宮原誠一の神社見聞牒(046)
平成30年(2018年)02月16日


No.46 宮原(橘)公忠と鎮宅霊符と八代郡氷川町宮原 ⑦


1.太上神仙鎮宅霊符

百済国が、天武天皇白鳳3年(663年)、白村江戦いによって滅亡し、白鳳9年(669)、百済王族とその一族が火の君の世話により九州八代へ亡命し、その時、太上神仙鎮宅霊符も一緒に伝えられたとされる。これをきっかけに霊符神社が創建された。肥後国八代郡白木山神宮寺に鎮座したのが日本最初の霊符神とされ、霊符神と妙見神は同一神とされる。
霊符は上に太上神仙鎮宅霊符と題し、中央に本尊妙見が亀蛇の台に駕し、脇侍として二人の童子を配し、その周囲に北斗七星、左右に七十二の秘法を書き、下に霊符釈が記してある。これを信仰すれば除災興楽、富貴繁栄を得るといわれている。
霊符信仰が盛んになったのは、漢の孝文帝(文帝BC180-157)の頃とされる。

『鎮宅霊符縁起集記』には霊符金版を天平12年(740) 聖武天皇のころ肥後国八代郡白木山神宮寺で梓(版木)にちりばめたと記されている。この金版は今はなく、正平6年(1351)に征西大将軍懐良親王が八代に在住の折に版を作らせて、神宮寺の神庫に納めてから国中に流布した。永平11年(1514)宮原城主 宮原(橘)公忠(きみただ)が建物を改築し、現在の霊符版は八代城城代家老の加藤正方(まさかた)が工人に命じて彫刻させたとされる。霊符は八代妙見宮神宮寺から版行された。

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鎮宅霊符の本宮・霊符神社 由来記
霊符神社は八代神社(旧妙見宮)の末社で霊符尊星をまつる。
現在は亀蛇に駕した妙見菩薩が本尊である。『肥後国誌』には「妙見山ノ内赤津知山ノ上ニアリ」と記され、『鎮宅霊符神』によれば、百済国聖明王の第三王子琳聖太子が八代に渡来の折に伝えられ、肥後国八代郡白木山神宮寺に鎮座したのが日本最初の霊符神とされている。霊符は上に太上神仙鎮宅霊符と題し、中央に本尊妙見の亀蛇に駕する像を図し、その周囲に北斗七星、左右に七十二の秘法を書き、下に霊符釈を記してある。これを信仰すれば除災興楽、富貴繁栄を得るといわている。『鎮宅霊符縁起集記』には霊符金版を天平十二年(740)聖武天皇のころ肥後国八代郡白木山神宮寺で梓(版木)にちりばめたと記されている。この金版は今はなく、正平六年(1351)に征西大将軍懐良親王が八代に在住の折に版をつくらせて、神宮寺の神庫に納めてから国中に流布した。
永平十一年(1514)宮原城主 橘(宮原)公忠が建物を改築し、現在の霊符版は加藤正方が工人に命じて彫刻せたものである。(以下略)
                      平成三年三月
                      市文化財保護委員 江上敏勝氏
                      鎮宅霊符神社氏子 妙見町四区


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漢の孝文帝と鎮宅七十二霊符(霊符釈)
太上神仙伝 弘農県 劉進平 七十二道秘法霊符の叙
漢の孝文帝(文帝BC180-157)は、家相・風水の術に通じていた。孝文帝が、弘農県を行幸した時、大凶の家相を持つ家を見た。この家は「三愚」と言われる大凶の相を全て備えていた。すなわち、宅前が高く後方の地が低い一愚、北側に流水がある二愚、東南方が高く西北方に平地がある三愚である。
これを見て皇帝は、この家は衰退していると思った。
ところが、その家は富み栄え、家族は全員仲良く健康そのもので、裕福に幸せに暮らしている。不思議に思った皇帝は、その家の主である劉進平を召し出して、理由を尋ねた。
彼が答えるに、確かに昔は災難が多く、一家は不幸でした。ところがある日、二人の書生が尋ねて来て、七十二枚の霊符とこの祭り方を伝授してくれたという。この修法を実践すれば、十年にして金持ちになり、二十年にして子孫繁栄し、三十年にして白衣を着た皇帝が家を訪ねて来るまでになるだろう、と。
後に、劉進平は金持ちになり子孫繁栄したが、「白衣の皇帝が尋ねてくる」という予言はまだ成就していない、と答えた。
これを聞いて驚いた孝文帝は「我こそが皇帝である」と名乗った。そして、これほど霊験あらたかな霊符は、ぜひ世に広めるべしと、天下に伝え施した。
                         肥州八代庄正法寺快尊 



2.宮原(橘)公忠と鎮宅霊符

橘諸兄の直系の子孫とされる宮原秀範氏が、ブログ「橘氏の末裔」において、「042 宮原家の系図探し 24-2.橘公忠が宮原公忠へ改名する」と題して、宮原(橘)公忠(きみただ)と鎮宅霊符について紹介されている。


宮原公忠(みやはらきみただ
『宮原家系譜』によれば、敏達天皇三世の孫、諸兄王(もろえおう)が橘諸兄と称した橘氏の子孫であり、楠木氏なども同族である。諸兄17世・橘公資(きみすけ)の代から肥後八代郡宮原に移り宮原氏と称した。公高・公次・公忠と続き、公忠がはじめて人吉城主相良家に仕え、宮原四十余町(現氷川町宮原)の地頭となった。
宮原三神宮の西に宮原城を築き、その城は後世の石垣、やぐらを持つ城ではなく、中世の平地にある土豪屋敷であり、堀や土堤に竹や木を植えて要害とした城館であった。
公高の弟公繁(もりしげ)が分家して宮原氏を称したが、公忠は公高の直系で、宮原氏中興の祖といわれる。


『求麻外史 くまがいし』永正11年(1514)には「相良長毎(さがらながつね)、宮原公忠に命じて霊符を刻らしむ」とある。霊符の金版(木版に対していう銅版)を宮原公忠に命じて刻せしめたのは、金版が長年使用し磨減したので、新しく版を彫らしめたとされる。
相良長毎がそれほどに霊符を信仰し、相良氏の除災与楽・国家安全を希求していたこと、宮原公忠が霊符の知識について、相良家中第一人者であり、相良長毎の信任を得て新版彫刻の奉行を勤めたことによる。

霊符信仰の広まりは、漢の孝文帝(文帝BC180-157)の時とされ、霊符は七十二道あって、鎮宅の方術・国家安全の符法とされ、わが国には七十二揃ったものがなかったが、正平6年(1351)6月1日、八代古閑(こが)村の橋の下で霊符の金版と御免革の形がみつかり、神宮寺の神庫に納められていたが、宮原公忠はこれを修理して納めたという。(宮原町郷土誌 昭和34年)

『鎮宅霊符縁起集記』では、正平6年(1351)に征西大将軍懐良親王が八代に在住の折に版をつくらせて、神宮寺の神庫に納めてから国中に流布した。永平11年(1514)宮原城主 宮原公忠が建物を改築し、現在の霊符版は加藤正方が工人に命じて彫刻せたとされる。

「求麻外史」「宮原町郷土誌」「鎮宅霊符縁起集記」と内容がそれぞれ異なるが、相良長毎と宮原公忠が霊符版の版元修理に何らかの形で係わったことは確かであろう。


氷川町宮原の宮原三神宮の基となった三宮妙見宮
宮原公忠は「天法兵道を修めた人」で、相良長毎の命によって「霊符」の版をつくっている。『八代郡誌』には「公忠妙見霊符を信じ、天文年間霊符の板を奉納し、且つ仏堂を修し、甲冑を体したるまま遂に入定したりという」とあり、『国群統志』には「城主公忠霊符を信じ、かつ佛道を修し、ここ(墓の所在地)にてついに入定せりという。」とあり、『八代古跡略記』には「佛道を修してついに入定す。」とある。
宮原公忠が霊符を信仰したことは、妙見信仰の一部をなすものである。当時八代城下に妙見宮があり、その門前町には天台宗・真言宗よりなる十五坊の供僧制をもち、八代における妙見菩薩の信仰の中心であった。霊符は十五坊中の首坊神宮寺より版行された。
また、旧八代郡宮原村の西方には三宮妙見宮が平安末より鎮座し、氷川山神蔵寺(天台宗)はじめ社僧六坊があって、八代郡北部の妙見信仰の中心をなしていた。
三宮妙見宮とは妙見宮を勧請したものであり、八代宮地の妙見宮に次ぐ重要な末社であった。宮原公忠がこの両社から霊符の信敬を学ばれ、このことが、後の子孫の水神社の創立に寄与している。そして、橘族は久留米水天宮の建立にも係わることになる。


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3.氷川町宮原の宮原三神宮

熊本県八代郡氷川町宮原から氷川に沿った上流域に泉町がある。百嶋由一郎先生が"八代の上に九州王朝の泉地区があります"と言われたイズミである。また、倭国大乱の折、天皇家(神武天皇・ヒミコ・懿徳天皇)が大幡主・大山祗の引導により一時的に南九州に避難された所であるとされる。八代郡氷川町宮原が「火の君」の中心地であり、この一帯に姫城を確認できたため、ブログ「ひぼろぎ逍遥」管理人・古川清久氏と共に氷川町・八代市一帯の神社を12月1.2日にかけ調査することになりました。まず出向いた神社が氷川町宮原の宮原三神宮でした。秋の紅葉の美しい時期であり、境内のいちょうの黄色付き、落葉の黄絨毯の美しさに感動しました。


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百嶋由一郎先生講演 久留米地名研究会にて 2011年2月5日
邪馬台国の中心地は今盛んに噴火を繰り返している所、宮崎県の高原町(たかはるちょう)あたりです。もとは姫原(ひめはる)でした。ところが、高木の大神の一派が盗み取りして、名前を勝手に姫原から高原(たかはる)に変えています。本当の神武天皇のゆかりの地です。姫城(ひめぎ 宮崎県都城市姫城町)は都城市市役所付近の地名です。もとの鹿児島県の国分市及び隼人町(はやと)あの付近一帯を姫城という。それから熊本県の八代のちょっと上に九州王朝のどえらい集落があります(宮原三神宮がある氷川町宮原、以前は「宮原町」その前は「火の村」といった。北東の山手に姫城あり)。そこにも姫の城が残っている。


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境内に入り、由緒記を読んで、またビックリ。ご祭神の説明がチグハグである。
まず中央に国常立尊(近江日吉宮より勧請)、右に天照皇大神(伊勢神宮内宮より勧請)、左に神武天皇(京都下賀茂神社より勧請)となっている。近江日吉宮より勧請する神様は大山咋、京都下賀茂神社より勧請する神様は豊玉彦となるのだが。見方によれば、国常立尊、天照皇大神、神武天皇、豊玉彦、大山咋の五神が祀られているとも思える。
宮原三神宮は創立時「三宮社」といった。後に神仏習合の三宮妙見宮と称している。明治の神仏分離令により、神蔵寺を廃し、社号を宮原三神宮と改めている。
平治元年(1159)9月二条天皇の勅命によって造営が始まっている。これだけの大規模な神社であり、地域の歴史も古い。元宮となった古宮があったと推察する。
「八代古跡略記」によれば、三宮とは妙見神の「一の宮 目深検校・二の宮 手長次朗・三の宮 早足三郎」を祀るという。目深検校・手長次朗・早足三郎は百済亡命王族である。三宮とはこの三名を祀った名前ではなかろうか。その三名を祀った神社が古宮であろう。その土台の上に三宮社が建立されたとする方が説明に合理的である。
また、一説では「一の宮 妙見、二の宮 阿蘇・甲佐・八幡・賀茂・春日、三の宮 立神六所権現を祭神」とするという。一の宮は天之御中主神を、二の宮の阿蘇は建磐龍命を、甲佐は大山咋を、八幡は応神帝を、賀茂は豊玉彦を、春日は武甕槌神を、三の宮の立神六所権現は大幡主の六神を祀るのであろうか。
境内社に金刀比羅宮、八幡宮が祀られている。この宮は大山咋、応神帝を祭神とするが、神武天皇、天照大神の天皇家二神がこの神社の祭神から抜け落ちていることになり、祭神の数も多いが、神様間の関連性がない。納得出来る説ではない。


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祭 神 天照皇大神(右・伊勢神宮内宮)
    国常立尊 (中・近江日吉宮)
    神武天皇 (左・京都下賀茂神社)
由 緒
当宮はもとは三宮社と称していましたが、明治維新後宮原三神宮と改称し、郷社に列せられました。平治元年(1159)9月二条天皇の勅命によって越中前司平盛俊が社殿の造営にあたり、応保元年(1161)6月16日に竣工され盛俊の弟平盛房を兵庫頭中四位に叙し社司に任じて、同年8月13日に勅使として内大臣平重盛等と共に肥後国八代郡火の村に神輿を奉じて勧請しました。天正16年(1588)に社殿のほとんどが焼失しましたが加藤清正公が再建され、寛永年間から国主細川公代々の当宮を厚く崇敬されました。以上のような由緒正しい古い宮でありまして、実に八代北部全域の守護神として崇敬され今日に及んでいます。昭和36年10月には御鎮座800年祭が盛大に斎行されました。
境内社:金刀比羅宮、天満宮、八幡宮

宮原三神宮 略歴
平治元年(1159) 二条天皇の勅命により社殿造営
応保元年(1161) 社殿完成、伊勢神宮内宮・日吉大社・下鴨神社の神霊を勧請創建
        はじめは三宮社といった
天正16年(1588) 小西行長の焼討ちにより社殿焼失
慶長6年(1602) 加藤清正公により復旧
寛永元年(1624) 以後細川氏より保護を受ける
寛文元年(1661) 神蔵寺をはじめ六坊が建立
        八代妙見宮にならい三宮妙見宮と称する
明治維新の神仏分離令により、神蔵寺を廃し、社号を宮原三神宮と改める


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社紋は「五七桐紋」、その他に「二つ引紋」、「九曜星紋」があり、南北朝時の足利氏、肥後藩の細川家の関与があったのであろう。


三宮妙見宮は、氷川町宮原の西方に平安末より鎮座し、氷川山神蔵寺(天台宗)はじめ社僧六坊があって、旧八代郡北部の妙見信仰の中心をなしていた。
三宮とは「一の宮 目深検校・二の宮 手長次朗・三の宮 早足三郎を祭る。」(八代古跡略記)という。
また一説には「一の宮 妙見、二の宮 阿蘇・甲佐・八幡・賀茂・春日、三の宮 立神六所権現を祭神とする」という。妙見神が一の宮に祀られ、三宮妙見宮は八代妙見宮を勧請したものであり、八代宮地の妙見宮に次ぐ重要な末社であった。
後に、三宮妙見宮は神仏分離し、社号「三宮社」と独立することになる。
目深検校・手長次朗・早足三郎は、三人に姿を変え、亀蛇に乗って竹原ノ津に上陸した百済国滅亡後の百済王族渡来人で、祭神はその王族である。
また、一説の「一の宮 妙見、二の宮 阿蘇・甲佐・八幡・賀茂・春日、三の宮 立神六所権現を祭神」とする、一の宮は天之御中主神を、二の宮の阿蘇は建磐龍命を、甲佐は大山咋を、八幡は応神帝を、賀茂は豊玉彦を、春日は武甕槌神を、三の宮 立神六所権現は大幡主を祀るのであろうか。
       宮原秀範氏ブログ「橘氏の末裔」「042 宮原家の系図探し24-2」


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4.旧八代郡宮原の起こり

旧八代郡宮原町は、火の国、肥の国の名称の発祥の地である。
太古は「火の邑」「火の村」と言い、その後「火の国」と称した。
その後(平安末期)「火の村」は「宮原村」へと改め、鎌倉・室町時代は八代郡文化の中心として栄えた。昭和の合併で旧八代郡宮原町は氷川町宮原となった。
ミヤノハル(宮原)という地名は、三宮社にちなんで、約八百年前の1161年にできた。その前はヒノムラ(火ノ村)と言った。「宮原」を地名として呼ぶ時は「みやのはる」と言った。名前を呼ぶ時も「みやのはる」と呼んでいたが、後に「みやはら」と呼ぶようになったという。
そして、ここ宮原の地は「火の君」の中心的地域でもある。よく「火の国」の起源は阿蘇山の火炎から来ていると聞くが、ここから阿蘇山の炎が見える所ではない「ひの国」の「ひ」は「とてつもなく尊い方」を意味し、「とてつもなく尊い方が住まわれている国」ということになる。それは神武天皇の故郷が八代地区、天草であることに起因する。八代竹原の津は周王朝系呉国末裔の泰伯王家の渡来の地である。
熊本県の地名は、「火の国」→「肥の国」→「肥後国」→「隈本」→「熊本」と、その名称を変えている。


百嶋由一郎先生講演 春日神社について 2011年4月23日
幻の邪馬台国、邪馬台国なんてありませんよ。で一応話が決まって、賢人会議をやった場所が、現在の大隈半島、昔の阿多半島です。阿多、誰が阿多におられたか、阿多におられたのはイスラエルの総大将の金山彦及び金海伽耶の総大将ウマシアシカビヒコチ。こういう方々がおられまして、けんかをした後でありましたが、とにかく仲良く、これから日本を運用していこうと衆議一決して、神武天皇を中心として、日本巡幸を思い立たれました。お姉さんである天照大神も巡幸なさっています。ところが、賢人会議をやった場所は隠されています。それが神武天皇の故郷である八代地区、天草を含みます。そこに固有名詞として残っています。例えば、御所が浦、火島、火の島、日代島、氷川、問題は"ひ"、"ひ"というのは、とてつもなく尊い方を意味します。現在では、"ひ"といえば、伊勢皇大神宮に天照の八咫鏡(やたのかがみ)を収めている箱を"ひしろ箱"といいます。元の意味はとてつもなく尊いという"ひ"のことです。福岡市の"ひ"川も天照大神、神武天皇の兄弟及び神武のお子様の懿徳天皇が居られたということを示しています。居られた場所もわかっています。居られたことはわかっていますけれども隠しています。


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5.氷川町竜北の「姫の城」古墳

姫城(ひめぎ)は天皇がお住まいになる地の名称で、南九州に滞在の折、名がつけられた。
今もその地名が残っている場所がある。
 宮崎県都城市姫城町(市役所付近) 
 鹿児島県霧島市隼人町姫城 国分姫城

氷川町宮原の北、氷川の北の竜北に野津古墳群がある。野津古墳群は、古墳時代後期(6世紀初~中頃)としては珍しい墳丘の長さ60~100mの前方後円墳(物見櫓古墳・姫の城古墳・中の城古墳・端の城古墳)が4基も並んでいて、他に例を見ないことから、当時、この辺りで最も権力を持った「火の君」一族の墳墓である可能性が高いと考えられている。
姫の城古墳の「姫の城」の名称も、本来「姫城 ひめぎ」から採られたのであろう。
古墳群の北東方向、氷川に沿った上流域に八代市泉町があるし、そこには白木平がある。「八代の上に九州王朝の泉地区があります」と言われたイズミである。ここ一帯が火の君の本拠地ではなかろうか。


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野津古墳群(のづこふんぐん)
熊本県八代郡氷川町野津にある古墳群。九州山地西麓部の標高90mから110mの台地上に立地する。古墳時代後期の4基の前方後円墳からなる古墳群で、当地域における古墳時代後期の政治状況を知るうえで重要な遺跡であることから、2005年(平成17)に国の史跡に指定。出土遺物から、物見櫓(ものみやぐら)古墳、姫の城古墳、中の城古墳、端の城古墳の順に、6世紀初頭から中頃にかけて築造されたと推定される。
物見櫓古墳は最も小さく、全長62mで周濠はともなわず、墳丘には葺石(ふきいし)をもつが、埴輪(はにわ)は未確認で、埋葬施設は複室の横穴式石室で全長11m前後と推定される。
姫の城古墳は全長86m、周濠を含めた総長は115mで、墳丘には葺石、埴輪があるが主体部は未確認。この古墳の特徴は石製表飾品が多く出土していることである。
中の城古墳は最も規模が大きく、全長102m、周濠を含めた総長は117m。墳丘は3段築成で、葺石、盾持ち人物埴輪などとともに石製表飾品として衣笠の笠部1点が出土。埋葬施設は横穴式石室で、甲冑、鉄刀、馬具、ガラス玉などが確認された。


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