宮原誠一の神社見聞牒(035)
平成29年(2017年)11月28日

No.35 事代主を祀る桂川町内山田の天神社

 

1.内山田の天神社と少名彦神
前回、大国主を祀る桂川町土師の老松神社を紹介している。桂川町土師の県道66号を南に約3Km 下ると弥山の山間地に内山田の交差点がある。そこに「少彦名神」を祀る天(てん)神社がある。高い石垣と玉垣をもった砦みたいな古社である。
祭神「少彦名すくなひこな」は「少名彦すくなひこ」とも書く。私は「須玖奴国の王子」という意味からして、「少名彦」の名称を使用している。

 

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天神社は「天(てん)神社」と呼ぶもの、「天神(てんじん)社」と呼ぶものがある。
天神(てんじん)社は菅原神を祀る神社であるが、天(てん)神社は古代の神徳の高い氏神を祀る神社に使用される。祭神は大幡主、埴安姫(はにやすひめ)、罔象女神(みずはめのかみ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)がよく見られる。天(てん)神社は朝倉地方に多く存在し、「田の神様・タノカンサー」こと大幡主と大山祗を祭神とする。神社によっては「埴安命」と表記する神社もある。また、祭神を隠すために、神紋に梅鉢紋を使用し、天神(てんじん)社であるかの様に装おいされている神社が多い。


天神社 福岡県嘉穂郡桂川町内山田
祭神 少名彦神

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拝殿唐破風には中央に鳳凰、左右に日負鶴が彫刻されている。鳳凰の彫刻は気品の高さを示し、左右の日負鶴の彫刻は物部神社であることが窺(うかが)える。梁の上には精緻な龍の彫刻があり、神殿の壁には鴨の彫刻があり、天満神社か八龍神社が隠されているのではないかと思わせる。日負鶴と鴨の彫刻があることは、少名彦が物部族であり、鴨族であることの象徴であろう。
開化天皇を祀る老松神社がある内野から県道439号を東に行くと、内山田に行き着く。内野の国道200号沿いには物部ゆかりの地、古門(ふるもん)とつながっている。内野と内山田は何かの因縁があるのであろうか。

 

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2.少名彦と事代主
少年期の名は「少彦名命すくなひこなのみこと」と一般的にいわれている。その他に字違いの読みが多数あるが、私は、「少名彦命:すくなひこのみこと」を使用している。
少名彦の名は、福岡県春日市須玖遺跡の「スク」と奴国の「ナ」に繋がり、須玖奴国の王子と読める。奴国(大幡主)の王子様である。大幡主の子・豊玉彦、その嫡女・豊玉姫と彦火々出見命の王子として出生された。鴨族と物部族といわれる由縁である。事代主と下照姫命を主祭神とする奈良県・鴨都波神社では「鴨都八重事代主」で出ておられる。
後に、豊玉姫は彦火々出見尊と離婚され、事代主を連れ子に大国主と再婚される。そして、名前を田心姫と改められる。宗像大社の三女神の一人である。事代主は大国主の義理の子となられ、大国主と共に筑豊西一帯での国造りに尽力される。後に事代主(ことしろぬし)は西宮(にしのみや)大明神となられる。
事代主は筑紫の夜須(今の福岡県甘木)に三年ほど滞在されたことがあり、甘木の西宮大神宮・西宮大明神縁起に記されている。その後、筑豊に移られたのであろう。
出雲神話の舞台は島根県ではなく、大国主も事代主も実際には福岡市東部周辺から筑豊西一帯で活動されていたとみる。奥筑豊地域では大国主と事代主を祭神として祀る神社をよく見かける。

 

 

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大国主の国譲り後は、活動の舞台が中国・関西地方に移っている。
島根県松江市美保関町に美保神社がある。
左殿に大国主の后・三穂津姫、右殿に大国主の子・事代主を祀る。古くは三穂津姫(元・田心姫)を主祭神とし、併せて事代主を祀っている。
そして、関西では"えびす神"となられる。
関西では"えびす神""えべっさん″と親しまれ、左に鯛を抱き、右手に釣り竿を持ってニコニコ笑っておられる商売繁盛の神様である。事代主は「事知主の義」で、あらゆる事を知る神様。美保関の漁師たちは、漁業の祖神、航海の守護神として事代主を祀った。やがて、それが福徳をもたらす神として、各地の漁村で信仰されるようになったという。全国に広まって農家や商家でも祀られ商売繁盛の神に結びついていった。
因みに、えびす祭り(十日戎)の中でも有名な、西宮市の西宮神社の"えべっさん"は蛭子神であり、時を経て西宮の浜にご神体が流れ着いたのを祀ったのが西宮神社だという。
事代主の神徳は酒と薬の神様とも云う。仏教では薬師如来とされる。また、製塩の神様、粟栽培の神様でもある。淡島大明神として、淡島神社、粟島神社の祭神として祀られている。淡島明神は和歌山市加太町の加太神社が著名で、その祭神は事代主・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)となっている。
また、佐賀県背振北山地域では、神功皇后(息長足媛)の生誕の伝承を持つ野波神社があり、境内社・淡島神社・淡島明神として祀られている。同地域の下ノ宮では息長足媛の両親である父・息長宿祢命と母・葛城之高額媛命が祀られており、事代主は葛城一族の祖神とも云われる。



3.「記紀」における大国主との出会い
「記紀」には大国主と少名彦が出会う場面が描かれている。

 

大国主が出雲の美保の岬にいた時、波間に揺られ、カガミの皮で作った舟に乗り、鷦鷯の羽を縫い合わせた服を着て、こちらへ近づいて来る神が見えた。大国主は名前を尋ねたが、答えがない。従者の神々に問うても皆「知らない」という。そこに多邇具久(タニグク)が、「久延毘古(クエヒコ)が、必ず知っている」と申し上げたので、すぐに久延彦を呼び寄せて聞いてみると、「あれは神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で、少名毘古那(すくなひこな)の神です」と答える。そこで大国主が神産巣日神に尋ねたところ、「この神は確かに私の子で、小さな体なので、私の手からこぼれ落ちた子である。大国主と兄弟となり、一緒にこの国を作り固めよ」と言われた。・・・・久延毘古は、山田の「そほど」といふ者なり。この神は足は行かねども、ことごとに天下の事を知れる神なり。

 

もう少し読み下してみると

大国主が出雲にいた時、鷦鷯(さざき)の羽を縫い合わせた服を着て、こちらへ近づいて来る神が見えた。大国主は名前を尋ねたが、答えがない。従者の神々に問うても皆「知らない」という。そこにヒキガエル(多邇具久タニグク)が、「山田の案山子(かかし・久延彦クエヒコ)が、必ず知っている」と申し上げたので、すぐに案山子を呼び寄せて聞いてみると、「あれは神の子で、スクナビコナ(少名毘古那)の神です」と答える。そこで大国主が神皇産霊尊(大幡主)に尋ねたところ、「この神は確かに私の子で、小さな体なので、私の手からこぼれ落ちた子である。大国主と兄弟となり、一緒にこの国を作り固めよ」と言われた。
久延毘古とは、「山田のそほど」つまり案山子(かかし)のことである。

大国主が国譲りをされる前の活動の地は北部九州、朝倉から筑豊一帯である。国譲り後の活動の地は関東である。少名彦、後の事代主との国造りの場は筑豊一帯であり、大国主は桂川町土師一帯に居られたことが、土師の老松神社の社伝からうかがえる。
よって上記の大国主と少名彦の出会いの場面で、「出雲」を海岸部でなく内陸にすると、ここ桂川町土師から内山田の内陸が舞台として良く合うようだ。しかも「出雲」を桂川町の北隣の旧穂波村出雲に置き換えると、さらに舞台が合ってくる。


善院の天満神社  福岡県久留米市田主丸町地徳(竹野・姥ケ城)3597

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福岡県田主丸町竹野姥ケ城の天満神社は表向き天満社であるが、左祠に菅原神を祀るが、中央祠は大国主を祀り、実質的には三社神社と三島神社の混合であった。拝殿前には古事記の故事による大国主ゆかりの「ひきがえる」の石像が置いてある。

 

日本の童謡・唱歌に「山田の中の一本足の案山子・・・」という「案山子(かかし)」がある。明治44年(1911年)『尋常小学唱歌 第二学年用』に掲載され、田んぼや畑でスズメなどの害を追い払うための人形「かかし」が曲のテーマとなっている。
本来「かか」は蛇を、「子」は人や人形を意味するという。
昔は、一本の竹竿に蛇をつるし、田のなかにスズメが入らないように脅した。文字通り、一本足のカカである。情景が余りにもイビツなので、後に一本の竹竿に人形を着けるようになったという。しかも、古着を着た人形のカカシは、物資が豊になった現代でのことであり、古着でも貴重な昔では、古着人形のカカシはありえない。
桂川町の内山田(内の山田)の案山子とは、この唱歌の歌詞の情景がぴったりである。
稲穂が垂れる頃、古着の人形カカシを田圃に立てても、スズメは当初、慎重に行動するが、動かないと見るや、堂々と稲穂を食い荒らすと、母は語気を荒げに私に言った。脅しの効果はイマイチらしい。

 

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追記
天神社は本来、天照女神(埴安姫)と大幡主(埴安彦)を祀ります。
西の宮=エビス神=大幡主
大国主と妃美穂津姫、あるいは、事代主と美穂津姫、と言ったら、大幡主と天照女神を指します。