宮原誠一の神社見聞牒(098)
平成31年(2019年)03月17日
平成31年(2019年)03月24日

 

No.98 仁徳天皇と那珂川の高津神社


福岡県那珂川市の山田一帯には開化天皇、神功皇后、豊姫、宇道稚郎子を祀る有名な神社群がありますが、

 裂田神社(開化天皇、神功皇后) 福岡県那珂川市安徳11
 伏見神社本宮(豊姫、天鈿女命、神功皇后) 福岡県那珂川市山田879
 乙子神社(宇道稚郎子) 福岡県那珂川市別所(井尻)488
 現人神社(崇神天皇)  福岡県那珂川市仲3丁目6-20

それにしては、開化天皇と神功皇后の皇子・仁徳天皇(大雀命・大鷦鷯尊 おほさざきのみこと)を祀る神社が見当たりません。脊振山南麓には仁徳天皇(若宮)を祀る若宮神社が多数あるのですが。

しかし、日本書記仁徳紀の「仁徳天皇の都について」「難波に都し、これを高津宮という」、その「高津宮」に関連する高津神社が山田の伏見神社の東方、寺山田の城山の麓にありました。

 

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                高津神社第一鳥居 

仁徳天皇の難波の高津宮(たかつのみや)は存在したか、否か、確定的ではありませんが、「高津宮跡碑」が大阪市天王寺区東高津町の府立高津高校の敷地内に建っています。

 

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1.那珂川の高津神社

元寇の折、砦に使用された岩門城(いわと)がある城山の麓に高津神社が鎮座です。
高津神社は磐座信仰と稲荷信仰を備えています。
「高津神社」の鳥居から急な階段を登り、赤い稲荷鳥居をいくつも通り過ぎ、登り詰めた磐座に社殿が鎮座です。

正一位高津神社 福岡県那珂川市山田359-3
祭神・由緒 創立不詳
高津正一位稲荷 豊宇気昆売神(天鈿女命) (山田区伏見神社本宮から頓宮される)
原田種直 岩門城主(龍神山)
高津権現 原田家の守り神である(糸島郡前原町八幡神社の熊野権現様から分祀
         → 前原市東1105の正八幡神社の境内社・熊野神社となります)
(平安時代、原田種直が伊都の高祖神社を勧請したのが始まりともいわれる。)

この高津神社は山田の伏見神社本宮の摂社となっています。山田の伏見神社は京都伏見稲荷大社の原点とされ、それが高津神社に反映されています。高津神社は山田の伏見神社から頓宮(とんぐう)されました。( 頓宮は仮の宮、一時的な宮のこと。)

  昔の高津神社の案内板には、高津正一位稲荷
              (山田区伏見神社本宮から頓宮される)
  と記載されていたのですが、今は、(山田区伏見神社本宮から頓宮される)が
  消されています。伏見神社と関連付けるのに、マズイことがあったのでしょうか

 

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「正一位」は稲荷神社のみに使用される神階ではありません。
仁徳天皇を祀る神社も「正一位若宮神社」といいます。佐賀県神埼市千代田町境原に鎮座です。南九州の仁徳天皇を祀る若宮神社は赤い鳥居の稲荷神社形式を見かけます。
仁徳天皇も物部族の流れであり、稲荷神社は物部族の隠れた斎祭神社です。一般神社の境内に稲荷神社が鎮座する神社は物部関係の神社とみてよいと思っています。
先の千代田町境原の正一位若宮神社も境内の奥に稲荷神社が鎮座です。

稲荷神社の祭神名の「宇迦之御魂」は「多くの御魂」という意味であり、稲荷神社は「多くの御魂」祀る神社となります。
本来の稲荷神社の祭神は罔象女神ですが、一般に、その娘さんの豊受大神(天鈿女命)を主祭神と表記しています。が、やはり、祭神は「多くの御魂の神々」と言うことでしょう。

多くの御魂の神々
 1.豊玉彦・罔象女神
 2.彦火々出見命・天鈿女命
 3.猿田彦大神(彦火々出見命)・豊玉姫
 4.開化天皇・神功皇后
 5.安曇磯良・淀姫(豊姫)

多くの御魂の神々に仁徳天皇を追加しますと、仁徳天皇と稲荷神社との関わりがよく説明できるのです。
日本書記は仁徳天皇を近畿の人としていますが、若き仁徳天皇、即ち大鷦鷯尊は脊振山一帯の人です。那珂川の山田に居られてもおかしくないのです。
佐賀県脊振山南麓の旧三瀬村、旧北茂安町を中心とする三養基郡には仁徳天皇を祭神とする若宮神社が驚くほど数多く鎮座です。

 

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           左手が岩門城登り口、高津神社第二鳥居 
 

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             大岩の上に社殿があります 
 

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          高津姫稲荷大明神(神額の額縁は若宮仁徳です) 


春日大神は天児屋根命(あめのこやね)となりますが、春日大社の元々の本当の祭神は罔象女神様(みずはのめのかみ)であり、罔象女神(神大市姫 かむおちひめ)を春日神(かすがのかみ)と称しました。
罔象女神を祭神とする春日神社が本来の春日神社ですが、奈良の春日大社は、この春日神社に祭神三柱を追加したものとなっています。
祭神三柱とは海幸彦、山幸彦、姫大神(天鈿女命)です。
海幸彦は天児屋根命(あめのこやね)名前で祀られています。
山幸彦は経津主命(ふつぬし)です。香取の神です。
罔象女神は春日大社のもう一つ格上の神様とされます。
また、罔象女神・天鈿女命の親子を春日神とすることもあります。

天鈿女命は当初、海幸彦の妃でしたが、後に山幸彦の妃となられます。その天鈿女命のお母様が、更に上格の罔象女神様で、天鈿女命は父・素戔嗚尊と母・罔象女神との間に誕生された姫君です。その義母と言うべき罔象女神を、実母を差し置いて、海幸彦と山幸彦が共に奉斎されている。ライバル海幸彦と山幸彦が天鈿女命をめぐって、今も糸島半島(西浦と宮浦)の神社の祭りで対立されているのです。

稲荷神社の主祭神である「罔象女神(神大市姫)」「天鈿女命」は親子(母娘)ですが、これを奉斎する支持基盤も二系統になります。海幸彦、山幸彦は共に「罔象女神・天鈿女命」を奉斎するライバルです。よって、稲荷社でも海幸彦支持基盤の稲荷か、山幸彦支持基盤の稲荷か、わきまえる必要があります。海幸彦基盤の稲荷は「犬祖伝説」に基づきます。山幸彦基盤の稲荷は「物部奉祭神社」です。強いて名(造語)を付けて言えば、鹿島系稲荷社、香取系稲荷社の二系統になります。祭祀を間違わないようにしましょう。



 

2.正一位若宮神社

佐賀県脊振山南麓の代表的な仁徳天皇を祀る若宮神社です。
現在は神埼市千代田町境原(さかいばる)に遷座です。

  由緒
  脊振山南麓の旧脊振村広滝の鷹取山に鎮座であったが、永禄12年(1569) 佐賀藩祖
  鍋島直茂公により神埼郡六丁牟田に遷座。文禄3年(1594) 後陽成天皇より神階
  正一位を受ける。寛永18年(1641) 現在の佐賀県千代田町境原に遷座し、社号を
  正一位社と称する。

 

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正一位若宮神社 佐賀県神埼市千代田町境原(原の町)852-1
祭神:仁徳天皇

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                奥宮の正一位稲荷神社 

伏見稲荷大社の神紋は「門光紋」です。隠れた主祭神は「豊玉彦・罔象女神」で、表向きの主祭神は「天鈿女命」ですが、「宇迦之御魂=多くの御魂」の中心は開化天皇でしょう。
その息子若宮の仁徳天皇を奥宮から見守っておられるのでしょうか。
それとも、開化天皇、仁徳天皇、親子共に祀られておられるのでしょうか。
仁徳天皇を祀る神社にはよく稲荷社が鎮座されています。物部神社の象徴です。



 

3.葛木一言主命・仁徳天皇を祀る葛城神社

脊振山南麓の山頂、山地に鎮座であった神社は、江戸期に平野部の干拓と治水事業がすすみ、経済活動が豊に、生活が便利になると、南麓の山間から平野部へ遷座しています。
正一位若宮神社もそうですが、佐賀県神埼市脊振町鹿路(桂木)の一言主を祀る鹿路神社も平野部の三根町天建寺の葛城神社に遷座(分祀)されています。
祭神は葛木一言主命(事代主)で、葛城襲津彦の祖となりますが、その姫・磐之媛は仁徳天皇の后で、脊振山南麓は仁徳天皇、葛城襲津彦の所縁の地となります。
事代主(葛城)と関係がある有名人は、
 神功皇后(息長帯比売命、母・葛城高額媛)
 天智天皇(天命開別尊、葛城皇子) ですが、
天智天皇は別王です。本流の天皇ではありません。若き天智天皇は脊振の麓に住んでおられました。(No.84 朝倉山田の長田大塚古墳は何を語る ⑩ No.80 朝倉恵蘇宿の筑後川を往復した三韓の貢船 ⑥ より)
天智天皇は近畿王朝系(豊玉・阿蘇系)、天武天皇は九州王朝系(姫氏系)となります。

葛城神社 佐賀県三養基郡みやき町(旧三根町)天建寺2069の2
 祭神 一言主命・仁徳天皇他

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鹿路神社  佐賀県神埼市脊振町鹿路(桂木)253

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4.仁徳天皇を祀る大阪の難波神社

仁徳天皇が築いたとされる高津宮(たかつのみや)の所在地は、それが存在したか、否かという点を含め、なお確定的ではないそうです。
「高津宮跡碑」が天王寺区東高津町の府立高津高校の敷地内に建っています。

高津宮(たかつぐう)
大阪府大阪市中央区高津1丁目1-29
貞観8年(866)、清和天皇の勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。
「高津宮跡碑」が天王寺区東高津町の府立高津高校の敷地内に建っている。跡碑は明治32年(1899)に立てられたものです。

東高津宮(ひがしこうづぐう)
大阪府大阪市天王寺区東高津町4-8
御祭神:仁徳天皇、磐之姫命
創建の不詳。元高津宮(東高津宮から高津宮に遷座)。
近鉄上本町駅の所に鎮座されていが、昭和7年、駅拡張の為、現在地に遷座。

仁徳天皇を祀る大阪の難波神社
大阪府大阪市中央区博労町4丁目1-3
摂津国総社として難波大宮または平野神社、他にも上難波仁徳天皇宮、上難波神社、難波上宮、稲荷社(博労稲荷神社がある為)と呼ばれていたという。
ここでも仁徳天皇を祀る神社に稲荷社が鎮座されています。
仁徳天皇と稲荷社はよく関連して出てきます。

 

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                  難波津の古図 


5世紀の初め、反正天皇が河内国丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや 現松原市上田七丁目)に還都を行った時、同地に父仁徳天皇をしのんで創建され、仁徳天皇、倉稲魂を祀る。(丹比柴籬宮の存在を確かめる遺構や遺物は見つかっていません。)
天慶6年(943)朱雀天皇の勅命により摂津平野郷(現天王寺区上本町)に鎮座された。
豊臣秀吉が大坂城を築く際に、天正11年(1583)現在の地に移転となる。
当地は上難波村といわれ、社号は「上難波神社」又は「仁徳天皇社」と称していたが、明治8年(1875)「難波神社」と改められた。
                     「難波神社パンフッレトから編集」

 

福岡県久留米市草野町の「山本郡吉木村若宮八幡宮縁起」には次のように記されている。
鳥羽天皇文治年間(1185-89)草野太郎永平公、仁徳天皇を祀る摂津難波本社を勧請。
本社は難波大江橋(能人橋)にあり。難波本社は豊臣秀吉公により上難波村に遷座す。
勧請の神輿が山本郡蜷川村に至った時、風雨大発洪水暴溢、仮殿を設け、神輿を翌年の11月まで奉安する、とあります。
よって、草野町吉木の若宮八幡宮と蜷川の箱崎八幡宮の古宮では同じ門光紋の丸軒瓦が使用されました。
かつて、門光紋の丸軒瓦を見ることができた神社は、久留米市草野町吉木の若宮八幡宮(祭神・仁徳天皇)と久留米市大橋町蜷川の箱崎八幡宮の古宮・平野神社(祭神・仁徳天皇)です。
開化天皇の紋章「門光紋」が息子の仁徳天皇「若宮」に引き継がれています。

 

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        丸軒瓦の門光紋(吉木の若宮八幡宮の楼門に二次使用された)
        No.41 福岡県吉井町の水神・水分神と吉井物部 ③ より

草野町吉木の若宮八幡宮 福岡県久留米市草野町吉木2404

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蜷川の箱崎八幡神社の古宮平野神社 福岡県久留米市大橋町蜷川1012
現在の蜷川の箱崎八幡神社は新しく改築されています。

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5.河内について

伏見神社で氏子総代の方と偶然に出会い、お話をうかがうことができました。
新たな話として、山田の那珂川にかかる橋「荻原橋 おぎわらはし」一帯が、「祓祝詞」で言われる「筑紫の日向の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あはきはら)」の阿波岐原であったと聞いてびっくりしました。地名が「岩戸村」であり、伏見神社の岩戸神楽がありますように、古事記の列島古代の神話の中心を思わせます。
また、ここ、山田一帯は、古代では「河内」と言っていたと聞いていました。
「仁徳天皇と高津宮」言及しておきながら、仁徳天皇のゆかりの地名「河内」をすっかり忘れていました。
急遽、調べようと、ネットで検索しましたら、すでに詳しく調査された方がおられました。
「泉城の古代日記 コダイアリー」河内 2017/12/5
https://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/56147922.html
管理者「石田泉城」氏で、古田史学の会員であり、連携ブログでもあります。
ここ那珂川山田の地が「仁徳天皇と高津宮と河内」と関連があることがうかがわれます。
借用し、要約記載します。

 

「泉城の古代日記 コダイアリー」河内 2017/12/5
河内と言えば、近畿の河内が思い浮かび、通説では、この「河内國」は、現在の大阪府南東部とされます。ただし、「河内國」を「國」とする点についてはやや疑問があります。実は北部九州には、「河内」の地名が広範囲に存在します。
『筑前国続風土記 巻之六 那珂郡 下』(中村学園大学所蔵)では、「岩戸河内」(19/41コマ)の項に、「仲村・五郎丸・松木・今光・道善・後野・東隈・西隈・安徳・中原・梶原・片縄の12村」とあり、これらは岩戸の河内に包括されます。

同じく『筑前国続風土記 巻之六 那珂郡 下』の「五箇山」(33/41コマ)の項には、「岩戸の川上、深山の内に五村あり。故に五箇山と云。網取、道枝折(みちしをり)、桑野・河内、大野、小河内、是なり。一瀬より龜尾嶺(かめのたうげ)と云山を南に越れば、則五箇山の郷内なり。此河筋にて岩戸を一河内とし、山田を一河内とし、四筒畑を一河内とし、又五箇山を一河内とす。同流の上下に四の河内あり。」とあり、岩戸・山田・四筒畑・五箇山の四つの河内があったとされます。

岩戸河内は、先述のとおり那珂川の中下流域、山田河内は岩戸の上流で裂田溝(さくたのうなで)や伏見神社本宮のあるところ(現・那珂川町山田のあたり)であり、さらにその上流が四筒畑河内(現・那珂川町成竹や埋金のあたり)です。そして最上流が五箇山河内です。五ヶ山ダム建設に伴う集団移転の前までは、那珂川町大字五ヶ山字東小河内や字桑河内など河内の地名が残っていました。このように岩戸の川上である五ヶ山周辺も「河内」とよばれていました。

このほか、『筑前国続風土記略』(国立国会図書館デジタルコレクション、永続的識別子: info:ndljp/pid/2541318、15/59コマ)では、那珂川沿いの仲村・五郎丸・松木・渡聖・東隈・西隈・安徳・中原・梶原・片縄の10村をまとめて「岩戸河内」の項に記されます。

となると、福岡の那珂川流域を中心に那珂川町を含む広い範囲に「河内」が広がっていたことになるでしょう。

 

高津神社が山田の伏見神社本宮の頓宮(とんぐう)であったことを考えますと、「高津宮」は伏見神社本宮と高津神社を合わせたものになります。そして、仁徳天皇で有名な「人家の竈の炊煙が立つのを眺めた」高津の高台は高津神社付近の城山となります。眼下に広がる地域が「河内」です。
その後、仁徳天皇が近畿に移られたとすると、「河内」地名の近畿への移動となります。
やはり、古代の中心は九州にあったのです。