宮原誠一の神社見聞牒(056)
平成30年(2018年)04月06日
No.56 豊玉彦の神紋は「流れ右三巴」紋ではないか
三巴紋と言えば、応神帝八幡神の左三巴紋が有名であるが、右三巴紋は社号が「八幡」神社となっていても、非応神帝八幡神社であることが多い。正八幡宮は右三巴紋であり、祭神は応神帝八幡神でなく、大幡主である。さらに、流れ三巴紋がある。これを使用されるのが、石清水八幡宮、宇佐八幡宮にみられる。宇佐八幡宮は主に左三巴紋を使用されるが、この紋ばかりではなく、流れ左三巴紋も使用される。また、福岡県久留米市大橋町蜷川の片淵神社の祭神・荒五郎大明神は流れ右三巴紋である。最近「流れ三巴紋」が豊玉彦の神紋ではないかと思った。
1.福岡県で唯一の吉井町生葉の石清水八幡神社
石清水(いわしみず)八幡宮といえば、京都男山の石清水八幡宮が有名である。
表向き八幡神社であり、祭神も応神天皇と表記されるが、石清水八幡は差に非らず、(贈)応神天皇は本当の祭神ではない。
その石清水八幡神社が福岡県で唯一、吉井町生葉の菅村に残っていた。他に三瀦郡大木町にもあったが、今は見あたらない。福岡県神社誌を検索しても出てこない。
福岡県神社誌によると、吉井町生葉の石清水八幡の主祭神は(贈)応神天皇、配神は住吉大神、玉垂命となっていて、配神が京都男山の石清水八幡宮と異なっている。
男山の石清水八幡の配神は宗像三女神と神功皇后であり、配神は宇佐八幡宮と同じである。ここが、筑後地方独特の配神となっていて、住吉大神、玉垂命を配神とする。
開基は、元応元年(1319)、鎌倉御家人、菅 長家によって山城国石清水八幡宮より勧請建立されている。菅氏はこの一帯の領主であり、下菅村に、氏神として菅八幡宮を建立している。
天正の頃、大友宗麟によって焼き打ちされ、後に、菅村地頭・星野大和守によって再興され、明治6年(1873)、社号を八幡神社から石清水八幡神社と改めている。
平成3年(1991)、台風19号により、社殿が損壊し、現代建築基準に沿って改築されている。
しかし、残念ながら、屋根瓦は全て無紋となっていて、かつての石清水八幡の面影は見あたらない。境内入口に記念石碑が立つが、その石碑の土台が六角形をしており、奉斎氏族が大幡主・豊玉彦流れであることがうかがい知れるのみである。
石清水八幡神社 福岡県うきは市吉井町生葉 内菅138
2.左三巴紋と右三巴紋
三巴紋には左巻き、右巻き巴紋がある。
左三巴紋は応神帝を祭神とする八幡神社が有名であるが、右三巴紋は社号が「八幡」神社となっていても、祭神が非応神帝の八幡神社であることが多い。正八幡宮は右三巴紋であり、祭神は大幡主である。さらに、流れ三巴紋がある。これを使用されるのが、石清水八幡宮、宇佐八幡宮にみられる。
石清水八幡宮の社紋は橘紋と流れ左三巴紋(流れ右三巴紋もある)であり、この八幡宮は八幡系の神社ではない。
宇佐八幡宮は主に左三巴紋を使用されるが、この紋ばかりではなく、流れ左三巴紋も使用される。
浮羽町の正八幡宮は屋根の棟に金色の右三巴紋が打ってあり、唐破風には右三丁子巴紋(みぎみつちょうじともえもん)が打ってあり、主祭神は表向き応神天皇であるが、本当は大幡主である。
3.浮羽町の正八幡宮
屋根には金色の右三巴紋が輝くが、唐破風には右三丁子巴(みぎみつちょうじともえ)紋が打ってある。
福岡県神社誌によれば、主祭神は応神天皇、配神は、豊玉姫命、高良玉垂命、雷神(豊玉彦)、罔象女神となっている。配神は全て豊玉彦系であり、こちらが本当の祭神であろう。応神天皇と豊玉姫命、高良玉垂命とは相性がよくない。
さらに、正八幡宮の本来の祭神は大幡主である。
貞観2年(861)、熊(くま)左衛之助俊定によって、山城国久世郡雄徳山より勧請され、建久8年(1256)、大蔵永隆再興す。天文23年(1554)星野下野守再興。天正18年(1590)、慶長10年(1605)、寛永20年(1643)氏子中にて再興とある。
祭神・雷神は字脇戸の雷神社を、祭神・罔象女神は字欠町の水神社を大正13年(1924)合祀とある。よって、当初勧請時の配神は、豊玉姫命、高良玉垂命の二神となる。
正八幡宮 福岡県うきは市浮羽町西隈上618
百嶋先生講演 「宇佐神宮とは何か」 2012年3月17日
宇佐神宮の本当の御祭神は、もともとの宗像姫君です。その方々はどこからこられたか、出発点は国東半島、中津市の薦神社、三女神社(現在宇佐市)が宇佐に集まってきた。次が(贈)応神天皇、そして最後に来られたのが神功皇后で、筑前大分宮が(贈)応神、神功皇后と一番関係が深いお宮です。そこが宇佐八幡の元宮となっている。博多の筥崎宮はもともと筑前大分宮の海の行事(潮井取)をするところだった。
宇佐の本当の姿を知るには正八幡宮の説明が必要。皆さんは応神天皇を八幡神と勘違いされている。正八幡とは応神以前の八幡宮で、一番古い正八幡といえば、博多の櫛田神社の神様大幡主です。博多の櫛田神社の神様に従っていたのは、金山彦、猿田彦、素戔鳴もそうです。
岩清水八幡宮は紀氏出身の坊主が「御所に近いところに鎮座したいと宇佐八幡様がおっしゃった」といって、ささっさと宇佐八幡を現在の岩清水八幡(男山)に勧請した。ところが、作りが違うんです。岩清水八幡(男山)の場合は本当の姿が残っている。本参道には宇佐にない稲荷さんが出張してきている。脇参道には開化天皇(こちらは宇佐にもいる)がいる。男山からは伏見稲荷(豊玉彦)がみえる、なんといっても、あの地区は豊玉彦の天下です。ここには豊玉彦関係が集中している。岩清水の北方では桂川、宇治川(瀬田川)、木津川の3本が合流して淀川になっている。
4.京都男山の石清水八幡宮
岩清水八幡宮は紀氏出身の僧・行教が御所に近いところに鎮座したいと宇佐八幡様がおっしゃったといって、ささっさと宇佐八幡を現在の岩清水八幡(男山)に貞観元年(859)勧請し開基した。明治の初めに、「男山八幡宮」と改称されているが、「石清水」の社号は創建以来の由緒深い社号であるため、大正7年には再び「石清水八幡宮」と改称され、現在に至っている。
その勧請先の宇佐神宮であるが、宇佐八幡の開基が今一つはっきりしない。
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮としている。
また、社伝によれば、欽明天皇32年、菱形池に鍛冶翁(かじおう)が降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、誉田天皇広幡八幡麻呂(応神天皇)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとし、宇佐八幡の開基とする。
誉田別天皇は三才童児の神霊という。
随分と曖昧な開基である。
宇佐八幡の摂社群をみていると、興味深いことが記載されている。
若宮神社 祭神:若宮五神(仁徳天皇以下5柱)
春宮神社(とうぐう) 祭神:菟道稚郎子命(応神天皇の御子神)
仁徳天皇(大鷦鷯尊 おほさざきのみこと)を若宮といっている。
菟道稚郎子命(うじのわきいらつこ)を応神天皇の御子・春宮(とうぐう)といっている。
菟道稚郎子命を応神天皇の御子・春宮(とうぐう)といい、仁徳天皇(大鷦鷯尊 おほさざきのみこと)を若宮といっていることは、どちらも応神天皇=誉田別天皇の第1位の後継者ということになる。ならば、仁徳天皇(大鷦鷯尊)は誰の御子と言うのであろう。
百嶋神社考古学は仁徳天皇(大鷦鷯尊)を開化天皇の若宮とする。菟道稚郎子命は応神天皇の若宮なのであろうか。摂社に、宇佐神宮時代と宇佐八幡宮時代のものが混在している。
大鷦鷯尊と菟道稚郎子命は皇位継承争いをしている。それは、開化天皇と応神天皇との代理戦争ととれるのではなかろうか。大鷦鷯尊と菟道稚郎子命は兄弟でなく、別系統の人物である。
平安時代始め、貞観元年(859)、南都大安寺の紀氏出身の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を受け、同年男山の峯に御神霊を奉安申したのが神社の起源という。
ところが、宇佐八幡と作りが違うという。岩清水八幡(男山)は、九州王朝時の宇佐神宮の姿が残っている。
岩清水八幡の神紋は「三巴」と「「橘」であり、しかも、三巴は「流れ左三巴」であるという。さらに、舞殿の東西両側には橘の木が植えられていて、宇佐八幡と趣が随分と異なる。
行教和尚は、宇佐八幡宮が宇佐神宮から宇佐八幡宮になって間もない頃、宇佐八幡を勧請するといって偽り、宇佐神宮を勧請したのではないか。
石清水八幡宮の祭神は、宇佐八幡と同じく、表向きは、応神天皇、比咩大神( 宗像三女神)、神功皇后となっているが、本当の主祭神は豊玉彦であるといわれる。
行教和尚の紋が橘であり、創建時の六宇宝殿を建立した木工寮は橘 良基であり、橘族である。
石清水八幡宮の基底は橘族であり、この橘の頭領はヤタノカラス(豊玉彦)である。その紋章である「橘」紋と「流れ右三巴」紋が使用されている。
左三巴紋は応神帝の紋章であり、流れ右三巴紋は豊玉彦の紋章とみる。
さらに、吉井町生葉の石清水八幡神社、浮羽町の正八幡宮には「菊の花」が彫刻されている。
熊本県八代神社(妙見宮)も菊の花を使用される。元々、妙見宮の祭神・白山姫は別名・菊理姫(くくりひめ)であり、名前に由来するが、大幡主も祭神である。
石清水八幡宮 (神社案内HPより参照)
住 所 京都府八幡市八幡高坊30
祭 神
中御前 応神天皇(おうじんてんのう)
西御前 比咩大神(ひめおおかみ 宗像三女神)
東御前 神功皇后(じんぐうこうごう)
当宮が御鎮座する八幡市(やわたし)・男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波間の交通の要地であります。
平安時代始め、清和天皇の貞観元年(859)、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2年(860)、同所に八幡造の社殿(六宇の宝殿)を造営し、4月3日に御遷座されました。
明治の初めに、「男山八幡宮」と改称されましたが、「石清水」の社号は創建以来の由緒深い社号であるため、大正7年には再び「石清水八幡宮」と改称され、現在に至ります。
石清水八幡宮 本殿
「巴」は「橘」とともに当宮の御神紋であり、御本殿の彫刻を始め軒瓦など各所に見られます。当宮の巴は「流れ左三巴」であり、いつの時代に何故、この御神紋になったのか定かではありません。幣殿の蟇股(かえるまた)には4つの巴紋の彫刻が施されていますが、実は1つだけ右巴があります。
当宮舞殿の東西両側には橘の木が植えられおり、秋から冬にかけて黄金色の実をつけます。行教律師の御紋が橘であり、また創建時の六宇の宝殿を建立した木工寮権允・橘 良基に由来し、当宮の御神紋である「流れ左三巴」とともに御社紋として使われています。
摂末社
武内社 広田社 生田社 長田社 住吉社 一童社 貴船社 龍田社 若宮社(仁徳天皇) 若宮殿社 気比社 水若宮社 高良神社 大扉稲荷社 石清水社(天御中主神) 水分社 三女神社(宗像三女神) 竈神殿 狩尾社
5.福岡県久留米市大橋の片淵神社
久留米市大橋町蜷川の箱崎八幡神社が筑後川の近くに鎮座し、境内社に片淵神社が鎮座する。この村の最初の神社で、「片淵神社」と称する水神社である。智僧二年(566)の開基であり、「大化」の年号より古く、九州年号の「智僧」が使用されている。古くは「荒霊宮」と称し、明治2年(1869)に片淵神社と改称し、大正元年(1912)に現在の箱崎八幡神社境内に移っている。社伝に「智僧二年(566)、蜷川村発祥の頃、氏神として初めて片淵に勧請す。」とある。
寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」によると、次のように記載されている。
筑後国山本郡蜷川村荒五郎大明神、牛馬之守護神、祢宜号酒見次大夫と龍宮神 智僧二年十一月廿三日に此界に上給候。荒五郎大明神を祝初候。其時酒見大学と申者祢宜仕、十一月廿三日を祭礼日に定、祭礼仕初候。以来千百余、代々之祢宜私迄退転不仕、祭礼仕、牛馬安隠と令祈修候
荒五郎大明神は豊玉彦であり、
荒五郎大明神=牛馬之守護神=龍宮神=豊玉彦 となる。
ご神体の胸紋には「流れ右三巴紋」が打ってある。右三巴紋は非八幡神の紋である。その意を込めて、流れ右三巴紋となっているのであろう。
男山の石清水八幡宮の「流れ左三巴紋」は勧請先の八幡神を誤魔化すために、故意に同じ左紋にされているのであろうか。幣殿の蟇股(かえるまた)に4つの巴紋の彫刻が施されているが、1つだけ右巴である。
右三巴紋は今後の課題であるが、「流れ右三巴紋」は豊玉彦の紋章とみる。











