宮原誠一の神社見聞牒(106)
令和元年(2019年)05月03日

 

No.106 宗像三女神と宗像大社と大国主

 

1.宗像三女神

宗像三女神(むなかたさんじょじん)は、宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている三柱の女神の総称です。
特に、田心姫は宗像三女神のなかでも海北の道主貴(みちぬしのむち)と呼ばれ、玄界灘に浮かぶ沖ノ島には沖津宮があり、田心姫が祀られています。田心姫は通称「豊玉姫」です。
沖津宮の祭神は奥津島比売命と称し、本来、瀛津島姫命(おきつしまひめ)は市杵島姫ですが、大島の中津宮に祀られています。
田島の辺津宮には湍津姫が祀られています。
この配祀は戦前までの配祀です。
祭神の宗像大社の表記、古事記、日本書紀の表記は一致せず、バラバラです。

宗像三女神は次のように記載されています。

『古事記』
沖ノ島の沖津宮 - 多紀理毘売命(たきりびめ)   田心姫
大島の中津宮  - 市寸島比売命(いちきしまひめ) 市杵嶋姫
田島の辺津宮  - 多岐都比売命(たぎつひめ)  (鴨)玉依姫

『日本書紀』本文
沖津宮 - 田心姫(たごりひめ)
中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ) (鴨)玉依姫
辺津宮 - 市杵嶋姫(いちきしまひめ)

『福岡県神社誌』
沖津宮 - 多紀理毘売命(たきりびめ)   田心姫
中津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ) 市杵島姫
辺津宮 - 多岐都比売命(たぎつひめ)  (鴨)玉依姫

『宗像大社』
沖津宮 - 田心姫神(たごりひめ)
中津宮 - 湍津姫神(たぎつひめ) (鴨)玉依姫
辺津宮 - 市杵島姫神(いちきしまひめ)


福岡県北野町赤司の八幡神社「止誉比咩神社本跡縁記(トヨヒメジンジャホンジャクエンギ)」では、

 

道中(みちなか)の中瀛宮(なかつみや)の田心姫は、筑紫水沼君が祭る神、筑後国御井郡河北庄止誉比咩神社、今の赤司八幡神社これなり。
遠瀛宮(おきつみや)の市杵嶋姫は、筑紫胸肩君が祭る神、筑前国宗像郡宗像神社これなり。
海濱宮(へつみや)の湍津姫は葦原中国の宇佐嶋に降居され、豊前国宇佐郡の宇佐宮八幡比咩神社これなり。
三女神は、それぞれ別の所、宇佐・宗像・道中(大城)の三ヶ所に降られ、降居の事跡は三所各別であり、一所とあるは、日本書記の脱簡混文である。

 

「今在海北道中號白道主貴此筑紫水沼君等祭神也」(神代巻)
道中」は河北荘道中(みちなか)。
海北」は有明海中瀛海(なかつうみ)北の浜を指し大城です。玄界灘ではありません。

大島中津宮で七夕祭が毎年行われます。七夕姫は市杵嶋姫です。

三女神は降居の事跡は三所各別であり、それぞれ別の所、宇佐・宗像・道中(大城)の三ヶ所に降られ、一所とあるは、日本書記の脱簡混文であるという。
(注)脱簡混文:文章の一部が脱落して、混合した文章

 

福岡県神社誌由緒
宗像神社は地上に於ける神籬磐境の神秘的具現にして、其の創立は天孫降臨以前に属し、実に本朝神社創立の濫觴也。御祭神は畏くも、天祖天照大御神の御弟素盞嗚尊の御剣の霊徳により成りませる大神にして、天照大御神の御子神として育まれ給ひし三柱の姫大神也。
茲に謹みて御神名を揚げ奉れば
 多岐都比売命 辺津宮 田島
 市寸島比売命 中津宮 大島
 多紀理毘売命 沖津宮 沖ノ島
以上三柱大神は三神の霊徳を一体に称へては道主貴と申奉り、大日本建国の基礎として高天原より此の豊葦原瑞穂国へ天降ります時、天祖天照大御神は此大神等を膝下に召され、「汝三神は宜しく道中に降居まして、天孫を助け奉りて天孫に所祭られよ」(日本書紀所載)と宣らせ給ひ、故に三柱の大神はこの重大神勅のまにまに筑紫の道中たる現在の宗像の地に天降り給ひ(以下省略)


 

宗像大社 福岡県宗像市田島2331

106-01

 

106-02

 

106-03

 

106-04

 

106-05

                 御神木の楢の木

楢紋(大国主)、柏紋(事代主)、梶紋(建南方)に共通なものは、葉脈がメノラー(七枝の燭台)を表現していることです。古代ヘブライが共通先祖で、大国主、建南方は共にクマソ族で、大国主はクマソの親分となります。よって、クマソ物部関係のある神社の隣村には建南方を祀る諏訪神社がよく鎮座されています。


 

2.田心姫と天疎向津媛命

(贈)仲哀帝がなくなると、神功皇后は中臣烏賊津使主(なかとみいかつおみ)を審神者(さにわ)として召して、仲哀天皇に祟った神を聞き出す「くだり」があります。その神が撞賢木厳之御魂(つきさかきいつのみたま天照大神)であるという。
福岡県北野町大城赤司の八幡神社の止誉比咩縁記によると、神功皇后は、仲哀天皇に祟った神が天照大神の撞賢木厳之御魂とわかり、御魂を鎮めるために、伊勢天照御祖神社を建立されます。その神社が、赤司の八幡神社の南の今寺区に鎮座される「四柱神社」です。今では、「四柱神社」が、伊勢天照御祖神社の元宮であるということが、すっかり忘れ去られています。今寺の四柱神社は「伊勢天照御祖神社」の本宮・元宮です。

神功皇后は神の教えのままに、祠壇を道中(大城)の蚊田の高嶋に建てて、仲哀天皇に祟った神・天照大神の撞賢木厳之御魂を遷される。この祠壇を伊勢天照御祖神社という。御神体は金鏡で、長年曇蔭ることがなかった。(今の四柱神社の寛文十年(1670)久留米藩社方開基では、所在地が御井郡高嶋村の今寺と記載されている。)
天平11年(739)、聖武天皇の勅により、神宮寺・安陽寺を建立する。後に住僧が熊野、川上、高良の三神を勧請し、御祖の神の相殿に遷座される。
大永(1521-)の兵乱の軍火により神宮寺は焼亡する。この時、神鏡及び神宮寺の撞鐘は奪い去られ、鐘の池に沈失する。
また、天疎向津媛命は道主貴(ミチヌシノムチ)の幽(カクレ)名であり、中瀛宮(ナカツミヤ)に鎮座される。

止誉比咩神社本跡縁記では、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」は「撞賢木厳之御魂」と「天疎向津媛」は別神様であり、「撞賢木厳之御魂」は伊勢天照御祖神社の祭神であり、天照大神であるという。また、「天疎向津媛あまさかるむかつひめ」は道中(大城)の道主貴(みちぬしのむち)の田心姫である、という。
(「No.57 撞賢木厳之御魂と天疎向津媛と福岡県北野町大城の四柱神社」参照)

福岡県久留米市北野町大城は、古代では筑後地方の中心地であり、国府が御井町に移るまでは重要な地帯であった。



 

3.大国主と田心姫と市杵島姫

豊玉姫は後に彦火々出見尊と離婚され、少名彦(すくなひこ)を連れ子に大国主と再婚されます。そして、名前を田心姫と改められる。大国主と少名彦は共に筑豊西一帯(葦原中国)の国造りに尽力される。少名彦は後の事代主(ことしろぬし)こと西宮(にしのみや)大明神です。
事代主は筑紫の夜須(今の福岡県甘木)に三年ほど滞在されたことがあり、そのことが西宮大明神縁起に記されています。
少名彦は大国主と共に活動されたことが「疫神斎の護符」に名をとどめています。

市杵島姫は素盞嗚尊とアカル姫(磐長姫)の間に誕生されました。
若き天忍穂耳命と市杵島姫の新婚の地は鹿児島の甑島から薩摩半島の吾多にかけて過ごされました。市杵島姫は阿蘇族挙げて歓迎され、「波つき三つ鱗」の神紋を持った龍神様と崇められました。二人の間には、日吉神社祭神・大山咋(おおやまくい)の息子がおられ、若き日の名前は、天葺根命(あめのふきねのみこと)と申し、佐賀県小城一帯を支配されました。

倭国大乱の折、素戔嗚尊の息子・長髄彦の乱(前期倭国大乱)に呼応して、天忍穂耳命と長髄彦の姉・瀛津世襲足姫の息子・建南方(たけみなかた)も乱(後期倭国大乱)を起こされる。
大乱戦後処理により高木大神から離縁させられた市杵島姫は天葺根命を連れ子に大国主の妃となられ、大国主との間に下照姫(したてるひめ)を持たれる。

市杵島姫は大国主との再婚により、連れ子の天葺根命は事代主と義兄弟となられ、事代主より酒造方法を教わり、松尾大社の酒造の祭神・大山咋、別名・佐田大神となられました。大乱の始末の結果、天忍穂耳命は妃の天鈿女命(あめのうずめのみこと)と市杵島姫の二人の妃を失うこととになります。



 

4.3人の大物主

大山咋は市杵嶋姫の連れ子として、事代主は田心姫(豊玉姫)の連れ子として、大国主との再婚により、大山咋神と事代主は大国主の義理の息子達となられます。
この三人の関係は次のようになります。
大国主を「義理の大物主」、大山咋を「真の大物主」、事代主を「代理の大物主」。
崇神帝が奈良県の纒向に移られた後、父・大山咋(佐田大神)を三輪山に祀られた。
大物主の誕生です。

この二神は、筑前国田島の宗像神社の本殿の右外に、松尾神社(祭神大山咋神)、蛭子神社(少名彦)として祀られています。大国主を祀る神社は本殿の奥地の高宮でした。今は取り壊されて「高宮祭場」として残っています。宗像神社は本来、市杵嶋姫、田心姫、大国主の三神を祀る神社なのです。

ここに三人の大物主が誕生することになります。
一般に言われるように大物主は大国主ではなく、本当の大物主は大山咋神です。
この三人の関係を次のように扱っています。
大国主を「義理の大物主」、大山咋を「真の大物主」、事代主を「代理の大物主」。

 1.大国主 大己貴・八千矛神 義理の大物主 大神(おんが)大明神
 2.大物主 大山咋・天葺根命  真の大物主 大神(おおが)大明神
 3.事代主 少名彦・恵比須神 代理の大物主 大神(おおみわ)大明神

 

106-06

        本殿右横の松尾神社(大山咋神)、蛭子神社(事代主)


 

5.大国主と宗像大社

市杵島姫の最初の旦那様は阿蘇の頭領の春日大神ですが、二番目の旦那さんは大国主命です。市杵島姫がどのように動かれたかは宗像大社の神額に書かれています。

「汝三神宣降居道中奉助天孫而為天孫所祭也」(神代巻)
奉助天孫而為天孫所祭」(天孫を助け奉り、天孫に祭られよ)

自分を中心にして、九州王朝を守り立てようではないか、天孫を助け奉って、自分たちも神として祀られようではないかと宗像大社の神額には書かれています。

宗像大社の現在の祭神は三女神、田心姫(たごりひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)ですが、本当の主祭神は大国主命です。そして、次は市杵島姫、そして、いとこの田心姫、同じくいとこの湍津姫(鴨玉依姫)が宗像三女神です。

本殿の千木は外削ぎの男千木です。男神を主祭神とします。主祭神は大国主命です。本殿の奥地に大国主命を祀る高宮跡があります。
三女神か主祭神であれば、千木は平削ぎの女千木でなければなりません。

本来の宗像神社は大国主命を主祭神に、妃の市杵嶋姫、田心姫を祀ります。
それが後に、辺津宮本宮に湍津姫、大国主命は奥宮の高宮のみ、市杵嶋姫は中津宮に、田心姫は沖津宮に祀られることになります。
そして、奥宮の高宮は壊され、高宮跡(高宮祭場)となり、大国主命は消されて、現在の宗像三女神が祀られることになるのです。

 

106-07

 

106-08

高宮祭場(たかみやさいじょう)
宗像大神「降臨の地」と伝えられ、
沖ノ島と並び宗像大社境内で最も
神聖な場所の一つです。
神籬(ひもろぎ 樹木)を依り代として
おり、社殿が建立される以前の神社
祭祀(庭上祭祀)を継承する、全国でも
稀な静寂に抱かれた祈りの空間です。










 

 

106-09

 

106-10

 

106-11



 

6.宇佐神宮の三女神

三女神をまとめると次のようになります。

「止誉比咩神社本跡縁記」から
田心姫  筑紫水沼君が祭る神、筑後国御井郡の止誉比咩神社、道中の中瀛宮(なかつみや)
市杵嶋姫 筑紫胸肩君が祭る神、筑前国宗像郡の宗像神社、遠瀛宮(おきつみや)
湍津姫  豊前国宇佐郡の宇佐宮八幡比咩神社、海濱宮(へつみや)
三女神は、宇佐・宗像・道中(大城)の三ヶ所にそれぞれ降られ、降居の事跡は三所各別であり、一所とあるは、日本書記の脱簡混文である、という。

     『豊姫縁記』 『古事記』 『日本書紀』 『県神社誌』 『大社表示』
田心姫   中瀛宮     沖津宮   沖津宮    沖津宮    沖津宮
市杵嶋姫  遠瀛宮     中津宮   辺津宮    中津宮    辺津宮
湍津姫   海濱宮     辺津宮   中津宮    辺津宮    中津宮

今迄の記述では湍津姫(たぎつひめ)=(鴨)玉依姫としました。
各神社の表記は「湍津姫」であり、(鴨)玉依姫とは記載されていません。
「湍津姫」は通称名ではないのです。消去法で湍津姫=(鴨)玉依姫となるのです。
湍津姫を「玉依姫」と表記すると「(鴨)玉依姫」か「(神)玉依姫」を明確にする必要が生じ、「玉依姫」と表記するとマズイことになるのです。

宇佐神宮の祭神の表記は、八幡大神、息長帯姫、比売大神です。
一般の八幡神社の祭神の表記は、応神天皇、神功皇后(息長帯姫)、玉依姫です。

(神)玉依姫は神武天皇の母、(鴨)玉依姫は崇神天皇の母です。
八幡神社の祭神で「玉依姫」は(鴨)玉依姫を指し、崇神天皇の母となります。
崇神天皇は「はつくにしらす すめらみこと」と神武天皇を僭称(せんしょう)されているので、「玉依姫」の表記を厳密にすると、(鴨)玉依姫となり、神武天皇の僭称がバレルのです。
それで、この点を誤魔化すために、八幡神社、賀茂神社では「玉依姫」と表記されています。

宇佐神宮の祭神「比売大神」を時系列にみますと、
初期「宇佐神宮」の時代の祭神は「比売大神」です。
「宇佐八幡宮」の時代の祭神は「比売大神」+「応神天皇」です。
さらに、後に「比売大神」+「応神天皇」+「神功皇后」となります。

初期「宇佐神宮」の時代の「比売大神」は磐長姫です。
「宇佐八幡宮」の時代の「比売大神」は湍津姫(鴨玉依姫)となります。
さらに、時代が下がり、「比売大神」は宗像三女神となります。現在の表記です。

※宇佐宮八幡比咩(正八幡大幡主の姫・磐長姫=耀姫あかるひめ)

後の江戸時代に、「比売大神」を無理に「三女神」にした人がいたことになります。



 

7.安心院の三女神社

大分県宇佐市安心院(あじむ)町下毛(しもげ)に二女神社(三女神社)が鎮座です。
湍津姫(鴨玉依姫)が追祀されて、三女神社となります。

 

三女神社由来(一の鳥居二女神社)
由来 そもそも、三柱山三女神は日本書記神代巻にいわく「即ち日神(天照大神)の生みませる三女神を以って葦原の中国の宇佐島に降り居さしむ云々」とあり、即ち、宇佐島とは、この地、宇佐郡安心院邑、当三柱山一帯とされ、安心院盆地を一望する聖地で、宇佐都比古、宇佐都比売は三女神を祖神とするが故に全国唯一の三女神の御名前をもつ社であるにして水沼の君等がこれを祀る。爾来一環して、この地に鎮座して今日に至ると伝えられる。
境内は古代祭祀の面影を漂わせ幾多の史蹟と伝説とを有し、特に、三柱石始め多くの陰石を有し、宇佐神宮の元宮、お許山(大元山)の御神体となり、三個の女陰を形どる巨石の組み合わせと対照的に男根的存在を表わしているところに神秘さを蔵している。応仁天皇元年に社殿を改修したという記録がある。
江戸時代に至り、島原藩主累代、これを崇敬し三女神宮との異名を持ち多くの末社を数え二十二ヶ村の天神として崇敬せらると伝えている。(以下省略)

 

三女神の市杵島姫と田心姫・湍津姫(鴨玉依姫)は従姉・姉妹になりますが、三女神と宇佐都比古・宇佐都比売とは関係ありません。「江戸時代に至り、島原藩主累代、これを崇敬し・・・」は気になるところです。島原藩領は42%が安心院町中心の飛び地でありました。
 

肥前島原藩6万5900石の石高のうち、その42%の2万7600余石は、「豊州御領」と呼ばれる飛地であり、豊前国宇佐郡 豊後国国東郡の境界付近に展開していた。この境域は、現在の宇佐郡安心院町 宇佐市(一部) 豊後高田市 東国東郡真玉町(一部)にまたがる地域である。
 

島原藩主は松倉家→高力家→松平(深溝)家→戸田家→松平(深溝)家と変わっている。
筑紫宗像君末裔(一枚柏紋)もしくは事代主系の大名家はどの家か?
松平(深溝)家は賀茂氏の流れ、鴨玉依姫奉斎氏族です。

 

三女神社由緒(本殿 二の鳥居三女神社)
神代の昔、高天原に於いて天照大神は素盞嗚尊と盟約の結果
 田心姫の命  一の御殿
 湍津姫の命  二の御殿
 市杵島姫の命 三の御殿
の三女神を生み給い。葦原の中国の宇佐嶋に降し給うた宇佐嶋とは、この地宇佐郡安心院邑にして、豪族筑紫君等がこれを祀る。爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる。境域には現にこれに関する幾多の史跡と伝説とを有している。江戸時代に至り島原藩主累代これを崇敬し社領十石を奉納し或は宮殿を造営し或は矢壺提灯ならびに釣灯篭等を奉納した。(以下省略)

 

一の鳥居二女神社由来では「水沼の君等がこれを祀る」、本殿三女神社由緒では「豪族筑紫君等がこれを祀る」となっています。
筑紫水沼君の三女神への対応は明確です。
「三女神は三ヶ所にそれぞれ降られ、一所とあるは、日本書記の脱簡混文である」
奉斎女神は「田心姫」で止誉比咩神社の祭神です。
「豪族筑紫君等」とは、筑紫水沼君以外の「筑紫宗像君」と考えます。

田心姫(筑紫水沼君が祭る神)、市杵嶋姫(筑紫胸肩君が祭る神)で、「豪族筑紫君等」は筑紫水沼君、筑紫胸肩君となります。
よって、「三女神社」の本来の姿は「二女神社」で、筑紫水沼君、筑紫胸肩君が奉斎する田心姫と市杵嶋姫を祀る神社となります。田心姫と市杵嶋姫は大国主の妃です。

 

水沼井(おみず)
当社東南五百メートルの盆地内に根宮(もとみや)があり、神池として清水が湧出する。伝説によれば三女神天降り(あまくだり)の際の産水(うぶみず)とされ、雨や旱(ひでり)に増減混濁することなし。また手足の不ずいにも著効ありという。奉仕の社家は水沼氏と称し、お供えや炊事の水にも用いられたといわれる。この水沼井も安心院七不思議の一つである。

 

水沼井(おみず)=根宮(もとみや)は大国主を祀ります。
二女神社は大国主を排除して、
後に、湍津姫(鴨玉依姫)を合祀して三女神社とした人がいたのです。


※本来の二女神社とは
宗像三女神の起原は、大分県安心院の二女神社です。現在では三女神社となっています。安心院の三女神社の南の大分県安心院町木裳(きのも)に水沼社があり、二女神社の根宮(もとみや)とされます。水沼社のご神体は水沼井(おみず)で、八束水臣津野命=大国主を祀ります。ここの二女神は田心姫(たごりひめ)と市杵嶋姫(いちきしまひめ)です。
宗像大社の現在の祭神は三女神で、田心姫、市杵嶋姫、湍津姫(たぎつひめ)ですが、本当の主祭神は大国主命です。そして、次は市杵島姫、そして、いとこの田心姫、同じくいとこの湍津姫(鴨玉依姫)が宗像三女神です。
本殿の千木は外削ぎの男千木です。男神を主祭神とします。主祭神は大国主命です。本殿の奥地に大国主命を祀る高宮跡があります。


 

8.宗像の三女神

初期の三女神は次のようになります。

福岡県北野町大城の赤司の八幡神社の「止誉比咩神社本跡縁記」から
 田心姫  筑紫水沼君が祭る神、筑後国御井郡の止誉比咩神社、中瀛宮(なかつみや)
 市杵嶋姫 筑紫胸肩君が祭る神、筑前国宗像郡の宗像神社、遠瀛宮(おきつみや)
 湍津姫  豊前国宇佐郡の宇佐宮八幡比咩神社、海濱宮(へつみや)
三女神は、それぞれ別の所、宇佐・宗像・道中(大城)の三ヶ所に降られ、降居の事跡は三所各別であり、一所とあるは、日本書記の脱簡混文である。

三女神は三ヶ所各別に祀られ、現在のように宗像の一所には祀られてはいませんでした。

     所在地    神社名       宮 号       祭祀者
田心姫  筑後国御井郡 止誉比咩神社    中瀛宮(なかつみや) 筑紫水沼君
市杵嶋姫 筑前国宗像郡 宗像神社      遠瀛宮(おきつみや) 筑紫胸肩君
湍津姫  豊前国宇佐郡 宇佐宮八幡比咩神社 海濱宮(へつみや)  

「海北の道主貴(みちぬしのむち)の田心姫」の「海北」は筑後川中流域に入りこんだ有明海を中瀛海(なかつうみ)といい、中瀛宮(止誉比咩神社)がある現在の大城地域を「北の浜」と言いました。簡略して「海北」です。大城(おおき)も本来の呼称は王城(おうき=おうのしろ)と思っています。

ここでも、多岐都比売命(たぎつひめ)は「湍津姫」であり、「鴨玉依姫」の表示ではありません。原始宗像神社の祭神は市杵嶋姫と大国主(高宮)で、宗像神社を遠瀛宮(おきつみや)と呼んでいます。

田心姫と湍津姫を宗像に祭祀し、祭祀の配置換えが起きたことになります。
宇佐宮八幡比咩神社が宇佐神宮となった時、「比売大神」の湍津姫を現社殿の海濱宮(辺津宮)に祀り、市杵嶋姫を中瀛宮(中津宮)に配置変えし、田心姫を「海北の道主貴」として遠瀛宮(沖津宮)に祀ることになったのです。
宗像の三女神の誕生です。

 沖ノ島の沖津宮 - 多紀理毘売命(たきりひめ)   → 田心姫
  大島の中津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ) → 市杵嶋姫
  田島の辺津宮 - 多岐都比売命(たぎつひめ)   → 湍津姫(鴨玉依姫)

福岡県神社誌の表示と同じですが、現在の宗像大社の祭神表示は次のようになっています。
市杵島姫を本来の辺津宮本宮に戻されています。

 沖ノ島の沖津宮 - 田心姫(たごりひめ)
  大島の中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)
  田島の辺津宮 - 市杵島姫(いちきしまひめ)

現在の赤司八幡宮の主祭神は、「道主貴(三女神)」の表記になっています。
「止誉比咩神社本跡縁記」では、道主貴は田心姫ですが、最近の神社表記では、道主貴は三女神とされています。止誉比咩神社の根元は田心姫(豊玉姫)です。
宗像大社の表記に整合されたのでしょうか。

宇佐地方の神社の祭神は時代の政治的影響が強く、変遷が激しく、本来の本当の姿が見えなくなっています。公表される記録も少なく、過去現在の神社の姿が見えてまいりません。神社公表の由緒をそのまま信ずることができません。
神社探訪が難しい地域です。