No.57 撞賢木厳之御魂と天疎向津媛と福岡県北野町の四柱神社

 
宮原誠一の神社見聞牒(057) 
平成30年(2018年)04月13日 
令和7年(2025年)5月20日修正
 

神功皇后は福岡県北野町大城を駐屯地として軍を展開した
撞賢木厳之御魂は伊勢天照御祖神社の祭神・天照大神
天疎向津媛は道中(大城)の道主貴の田心姫(豊玉姫)
北野町大城の四柱神社は伊勢天照御祖神社の本宮・元宮

 

1.撞賢木厳之御魂天疎向津媛

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ)という長い神名がある。天照大神の別神名(荒御魂)であり、伊勢神宮 内宮別宮 荒祭宮の祭神でもある、という。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の神名は、日本書紀巻第九、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)神功皇后の段に記載されている。
中臣烏賊津使主(ナカトミイカツオミ)を召して審神者(サニワ)として、仲哀天皇に祟った神を神功皇后が聞き出す「くだり」がある。その神が、神風の伊勢の国の度逢県(ワタライノアガタ)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)という。
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を祀る神社が、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手に田手神社(田手大神宮 タデダイジングウ)として鎮座する。また、兵庫県西宮市大社町7-7、西宮の地名由来の大社である廣田神社に天照大神荒御魂が主祭神として祀られている。

田手神社(田手大神宮) 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1527

 

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ところが、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」は「撞賢木厳之御魂」と「天疎向津媛」は別神様であり、「撞賢木厳之御魂」は伊勢天照御祖神社(イセアマテラスミオヤジンジャ)の祭神・天照大神であり、「天疎向津媛」は道中(大城)の道主貴(ミチヌシノムチ)の田心姫(タゴリヒメ)である、という由緒縁起をもった神社があった。
その神社は、福岡県久留米市北野町金島(今寺)の四柱神社であり、その縁起は近くの神社・赤司の八幡神社(止誉比咩神社 トヨヒメジンジャ)の止誉比咩神社本跡縁記(トヨヒメジンジャホンジャクエンギ)の一説である。
四柱神社は撞賢木厳之御魂(ツキサカキイツノミタマ)を祀る伊勢天照御祖神社として開基する。

 

 

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また、「伊勢天照御祖神社」が福岡県久留米市大石町に大石神社として鎮座する。

大石神社(伊勢天照御祖神社) 福岡県久留米市大石町132

 

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神社公表の祭神は「天照国照彦天火明命」とされるが、寛文十年(1670)久留米藩社方開基よると、伊勢天照御祖神社の神殿のご神体は天照太神であり、大小2個の岩であると云う。

当社御神体は天照太神之由申伝候。則、伊勢御前と号奉り候。周迂九尺四面余、厚さ四尺余之大石壱箇、同長三尺余、高さ三尺余之石壱箇、右之二石神殿作込申候て、則、御神体と奉崇候


また、神殿の千木は平削ぎで女千木、鰹木は7本で男女神を祀る。主祭神は女性神となる。考えられる祭神は、「天照大神」と「天照国照彦天火明命」の二神となる。赤司の八幡神社の「止誉咩神社本跡縁記」からすると、「天照大神」は「撞賢木厳之御魂」となる。


 

2.赤司の八幡神社(止誉比咩神社)の概要

赤司(あかじ)の八幡神社(止誉比咩神社 トヨヒメジンジャ)の概要については、当宮崎宮司作成の由緒記を読んでいただく方が、理解が早いでしょう。
 

筑後国御井郡惣廟 赤司八幡神社御由緒
筑後国御井郡に鎮座する赤司八幡神社は、縁起(『止誉比咩神社本跡縁記』)によると、神代の昔、天照大神様が御子神の道主貫(比咩三女神)を筑紫平野の中心部・筑後川中流域の河北の地(筑紫の道中)に降居せしめられたのが始まりだと伝えています。
景行天皇18年、天皇は「道主貴の宮」を蚊田の地(『和名抄』に見える御井郡加駄郷=現北野町稲数)に建て皇子の国乳別皇子(クニチワケノミコ)水沼君の始祖に祭らせました。これが筑紫の水沼君等古代豪族の祭る「筑紫中津宮」で、赤司八幡神社の最も古い名と言われています。
「筑紫中津宮」の御祭神・道主貴(比咩三女神)は「本朝の征夷大将軍・鎮守府大将軍の起源」といい「天孫の皇統を助け、君臣の位の易らざるように道の真中を守護したもう大神」と伝えております。天照大神様が道主貴に授けになられた神勅「汝三神、宜しく道中に降居して天孫を助け奉り天孫の為に祭かれよ」にもみえるように、この日本の国の「鎮護国家」の神様の始めと考えられます。
神功皇后は「筑紫中津宮」の蚊田の地(蚊田宮『応神紀』)において応神天皇を御出産。その後宇美八幡宮で誕生祝をなされたと言われています。また神功皇后は妹の豊姫命を「筑紫中津宮」に留め、西海の鎮護にあたらせました。このことが当社をのちに「豊比咩神社」と呼ぶようになる要因と思われ、社名の変更は平安時代初期と考えられます。
豊比咩神社(赤司八幡神社)は、延喜式内名神大社として官社に列した由緒深い大社であって、この頃、河北の地は筑後国司の都朝臣御酉の伝説が残り、推問筑後国司殺害使・藤原良積が「官府」を建てたとある事から、ここに「筑後国府」の存在も考えられ政治・宗教の大中心地となっていたようです。
平安時代、延長2年(924)、豊比咩神社の相殿に山城国(現京都府)の石清水八幡宮より八幡大神・高良大神・住吉大神を勧請し「御井郡惣廟」(部内75ヶ所の神を摂社に55座の神を末社に)として合祀したといいます。現在、この延長2年の勧請合祀が赤司八幡神社の創建年代と考えられていますが、さらに遡ることすでに述べたとおりです。
日本三大河川の一つ、九州一の大河筑後川中流域の弯曲部一帯・河北の地は古代より重要な地域として勢力者の争いの場所となり、豊比咩神社も戦火等により焼失する事態を重ね、これを防ぐため、八重の堀をさらに深くし七重の築地を高くめぐらして神社を守護しました。これが赤司に城が築かれる所以といいます。赤司城も最初は筑後における菊池城とも考えられています。『筑後川北惣大宮司系図』には、肥後国(現熊本県)の菊池氏の祖である藤原政則・則隆が豊比咩神社の大宮司として名を連ねており、ここに居住していたようです。
豊比咩神社の全盛時代は、平安時代の白河天皇の頃と思われ、「筑後国豊比咩大神九州二島惣鎮守」・「豊比咩大神官号正一位」・「豊比咩大神は本朝鎮守なり」と官民あげて崇敬されていました。
豊比咩神社が衰えていくのは、戦国時代で崇敬を寄せいていた九州守護大名の大友家の中で、キリシタン大名となって神社を焼き払った大友宗麟(1530?1587年)と本朝鎮守神を祭る当社社人との争いの中で、宗麟の害を防ぐため、豊比咩神社の社号を八幡宮に、社人の姓・水間を藤原姓に変えたと伝えます。
この戦国時代の乱世の事件が、後世、豊比咩神社が八幡宮と呼ばれ続けた原因と思われます。
特に江戸時代の初期、式内名神大社で官社である由緒深い豊比咩神社は、式外の私社の神社に並ばされたと縁起は慨嘆しています。久留米藩『社方開基』には「御井郡惣廟赤司村屋わた八幡宮」と書かれてあり、現在の大城・金鳥・大刀洗地域の神社33社を受け持つとされています。江戸時代(約300年間)において、久留米藩・有馬家の崇敬、寄進の跡が見えず、明治時代以降は村社となり、氏子・崇敬者の協力のもと、現在に至っているわけですが、神社としては約1900年の歴史を有する筑後地方屈指の由緒深いお宮である事がうかがえます。
                         赤司八幡神社社務所

 

古昔、赤司の八幡神社は、筑紫の道中(みちなか)の「道主貴(ミチヌシノムチ)の宮」として、筑紫の水沼君が祭る「筑紫中津宮」から開基する。神功皇后は妹の豊姫を「筑紫中津宮」に留め、「豊比咩神社」と呼ぶようになり、延喜式内名神大社として官社に列した。
平安時代、延長2年(924)、豊比咩神社の相殿に山城国(現京都府)の石清水八幡宮より八幡大神を勧請し、御井郡惣廟神社として合祀したという。この延長2年の勧請合祀が赤司八幡神社の創建と伝える。
戦国時代、キリシタン大名となって神社を焼き払った大友宗麟と当社社人との争いの中で、宗麟の害を防ぐため、豊比咩神社の社号を八幡宮に、社人の姓・水間(水沼)を藤原姓に変えたと伝える。
江戸時代(約300年間)において、久留米藩・有馬家の崇敬、寄進の跡が見えず、明治時代以降は村社となり、氏子・崇敬者の協力のもと、現在に至っている。
当社宮司の宮崎さんは、水沼の君(みぬまのきみ)の本流の末裔である。

赤司の八幡神社(止誉比咩神社) 福岡県久留米市北野町赤司1765

 

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江戸時代、延享二年(1746)、高良山の豊比咩神社再興の請願が久留米藩に提出された時、赤司の八幡神社社家大宮司宮崎駿河より、豊比咩神社の本拠は赤司にあり、再興はむしろ赤司が再興されるべきであるとして、「止誉比咩神社本跡縁記(豊姫縁起)」を参考に、「御井郡惣廟赤司八幡宮(八幡宮書上げ)」が作成提出された。
 

 

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3.福岡県北野町今寺の四柱神社(伊勢天照御祖神社)

赤司の八幡神社の南の今寺区に「四柱神社」が鎮座する。
四柱(よはしら)神社は、赤司八幡神社の「止誉比咩神社本跡縁記」の一説から、撞賢木厳之御魂(ツキサカキイツノミタマ)を祀る伊勢天照御祖神社として開基する。祭神は天照大神である。神功皇后は、仲哀天皇に祟った神が天照大神の撞賢木厳之御魂とわかり、御魂を鎮めるために、伊勢天照御祖神社を建立された。
後に、熊野大権現、川上大明神、高良玉垂命を勧請合祀し、四所大明神を祀る四柱神社となる。
今では、「四柱神社」の神社名によって、古宮が伊勢天照御祖神社であるということが、すっかり忘れ去られている。今寺の神社は「伊勢天照御祖神社」の本宮・元宮である。

四柱神社 福岡県久留米市北野町金島(今寺)1911

 

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拝殿の屋根瓦には十二菊紋が打ってあり、神殿の屋根瓦には梅鉢紋が打ってある。
いつの時代か、天満神社に偽装しなければならない事情があったのであろう。

 

 

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4.「止誉比咩神社本跡縁記」の中の「伊勢天照御祖神社」伝説

赤司の八幡神社の「止誉比咩神社本跡縁記」の一説「伊勢天照御祖神社」伝説を紹介。
神功皇后が中臣烏賊津使主を審神者(サニワ)にして、仲哀天皇に祟った神を聞き出す「くだり」がある。この本跡縁記は前半の「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」「天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神」「住吉三神」の祟り神を聞き出すまでは、日本書紀の巻第九と同じである。日本書記では、その後、神功皇后の羽白熊鷲の討伐話へと展開する。
しかし、八幡神社の本跡縁記では、天照大神の撞賢木厳之御魂の鎮魂のため、伊勢天照御祖神社建立の話へと展開する。

   「止誉比咩神社本跡縁記」の中の「伊勢天照御祖神社」伝説部分(楢原写本)

 

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「止誉比咩神社本跡縁記」の中の「伊勢天照御祖神社」伝説
日向国橘の小門の水底に所居(いて)、水葉雅之(みなはもわかや)出居(いで)る神の名は表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神なり。また問いあり。答えていわく。有無を知らず。ついに、のたまわず。また、神いますとも知らず。
(以上、日本書紀巻第九に同じ)

 

日本書紀巻第九は、ここから、いきなり、羽白熊鷲(ハシロクマワシ)の討伐話へと展開する。
しかし、赤司の八幡神社の本跡縁記では、仲哀天皇に祟った神が、天照大神の撞賢木厳之御魂とわかり、御魂を鎮めるために、伊勢天照御祖神社建立の話へと展開する。
話の筋としては、赤司の八幡神社の本跡縁記の方が、流れが自然である。
神功皇后が仲哀天皇の祟り神・撞賢木厳之御魂の御魂を鎮めないで、いきなり、羽白熊鷲の討伐話へと展開するのは、不自然で唐突である。
すると、神功皇后は、ここ福岡県久留米市北野町大城に居られたことになる。
羽白熊鷲の討伐の話は、ここ福岡県久留米市北野町大城から展開することになる。ここから軍を小郡、秋月へと進めるのは簡単である。また、田油津媛(タブラツヒメ)の山門(ヤマト)に軍を進めるにも容易である。北野町大城は香椎と山門の中間に当たるからであり、これらの地域は同じ筑後地方にある。
日本書記では、皇后は香椎宮から南下して旧夜須郡へと軍を進め、さらに一週間で山門に軍を展開している。やはり、軍の展開に無理がある。ここ北野町大城からだと軍の展開が容易である。日本書記は、神功皇后軍の駐屯地が「福岡県久留米市北野町大城」であることを隠している。福岡県久留米市北野町大城は、古代では筑後地方の中心地であり、重要な地帯であった。

 

(本跡縁記の続き)

時に皇后、神の語(ことば)を得て、教えのままに祭り給う。
よって、祠壇を道中の蚊田の高嶋に興(たて)て、撞賢木厳之御魂を遷し鎮まり給う。後の人、その祠壇を号(なづ)けて、伊勢天照御祖神社という。御霊(みたま)の形(みかげ)ます金鏡(こがねかがみ)、千々星霜歴(すぎ)れども、なお、曇蔭無し。
天平11年(739)に至り、聖武天皇の勅により、神宮寺を起(たて)て安陽寺と号す。これ「日の神を安んずる」の趣意なり。
後の世の住僧、熊野、川上、高良の三神を勧請す。よって、御祖の神の相殿に遷座す。
しかるに、大永の兵乱の軍火にかかり、焼亡す。神宮寺は断絶す。
この争乱に紛れ、賊士等来たりて神鏡及び神宮寺の撞鐘(つきかね)を奪い取り走去す。時に風雨起こりて、雷電頻りに鳴り騒ぎ、染村と江戸村の間に大池出来て、鏡及び撞鐘、この池に飛び入り、ついに取り上げること得ず水底に沈失す。故に国俗、この池を号(なづけ)て、鐘の池というなり。
また、天疎向津媛命は道主貴(みちぬしのむち)の幽(かくれ)名なり。
よって、中瀛宮(なかつみや)に祭り鎮まり給う。

 

神功皇后は神の教えのままに、祠壇を道中の蚊田の高嶋に建てて、仲哀天皇に祟った神・天照大神の撞賢木厳之御魂を遷される。この祠壇を伊勢天照御祖神社という。御神体は金鏡で、長年曇蔭ることがなかった。
(今の四柱神社の寛文十年(1670)久留米藩社方開基では、所在地が御井郡高嶋村の今寺と記載されている。)
天平11年(739)、聖武天皇の勅により、神宮寺・安陽寺を建立する。後に住僧が熊野、川上、高良の三神を勧請し、御祖の神の相殿に遷座される。
大永(1521-)の兵乱の軍火により神宮寺は焼亡する。この時、神鏡及び神宮寺の撞鐘は奪い去られ、鐘の池に沈失する。
また、天疎向津媛命は道主貴(ミチヌシノムチ)の幽(カクレ)名であり、中瀛宮(ナカツミヤ)に鎮座される。
「止誉比咩神社本跡縁記」では、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」は「撞賢木厳之御魂」と「天疎向津媛」は別神様であり、「撞賢木厳之御魂」は伊勢天照御祖神社の祭神であり、天照大神である。また、「天疎向津媛」は道中(大城)の道主貴(ミチヌシノムチ)の田心姫である、という。

 

 

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「撞賢木厳之御魂」は「榊伊都の御魂」と書ける。
「撞賢木」は安陽寺の撞鐘と神鏡をかける榊を意味するのではなかろうか。

百嶋神社考古学では、
天照大神(アマテラスオオミカミ)=大日霊貴(オオヒルメムチ)=卑弥呼(ヒミコ)
と同一人物とする。

ヒミコは糸島市曽根(伊都国)で生まれ、後に福岡市の檜原(ヒバル)に移られる。伊都国(イトコク)は「いつのくに」とも読める。蛇足だが、五瀬命(イツセノミコト)も本来、伊都背命と書いたのであろう。
また、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」の次なる祟り神として「天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神」(アメニコトシロ・ソラニコトシロ・タマクシイリビコ・イツノコトシロノカミ)が出て来るが、「厳之事代神」も伊都の事代主ではなかろうか。
かつて、ヒミコも田心姫(豊玉姫)も彦火々出見命も事代主も糸島地方(伊都国)におられた。
「撞賢木厳之御魂」は天照大神の荒神名でもなく、荒御魂でもない。単なる天照大神(ヒミコ)の別神名であった。
そして、伊勢天照御祖神社の本来の元宮は、福岡県北野町今寺の四柱神社になる。

さらに、驚くことが、「止誉比咩神社本跡縁記」に記されている。
宗像三女神の降居の事跡は三所各別であり、一所とあるは、本紀の脱簡混文であるという。三女神は、それぞれ別の所、宇佐・宗像・道中(大城)の三ヶ所に降られた、という。

 

道中の中瀛宮(なかつみや)の田心姫は、筑紫水沼君が祭る神、筑後国御井郡河北庄止誉比咩神社、今の赤司八幡神社これなり。
遠瀛宮(おきつみや)の市杵嶋姫は、筑紫胸肩君が祭る神、筑前国宗像郡宗像神社これなり。
海濱宮(へつみや 辺津宮)の湍津姫は葦原中国の宇佐嶋に降居され、豊前国宇佐郡の宇佐宮八幡比咩神社これなり。

 

水沼君は、宗像神社の祭神・市杵嶋姫、宇佐宮八幡比咩神社の祭神・鴨玉依姫は奉斎されていなくて、日本書記の記載と異なる。
それでは、宗像大社、宇佐八幡宮が宗像三女神として、三女神を一所に祀るようになったのは、いつからで、いかなる経緯があったのであろうか。今後の課題である。

気になることがある。
神功皇后が存命の時代に、仲哀天皇に祟った神・住吉三神は、この時は存在しない。住吉三神が住吉神社に祀られるのは、神功皇后が亡くなられた後のことである。その点、日本書記も止誉咩神社本跡縁記も時代観点が合わない。
高良玉垂宮神秘書によれば、住吉三神は安曇磯良(表筒男尊)、崇神帝(中筒男尊)、高良玉垂命(底筒男)であり、神功皇后の時代には、この住吉三神になられる方は存命である。