宮原誠一の神社見聞牒(075)
平成30年(2018年)09月09日

No.75 朝倉橘広庭宮と志波 ①


「日本書紀」によれば、斉明天皇6年(660)7月に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は難波などを経て、斉明天皇7年(661)3月25日、娜大津より磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入られ、さらに5月9日、朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えられましたが、7月24日、同地にて崩御とあります。
朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)は、現在の通説では、福岡県朝倉市(旧朝倉町)大字須川の朝闇神社(ちょうあん)近くに「橘廣庭宮之蹟」の石碑が建てられ、この一帯であるとされています。(以後、朝倉橘広庭宮は略して「朝倉宮」と呼ぶことがあります)

しかし、朝闇神社近辺、志波地区と発掘調査が市教育委員会によりなされてきましたが、朝倉宮がどこにあったのか確定されていないのが現状です。
旧杷木町の志波地区、比良松、山田を中心とした旧朝倉町に何らかの痕跡を求めて、神社巡りを行ってきました。結果、私なりの想定ですが、

  朝倉宮は旧杷木町の志波地区ではないか、しかも、「朝倉宮」と兵站基地の性格
  が強いのではないか。
  斉明天皇と中大兄皇子は、旧朝倉町に来られて、百済救援、白村江の戦いに関与
  されたのか、つまり、前線の指揮を取られたのか疑問が湧いてきます。

神社巡りをしますと、天武天皇の痕跡が残っているのです。
神社に天皇の痕跡が残るとは、余程の伝承が残って来たことを意味します。

現在の神社の伝承、祭神は日本書紀に基づいて記載されているのは当然でしょうが、古事記、日本書紀の記載は80% が嘘と百嶋先生は言われています
実際に神社巡りをしますと、神社の伝承、祭神は現表記と異なるものが多々あります。
頭を真白にして、既成概念に囚われず、考え、想像を逞しく働かせる必要があります。



1.現在の朝倉橘広庭宮の記念石碑

現在、朝倉橘広庭宮の記念石碑が福岡県朝倉市(旧朝倉町)須川1271に立っております。
この石碑は、大正4年11月の大正天皇の即位大礼を記念して、福岡県教育会朝倉郡支会によって建てられたもので、推定地で、確定したものではありません。
近くに旧朝倉町教育委員会の設明案内板が設置されています。

朝倉橘広庭宮跡(旧朝倉町教育委員会)
歴史・背景4世紀末、朝鮮半島は百済・高句麗・新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、かつてから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。
翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。
現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていないが、地元の伝承では、「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸殿跡」や斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御陵山」が存在する             旧朝倉町教育委員会

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旧朝倉町教育委員会 案内版より
斉明天皇6年(660年)7月、昔から我が国と親交の深かった朝鮮半島の百済が、新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。
この要請を受け、斉明天皇は中大兄皇子、後の天智天皇、大海人皇子、後の天武天皇、中臣鎌足らと共に、同年12月大和国高市郡飛鳥岡本宮を出発され、難波の港から海路筑紫に向かわれた。途中四国の石湯行宮によられ、翌661年3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に遷られた。
ここ天子の森は、橘広庭宮の一部であった所といわれ、斉明天皇が崩御された同年7月24日までの75日間、天皇が政務をおとりになった大本営があった所だといわれている。
現在、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸御殿跡」や斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御稜山」等の旧跡がある。

朝倉橘広庭宮は、朝闇神社付近の「橘廣庭宮之蹟」の碑の当たりだとか、「天子の森」付近とかいわれていますが、確定したものでなく、仮説なのです。

百済救済の要請を受け、斉明天皇以下、中大兄皇子、大海人皇子、中臣鎌足ら文武百官を連れ難波の港から海路筑紫に向かい、四国の石湯行宮に到着し、那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて、朝倉橘広庭宮に遷られている。しかし、斉明天皇は志半ばにして御年68歳で病の為崩御されている。
天皇以下、大規模な都の遷都(仮)が行われている。その遷都先の所在が分からないという。
日本史の重大事項である。それが仮説であるという。日本の歴史はこの程度のものかと不思議でならない。倭国、百済が急を告げる時、その大規模な官吏の移動にもかかわらず、途中、四国の石湯行宮で湯治である。余りにものんびり過ぎではありませんか。そして、大規模人数が移動してきて、その留まる所がわからいという。痕跡が見当たらないという。
そもそも、この百済救済のために、斉明天皇以下都人は近畿から九州へ本当に移動してこられたのかと疑問を覚えます。斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子は近畿に居られたのではなく、九州に居られたのではないか、と想像を逞しくするのです。
この朝倉橘広庭宮に関連する伝承を完全に否定する物証が付近の神社に残されていました。後に紹介します。

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2.白村江の戦いの略歴

朝倉橘広庭宮への遷都と白村江の戦いの歴史を通説に基づき簡単に整理しておきます。

白村江の戦いの倭国軍 
 第一軍:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
 第二軍:2万7千人。主力軍。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫。
 第三軍:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ廬原国造の子孫)。

660年7月
 百済が唐と新羅によって滅ぼされる。
660年10月
 百済の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら筑紫へ移ることにした。
660年12月
 飛鳥岡本宮発。難波宮で武器の調達。
661年1月
 難波津を出発。
661年3月
 那大津(福岡県博多)到着、磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入る。
661年5月9日
 朝倉宮(福岡県旧朝倉郡朝倉町)に入る。
661年7月24日
 斉明天皇が68歳で崩御。
661年9月
 第一軍倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫以下、豊璋王を護送する先遣隊、船舶170余隻
 兵力1万余人。
 百済王子豊璋(ほうしょう)に五千の兵をつけて、半島の鬼室福信へ送る。
662年3月
 主力部隊第二軍倭国軍が出発。
662年5月
 百済王子豊璋、王位につく。
662年
 百済王豊璋は鬼室福信と協力して戦いを有利に進めるも、次第に二人の仲が悪化する。
663年3月
 倭国2万7千人の第3軍出発。
663年8月27日
 倭国軍が朝鮮半島西岸に到着。突撃作戦開始。
663年8月28日
 白村江(錦江河口)で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突。
 軍船400は燃え上がり、倭国軍は大敗。
663年9月7日
 百済が陥落し永遠に滅亡。
665年11月
660年に百済を滅亡させ、663年に百済の復国運動に参戦した九州倭国を白村江で唐・新羅の連合軍が大打撃を与え、九州倭国王筑紫君薩野馬を捕虜にし、百済の熊津に唐の出先機関である熊津都督府を設置した。
敗戦の翌664年の5月17日、百済駐留の唐の鎮将・劉仁願は朝散大夫・郭務宗を倭に派遣。
翌665年11月に司馬法聡を派遣するとともに、境部連石積らを筑紫都督府に送ってくる。
668年1月3日
 天智天皇が即位する。
668年
 高句麗、唐と新羅に屈する。
669年10月16日
 藤原鎌足内大臣薨去。



3.「朝倉」、「橘」、「広庭」

朝倉橘広庭宮の記念石碑の丘の麓に朝闇神社が鎮座する。
旧朝倉町教育委員会の案内板には次のように記載されている。

朝闇神社
所在地  福岡県朝倉町大字須川字鐘突1269
祭 神  高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかとも考えられている。

祭神の高皇産霊尊は別名、高木大神です。朝闇神社は別名を大行事社といい、英彦山神宮からみの高木大神を祭神とする神社を大行事社といった。
朝闇(ちょうあん)は読み方によっては「あさくら」と読めます。これが「朝倉」の地名の起源だとよく言われる。
しかし、百嶋神社考古学では、熊本県益城町朝来(あさご)の地名の移動と捉えます。
また、旧甘木市(あまぎし)は「うましき」が本来の読み方であり、同様に「ましき町」の地名の移動と考えられている。「うましき」は旧嘉穂郡筑穂町馬敷に移動し名を変えています。
(連携基幹ブログ 「ひぼろぎ逍遥」「朝来」地名について 2015年3月古川清久管理人参照)

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「橘」は大幡主、その子・豊玉彦に因む名称です。特に北筑後の豊玉彦系氏族は慨して橘族です。朝倉での橘族の中心地が志波地区を主とする地域です。豊玉彦を祀る神社が志波地区の入り口に鎮座する志波宝満神社になります。
よって、志波地区は「橘」の地なのです。
その志波から南の筑後川を望むと広々とした橘田が広がります。そこを吉井町の橘田と言いました。
「広庭」は志波から南の広々とした橘田を望んだ名称です。

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但馬国を拠点とした豪族で、後に発展して越前国を拠点とする戦国大名となった越前朝倉氏は高良の八神官の一人・稲員氏(草壁氏)の流れです。その主人が斯波氏(しばし)となります。
朝倉氏も斯波氏も古くは「朝倉」「志波」の出身で、その名は、この上朝倉に因むと考えるのです。氏族の流れは高良物部族と北筑後の橘族の流れを兼ねた氏族でしょう。
志波の地は周囲の朝倉の地より上位の地といれていました。

「朝倉宮志波説について」小田和利(九州歴史資料館)
小田氏は「朝倉広庭宮は志波地区です」と言われる。
その根拠は以下の通りです。
小田氏がその根拠とするのは志波台地の建物群跡です。
台地の突端部に数棟の掘立式建物が規則正しく配列されています。
しかも軸は西へ40°振られています。志波で発見された建物跡が麻?良山(マデラサン)に向いている
又残っている地名です。
宮原、宮下、政所、洛中、殿築、出殿越と言う宮に関する地名。
そして筑後川対岸の橘田の地名。
こちらから眺める景色は、筑後平野が広庭のように見えます。
広庭は敷地の庭ではなく、この広大な庭ではと言われます。



4.宮野神社

桂川を挟んで東の朝倉須川に朝闇神社、西の朝倉宮野に宮野神社が鎮座する。そして、宮野神社の北方向に宮地嶽、宮地嶽古墳があり、山頂に宮地嶽神社が鎮座する。

宮野神社(旧朝倉町教育委員会 案内版より)
所在地 福岡県朝倉町大字宮野字中宮野1248
祭神 大己貴命
   天児屋根命
   吉祥女
宮野神社は大字宮野の氏神であり、毎年10月25日に祭礼が行われている。
この宮野神社は、藤原氏祖先の墓といわれ、天孫降臨のとき天照大神に従った「天児屋根命」を祀ってある。
斉明天皇6年(660)、朝鮮半島の百済が唐と新羅の軍に亡ぼされ、日本朝廷に救いを求めてきたので、天皇は翌7年(661)百済救援のために筑紫に下られ、朝倉橘広庭宮を大本営とされ救援軍を半島に進められたのである。天皇は遠征軍の戦勝を祈願するため、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建されたと伝えられている。

「福岡県神社誌」の宮野神社
斉明天皇七年創立。明治五年十一月三日、村社に被定。当社は斉明天皇当所橘広庭の宮に御遷幸のみぎり、玉体守護神として天児屋根命及び大己貴命を勧請し、宮野神社とし、その後、天慶年中に秋月対馬守春実、吉祥女を合祭し、三座としたる由、古えの繁栄の時は当村の内字落合という所に神幸神祭執行等の縁由記に見ゆ。

祭神、大己貴命と天児屋根命の組み合わせは不自然です。神様の性格が分からない方が勧請されたのであろう。吉祥女は大己貴命(大国主)の娘さんで下照姫(したてるひめ)です。
斉明天皇は遠征軍の戦勝を祈願するため、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建されたと伝えられている。藤原鎌足の創建とあれば、祭神が天児屋根命の軍神を祀られたのでしょう。

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ところが、境内に入ると、石の標柱には三階松紋が打ってある。拝殿を見上げると鬼瓦には五七桐紋がある。参拝を済ませ、拝殿に上がると神殿の前の向拝の両柱には三又矛、その後ろには二人の門神様がおられる。これらの形式の神社は「玉垂神社」または「高良神社」ではないか。
神殿を拝謁させていただいた。祠に門光紋が打ってある。ご神体は開化天皇で祀られている。
「驚き」というほかない。
宮野神社は開化天皇を祀る玉垂神社ではないか。
恐らく、古昔、宮野神社は地名の[宮野神社]となる前は「玉垂神社」と呼ばれていたのではないかと思いました。
ここ朝倉宮野一帯は高良物部族の支配地域であったということでしょう。
越前朝倉氏は高良の八神官の一人・稲員氏(草壁氏)の流れであり、朝倉を名乗られるのも理解できます。

余談ですが、私のご先祖様の嫁さんが、ここ朝倉宮野から嫁って来られています。どうして、こんな遠方の高○家から嫁さんが嫁って来られているのか、今まで不思議でした。
今回の調査の結果、玉垂神社を通して高○家とは同族と分かりました。大戦以前は、よく同族間で、嫁と婿のやり取りを村と村の間で行ったと聞いていました。そうすれば、男紋、女紋の家紋を変えずに済むし、同族の流れが切れないからです。氏神様奉斎も問題ありません。
宮野神社と高○家の同族問題が神社巡りを通して一度に解決しました。

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天武天皇により九州年号白鳳二年(663)に高良神社、宝満神社の社殿が建立されている。白村江の敗戦が663年8月であり、敗戦後であり、高良山、宝満山に防備の砦が築かれたと想定しています。(この件ついては次回の記事にて設明を予定しています)

宮野神社社伝によれば、斉明天皇が遠征軍の戦勝を祈願のため、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建されたと伝えられている。守護神として天児屋根命及び大己貴命を祀られている。
高良神社・玉垂神社が創建されるのは神功皇后崩御の後の400年頃であり、白村江の敗戦より以前となります。
宮野神社が玉垂神社となれば、社殿創建、祭神について、宮野神社の社伝はおかしくなります。藤原鎌足が斉明天皇の命により創建されたという社伝は実態に合いません。

日本書記でいう、斉明天皇、天智天皇他は百済救援のため、近畿から九州へ本当に出むかれたのでしょうか?
天智天皇と天武天皇は日本書記がいう兄弟でなく、同世代の別系統の皇族と考える。
斉明天皇、天智天皇は天武天皇を避けて九州のどこかに居られた?
百済救援の当事者は天武天皇と思えてなりません。
実際に天武天皇は白村江の敗戦の対処を九州でなされているのです。
日本書紀の記載の信憑性を疑います。

宮野に開化天皇を祀る玉垂神社があったとすれば、ここ朝倉の宮野須川一帯は九州王朝の朝倉の拠点ととれます。後の長安寺の建設と廃寺の存在は、さらに九州王朝の朝倉の拠点を強めます。
仮に、斉明天皇、天智天皇等が朝倉に来られなくても、既に朝倉の宮野須川一帯は都の様相を呈しており、日本書紀は朝倉の宮を設定するのに都合がよかったと思われます。
逆に、朝倉の宮野須川一帯は天武天皇の百済救援白村江の戦のための仮の都であったとすることもできます。そして、東隣の旧杷木町の志波地区は筑後川に面し廻りを山に囲まれた兵站基地ではなかったのか、あるいは、志波地区が本当の朝倉橘広庭宮の所在地かと想像は逞しく膨らむのです。

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