宮原誠一の神社見聞牒(060)
平成30年(2018年)05月13日

 

No.60 水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」


1.北野町大城の「蚊田の渟名井」

古代の生活水の確保はどのようになされたのでしょうか。
中山間地では、谷水を酌むなり、竹管を通して水を引き入れることは比較的簡単であったでしょう。麓で湧水があれば、それを酌むなり、引くなりすれば簡単でしょう。
しかし、平野の平地では簡単にいきません。庶民は近くの川まで酌みに行くことになります。
近代では、井戸を掘り、釣瓶(つるべ)で水を酌みます。この井戸とて、庶民は簡単に手に入れることはできませんでした。自宅の庭先に井戸を掘ることは多額の出費でした。6mほどの竪穴を掘り、周りの土が崩れないように、玉石垣を組みます。そして、釣瓶で水を酌みます。昭和の時代になると手押しポンプで水を酌みました。小学生の私の日課は、この手押しポンプで風呂に水を入れることでした。小学生にとっては重労働でした。電動ポンプが普及すると自家製水道施設の完成です。公共水道が引かれたようなものです。
随分過ぎるほど楽になりました。蛇口をひねれば水が出る。かえって、「水と平和はタダ」と日本人は思っていると外国に印象を与えました。
「水と平和はタダ」ではありません。多額の開発維持経費がかかっているのです。ただ当人がどれだけ意識しているかの問題です。
ところで、古代の平野の平地に井戸があった。
「記紀」では天の真名井の水と随所に出てきますが、福岡県北野町町大城には、それに相当する井戸、益影井(ますかげのい)、豊姫縁起では「潟の渟名井 がたのぬない」があって、神聖な井戸として至るところにその名が記載されている。

益影井 大城小学校グラウンド南 福岡県久留米市北野町大城(筒井)

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2.赤司八幡宮の「豊比咩縁記」から見る丹後国の「與佐の真名井」

赤司八幡宮の縁記書・水沼姓盛道の「止誉比咩神社本跡縁記」の地神三代の部分には、天真名井(あめのまない)、筑後国御井の「蚊田の渟名井」(かだのぬない)、丹後国の「與佐の真名井」(よさのまない)について重要な事が記載されている。特に、丹後国の「與佐の真名井」と伊勢外宮の「豊受大神」の関係については通説に返す内容となっている。それは與佐の真名井と関連して、伊勢外宮の祭神が入れ替え混乱の状態にあるという。
まずは、「止誉比咩神社本跡縁」の地神三代の「渟名井」の部分から紹介。

(注意) 天真名井(あめのまない)、蚊田の渟名井(かだのぬない)、與佐の真名井(よさのまない)はそれぞれ異なる。天真名井(あめのまない)、天渟名井(あめのぬない)も異なり、天渟名井は「蚊田の渟名井」と同義語。天真名井は天孫降臨時の真名井である。


           止誉比咩神社本跡縁記・益影井(楢原写本)

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天津彦々火瓊々杵尊、下界に降臨の時、天忍石(あめのおしほい)長井の水を持降り、天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)を使い、その元(はじめ)の水を日向の高千穂藤岳山の神代川瑠理井(たまのい)と筑紫の道中の神代川蚊田の渟名井に遷す。天祖の神の教を言壽鎮曰(ことぶきよざして)、道主貴に進供(そなえまつり)き。これにより、御井の縣の名が起こりけり。
又、丹波の與佐の真名井石井(いわい)に移し鎮め、以て豊食神の饌水(とよけのかみのみけのみず)に献(たてまつ)りぬ。

日本書記に、素戔嗚尊、その頸に所嬰(うなげる)五百筒の御統(みすまる)の瓊を以て、天真名井、またの名、去来の真名井(いざのまない)に濯(ふりそそ)ぎ・・・云々。
これ、蚊田の渟名井と與佐の真名井と誓約(うけい)の中、天真名井と混同に伝え云う。

天渟名井は蚊田の渟名井の転語で、去来の真名井は與佐の真名井の転語である。
又、蚊田の渟名井の所に「道主貴」が在(あ)り。
與佐の真名井を守る神を「道主」と号し、また、水沼君が所祭(いつきまつる) 道主貴を訛りて、伊勢の大物忌の祖(おおものいみのかみ)を「氷沼の道主 ひぬまのみちぬし」と謂うは「」と「」の字を誤れるものなり。

蚊田の渟名井の地に「道主貴」と「伊勢天照御祖神」(いせあまてらすみおやのかみ)が在まして、水沼君等が所祭(いつきまつる)ゆえに、「丹波の豊受宮」と「伊勢の豊受宮」を混同付会せり。
蚊田は筑紫の中瀛海(なかつうみ)に秀(ひい)でたる潟の地なり。故に、「潟」と「蚊田」は同訓なり。古歌に詠めるに「筑紫の潟はこの地に起これる言葉なり」。
この潟の渟中より湧き出でたる霊水ゆえに、「蚊田の渟名井」と号(なづ)けたり。この筑紫の潟神代川は当国の名所なり。

後人、石畳を敷いて「筒井」と名づく。この霊水を酌みて出産に祝梼るときは、生み子容顔端正異例聡明にして長寿なり。
この潟の地が連なる水沼に秀で、広く遠くして、村里数多く興して、ここに水沼の縣の名が起これり。

 

丹後国には古代、筑中国(御井郡、山本郡、竹野郡)の人達が大勢移住している。その時、「道主貴=田心姫」神も「蚊田の渟名井」の水も遷している。
筑紫の道中の「蚊田の渟名井」を丹波の與佐に遷した井を「與佐の真名井」という。この水を豊食神の饌水(とよけのかみのみけのみず)に献じている。
筑紫の道中の「道主貴」は、丹後では與佐の真名井を守る神「道主」という。
また、北野大城には、水沼君が所祭(いつきまつる)「道主貴=田心姫」と「伊勢天照御祖神=四柱神社祭神」があり、丹後に遷した「伊勢天照御祖神社」ゆえに、伊勢神宮は、「丹波の豊受宮」と「伊勢の豊受宮」を混同しているという。丹後には元伊勢皇大神社や元伊勢豊受大神社が鎮座する。

つまり、「丹波の豊受宮」の祭神は「豊姫=天照女神」であり、「伊勢の豊受宮」の祭神は「大幡主」であり、その豊受大神が伊勢外宮様であるという。その外宮様が混乱している。

丹後の眞名井神社は籠神社(元伊勢籠大神宮)の奥宮という。

【丹波丹後の関連神社】

 

元伊勢籠(この)神社(匏宮・吉佐宮・与謝宮(よさのみや))
住所 京都府宮津市大垣430
祭神 彦火明命(彦火々出見命) 元々の祭神は豊受大神
相殿 豊受大神 天照大神 海神(わたつみ)
   天水分神(天鈿女命)
由緒 古昔より奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りしてきましたが、崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑から御移りになり、これを吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀り致しました。その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、豊受大神は雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢にお移りになりました。それゆえ、当社は元伊勢と云われております。
両大神がお移りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社として崇敬を集めてきました。

眞名井神社
   元伊勢籠神社の奥宮で、別名を久志濱宮(くしはまのみや)とも云う。
住所 京都府宮津市中野905
祭神 豊受大神
天照大神・豊受大神が伊勢に遷座された後の祭神が彦火明命(彦火々出見命)
相殿 豊受大神 天照大神 海神
   天水分神
由緒 奥宮の真名井原に匏宮(よさのみや)といい豊受大神が鎮座していたが、崇神天皇三十九年に大和笠縫邑から天照皇大神が遷座したので豊受大神と共に祭祀していた。垂仁天皇二十五年に天照皇大神が伊勢に遷座した後、雄略天皇二十二年に伊勢度会郡の山田原に豊受大神も遷座となった。
元正天皇養老三年に、本宮を奥宮眞名井神社の地から現在の本宮の地へ遷し、海部直愛志(えし)が祖神・彦火明命を主祭神とし、天照・豊受の両大神、及び海神を相殿に祀り、天水分神を合わせて祭るようになった。
(神社石碑の社説から)
豊受大神元津宮なり。古名は匏宮・吉佐宮・与謝宮(よさのみや)。
別に云う、天吉葛宮、比沼眞名井、久志浜宮、元伊勢大元宮。

元伊勢内宮皇大神社
住所 京都府福知山市大江町内宮217
祭神 天照皇大神
由緒 崇神天皇三十九年に倭の笠縫邑を出御され、丹波へ御遷幸になり、其の由緒により当社が創建されたと伝える。仁天皇二十六年に伊勢の五十鈴川上(今の伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。引き続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び、今に至る。

元伊勢豊受大神社
住所 京都府福知山市大江町天田内60
祭神 豊受大神
古くから元伊勢だ、いや間違いだと論議の絶えない神社である。

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)
住所 京都府京丹後市峰山町久次宮谷510
祭神 豊受大神
由緒 この神社の創建年代等については不詳であるが、平安時代に制定された延喜式にも記載された式内社で、伊勢神宮の外宮の祭神・豊受大神はこの神社の分霊を祀ったものとされ、「元伊勢」とも称される。

大宮売神社

住所 京都府京丹後市大宮町周枳(すき)1020
祭神 大宮賣神、若宮賣=豊受大神
由緒 創立不詳。織物と酒造を司る大宮売神(おおみやめのかみ)、食物・穀物を司る女神である若宮売神(わかみやめのかみ、豊受大神)の二神を祀る。
(神社社説では、大宮賣神=あめのうずめの神、若宮賣=とようけの神となっていて、二人の豊受大神が祀られていることになる。)

竹野神社

住所 京都府京丹後市丹後町宮249
祭神 天照大神
相殿 竹野媛命 日子坐王命 建豊波豆良和気命(たけとよはずらわけのみこと)
由緒 竹野媛は、丹波大県主由碁理(ゆごり)の娘で、開化天皇の妃となったと古事記・日本書紀は記す。年老いた竹野姫が「天照大神」を祀ったのが竹野神社の始まりと伝える。

 

籠神社の奥宮・眞名井神社は別称・比沼眞名井神社(ひぬまないじんじゃ)と言われる。
止誉比咩神社本跡縁記(益影井)を参考にすると、「ひぬままないじんじゃ」「氷沼眞名井神社」と書くことになり、「氷」は「水」の間違いで、「水沼眞名井神社」となり、比沼眞名井神社は水沼の眞名井神社となる。
よって、豊受大神といっている神は「道主貴=豊姫」となる。本来の豊受大神は大幡主であるが、伊勢に遷座前の祭神・豊受大神は豊姫となっている。
同様の神社に「比沼麻奈為神社」がある。これも「みぬままない神社」と読むことになり、祭神は田心姫=豊玉姫となる。
丹波の豊受宮が伊勢外宮に本当に遷宮であれば、伊勢外宮の祭神・豊受大神は、間違って丹後の豊受大神を伊勢神宮に遷されたことになる。


 

3.筒井天満宮境内の観音堂

益影井がある大城小学校の南に筒井天満宮が鎮座です。
境内の観音堂は豊姫神社の本寺堂であり、「天眞名井」を「潟の渟名井」として、ここにおさめられたという天村雲命(あめのむらくものみこと)の地蔵尊が祀られています。
豊姫縁起では、天孫降臨の時、従った神様に「熊野忍蹈命 くまのおしほみのみこと」がおられ、別名、熊野久須毘命(くすびのみこと)という、大幡主です。
熊野夫須美命(ふすみのみこと)は天照女神です。天村雲命地蔵尊は別名、愛宕勝軍地蔵と呼ばれ、大分県天瀬の高塚地蔵尊で知られています。愛宕勝軍地蔵の制作者は聖徳太子であり、本地蔵は大分県日出町の愛宕神社にあり、高塚地蔵尊は、この分霊となります。

 

大城村郷土読本
天孫降臨に際し高天原から持伝えた霊泉という由緒を持つ益影井は、神功皇后の皇子出産にも重大な役をにない、御井の県の名の起源と伝え、長く豊比咩神社の神井として、又庶民の産湯の霊水としてほめたたえられました。今は小学校々庭に廃井として千古の歴史を秘めて静かに眠っています。
益影井に近い筒井天満宮境内の観音堂はかつて豊姫神社の本寺堂であり、ありし日には、その盛況をほこった日もあろうに、僅に古老の言に「安産・産後の観音」と伝えて霊験あらたかなりし過去の片鱗をうかがうばかりです。天眞名井を潟の渟名井として、ここにおさめられたという天村雲命も、路傍の地蔵堂と祀られて永遠のほほえみを含んでいます。東筒井・中筒井・西筒井・三井田という字名は益影井と深い関係を持っていますが、史蹟と地名の関連は興味ふかい問題です。

 

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天村雲命地蔵尊は大幡主で、筒井天満神社の境内観音堂に祀られています。西隣に益影井があり、地蔵尊観音堂の後方には大三輪神社が鎮座です。
「蚊田の渟名井」「天村雲命地蔵尊」「大三輪神社(大幡主)」「筒井天満神社」「蚊田宮」と、ここには大城の名物がそろっています。

 

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