宮原誠一の神社見聞牒(061)
平成30年(2018年)05月21日

No.61 水沼君と水沼別君の祖・国乳別命 ①

九州での有力な古代豪族といえば、火の君、筑紫の君、水沼(みぬま)の君等が挙げられる。
特に、筑紫平野に勢力を持つ水沼君、水沼県主、水沼別君は「記紀」に出てくる有名な豪族である。水沼君、水間君、水沼別君は、筑後国三潴郡(現・福岡県久留米市三潴町)を本拠とする氏族と言うことが通説になっている。
しかし、福岡県久留米市北野町大城の赤司八幡宮の水沼姓宮崎宮司は、水沼君の末裔といわれるが、水沼君の出自は不明といわれる。「私たちは古代先祖からずーっと大城にいました」と言われる。本拠地は大城であり、三潴郡は本拠地ではないと言われる。
水沼君と水沼別君が同族かどうかは疑問のある所である。

1.水沼別君と弓頭神社

まず、「日本書紀(岩波書店)」で「水沼」「水間」の関係箇所を拾ってみると、

神代上 第六段一書第三の最後の部分
即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に存す。号けて道主貴と曰す。此筑紫の水沼君等が祭る神、是也。

景行天皇十八年七月七日
時に水沼県主猿大海、奏して言さく、「女神有します。名を八女津媛と曰す。常に山の中に居します」とまうす。故、八女国の名は此に由りて起れり。

雄略天皇十年九月四日
身狭村主青将、呉の献れる二の鵞を将て、筑紫に到る。此の鵞、水間君の犬の為に喰われて死ぬ。是によりて、水間君、恐怖り憂愁えて、自ら黙あること能わずして、鴻十隻と養鳥人とを献りて、罪を贖うことを請す。天皇、許したまう。

「日本書紀」に出てくる水沼君、水沼県主、水間君は同族の呼称である。
上記は、赤司の八幡神社の「止誉比咩神社本跡縁記」に同じく記載されている。

ほかに景行天皇の子孫という水沼別君がいる。景行天皇の御子・国乳別命(くにちわけのみこと)が始祖と言い、母は襲武媛(そのたけひめ)と言う。同御子は福岡県久留米市三瀦町高三瀦の塚崎にある弓頭(ゆみがしら)神社の祭神であるという。

「弓頭」の由来は、福岡県神社誌(昭和19年)弓頭神社の由来記から二説挙げられる。
一つは、成務天皇紀で「吾が国造を任命する時には必ず楯矛を賜いて証とする」の記載があり、景行天皇の御子・国乳別命が「古式にのっとり、楯矛を賜り下向し、高三瀦の地に在所を定めて、久しく筑紫地方を治められた」とする。
二つは、「神功皇后新羅征討の折、弓大将ゆえに、弓頭大明神と称(とな)えられた」と言う由来である。

弓頭神社  福岡県久留米市三潴町高三潴521

061-101

061-102

弓頭神社 由来記
本社は水沼別(みぬまわけ)の始祖、国乳別(くにちわけ)皇子を主祭神とする。
成務天皇紀は「昔、国造を封せられる時は必ず楯矛(たてほこ)を賜いて、その表(しるし)とす」とあり、第12代景行天皇の皇子国・乳別皇子が「古式に則り、弓矢楯矛を賜り下向し賜い、高三潴の地にご在所を定め給いて、久しく筑紫地方を治め給へり」に由来するものと思われる。この高三潴は、水沼君累代の政治の地であり、古代行政・文化の中心として繁栄した処である。
古伝説に「神功皇后征韓の砌(みぎり)、弓大将なるが故に、弓頭大明神と称(とな)え奉られる由」と言い伝えられたとの説もある。
国乳別皇子の御墓は烏帽子塚(弓頭神社御廟塚(ごびょうづか)とも云う)と称し、本社西北3町(約300m)あまりの処にある。
明治6年6月、郷社に定められる。
なお、神社が所蔵する銅剣、石包丁、石戈(せっか)、耳環(じかん)は町の文化財に指定されている。
                   平成10年3月 三潴町教育委員会

061-103

ところが、神功皇后新羅征討の折の弓大将こと弓頭大明神については、「記紀」にも、止誉比咩神社本跡縁記にも、高良玉垂宮神秘書及び高良玉垂宮縁起にも記載されていない。
「矢取大明神」の件が高良玉垂宮神秘書に記載されているのみである。
関連神社としては、福岡県うきは市浮羽町高見の「弓立神社」が存在する。しかし、祭神は景行帝その人である。
成務天皇紀は「楯矛を賜いて、その表(しるし)とする」と記載され、弓矢にはふれていない。
弓頭神社の「弓頭」の名称は弓矢に根拠を置いていない。
よって、弓頭大明神・弓頭神社の創立、名称の根拠がはっきりしない。
郷土史家の冊子「元郷社 弓頭神社 資料集」冨松俊雄編集によると、「もともと弓頭神社の祭神については分からなくなっていたのが、明治の初めごろに神官を兼務していた船曳鉄門(ふなびきかねと)によって国乳別命と唱えられたものだ」という。その前の祭神名は「御縣神」社号「御縣社」とされた。

船曳鉄門(ふなびきかねと)
1824-1895年、幕末-明治時代の国学者でもあり、安芸国嚴島神社宮司・筑前香椎・筑後高良神社権宮司を歴任する。明治28年(1895)没、72才。
船曳家は久留米市大石町の大石神社の代々の祀官であった。大石神社は、江戸期には「大石太神宮」「大石神社」と称していたが、代々この神社の祠官であつた船曳鉄門が明治になって自論から社名を改称し「伊勢天照御祖神社」と唱えた。伊勢天照御祖神社の元宮は久留米市北野町今寺の四柱神社である。
もともと弓頭神社の祭神は分からなくなっていた。明治の初めごろに弓頭神社神官を兼務し大善寺の僧侶でもあり郷土史家の船曳鉄門によって国乳別命と唱えられた。彼は縁起書を著わし、高三瀦地域にある三ヶ所の山陵を御子から三代のものと比定している。

寛文十年(1670年)「久留米藩社方開基」によれば、船曳鉄門の先祖の船曳上野は「当大明神は神功皇后新羅征討の折、弓大将たるによって、ご帰朝御、弓頭大明神と号す」と記し、弓頭大明神が国乳別命とは記されていない。
さらに、船曳鉄門の著書「海北道考証抄録」では、「神功皇后征韓の御時、弓軍の督将にて彼地に渡航ましますより弓頭大神と称し奉れる由見ゆ、これは後世文字に因って府会せる俗説也」といっている。船曳鉄門自ら、神功皇后征韓時の弓軍督将説は否定している。そして、こじつけに近い論説で、祭神は国乳別命と唱えている。

061-104

さらに、寛延2年(1749)久留米藩への書上げ書(寛延記)が高三瀦庄屋より提出されている。
その中に末社のことがあり、末社に「矢五郎」が記載されている。
「矢五郎」を末社に持つ神社は筑後地方では、久留米市田主丸町柳瀬の玉垂神社、久留米市大橋町蜷川の箱崎八幡神社(平野社・祭神仁徳天皇)がある。矢五郎は彦火々出見命(山幸彦・饒速日尊)の別称であり、矢五郎を末社に持つ本社は玉垂神社(高良大社)関係である。
すると、高三瀦の弓頭神社は景行帝(大足彦・天種子)関係の神社ではないことになる。高良玉垂命が関係する神社となる。
弓頭神社の北西300mほどの所に高三瀦廟院跡があり、大善寺玉垂命神社の建徳縁起では高良玉垂命との会談があった事になっている。
また、弓頭神社の北西600mほどの所に高良御廟塚があり、高良玉垂命が関係していると言われる。高三瀦の弓頭神社の古宮は高良玉垂命の関連神社ではなかろうか。

061-105

061-106
<

明治31年(1898)に大阪大成館が作成した弓頭神社の銅版図の社説
当社の創立久遠にして不詳。祭神は景行天皇の御子・国乳別皇子なりと云う。
紀に云く。次妃・襲武媛の生まれ、国乳別皇子と国背別(クニソワケ)皇子、豊戸別皇子。その兄、国乳別皇子は、これ水沼別君の始祖なり云々。
この皇子、三瀦の君にして降らせ給い後、この地に薨せられる故に当郡鎮護の為、その霊を鎮祭せられ、皇子の子孫共々相続いて当地に封せられ、傍ら祖先の祭祀を執行せられたりと社説に云う。
ご墳墓は当社の西北西四丁の地に在り。弓頭神社御廟と云う。俗に帽子塚と称するは、その墓、帽子形に類似するを以ってなり。
社号は神功皇后征韓の時、弓箭の督将たりしより、この社号ありと云う。
宮本の玉垂命神社、建徳中の絵縁起(建徳縁起)に高三瀦の廟院にて、武内大臣と対談し給える図あり。これ皇子の征韓の役に従い給う事、あるいは、その然らんか。
又、井上氏の蔵書に載せる所によれば、景行天皇、熊襲を討ち給う時、弓箭の督将を以って賊魁を射斃し給う故に後、皇子の霊を祭り弓頭を以って社号とすと云えり。

061-107

福岡県神社誌・弓頭神社(昭和19年)
創立不詳
日本書記 成務天皇紀 大足彦 忍代別天皇 次妃・襲武媛の生まれ、国乳別皇子と国背別皇子、豊戸別皇子。その兄、国乳別皇子は、これ水沼別君の始祖なり云々。
国造を任命する時には必ず楯矛を授けて証とすると成務天皇紀にあり。
この皇子、始封の時、弓矢楯矛を賜りて当地を鎮め給えるより弓頭の社号起これり。
又、征韓の時、弓箭の督将なるが故に、この社号ありと云えり。



2.皇子の烏帽子塚古墳(弓頭神社御廟)
皇子の墓所は烏帽子塚と言って、弓頭神社の西北300mほどの所にあって、形が帽子形に類似することから、俗に帽子塚とも呼ばれている。
神功皇后新羅征伐の時、弓箭の督将で出兵、帰国後亡くなられ、遺体を埋葬した御廟と伝えられている。

標柱の「御陵墓調」によれば、東西258m、南北100m、周囲712mと記され、ことに周囲周溝は大善寺の御塚古墳周溝の約2倍である。しかし昔から次第に開かれたために当時の面影はないが、烏帽子塚の名称から前方後円墳であったと推定される。
                       平成3年 三瀦町教育委員会

船曳鉄門の資料によると、ここには「高三瀦廟院という厳然しき殿宇あり」という。大きな廟殿が建っていて、高良玉垂命との会談があった事になる(大善寺玉垂命神社の建徳縁起)。
古昔は大規模な前方後円墳と言われるが、集落の中心にあり、大規模古墳の面影はみられない。周囲を見廻すと2m程の微高地になっていた。

烏帽子塚古墳(弓頭神社御廟)  福岡県久留米市三瀦町高三瀦字北小路

061-108



3.塚崎貝塚・高良御廟塚

弓頭神社の北西600m程の所に高良御廟塚がある。塚の前には鳥居が立ち、鳥居の扁額には「高良廟」とある。高良玉垂命の墓域とも言われている。高良玉垂命の塚とは信じ難いが、何故、こう呼ばれるのか、何かの特別な理由があるのであろうか。
明治31年(1898)に大阪大成館が作成した弓頭神社の銅版図には「御廟塚」としか記載されていない。また、塚の横の月読神社は、この時には存在しない。

塚崎貝塚・高良御廟塚  福岡県久留米市三潴町高三潴字塚崎西畑

061-109

061-110

塚崎貝塚、高良御廟塚
三潴町指定史跡(高三潴字塚崎西畑)
この塚は『寛延記』には「高良明神御廟開基年号知らず」とあるが、出土品などから弥生時代と推定される。城内約757平方メートルの国有地内にある直径約20m、高さ約2mの円墳で、墳頂に一株の松を植えている。
江戸時代頃、周囲は玉垣をめぐらせていたという。封土(盛土)中には、多数の牡蠣殻や貝殻類が含まれている。
この地は古くから高良玉垂命の塋(墓)域と言って、付近一帯は小高くなっており、弥生式土器の破片が散在し、土中から石斧、石鏃(せきぞく)、石戈(せっか)銅剣などが発見されている。なおこの銅剣について「高三潴村の百姓善兵衛が久留米藩の命により塚を発掘して、石棺より二口の銅剣を発見した」と伝えられている。
付近の住民の話によれば、昭和20年頃までは、貝殻に覆われていて塚全体が白く見え、黒曜石の鏃や土器、石器、貝殻がいたるところに落ちていて気軽に拾えたそうである。そのうち、心ない愛好家が次々と持ち去り、塚全体が黒ずんでしまった。雨などによる風化も進み、塚表土の流出を防ぐため、上から土をかぶせて塚の保存を図っている。
                    平成11年3月 三潴町教育委員会

次回に続く。