宮原誠一の神社見聞牒(045)
平成30年(2018年)02月11日

 

No.45 八代神社(妙見宮)と霊符神社と竹原神社 ⑥

 

1.八代神社(妙見宮)と竹原神社の由来記

前回の稿「No.44 河童・九千坊 熊本県八代に上陸 ⑤」では八代神社(妙見宮)の神社創立については触れませんでした。それは由来記がそれぞれの資料で異なり、どれが本来に近いものか判断できなかったからです。おおよその目途がつきましたので、報告します。
まず、八代神社(妙見宮)門前の亀蛇(きだ)の石碑の由来記から。

 

八代神社(妙見宮) 熊本県八代市妙見町405
祭神 天之御中主神、国常立尊(大幡主)

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八代神社(妙見宮)の亀蛇の石碑の由来記
妙見由来
 妙見神は聖なる北極星・北斗七星の象徴なり。
妙見神の来朝
 天武天皇、白鳳9年(680)、妙見神は神変をもって目深・手長・足早の三神に変し、遣唐使の
 寄港地明州(寧波)の津より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に来朝せり。
妙見宮(上宮)の創建
 桓武天皇、延暦14年(795)、乙亥、国司桧前(ひのくま)中納言政丸、三室山横嶽にこれを創建す
妙見中宮寺の創建
 二条天皇、永暦元年(1160)、庚辰3月18日、従五位肥後守平貞能、横嶽の麓に建立す。
妙見宮(下宮)の創建
 後鳥羽天皇、文治2年(1186)、丙午11月18日、検校散位大江高房、妙見上宮を太田郷宮地の地に
 遷座しめる。

 

妙見神の来朝は、天武天皇白鳳9年(680) 明州(寧波)の津から亀蛇に乗って八代郷竹原の津に上陸している。妙見宮(上宮)の社殿創建は、桓武天皇延暦14年(795)三室山横嶽に創建となっている。「妙見神の来朝」と「妙見宮上宮の創建」は別物であるという。

 

熊本県神社誌の八代神社の創立と沿革
本社は上宮、中宮、下宮の三社より成る。上宮は横嶽にあり、和銅二年(709)鎮座にして延暦十四年(795)に造営せられた。中宮は三宮嶽の麓にあり、二条天皇の勅願に依り永暦元年(1160)肥後守平貞能が宣旨を奉じて建立した。又本社(下宮)は山麓字池尻にあり、文治二年(1186) 散位大江高房が勅を奉じて創建したと伝える。(以下略)

 

妙見宮(上宮)の創建は、横嶽にあり、和銅2年(709)鎮座にし、社殿は延暦14年(795)に造営されたとある。
八代神社の創立は、八代神社(妙見宮)の亀蛇石碑の由来記と熊本県神社誌の八代神社由来記は異っている。さらに、上陸の地・竹原の津に鎮座する竹原神社はさらに詳しいが、部分的に異なる。

 

竹原神社由来記
この地は、妙見神が渡来した竹原の津跡と考えられています。
「肥後国誌」などによると、天武帝白鳳9年(680)の秋、中国明州(寧波)から妙見神が眼深検校・手長次郎・足早三郎の三人に姿を変え、亀蛇の背に乗って海を渡り、この八代郡土北郷八千把村竹原ノ津に上陸し、約3年間仮座したと伝えています。その後、同11年(682)益城郡小熊野村の千代松が峯に移って鎮座し、さらに天平宝字2年(758)に八代郡土北郷横嶽ノ峯に移り、その地に妙見上宮が創建されました。
その由来により、この地に妙見神を奉り、竹原妙見宮と呼ばれました。文治2年(1186)、後鳥羽天皇の時代に現在の宮地に妙見宮が建てられたのに続いて、竹原妙見宮が建てられたと伝えられています。天正16年、小西行長の兵火にかかり焼失。後、加藤清正によって再建されました。そして、明治元年(1868)に神仏分離令が出されたため、明治4年(1871)に竹原妙見宮から竹原宮(現在の竹原神社)となりました。

 

竹原神社由来記では、天武天皇白鳳9年(680)の秋、中国明州(寧波)から妙見神が眼深検校・手長次郎・足早三郎の三人に姿を変え、亀蛇に乗って竹原ノ津に上陸した。妙見上宮の創建は孝謙天皇の天平宝字2年(758)に八代郡横嶽ノ峯に鎮座とある。
「妙見神が亀蛇に乗って竹原ノ津に上陸した」ことは、各由来記に共通している。
「亀蛇 きだ」とは、船首に龍頭を付けた竜骨構造の大型船であろう。
古代の八代の海岸線は竹原神社が鎮座する竹原ノ津の井上町付近となる。

 

竹原神社 熊本県八代市井上町2223
祭神 天之御中主神

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八代の妙見神渡来伝承は「竹原の津」跡と考えられ、現在の竹原神社の地となる。
そのほかに妙見神渡来伝承をまとめた報告書が八代市教育委員会より報告されている。
「八代市文化財調査報告書 第43集 八代妙見祭」八代市教育委員会文化課編 2011年3月に八代妙見神渡来伝承関連の比較が記載されている。

 

八代市文化財調査報告書 第43集 八代妙見祭

①「妙見大菩薩縁起」貞享3年(1686)
明州の津より亀に乗って、肥後州八代庄土北の郷八千把村竹原の津にお着きになった。天武天皇 白鳳9年(680)のことである。3年鎮座されて、同(八代)郡小隅野村千代松峯にお移りになった。90年遷座された。
孝謙天皇の天平宝字2年(758)芦北の郷横嶽(今の上宮)にお移りになった。御宮の造り始めは延暦14年(795)である。生きておられた時は3人(目深検校・手長次郎・軍足三郎)である。

白木山妙見大菩薩縁起 原文
天武天皇ノ御宇白鳳九年明州ノ津自リ亀ニ乗リ肥後州八代ノ庄土北郷八千把村竹原津ニ御着三箇年御鎮座、小隈野村千代松カ峯九十年鎮座、是ヲ白木平ト号ス、孝謙天皇御宇天平宝字二年戸北郷横嶽ニ移在ス(今之上宮是也)、御宮造始延暦十四年也、中宮者二條院之綸命ニシテ永暦元年御建立、下宮者御鳥羽ノ院之勅宣ヲ降サレ文治二年ノ御草創也

②「国郡・統志」寛文9年(1669)
天智天皇 白鳳9年 明州の津より亀蛇に駕して、初めて肥後州八代郡八千把村にお着きになった。来られたときは3人である。3年後、益城郡小隅野村千代松峯白木平にお移りになった。90年後、八代横嶽に遷って、おなくなりになった今の上宮である。

③「妙見宮実記」享保15年(1730)
天武天皇 白鳳9年(680)の秋、肥後八代郡土北の郷八千把村竹原に初めて、鎮め斎いた。3年斎き申し上げ、同11年(682)益城郡小熊野村千代松峯に遷座された。
77年間たって、再び八代上宮に鎮座された。孝謙天皇の天平宝字2年(758)である。
桓武天皇延暦14年(795)勅願によって社殿を草創した。

④「肥後国誌」明和9年(1772)
漢土の白木山神(目深検校・手長次郎・軍足三郎)が、明州の津より亀蛇に駕して、天武天皇 白鳳9年(680)に来朝されたのが、日本での妙見の始まりである。着かれた所が八代郡土北郷(白木山)八千把村竹原の津である。ここに3年間鎮座され、益城郡小熊(隅)野村千代松峯(白木)に移られた。90年間鎮座された後、孝謙天皇の宝亀2年(771)、また八代郡横嶽に移られた。今の上宮である。

(注) 770年宝亀元年 称徳天皇(孝謙天皇)崩御

 

これらの由来記と天武天皇白鳳9年の九州と朝半島の情勢を考えると、「妙見神」とは霊符神社(れいふじんじゃ)の「太上神仙鎮宅霊符」の霊符神と見ることができる。これを持ち込んだのが、白村江戦いによって百済国が滅亡(660年)した百済王族で、九州八代へ渡来した時であろう。
天武天皇白鳳9年の「白鳳」は九州年号であり、西暦669年に該当する。

西暦680年は大和朝廷の年号からみた西暦年である。すると、来朝時期は百済国滅亡(660年)後と年代が近くなる。
亀蛇に乗って渡来した漢人、妙見神(霊符神)の渡来、百済王族の九州亡命は切り離して考え検討する必要がある。


※(集約) 百済滅亡により百済王族が九州亡命の折、霊符神(妙見神)を奉斎し、天武天皇白鳳9年(669年) 八代郡土北郷(白木山)八千把村竹原の津に上陸し、宇城市小川町南海東(小園)に霊符神社を創立。
その3年後、火の君の世話により白鳳11年(672年)益城郡小熊(隅)野村千代松峯(白木平)に移り、さらに約90年後の758年、八代市妙見町2151-6に遷座。これが現在の霊符神社である。
その時、孝謙天皇天平宝字2年(758)、八代妙見神上宮が八代郡横嶽ノ峯に鎮座。
桓武天皇の延暦14年(795)、国司桧前(ひのくま)中納言政丸により三室山横嶽に社殿創建。
妙見神を八代に持ち込んだのは、百済滅亡時の百済王族と言える。


 

2.霊符神社

竹原の津に渡来した妙見神(霊符神)を祀る神社が八代神社近くに二ケ所存在する。
 霊符神社 熊本県八代市妙見町2151-6
 霊符神社 熊本県宇城市小川町南海東(小園)

 

霊符神社 熊本県八代市妙見町2151-6

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霊符神社は八代神社(妙見宮)の末社となっており、南東の方向約300mの山手にあり、かなりの階段を登ることになる。拝殿の横には鎮宅霊符神の由来が詳しく記載されている。
 

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鎮宅霊符の本宮・霊符神社
霊符神社は八代神社(旧妙見宮)の末社で霊符尊星をまつる。
現在は亀蛇に駕した妙見菩薩が本尊である。『肥後国誌』には「妙見山ノ内赤津知山ノ上ニアリ」と記され、『鎮宅霊符神』によれば、百済国聖明王の第三王子琳聖太子が八代に渡来の折に伝えられ、肥後国八代郡白木山神宮寺に鎮座したのが日本最初の霊符神とされている。霊符は上に太上神仙鎮宅霊符と題し、中央に本尊妙見の亀蛇に駕する像を図し、その周囲に北斗七星、左右に七十二の秘法を書き、下に霊符釈を記してある。これを信仰すれば除災興楽、富貴繁栄を得るといわている。『鎮宅霊符縁起集記』には霊符金版を天平十二年(740)聖武天皇のころ肥後国八代郡白木山神宮寺で梓(版木)にちりばめたと記されている。この金版は今はなく、正平六年(1351)に征西大将軍懐良親王が八代に在住の折に版をつくらせて、神宮寺の神庫に納めてから国中に流布した。
永平十一年(1514)宮原城主 橘(宮原)公忠が建物を改築し、現在の霊符版は加藤正方が工人に命じて彫刻せたものである。(以下略)
                      平成三年三月
                      市文化財保護委員 江上敏勝氏
                      鎮宅霊符神社氏子 妙見町四区

白木山妙見大菩薩縁起
天武天皇ノ御宇白鳳九年明州ノ津自リ亀ニ乗リ肥後州八代ノ庄土北郷八千把村竹原津ニ御着三箇年御鎮座、小隈野村千代松カ峯九十年鎮座、是ヲ白木平ト号ス

 

「白木山妙見大菩薩縁起」にある「肥後州八代庄竹原津に着き、3箇年ご鎮座され、小隈野村千代松カ峯(白木平)に90年鎮座され、現在の宮地に孝謙天皇御宇天平宝字2年(758)鎮座された」と言われる「千代松カ峯(白木平)」と思われる所に同様の霊符神社が、熊本県宇城市小川町南海東(小園)に存在する。
神社の由緒書は八代の霊符神社と同じ記述であり、「霊符神社は八代神社(旧妙見宮)の末社」がこの神社では「霊符神社は八代神社(旧妙見宮)の本社」となっている。小川町の霊符神社が八代の霊符神社よりも古いことになる。小川町の霊符神社は八代妙見宮・上宮が創建されると同時に八代市赤土山の現在地に分祀され、八代の霊符神社が建立された。

 

霊符神社 熊本県宇城市小川町南海東(小園)

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小川町の霊符神社がある宇城市小川町南海東(小園)を南に峠越えすると、そこは八代市泉町下岳の白木平である。八代郡氷川町宮原から氷川に沿った上流域に泉町がある。百嶋由一郎先生が"八代の上に九州王朝の泉地区があります"と言われたイズミである。

 

百嶋由一郎先生講演 久留米地名研究会にて 2011年2月5日
魏志倭人伝読んでいらして、全く気付いておられないこと、トウマの国とは阿蘇家の頭領、春日様(天忍穂耳命)が長髄彦の家来だった頃、与えられていた統治地が当麻の国です。場所は奈良県葛城です。あっちの当麻とこっちの投馬をごっちゃにしていますが、倭人伝の投馬は大分県宇佐です。邪馬台国の中心地は今盛んに噴火を繰り返している所、宮崎県の高原町(たかはるちょう)あたりです。もとは姫原(ひめはる)でした。ところが、高木の大神の一派が盗み取りして、名前を勝手に姫原から高原(たかはる)に変えています。本当の神武天皇のゆかりの地です。姫城(ひめぎ宮崎県都城市姫城町)は都城市市役所付近の地名です。もとの鹿児島県の国分市及び隼人町(はやと)あの付近一帯を姫城という。それから熊本県の八代のちょっと上に九州王朝のどえらい集落があります(宮原三神宮がある氷川町宮原、以前は「宮原町」その前は「火の村」といった。北東の山手に姫城あり)。そこにも姫の城が残っている。そして、ここから余り遠くない福岡県浮羽町千足の小高いところの姫治(ひめはる)も神武天皇ゆかりの地です。

 

八代郡氷川町宮原から氷川の上流域の泉町地域及びその北部の宇城市小川町の海東地域が"火の君の中心地"と推定している。氷川が下流の平野部にかかる手前の山地に竜北町野津古墳群がある。その対岸の左岸(南側)の宮原町には大王山古墳群があり、これらの地域は火の君に関する古墳群ではなかろうか。


 

3.百済王族亡命渡来の地

天武天皇白鳳3年(663年)は白村江戦いによって百済国が滅亡した時期である。
朝鮮半島の主な略暦をみると、

 554年 百済国聖明王、新羅戦において戦死
 660年 百済国の都扶餘陥落
 663年 百済国白村江戦いによって滅亡
 676年 新羅国が朝鮮半島を統一

九州年号・天武天皇白鳳9年は669年であり、百済国滅亡6年後である。
その間、百済王族とその一族が九州へ亡命渡来することもあり得るだろう。
白木山神(目深検校・手長次郎・軍足三郎)が、天武帝白鳳9年(669)に来朝されたのは、百済王族とその一族の九州へ亡命であり、その時、鎮宅霊符神(太上神仙鎮宅霊符)も一緒に伝えられたのではなかろうか。
百済王族が火の君の世話により、佐賀県杵島に上陸された伝説が、杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社・稲佐(いなさ)神社に残っている。

 

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八艘帆が崎(はっすぼがさき)
古代海中に浮ぶ杵島山の山麓東南に二大良港があり、一は竜王崎、二は八艘帆が崎である。
一、口承によれば稲佐大明神着岸のところを焼天神と伝えている。
二、神代の時、素盞嗚尊の子、五十猛命は孤津、大屋津命と共に韓地より樹種を持ち
  帰り、この岬に着岸され全山に植林せられたと言われている。
三、稲佐山略縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、
  火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。
  一を北の御所と言い、一を太子庵と言う。この岬に八艘の帆を埋没したので、
  その後八艘帆が崎と言う。
四、平城天皇大同二年、空海上人(弘法大師)帰朝し、ここ八艘帆が崎に上陸、太子
  庵にて稲佐山開創の事務を執らる。
  補・焼天神の地域は、八艘帆が崎と同じである。
  平成四年四月吉日 御即位大嘗祭記念  稲佐文化財委員会

 

稲佐山略縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り、稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けられる。一を北の御所と言い、一を太子庵と言う。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後、八艘帆が崎と言う。
 

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ところが、百済聖明王の王子阿佐太子も、霊符神由来記の百済国聖明王の第三王子琳聖太子も、当時の日本や百済の文献に見ることはできない。

 

阿佐太子は推古天皇5年(597)日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。
琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったとされる。


 

4.由来記から見える亡命百済王族と八代郡氷川町宮原の大王山神社

「亀蛇に乗って渡来した漢人」とは、船首に龍頭を付けた竜骨構造の大型船・亀蛇に乗った漢人であろう。それは、中国南部に追われた白族である大幡主の先祖・白川伯王の子孫は昆明の近くから紅河を下り、海南島経由で熊本県天草から有明海に入られ、八代の竹原ノ津に上陸された大幡主ご一統ととれる。
天武帝白鳳9年、目深検校・手長次郎・軍足三郎が、百済王族亡命として姿を変え、鎮宅霊符と一緒に八代の竹原ノ津に上陸され、ここに3年間鎮座され、火の君の世話により益城郡小隅野村千代松峯白木平(宇城市小川町南海東)に移られ、約90年間逗留されたのであろう。90年間の逗留は長いが、その間に亡くなられ、八代郡氷川町宮原早尾の大王山古墳群に葬られたのではないか。大王山には6人の神様を祀った大王山神社が鎮座する。6人のご神体は百済亡命王族の三夫婦(目深検校・手長次郎・軍足三郎)ではないかと思う。ご神体は大陸風の姿であったという。天正十六年(1588)小西行長による焼き討ちが行われた時、神職の緒方某がご神体を背負って人吉に逃げ、青井神社に祀り、早尾大王社と呼ばれたという。(宮原町郷土誌による)
現在、大王山神社は参拝不便な山上にあるため、廃宮され、麓の腹巻田(はるまきだ)神社となっている。ご神体は二夫婦の四体であるが、服装は大陸風ではないようだ。

 

大王山神社跡 熊本県八代郡氷川町宮原腹巻田

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腹巻田(はるまきだ)神社 熊本県八代郡氷川町宮原腹巻田

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5.八代神社(妙見宮)の創立

八代妙見宮は孝謙天皇の天平宝字2年(758)、八代上宮に鎮座され、桓武天皇延暦14年(795)勅願によって社殿を草創した。上宮に鎮座された時、霊符神社も宇城市小川町南海東(小園)から分祀され、白木山神宮寺に鎮座された。そして、八代神社の末社となった。

この時期の孝謙天皇の略歴をみてみると、
 756年 聖武天皇(太上天皇)崩御
 757年 橘奈良麻呂の乱
 757年 伊勢松阪の櫛田神社を博多の櫛田神社に里帰り・分祀
 758年 八代神社(妙見宮)上宮の鎮座
 758年 孝謙天皇退位
 770年 宝亀元年称徳(孝謙)天皇崩御

聖武帝の崩御後、実権を強めた藤原仲麻呂は左大臣・橘諸兄を謀略により追放。橘諸兄の息子、橘奈良麻呂も反乱は失敗し、失脚する。橘族でもあった孝謙女帝は、藤原仲麻呂の力を恐れ、橘族の本宮ともいうべく伊勢松阪の櫛田神社に危害が及ぶのを恐れ、博多に櫛田神社の里帰り・分祀された。さらに、八代においては、758年八代妙見宮上宮の鎮座を急がれ、その後、天皇退位となられたのではなかろうか。橘族の孝謙天皇であればこそ、橘族の祖・大幡主を祀る神社創立を急がれたのであろう。

①妙見宮(上宮)の創建
 孝謙天皇の天平宝字2年(758)、八代上宮に鎮座
 桓武天皇の延暦14年(795)、国司桧前(ひのくま)中納言政丸、三室山横嶽に社殿創建。
②妙見中宮寺の創建
 二条天皇の永暦元年(1160)、従五位肥後守平貞能、横嶽の麓に建立。
③妙見宮(下宮)の創建
 後鳥羽天皇の文治2年(1186)、検校散位大江高房、妙見上宮を宮地に遷座。

 

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6.八代市妙見宮の祭神

福岡県での妙見神社(妙見宮)の祭神は天御中主神、白山神社(白山宮)の祭神は白山姫、菊理姫である。
しかし、八代神社(妙見宮)の祭神は天之御中主神、国常立尊(大幡主)となっている。また、妙見竹原神社の祭神は天之御中主神である。両神社の神殿屋根の千木を見ると、外削ぎの男千木であり、これは国常立尊(大幡主)が主祭神であることを意味する。

 

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大幡主は橘族の祖・象徴ともいえる。大幡主は熊本県天草地方を中心に多くの神社に祀られ、製塩王であり、大航海王でもあり、白川伯王の白族出身である。

 

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霊符神社の霊符は、上に太上神仙鎮宅霊符と題し、中央に本尊妙見が亀蛇に駕する像を配置し、その周囲に北斗七星、左右に七十二の秘法を書き、下に霊符釈を記してある。
太上神仙鎮宅霊符の「亀蛇に駕する本尊妙見」とは、単に仏教上の妙見菩薩をいうのであろうか。それとも日本版・国常立尊(大幡主)をいうのであろうか。
妙見菩薩は、北斗七星または北極星を神格化した神であるという。
日本版妙見神とは、大幡主を北極星、白山姫を北斗七星と指すのではなかろうか。