじんじゃ)の祭神・速吸姫であり、佐賀関の潮の流れに流離って消滅させるというのであろうか。



8.櫛稲田姫を祀る佐賀県神埼の櫛田神社
『記紀』の八岐大蛇神話の舞台が出雲・島根県ですので、櫛稲田姫(稲田姫)を祀る神社が島根県に多くあってしかるでしょう。
ところが、倭国大乱の激震地、佐賀県吉野ヶ里の近くの神埼に櫛稲田姫を祀る櫛田神社が鎮座です。

櫛田神社 佐賀県神埼市神埼町神埼419

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          扁額は「櫛山櫛田宮」くしざんくしだぐう
 

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           神額は「櫛山櫛田宮」くしざんくしだぐう
 

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               千木は外削ぎの男千木です



佐賀県神社誌の由緒略記による祭神は次のようになっている。
祭神 素戔嗚尊(右)
   櫛名田比売命(中)
   足名椎手名椎尊(左)

神社案内による祭神は次のようになっていて、足名椎手名椎尊が日本武命となっています。
祭神 須佐之男命(右)
   櫛稲田姫命(中)
   日本武命(左)

佐賀県神社誌の由緒によると、垂仁天皇の御宇、この地に荒神ありて、往来の諸人に害あり。櫛田大神を勧請し祀ることにより殺害に遭う者はいなく幸福になったという。
ゆえに、この地を「神埼」といい、「埼」は「幸」の意味であるという。
鳥羽天皇の永久3年(1115)社殿造営の勅あり。

櫛田神社の起源は垂仁天皇の御宇(4-5世紀頃)に櫛田大神を祀ったのが始まりという。
どこの神社の櫛田大神(大幡主)を勧請されたのでしょうか。恐らく、福岡市野芥の櫛田神社でしょうか。櫛田神社の古宮は博多の櫛田神社ではありません。

ところが、現在の神埼の櫛田神社の主祭神は櫛稲田姫です。本殿の千木は外削ぎの男千木で、主祭神は女神でなく男神で、創建当時を表現しています。
後の時代に八岐大蛇神話の神々(素戔嗚尊、櫛稲田姫、足名椎手名椎夫妻)に祭神が入れ替わったことになります。この祭神変更の件はどの記録もありません。5世紀から12世紀にかけて祭神が入れ替わる事件があったことになります。普通であれば、祭神に因み、社号も「稲田神社」とか「櫛稲田神社」に変更となってしかるべきかと。

本殿の後に、「神埼発祥の地、櫛山(くしざん)」の案内板があります。
「この地は櫛田大神を最初にお祭りになった場所で櫛山と称して諸人拝み奉る神霊鎮護の神聖なる旧蹟と伝えています。」
櫛山櫛田宮が櫛田大神(大幡主)を祀る神社創建と伝えています。

 

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拝殿に進みますと、賽銭箱に金山彦の紋章「十字剣」が打ってあります。
本殿内も十字剣の紋章です。

 

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それでは、八岐大蛇神話の神々(素戔嗚尊、櫛稲田姫、足名椎手名椎夫妻)を祀る櫛田神社の起源を推考します。
佐賀県神社誌の櫛田神社の起源では、この地に荒神ありて往来の諸人に害あり、櫛田大神を勧請し祀ることにより殺害に遭う者はいなくなったという。鳥羽天皇の永久3年(1115)に社殿造営の勅あり、櫛田神社が造営されました。
櫛田神社の創建の起源が「この地の荒神」のせいであるという。
「この地の荒神」とは素戔鳴尊・長髄彦親子ではないかと見るのです。
神埼、吉野ヶ里は倭国大乱の激戦の地、そして、長髄彦の乱の終息の地となります。
その吉野ヶ里公園の南に櫛田神社は鎮座するのです。
九州北部(豊前、筑豊)から脊振地方は、かつて素戔鳴尊の領域でした。その脊振南麓はクマソ頭領の在住の地でもあります。
状況証拠も乏しいですが、素戔鳴櫛稲田姫夫妻の関連地は、神埼、吉野ヶ里、その北の山地に金山彦を祀る八天神社が鎮座です。さらに、その奥の山地に素戔嗚を祀る今屋敷の倉岡神社、櫛稲田姫を祀る倉谷の倉谷神社があり、現在、両神社は合祀されて、倉谷の倉岡神社となっています。この脊振谷は素戔鳴櫛稲田姫夫妻にとって重要な地であったのです。
そう考えると、素戔鳴櫛稲田姫夫妻の新婚の地は、この脊振一帯ではなかったのかと推考するのです。


倉岡神社 佐賀県神埼市脊振町広滝3435 素戔鳴尊櫛稲田姫夫妻を祀る

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八岐大蛇紛争を解決した素戔嗚尊が、櫛稲田姫と暮らす場所を求めたのは、出雲の根之堅洲国の須賀の地でなく、ここ脊振の南の麓ではなかったのか。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ地は神埼であり、「出雲」を「稜威妹いづも」とすれば「出雲」にこだわることはありません。
八重の山並みは、ここから見える山本浮羽の耳納山地、朝倉古処山の山並み、宝満山、それに続く脊振の山並みではなかったのかと思いを馳せるのです。
また、幾重にも作った八重垣根は、吉野ヶ里の環濠遺跡の幾重に築かれた柵ではなかったのかと思いは続くのです。

話は神埼の櫛田神社の起源にもどりますが、荒神と櫛田大神(大幡主)の関係について。
荒神が素戔嗚尊で、櫛田大神が大幡主であれば、素戔嗚尊の荒ぶる業態を鎮められるのは大幡主であろうと推考するのです。
櫛稲田姫の母は手名椎の埴安姫であり、埴安姫は大幡主の妹さんです。つまり、大幡主は素戔鳴尊櫛稲田姫夫妻にとって「おじさん」なのです。しかも大幡主は那国の王様です。この関係からして、荒ぶる神を抑えるのに選ばれた神は櫛田大神(大幡主)であってしかるべきかもしれません。
そして、大幡主を祀る神埼の櫛田神社の前身は、まだ社殿もない石祠時代の素戔鳴尊櫛稲田姫夫妻を祀る「稲田神社」であったかもしれません。
しかし、持統女帝以降のしばらくの期間は「櫛稲田姫」を表に出すことは禁物でした。
その期間が長引くにつれ、4世紀以降、「稲田神社」は忘れさられ、神社由緒にも空白ができたのではないでしょうか。


      百嶋神代系譜・大幡主・月読命・伊弉諾命・金山彦 神代系図(2)

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 佐賀県神社誌 櫛田神社

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 資料【祝詞】大祓詞(おおはらえのことば) 終わりの部分
 

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