宮原誠一の神社見聞牒(090)
平成31年(2019年)01月21日

 

No.90 三足ヤタガラスの伝承を持つ球磨の岡留熊野座神社 ③

 

昨年の2018年(平成30年)11月18日、熊本県球磨のあさぎり町のアメブロ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」ひろっぷ管理人を訪問し、「ひぼろぎ逍遥」管理人・古川清久氏と共に球磨郡あさぎり町の主だった神社を見聞することができました。第一回の報告は「No.86 熊本県球磨郡の岡原霧島神社と王宮神社の本質」にて行っています。
続いて、熊野神社について報告です。
ここ、あさぎり町では「三足ヤタガラス」の伝承が氏子さんにより引き継がれていることを知ることができました。

 岡留熊野座神社 熊本県球磨郡あさぎり町免田西1582
 熊野神社 熊本県球磨郡あさぎり町岡原北 熊野

あさぎり町の熊野神社二社を中心とした話です。

 

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1.岡留熊野座神社(おかどめくまのざじんじや)

おかどめ幸福駅近くの南東の通称岡留台地に鎮座され、周辺一帯は古代遺跡で、縄文、弥生期の土器の破片がよく出土するあさぎり町の古代の代表的な地です。
蒙古襲来の鎌倉時代、弘安の役(弘安4年 1281年)の前年、球磨郡の当主第四代相良頼俊公が、国家の安全を祈るために岡留神社を建立したと伝えられている。
その神社に「三足ヤタガラス」の伝承が氏子さんにより引き継がれた証がありました。
三足ヤタガラスは、正八幡・大播主(熊野神社祭神・熊野大神)の王子・豊玉彦を日本書記が貶(おとし)めた名称です。その紋章が氏子さん達により「平成14年世界サッカー選手権日本代表必勝祈願」奉納図に表記されていました。
近くには「熊野」集落があり、その地区には熊野神社が鎮座です。また、近くの斎堂(ときどう)には正八幡・大播主を祭神とする正八幡宮が鎮座です。あさぎり町平野部には大播主系神社が色濃く残ります。

 

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岡留熊野座神社 熊本県球磨郡あさぎり町免田西1582

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       本殿(神殿)「剣梅鉢」紋は相良氏の神社建立の関与を示す
 

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岡留熊野座神社
第四代相良頼俊が元寇に際して敵国降伏を祈念し、弘安3年(1280)創建。
祭神 伊邪那岐神(いざなきのみこと)
   伊邪那美神(いざなみのみこと)
   速玉男之大神(はやたまおのおおかみ 大播主・熊野大神)
由緒
当神社は免田郡中の宗社にして、弘安4年(1281)、四代相良頼俊、和歌山県熊野三所権現を当地に勧請。現在の社殿は、昭和6年に造営されました。
現在の境内中段の右には、二所権現があり、この神殿が岡留神社の旧本殿です。この神殿には、神像として六体が祀られています。二体には、享保十年(1725)の銘、二体には、承応二年(1653)の銘がありますが、他の二体は、無銘です。その他にも、毘沙門天像二対と牛頭天王像があります。
また、境内中段の左には、雨乞いの神を祀る雨の宮があり、大黒天一体、尊名がわからない神像座像四体があります。
この社は、通称岡留台地に建てられており、周辺一帯は古代遺跡で、縄文、弥生期の土器の破片がよく出土します。また、社の東方には、中世期の城跡も残っています。その他、拝殿の西側に五輪塔が約十基程残っていますが、銘がないのでいつ頃のものかは、はっきりしません。(熊本県庁HPより一部引用)

 

現在の熊野座神社は、四代相良頼俊公により、弘安4年(1281)、和歌山県熊野三所権現を当地に勧請し再興しています。それ以前の古宮は、境内中段の右に、二所権現として岡留神社の旧本殿が鎮座です。
祭神は、伊邪那岐神、伊邪那美神、速玉男之大神となっていますが、
熊野神社の三神は、

 速玉男神(はやたまのお)正八幡・大幡主(博多櫛田神社の祭神)
 熊野夫須美神(くまのふすみ)大幡主の妃
 事解男神(ことさかお)

となり、この祭神の配祀が熊野神社の基本祭神となります。

よって、伊邪那岐神によって、事解男神が消されています。
伊邪那美命が伊邪那岐命と夫婦であったのは一年程度と云われ、夫妻の王子が素戔嗚尊(すさのおのみこと)となります。その後、伊邪那美命は博多の櫛田神社の祭神・大幡主の妃となられ、大幡主と伊邪那美命の間の御子が磐長姫(=阿加流姫・耀姫)となります。
事解男命は和歌山県新宮市の阿須賀神社の主祭神として祀られています。
熊野権現を整理しますと、次のようになります。

 熊野本宮大社  和歌山県田辺市   主祭神・磐長姫(=阿加流姫・耀姫)
 熊野那智大社  和歌山県那智勝浦町 主祭神・熊野夫須美命
 熊野速玉大社  和歌山県新宮市   主祭神・大幡主(速玉男命)
 阿須賀神社   和歌山県新宮市   主祭神・事解男命(ことさかお)


四代相良頼俊公が、弘安4年(1281)、和歌山県熊野三所権現を当地に勧請し再興していますが、その前にすでに二所権現(窪権現・熊野大神)として岡留神社が鎮座です。
相良頼俊公が古宮の二所権現の岡留神社を排除して、和歌山県熊野三所権現を勧請し、事解男命の神様を消さなければならない理由は何だったのか?
また、古宮の二所権現を排除することは、大山祇・大国主を排除することになります。
四代相良頼俊公が金山彦、大山祇、大国主を排除する理由はいかに?

 

ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について
「球磨・守った人達、消した(隠蔽した)人達」2018-11-10 にて
私は「相良氏」と「古代の関わり」に対して、今までの先入観を取り除いた上で、今回「球磨」との関わりについて考えて、調べてみました。
そして、相良氏が「球磨の古代」を守って来られた事の証明が「才園古墳」である事にようやく気が付く事が出来ました。

 

歴代の相良氏は「球磨の古代」を守って来られた、球磨の領主です。
四代相良頼俊公に至って、大幡主奉斎を前面に出し、古代の大物神様、金山彦、大山祇、大国主を隠さなければならなかったのか。

元寇 → モンゴル元軍 = 騎馬民族 → トルコ系匈奴 = クマソ物部 = 大山祇、大国主

と云う間違った意識力学が働いたのではないか。
当時の鎌倉幕府、御家人は、現実に直面しているモンゴル元軍との戦い、これは国家的存亡の危機に直面した戦いでした。その元軍の古代先祖をたどれば、トルコ系匈奴である大山祇、大国主も古代先祖は同じではないかという、間違った意識が働いたのではないでしょうか。その結果、、大山祇を祀る月読神社、大国主を祀る大国主神社は"けしからん"といって取りつぶしが行われた。大国主を祀る神社は義理の息子の大山咋神を祀る日吉神社に取って替られた、とみるのです。筑後地方の日吉神社は、この傾向があります。日吉神社の古宮は大山祇神社だったり、大国主神社であったりします。
私の近くの高嶋の天満神社は記録にも残る大国主を祀る神社でしたが、その痕跡が一切残らない天満神社に代わってしまいました。
しかし、前面祭祀での大国主神社はなくなりましけれども、境内社として、各地の神社の境内の片隅にひっそりと祀られておられます。あるいは、祭神が大国主、大山祇であることがわからないように、神社形式を変えて祀られていて、これを知る者は奉斎氏子さんのみで、外部の者にはわからないようになっています。このような神社巡りは、心ある者にとっては理解しがたい混乱を来たします。
(ブログ「No.24 老松神社シリーズ ⑥ 朝倉市下渕の大国主」参考)
金山彦の神もよく消される神様ですが、その原因については調査中です。



 

2.岡留熊野座神社の「六角形」と「ふくろう」

境内中段の階段の登り口の両側には「六角形」の燈籠があります。六角形は大幡主の紋の基本形です。亀甲紋、籠目紋(六芒星)は基本が六角形です。
(当ブログ「No.74 鶴と亀をひっくり返したら何になる?」参照)

 

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拝殿の入り口の横に「ふくろう(みみずく)」の絵描き置物があります。
大幡主と熊野神社との関わりは何でしょう。
答えは「ひろっぷ」さんのブログにありました。

 

ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について「球磨弁とヘブライ語」
2018-10-09
球磨弁(但し岡原限定) チョッポカスケ=ふくろう・みみずく
球磨弁(但し岡原限定)で、「ふくろう」や「みみずく」の事を「チョッポカスケ」と言います。もはや、こうなると日本語ではない!と言う感じですが・・・
以前、この「チョッポカスケ」をヘブライ語で探したのですが見つかりませんでした・・
(中略)
「チョッポカスケ」は朝鮮半島に何か由来を知る手掛かりがあるのでは・・?と考えて調べたのです。しかし・・「チョッポカスケ」=ふくろう・みみずく と表現する「言葉」を朝鮮半島に見つける事は出来なかったのですが・・・
「チョッポ」とは、韓国語で「一族の系譜」を指すと言う事までは知る事が出来ました。
うん(?_?)・・・そうすると・・・あっ!!
岡原の人は「ふくろう・みみずく」を御先祖様!と呼んでいるのかっ!!???
いや!!そんな事は無いはずです。いくら何でも、御先祖様が「ふくろうやみみずく」とは
あくまでも、御先祖様は人間様である事に間違いはない!
と・・考えている時に、最近、気が付いたのです。
きっかけは、ブログ『父が歌うバビロニアの歌・・?』を書いた事にあります。
(中略)
チョッポカスケ(ふくろう・みみずく)が両脇にいらっしゃる・・・!!
本当に驚きました・・・
そう言えば・・バビロンのイシュタル門の遺跡には「菊花紋」が・・・・
偶然だとは思いますが、岡原の方言「チョッポカスケ(ふくろう・みみずく)」
他の地方には無い言葉ですが、古代の岡原村地域、いえ球磨に住んでいた人達の源流を 何か見てしまったような気持ちになりました・・・
平河・・平(ヒラ)・・ヒラはヘブライ語で「高貴な」
ここまでのお話で、頭が「メソポタミア」から古代朝鮮半島そして球磨とグルグル廻りながら
ふと・・平河氏の平河について考えました。

 

「岡原(岡本・宮原)の人は『ふくろう・みみずく』を御先祖様!と呼んでいるのかっ!」
大幡主ご一統は、岡原(岡本、宮原)の人にとって御先祖様であることを表現されていた、ということでした。さらに、その源流は古代ヘブライまで遡(さかのぼ)るのです。
後でのべますが、「三足ヤタガラス」「ふくろう」等と、「鳥」の隠し表現が実にうまい。

 

コメント資料
「泉と平」
八代郡氷川町宮原の氷川の上流に九州王朝のイズミ(八代市泉町)があります。中心が白木平(しらきびら)ですが、その周辺に「平」のつく地名があります。
塩平、広平、鳩平、平山、平原
今まで、これらの地名に着く「平」の意味がわかりませんでした。
今回のひろっぷさんのブログにより、「平」がヘブライ語で「高貴な」という意味で納得しました。高貴な地名でした。
また、福岡県糸島の曽根の平原(ひらばる)遺跡ですが、ヒミコの墓といわれています。その「平原」の意味を「高貴な丘」と理解しました。
ありがとうございました。
神社見聞牒 2018(30).10.15

「平原」の平はヘブライ語で「高貴な」、「原ハル」はヘブライ語で「小高い山、岡」でした。
奈良の平城京の北部の小高い山地は「平城山 ならやま」と言われますが、別名「平山 ひらやま ならやま」です。ヘブライ語で「高貴な小高い山」と云う意味になります。今は近代建築家屋が立ち並ぶ大規模住宅街となっていますが。



 

3.古宮の二所権現・旧岡留神社

現在の境内中段の右には、二所権現があり、この神殿が岡留神社の旧本殿です。この神殿には、神像として六体が祀られています。二体には、享保十年(1725)の銘、二体には、承応二年(1653)の銘がありますが、他の二体は無銘です。
また、境内中段の左には、雨乞いの神を祀る雨の宮があり、大黒天一体、尊名がわからない神像座像四体があります。(熊本県庁HP一部より)

 

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二所権現の旧本殿の木板に祭神名が記載されています。

 旧岡留熊野座神社ご神殿 ご祭神名
 窪権現(熊野大神)  正八幡・大播主
 天神(菅原道真公)  天満神社祭神
 八王子神(霧島系神) 大国主 八岐(大山祇)の王子 霧島岑神社祭神
 二宮神(阿蘇大神)  阿蘇津姫(阿蘇二宮)それとも健磐龍命と阿蘇津姫の夫婦神か?
 池王神(龍水神)   呉王 池王神社 球磨郡多良木町東
 北嶽日吉神(子供の神) 大山祇・大国主 北嶽日吉神社 球磨郡相良村四浦字小鹿1598

二所権現ですから、旧本殿は二系統の神様が祀られていたのでしょう。
二系統の神様とは大幡主ご一統と大山祇ご一統でしょうか。
祭神名を私なりの解釈で一般表記してみました。

窪権現(熊野大神)、天神(菅原道真公)は、そのままでよいでしょう。大幡主系の神様です。

八王子神(霧島系神)を八岐(大山祇)の王子の大国主としました。大国主は霧島岑神社の隠された祭神です。

 

霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)
宮崎県小林市細野4937
祭神 夫婦神三組
   瓊々杵命   木花咲耶姫命
   彦火々出見命 豊玉姫命
   鵜草葺不合命 鴨玉依姫命
当初は高千穂峰と火常峰(ひのとこみね、御鉢の旧名)の中間地点「背門丘(せとお)」(宮崎県西諸県郡高原町)にあったが、霧島連山の噴火により社殿がたびたび焼失し、文暦元年(1234)に天の井が渇水したことから日向国(宮崎県)側の麓に遷座することとなった。享保元年(1716)に新燃岳が噴火し社殿が再び焼失、同10年(1725)に夷守岳(ひなもりだけ)の筑地に遷座した。
明治6年(1873)に同じく霧島六社権現に数えられていた夷守神社を合祀した後、夷守神社跡地に遷座し現在に至る。
霧島岑御神像六躰(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫、彦火火出見尊、豊玉姫、鵜草葺不合尊、玉依姫)は、市指定有形文化財に指定されています。

実際は、開化天皇、大山祇、大国主を主祭神とするクマソ物部神社です。
神輿(みこし)は高良大社の神輿と同じで、屋根に鳳凰が乗り、屋根に下がる歩遥は門光紋が打ってあります。開化天皇の神輿です。また、亘殿の鳥居には物部の「日負鶴」が彫刻されています。物部の鶴です。

 

二宮神(阿蘇大神)は、阿蘇二宮の阿蘇津姫か、それとも健磐龍命と阿蘇津姫の夫婦神か、どちらでも取れます?
 

阿蘇十二明神
一の神殿(左手、いずれも男神)
 一宮:健磐龍命(阿蘇都彦命)
 三宮:國龍神 別名草部吉見神。天忍穂耳命(海幸彦、春日大神、天児屋根命)
 五宮:彦御子神 - 一宮の孫。惟人命
 七宮:新彦神 - 三宮の子。天忍日命
 九宮:若彦神 - 七宮の子。日中咋
二の神殿(右手、いずれも女神)
 二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃。三宮の娘。天比理刀咩命、寒川姫
 四宮:比咩御子神 - 名草部吉見妃。市杵島姫
 六宮:若比咩神 - 五宮の妃。( )
 八宮:新比咩神 - 七宮の娘。奈留多姫
 十宮:彌比咩神 - 七宮の妃。雨宮姫
諸神殿(最奥、いずれも男神)
 十一宮:國造速瓶玉神 - 三宮の子。大山咋神
「国造本紀」によれば、初代阿蘇国造に任命さる。
 十二宮:金凝神 - 一宮の父。神沼河耳命、第2代(贈)綏靖天皇。

 

池王神(龍水神)は、球磨郡多良木町東の池王神社の祭神・呉王(呉の太伯王・夫差)としました。夫差は呉王闔閭(こうりょ)の王子。
 

呉王闔閭(こうりょ)の墓の推定地・虎丘
2008年6月4日、中国新聞網によれば、"呉中第一の名勝"と称される蘇州市郊外の"虎丘"にある"剣池"の水が20年ぶりに抜かれた。言い伝えではこの池は、紀元前496年に世を去ったとされる呉王闔閭(こうりょ)の墓の入口だという。
虎丘は2500年もの歴史を持ち、その虎丘にある"剣池"は虎丘観光の目玉となっている。地方誌の記述によれば、剣池は「絶えず涸れることなく澄み切った水が湧き出る」とされ、"天下第五泉"とも評されている。また1961年には、全国重点保護文化財にも認定されている。
その剣池の持つ最大の魅力は、池の下に呉王闔閭の墓があるという言い伝えで、"剣池"という名称も、闔閭王が生前に好んだ金の剣が副葬品として埋葬されたことに由来しているという。

 

北嶽日吉神(子供の神) は球磨郡相良村四浦字小鹿1598に鎮座の北嶽日吉神社の祭神、大山祇・大国主とみました。日吉神から祭神は大山咋神と取れそうですが、本当の祭神ではありません。熊本県神社誌では大山祇神とされています。
福岡県筑後地方では日吉神社の祭神は「大山祇神」であったり、「大国主、事代主」であったりします。
ここでも、大山祇、大国主外しが行われています。



 

4.岡留熊野座神社の境内社「雨の宮」

境内中段の左には、雨乞いの神を祀る雨の宮があり、中央に黒服と白服の衣冠束帯のご神体二柱、左脇殿に古い衣冠束帯のご神体一柱があります。中央の二柱が本来の「雨の宮」の祭神でしょう。
 

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球磨盆地は南北を険しい山々に囲まれ、平地に球磨川が流れます。谷川の水も平野部を潤し、水不足の干ばつが起きるのだろうか、と球磨盆地を車で走っていた時の感想です。
普通、雨乞いの神様といえば、水天龍王の豊玉彦、水神龍神の罔象女神(みずはのめのかみ)を祀る神社となるのですが。筑後川流域では、この二神を祀って「水神水天宮」とします。別名「徳満宮」です。
中央に黒服の衣冠束帯のご神体が水天龍王の豊玉彦でしょうか。

球磨盆地で似たような神社が、あさぎり町岡原北の黒原山中腹に雨引神社(あまびき)が鎮座です。

  雨引神社 黒原山山腹に鎮座
  社家傳云 垂跡神三所
  雨引明神 山王権現 八大龍王
  傳云雨引明神ハ罔象女命

罔象女命が本来の祭神と思うのですが。八大龍王は水天龍王の豊玉彦、山王権現は日吉神社の祭神・大山咋神と取れそうですが、山王権現は本来、彦火々出見命(山幸彦)です。
(ブログ「No.71 高良九体皇子と坂本命と二人の門神様 ②)」参照)
雨引神社の三祭神を考えますと、雨引神社は福岡県田主丸町浮地の徳満神社(水神社)と同じ神格となります。

雨引神社の鎮座位置は黒原山中腹にあり、黒原山は球磨盆地を全体的に見下ろす位置にあります。大播主、大山祇、金山彦を古代の第一世代の神々とするならば、豊玉彦、彦火々出見命、瓊々杵命は古代の第二世代の神々となります。雨引神社は球磨盆地を鎮守する古代の第二世代の神々の社ととれるのですが。

 雨引神社の祭神
 八大龍王は水天龍王の豊玉彦(大播主の王子)
 水神龍神の罔象女神(大山祇の王女)
 彦火々出見命(物部の太祖、庚申様、大播主とヒミコの皇子)

 

雨引神社(あまびき)の本来の姿は?
天曳きの神社とみています。天孫(ニニギ命ではありません)を迎えるための神社です。
第一世代の古代神々よりも更に古い世代の神々の天孫です。
表記の神々は黒原山の麓の各神社に祀られています。二重祭祀となります。
実際に山を登って参拝していませんので想定です。



 

5.拝殿側壁の「三足ヤタガラス」が描かれた祈願書版

拝殿(向かって右)側壁に「三足ヤタガラス」が描かれた祈願書版が掲げてあります。
「平成14年6月開催 世界サッカー選手権日本代表必勝祈願」と書かれています。
中央に「日の丸国旗」「サッカーボールを踏む三足ヤタガラス」(JFA旗)が描かれています。
最後に「神鳥"八咫烏(やたがらす)"岡留熊野座神社」とあります。

 

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「ヤタガラス」といえば、日本書記では、神武天皇の東征のおり、行き先案内を努めたのがヤタガラスとされています。「ヤタガラス」の実態が隠されています。
実際には「神武天皇の東征」による列島武力統一は行われていません。実態は神武天皇による「列島巡幸視察」です。神武天皇43歳の時です。百嶋メモには、その時参加された古代の神様名と年齢が記入されています。
大播主55歳、豊玉彦33歳、大山祇54歳、大国主23歳となっています。
「ヤタガラス」は正八幡・大播主です。大播主、豊玉彦が操船する大型船に乗り、列島巡幸視察が行われたのです。
その「ヤタガラス」が祈願文に記載されている。しかも、「三足ヤタガラス」として描かれている。この地区の人達は、自分達の御先祖様が大幡主ご一統と自覚されていたのでしょうか。
氏子さんによる「三足ヤタガラス」の手書きの絵を見るのは初めてです。
当初、拝見しました時、驚きと感動を覚えました。
大幡主ご一統のご子孫と熊野神社の関わりがよく分る神社でした。

 

補足資料 日本サッカー協会のシンボルマーク
協会のシンボルマークとして1931年から使われている。
「JFA旗の黄色は公正を、青は青春を表し、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現しています。このシンボルマークは、東京高等師範学校の内野台嶺(JFA理事)ら当時の協会役員らが発案し、彫刻家の日名子実三氏がデザイン化。1931(昭和6)年6月3日に理事会で正式に採用することが決まりました。」
八咫烏が日本サッカーの象徴となったのか? そこには、和歌山出身で日本にサッカーを本格的に紹介した明治の指導者、中村覚之助(1878-1906)の存在があったとされる。しかし、その理由ははっきりしなくて、由来の説明が明確でないと、批判の的になっているとか。

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       神武天皇の「列島巡幸視察」の随行神とその時の年齢

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6.あさぎり町岡原北の熊野集落の熊野神社

「ひろっぷ」さん宅から北に500m程に、熊野神社を奉斎する熊野地区(村)があります。
11月18日、ひろっぷさん、古川さんと共に訪問した時は、ちょうど、秋例祭の準備が整い、ご婦人達がくつろがれている時でした。
拝殿は公民館と兼用になっており、その裏に本殿(神殿)があります。

熊野神社 熊本県球磨郡あさぎり町岡原北 熊野

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宮座のご婦人達としばらく話すことができました。
私があさぎり町の神社の調査に来ていることと、その意義。私の故郷・田主丸町とあさぎり町の古代の繋がりを簡単に説明いたしました。私の遠い先祖は、ここあさぎり町であり、古代人は北上し、筑後の田主丸、吉井までやって来られたと。そして、私は、球磨あさぎり町の方と同族です、と申しました。
その時の一人の御婦人の言葉です。

  熊野の奥さん方が宮原様に「こっちの人のごたる(人みたいです)お顔が
  こっちの顔をされている」と言われていましたが
  私も宮原様を凄く近い親戚のように感じていました。 「ひろっぷ」さんメモ

私も、球磨あさぎり町の人間になり切って話を進めていることに気づきました。
楽しい、ほんのひとときの時間でした。

社殿は解放的で、本殿(神殿)内を拝謁できました。
正八幡・大播主ひとり鎮座です。
熊野神社の説明板が掲げてありました。

  今から約500年前、蓑毛(みのも)重勝、重房、重光の三人が大壇那となり、
  紀州熊野の那智権現を勧請し、当地の繁栄を祈願した社です。
  祭神は伊邪那美命、速玉男命、豫母津事解男命。
  明治33年拝殿改築の板書がある。本殿は板葺で、鞘堂は萱葺である。
    例大祭 11月19日
      平成元年二月      岡原村教育委員会

久米蓑毛(みのも)は 現・多良木町久米です。
祭神は伊邪那美命、速玉男命、豫母津事解男命と、熊野三神を表記されています。
紀州熊野の那智権現は熊野夫須美命となります。


 

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