宮原誠一の神社見聞牒(112)
令和元年(2019年)06月17日

 

No.112 河野氏ゆかりの地・福岡県瀬高町堀切の玉垂神社と荒仁宮(修正)


福岡県みやま市瀬高町太神(おおが)、大江、河内の瀬高町南部、そして、その地に隣接する大和町、高田町、山川町の一帯は物部発祥の原点であることが分かってまいりました。
瀬高町河内の堀切集落には神功皇后を祀る玉垂神社が鎮座です。この村の氏子さんは宮司以下ほぼ「河野かわの」姓です。境内には荒仁神社(大山祗神社)、仁徳天皇を祀る若宮神社、天鈿女命を祀る天御前社、太神社等の物部関係神社が鎮座です。

今回は、堀切の神社群と「河野かわの」さんがテーマです。

堀切集落は現在の地名表記では「瀬高町河内かわち」です。その前は、「河原内こうらうち」と言いました。高良大社が鎮座する高良山の南麓も同様に「高良内こうらうち」と言います。
「河原内こうらうち」が短縮されて「河内かわち」となったのでしょうか。
神功皇后時代は大和町中島、高田町江の浦あたりが有明海の海岸線だったようで、河内の「堀切」は海岸近くにあったことになります。

玉垂神社と荒仁神社(大山祗神社)が堀切集落の村中に鎮座で、両神社は南向きですが、玉垂神社は南から、荒仁神社は西から境内に入ります。

 

112-01

 

112-02


 

1.堀切の玉垂神社

社伝によれば延久2年(1074) 後三条天皇の御代に建立されたという。
祭神は武内宿禰を主神に脇神に春日大神と住吉大神を祀ります。
この祭神の表記は福岡県田主丸町柳瀬の玉垂神社と同じ表記です。
しかし、両神社の実際の祭神は「神功皇后」を祀ります。神紋も神功皇后の紋章である「五三桐」紋が打ってあります。
堀切の玉垂神社でも神功皇后隠しが行われています。

玉垂神社 福岡県みやま市瀬高町河内(堀切)1139

112-03

鳥居は南向きで玉垂神社とあります

 

112-04

 

112-05

 

112-06

 

112-07

 

112-08


 

2.堀切の荒仁神社

荒仁神社は福岡県神社誌に記載がありません。
神社を概観する限りでは、「隅切角の三角字」紋の「大山祗神社」なのです。
それが、後の時代に「荒仁神社」に変更されたと推察されます。
地元社伝由緒では、河野氏の先祖「河野四郎通信みちのぶ」あるいは「河野の祖神を祭祀」とあります。
神社の南に河野四郎通信の奥津宮の宗高神社(荒仁神社)があります。
荒仁神社は神功皇后を祀る玉垂神社の左に並んで配置されています。
近世の武人を玉垂宮並みの一神社に祀るでしょうか?
もともと大山祗神社に河野通信を追祀したと考えるのですが。大山祗神社ではまずいので、荒仁神社に変えた、とみるのです。

河野氏(かわの)は「豫章記」の「河野系図」によれば、孝霊天皇と細姫(イヨ様)の間の皇子・伊豫皇子の子孫となります。細姫の女系の系図をさかのぼれば大山祗神に行き着きます。
その流れは、大山祗神→罔象女神→天鈿女命→イヨ様(細姫) → 伊豫皇子(物部)と続きます。瀬高町南部は物部の発祥の地と考えれば、河野 → 物部 → 大山祗神 となり、荒仁神社は大山祗系の神社となるのです。

堀切の西、荒仁神社入り口  市議会議員選挙用の「かわの」さんの看板

112-09


荒仁神社 福岡県みやま市瀬高町河内(堀切)1139

112-10

鳥居は西向きで荒仁神社とあります

 

112-11

 

112-12

 

112-13

 

112-14


幔幕の紋は「隅切角の三字」紋ですが、本殿の神紋は「隅切角の三角字」紋です。
神額は横置きで「現仁宮」ですが、鳥居の扁額は「荒仁神社」です。額縁は大山祗神を祀ります。それにしても、額縁をお寺さんの山門額のように何故横に取り付けられたのでしょうか。

社殿前に荒仁宮の由緒案内板がありました。

 

荒仁宮(あらひとぐう)
文治3年(1187)河野四郎通信(みちのぶ)を祭神として後鳥羽天皇勧請により建立されたと云われています。
伝説によると(南北朝動乱の時)伊豫国得能弥三郎の嫡子河野伊予守が筑紫に下向し堀切村に築城した。その子孫の河野出雲守道弘が後柏原天皇御代大永年間(1521-)に祖神を祭祀したという。
源平争乱に伊豫水軍を率い、源氏方として河野四郎通信は息子の通貫と共に堀切の庄に来ましたが病にたおれ死去(文治3年)。その後家運も衰え路傍の墓となりました。
ある時、墓の傍を武士が馬で通り掛かり、家来に古びた墓を馬鹿にし笑い過ぎた時、この墓がたちまち鳴動して殺気が起こり人馬とも息絶えました。それより殺気が絶えず、その地に宮を建て、その霊を祀り、四郎大明神と号し、後に荒仁社と改めました。    南校区まちづくり協議会

 

文脈からすると、祭神は河野四郎通信(みちのぶ)と採れそうです。br> まず、河野四郎通信の概史をWIKIから要約です。

 

治承4年(1180)8月、源頼朝が反平氏の兵を挙げると、それに呼応し治承5年(1181年)父・通清と共に本拠の伊豫国風早郡高縄山城(現在の愛媛県松山市)に拠って平維盛の目代を追放した。しかし伊豫内外の平氏方の総攻撃を受け、通清は同城で討ち死にした。
文治元年(1185)2月、源義経が平氏追討のため四国へ下ってくると、通信は軍船を率いて屋島へ赴き、志度合戦で義経に軍船を献上して源氏方に加わった。壇ノ浦の戦いにも参加し、通信の軍船が中堅となって活躍した。戦後は鎌倉幕府の御家人となり、守護職は与えられなかったものの、伊豫国内の一部の御家人を統括する強い権限を認められた。文治5年(1189)の奥州合戦に従軍。北条時政に気に入られてその娘を娶ったと伝えられている。
子の河野通政は西面武士として院庁に仕えた。
通信は承久3年(1221)の承久の乱で後鳥羽上皇方につくが、朝廷方が敗北すると通政と共に領地へ戻り、高縄山城に籠もって反抗を続けたが、翌年に幕府方に居城を攻められ降伏。捕虜となって陸奥国江刺に流罪となり、通政は斬られ、所領の多くは没収された。
通信は配流後出家し、江刺郡稲瀬(現在の岩手県北上市稲瀬町)にある国見山極楽寺で貞応元年(1222)に死去した。享年68。
河野本家はひとり幕府方に付いた子の河野通久によって辛うじて存続することとなった。また、通政の遺児・通行も配流された後に赦されて子孫を伝え、通久の子である別府通広(一遍の父)や庶子と伝えられる池内公通も許されており、彼らによって河野一族が存続されるが、以後伊豫国内での影響力が低下することとなった。
河野通信の子 得能通俊、河野通政、河野通広、河野通久、中川通宗、黒川信綱

 

河野通信の存命は1156-1222年 であり、文治3年(1187)に祭神として祀られることはありません。
「通信は息子の通貫と共に堀切の庄に来ましたが、病にたおれ死去(文治3年) 」とありますが、瀬高の堀切に下向の事績はなく、岩手県で死去しており、由緒記の真意は不明です。
通信は承久3年(1221)の承久の乱で後鳥羽上皇方につき、朝廷方が敗北しており、家運は低下することとなります。
通信の墓(堀切)に祟りがあり、その霊を祀り、四郎大明神と号し、後に荒仁社と改めました、とありますが、河野四郎通信が祀られているか不明です。何かの理由で、社号を「荒仁社」に改めたことになります。
残る由緒記の「南北朝動乱の時、伊豫国得能弥三郎の嫡子河野伊予守が筑紫に下向し堀切村に築城した。その子孫の河野出雲守道弘が後柏原天皇御代大永年間(1521-)に祖神を祭祀したという」が尤(もっと)もらしいのですが、伊豫国の 得能弥三郎通言(とくのうやさぶろうみちとき)は元弘の乱(1331~33)の折り、醍醐天皇に組して活躍しています。しかし「嫡子河野伊予守」は不明です。「その子孫の河野出雲守道弘が大永年間(1521-)に祖神を祭祀したという」ありますが、「河野出雲守道弘」の存在について、私の力では裏取りができませんでした。また「祖神を祭祀」の祖神がいずれを指すのか不明朗です。「河野四郎通信」か?「大山祗神」か?
河野氏が伊豫国と縁があり、越智氏と物部に繋がり、女系大山祗神に繋がるからです。


家紋から見る荒仁神社

112-15

 隅切角に三角字紋  隅切角に揺れ三字紋 隅切角に縮み三字紋   剣方喰紋
 大山祗流河野氏             大山祗神社社紋   伊豫皇子流河野氏


本殿に刻まれた紋は「隅切角に三角字紋」は伊豫河野氏の家紋です。
すると、荒仁神社の祭神は「河野四郎通信」と採れ、南北朝動乱の時、伊豫国得能家が堀切に下向し、その子孫が先祖の河野四郎通信を祀ったと、見ることができます。
後に社号を荒仁神社に変えられている。その以前の社号を何と言ったか?
これによって、本来の神社名が明確になります。

伊豫神社(愛媛県伊予郡松前町神崎193) は伊豫皇子を祀ります。社紋は「隅切角に三角字」紋です。堀切の荒仁神社と同じになります。しかも伊豫皇子は河野氏の祖となります。
もしかしたら、堀切の荒仁神社は伊豫皇子を祀る伊豫神社かもしれません。
「南北朝動乱の時、伊豫国得能弥三郎の嫡子が筑紫に下向し堀切村に築城し、その子孫の河野出雲守道弘が後柏原天皇御代大永年間(1521-)に祖神を祭祀したという」その「祖神を祭祀」は伊豫皇子となります。


 

3.境内社

堀切の玉垂神社境内には数多くの境内社があります。

天鈿女命を祀る天御前神社(あまごぜ)
社殿案内板から

 

創建の年代は不明。「昔堀切村お開き御築立築き止め成就されたので上筑後天ノ御前海辺に勧請を初められた。これで御開地が成就した。御開地の内3町3反が御供田となり庄屋代々御帖面に毎年さし上げている」と記録がある。堀切村の干拓工事が完成して天ノ御前の分霊を祀りお宮に土地を持たせ庄屋が代々出来た作物を祭りに供えたとのことである。昔は今の小開の水門の所から中堤防ができ潟より下畑に通ずる「潟ん土居」と言って内側を河の内と言っていた。はぜの木土居で馬を運動の為に走らせていた。船津樋管のそばに天御前神社があった。堤防拡張の為玉垂神社境内に移転された。    南校区まちづくり協議会

 

干拓地の船津樋管のそばにあった天御前神社が玉垂神社境内に移されています。
祭神は天水分神(あめのみくまり)となっていますが、彦火々出見命、天水分神(天鈿女命)が夫婦神として祀られています。この夫婦神は物部氏の元祖です。物部氏の祖神を祀ることになります。

 

112-16



若宮神社
社殿案内板から

 

若宮さんの神格は二つの解説がある。
一つは大きな神格を有する神の御子神が新しく土地を拡めた所(干拓地)に合霊を勧請して新宮を創るのを若宮と呼ぶ。
二つは特に平安に流行した呪術で、災害異変が起こると神の御霊、怨霊のたたりとおそれ巫女の祈祷を行ない社を建てて悪霊を祀る、この時建てた社を若宮という。
野小路にあった若宮は前者でなかろうかと思われる。玉垂神社境内に移され御神体の前には木の鳥居(若宮)が作ってある。祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)の神で水を司る神、雨乞いの神である。       南校区まちづくり協議会

 

祠の祭神は中央に男神、左に女神、右に男神を祀ります。
主祭神は中央の仁徳天皇です。
左の女神は縄を持っておられます。右の男神は年寄りの坊主姿です。今のところ神名を特定できません。両神とも金色の部分服を着用されており身分の高さがうかがわれます。

 

112-17



太神社
社殿案内板から

 

南の飯江川の近く川田にあった。古代、川田の地は海で低い所が川になり高くなった所は州となり船着場があったという。大和政権時代西暦660年頃天智天皇の西征の時、筑後の江の崎(大和町)から船で八才宮にお参りになり、川田の州に船をとどめ仮の御室(おもむろ)で航海安全を感謝され、東に向って天照太神を拝み小祠(ほこら)をお建てになったという。
後にお堂になり13人の関係者がお祭りをしていたが農地整備の為、玉垂神社境内に移されている。本尊は木像で弓を持たれた立像である。祭神は大日霎尊(おほひるめのみこと)     南校区まちづくり協議会

 

祭神は弓を持った男神です。祭神に大日霎尊の女神は無理があります。
航海安全祈願の神様ですから、太神社は「だいじんしゃ」であり、「太神宮」ではないでしょうか。その神様は大幡主となります。

 

112-18


 

4.堀切の河野さん

福岡県みやま市瀬高町河内の堀切集落の河野さんは「かわの」さんです。「こうの」さんではありません。
この村の氏子さんは宮司以下ほぼ「河野」姓です。

 

112-19


七支刀(ななつさやのたち・しちしとう)を持つ神像がある「河野宮」(こうやの宮・磯上物部神)は福岡県みやま市瀬高町太神(おおが)の鬼木(おにき)集落に鎮座です。
また、その南の長島(おさじま)に物部一族の系譜を継ぐとされる物部田中神や物部阿志賀野神が鎮座されています。
瀬高町南部の地域は物部氏族と関係が深い地域です。
ここ福岡県瀬高は大国主の国譲りの地と言われ、狗奴国の乱の前線であり、倭国大乱終戦の地と言われています。狗奴国の乱の首謀者は大山祗神で、その息子である大国主命も乱の責任をとらなければならない立場でした。
対して、鎮圧側は孝霊天皇及びその后・細姫(ヒミコ宗女イヨ)と物部の祖・ウマシマジです。河野氏(かわの)は「豫章記」の「河野系図」によれば、孝霊天皇と細姫(イヨ様)の間の皇子・伊豫皇子の子孫と言われています。
倭国大乱終戦処理により、月読命は格下げとなり「大山祗」となられ、四国へ配転です。
河野一族が瀬高町に領域を張る結果となります。

 

112-20


河野氏が一つの流れでなく、二つあるようです。
「隅切角に三角字」紋の河野氏、「剣方喰」紋の河野氏です。
河野氏でも「隅切角に三角字」紋を使う河野氏、「隅切角に縮み三字」紋の河野氏、「剣方喰」紋の河野氏とあり、読み方も「こうの」「かわの」とあり、紋と読み方の組み合わせで、それぞれ有りといった感です。
大山祇神を氏神とする河野氏は隅切角紋で女系を採られているようです。
「剣方喰」紋の「かわの氏」は伊豫皇子の子孫として男系を採られているようです。
堀切の河野氏(かわの)の家紋は「隅切角に三字」紋で、神社の幔幕の紋と同じです。

 

鳥取県鳥取市国府町宮下に武内宿禰を祀る宇倍神社(うべじんじゃ)が鎮座で、神紋は「亀崩し」紋です。武内宿禰は神功皇后が亡くなられると、因幡の国の一の宮・宇倍神社鎮座地を安住の地として移られます。
本当は、武内宿禰は孝元天皇と山下影姫との間の生まれで、大彦命と兄弟で弟であり、さらに、開化天皇とは異母兄弟となります。皇族です。武内宿禰の紋章は天皇家の紋章、五七桐紋です。五七桐紋を持つ古代神は、鵜草葺不合尊、開化天皇、武内宿禰が挙げられます。
香川県丸亀市綾歌町に宇倍神社を勧請した宇閇神社(うべじんじゃ 祭神・武内宿禰)が鎮座で、社殿には「丸に剣片喰」の紋があります。
武内宿禰からみて、伊豫皇子は叔父さんになります。


四国では、大山祇神を氏神とする隅切角紋の河野氏(越智族)、伊豫皇子の子孫とする剣方喰紋の河野氏が混在されているようです。

伊豫皇子を祀る伊豫神社の社紋「隅切角に三角字」紋、すると、堀切の荒仁神社は「隅切角に三角字」紋で、伊豫皇子を祀る伊豫神社かもしれません。
先祖「河野四郎通信」の一武人を祀る神社としてはりっぱすぎます。
そうであれば、堀切集落は「伊豫神社」の社号を隠されていることになります。