宮原誠一の神社見聞牒(026)
平成29年(2017年)10月13日

No.26 開化天皇(玉垂命)を祀る筑穂内野の老松神社⑦


1.天満神社・老松神社の政治利用
今まで6回のシリーズで老松神社を紹介してきました。
延喜3年(903) 菅原道真公が生涯を終えられ、永延元年(987)「天満大自在天神」という神位が贈られ、11世紀にはいり、天皇からの荘園の寄進があり、大宰府天満宮の荘園・安楽寺領が増えていき、天満宮の荘園であることを示すために、旧領の古宮神社に加えて、領主は天満神社あるいは老松神社を建立していきます。そのとき採られた神社改築、建立の方法は色々とある。

1.既存の神社に天満神を合祀して、社号を天満神社あるいは老松神社とする方法。
2.既存の神社の境内に新たに天満神社を古宮と相殿建立し、社号を老松神社とする方法。ただし、この場合、古宮が老松神社となっている。
3.新規に天満神社を建立し、祭神を道真公とし、社号を天満神社とする。
4.新規に老松神社を建立し、老松神社とする。この場合の祭神は道真公の親族、或いは眷属が多い。
5.古宮を隠す目的で、社号を老松神社あるいは天満神社とする方法。この場合は天満宮荘園(安楽寺領)とは関係がない。

(1)の例では、筑後地方の玉垂神社(祭神・玉垂命)、大山祗神社(祭神・大山祗)の神社が多いようです。特に浮羽郡、三井郡、御原郡の北筑後地方に多くみられる。鳥居の扁額は「天満宮」「老松神社」と掲げるけれど、境内に入れば、大山祗神社の名残を見ることができる。更に、神殿内を拝謁できれば、ご神体は菅原公でなく、古宮のご神体のままであることもある。この時の祭神は大山祗、大国主が多い。
(2)の例では、古宮の祭神が玉垂命から格上げされた開化天皇の場合とか、大国主の信仰が強い地域に見られる。
(3)の例では、時代が下がって、室町時代以降になると多いようです。
(4)の例では、問題は無いでしょう。
(5)の例では、時代の事情により、祭神、社号を隠す必要があった。公表されている神社誌を参考に神社に行ってみたら、別の神社であった、というのがよくある。例えば、天満神社が月読神社であったり、外観は宮地嶽神社が大山祗神社であったり、高御魂神社が古宮の妙見宮であったり、老松神社の神殿をよく観察すれば、祭神は大国主あるいは開化天皇であったというのがよくあった。

この種の方法を、後の時代で政治利用したのが、鎌倉の御家人、地頭である。
自分の領地となった古宮神社の領民に武力と威嚇で八幡神を無理に合祀させ、社号も○○八幡神社に変更させたり、全く新しい社号に変更して、神社を鎌倉幕府の領地の旗印としている。


2.福岡県耳納山麓 竹野地区 神社トレッキング
平成29年(2017年)9月30日大宰府地名研究会主催の神社トレッキング(案内人・宮原)が福岡県田主丸町耳納山麓 竹野校区地域で行なわれ、竹野校区の神社の形態の概要が分かってきた。
古代、大幡主、大山祗ご一統が北筑後に上がってこられ、筑後開拓に乗り出された拠点地域が福岡県耳納山麓草野竹野地区であった。廻った神社は重みのある神社ばかりで、公表神社名、公表祭神名が実際と異なる神社が四社あった。この地域は、豊玉彦、木花咲耶姫、大国主、大山祗を祀る神社がほとんどで、天満神社は名ばかりで、八幡神社は一社もなかった。竹野地区は古くは条里制が引かれ、土地の区画化が行なわれた公的な地域で、その後、平家の荘園となっている。平家滅亡後は、地元豪族の草野家の領地となり、草野家は藤原氏の流れであり、鎌倉幕府の御家人とは少々異なる。主だった竹野地区の神社は天満神社に仮装変更し、八幡神社が介入するのを防いでいる。
そのトレッキングの一部を簡略報告。

(1) 三明寺・天満神社  福岡県久留米市田主丸町竹野(三明寺)2267

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実際の祭神は豊玉彦(天穂日)、木花咲耶姫(前玉姫)であり、浅間神社であった。


(2) 三明寺・宮地嶽神社  福岡県久留米市田主丸町竹野(三明寺)2270

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実際の祭神は大国主で三社神社(三島神社)であった。鳥居横に弁才天が祀られている。


(3) 善院・天満神社  福岡県久留米市田主丸町地徳(姥ケ城)3597

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実際の祭神は大国主、大山祗で、三島神社であった。拝殿前に"ひきがえる"の石像がある。


(4) 阿蘇神社  福岡県久留米市田主丸町地徳(森山)2808

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古宮の祭神は大国主(八十国魂)、地主神、前玉姫、(本殿は御年神、大地主神、田心姫)でした。(もしかしたら、これらの神々は本殿に全て合祀されているかもしれない。)。


この時のトレッキングの詳しい写真と説明が、BLOG伊藤まさ子管理人「地図を楽しむ・古代史の謎」に既に報告されている。



3.開化天皇(玉垂命)を祀る筑穂内野の老松神社

(1) 筑穂内野の老松神社
福岡県飯塚市(旧筑穂町)内野(関屋)の谷間に境内が広々とした老松神社が鎮座している。
筑紫野市山家から冷水峠を越えて飯塚に入る国道200号線が走り、昔の長崎街道筋にある。国道200号線をさらに北に上がると、阿恵があり、さらに進むと桂川町出雲を通過する。この近くに王塚古墳があり、土師郷もある。
国道200号線、長崎街道がない往古では、ここ内野は遠賀川流域奥地の谷間であったであろう。ここに、天滿神社、老松神社、大神宮、須賀神社の社殿が並ぶ境内の広い社号・老松神社がある。主神社は老松神社で、公表祭神は菅原神となっているが、実際には開化天皇一人を祀る神社である。

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国道200号線の西には旧官道(大分・山口・米ノ山峠・柚須原・本道寺・吉木・阿志岐)が県道65号線に沿って通る。かつて、仲哀神功軍が羽白熊鷲(はしろのくまわし)討伐に通った道である。そして、米ノ山峠の東には大根地山があり、神功皇后が戦勝祈願をした山といわれる。そこに大根地神社が鎮座する。

老松神社境内社頭には3ヶ所に鳥居が立ち、それぞれに3殿が対応する。


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(2) 福岡県神社誌の老松神社由緒
福岡県神社誌上巻に内野の老松神社の由緒が、次ぎのように書かれている(一部省略解釈)。

老松神社(村社) 嘉穂郡内野村大字内野字関屋
祭神 菅原神
由緒 不詳
明治5年11月3日村社に被定。
社説にいわく。後深草天皇宝治2年(1248)の創建。昔太宰府の神領となり、ここに勧請されたと伝える。元字古宮という地に鎭座されているところ、天正元年(1573)、現在地に遷宮。神宝に古鏡八面あり。又宝永二年(1705)藩主黒田綱政公寄進の絵馬一扁及び天保八年(1837)藤原義實公奉納の額一面をあり。
境内神社
 大神宮(大日靈命)
 天滿神社(菅原神)
 須賀神社(素盞嗚尊、大國主命、事代主命)
 松尾神社(大宮賣神)
 恵比須社(蛭子命)
 猿田彦神(興玉神)
 稲荷社(宇賀魂命)
 大日社(大日靈命)
 貴船神社(貴船大明神)
 大山祇神社(大山祇命)


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1248年、内野が太宰府天満宮の荘園(安楽寺領)となり、古宮に天満宮が勧請され、古宮は老松神社となっている。天正元年(1573)、現在地に遷宮している。古宮の老松神社の創立は不詳とある。天滿神社と老松神社の社殿は相殿並立して建っており、祭神・菅原神は天滿神社の祭神であり、老松神社の祭神も菅原神となっている。

(3) 三階松紋の錦旗
参拝の折、拝殿に上がることができた。
その時、目に入ったのは、「老松神社」と「三階松」紋が刺繍された錦旗であった。老松神社に「三階松」紋が刺繍された錦旗が置いてある。ただ事でない神社とすぐ思った。
三階松紋は九州王朝の紋であり、特に開化天皇と宮地嶽神社が使用される。
さらに、旗をよく見ると、旗の縁には「門光紋」がびっしりと打ってある。門光紋も開化天皇の紋である。
ここの老松神社は開化天皇を祭神とする神社であった。
是非とも、老松神社の古宮の社号が知りたくなった。が、恐らく無理であろうと思う。「玉垂神社」か「高良神社」であろうか。

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(4) その他の境内神社
境内神社に須賀神社(右端)があり、祭神は素盞嗚尊、大國主命、事代主命とあるが、素盞嗚尊と大國主命・事代主命は相性が良くない。恐らく後の強引な合祀で、大國主命・事代主命は別社殿に祀られていたのであろうと推察する。
松尾神社の祭神は大宮賣神(おおみやのめのかみ)であり、松尾神社の主祭神は本来「大山咋(おおやまくい)」であり、その妃は(鴨)玉依姫である。よって、大宮賣神は(鴨)玉依姫を指すのであろうか?

※大宮賣神は豊玉姫です。

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(5) 内野の老松神社と大根地神社
大根地神社神幸祭は内野地区最大のお祭りで、毎年4月第1土日に内野関屋の老松神社で行われる。この神幸祭は大根地神社の神霊が下降されもので、御鎮座記念の祭りといわれている。

大根地神社社伝によれば「この山は里より一里十余町、しかも宝満山に次ぐ高岳により参拝容易ならず、もって宝治2年(1248)老松神社を村に勧請して産神と斎き奉り、当社は末社の格に下がれり」とある。実質、大根地神社が内野の老松神社に勧請移動されたことを意味する。これが大根地神社神幸祭であり、老松神社への御鎮座記念の祭りとなっている。
仲哀帝神功皇后の羽白熊鷲討伐時には「天神七代、地神五代」を大根地神社の祭神として祀っているが、討伐後は開化天皇を祀っていたことになる。そして、宝治2年(1248) 内野に老松神社として実質遷宮したことになる。

羽白熊鷲討伐後、いかにして大根地神社は開化天皇を祀るようになったか。
第一次熊鷲討伐時には、戦勝祈願として天神七代地神五代を大根地山に祀られたが、仲哀帝は戦死され、神功皇后は開化天皇の軍門に降られ、開化天皇の后となられている。そして、再度、開化天皇軍と神功皇后軍は連合して、第二次熊鷲討伐を起こし、秋月の西・寺内にて熊鷲を討伐されている。その功により、神功皇后は熊鷲討伐の戦勝祈願をされた大根地神社に戦勝奉告され、その後、開化天皇が祀られたのであろう。