宮原誠一の神社見聞牒(011)
平成29年(2017年)06月26日

No.11 くらおかみの神を祀る八龍神社


1.八大龍王

前回のNo.10「ご神体を公表されている八龍神社」で、主祭神「彦火々出見命」と関連して「豊玉彦・天穂日」を紹介しました。福岡県小郡市津古の「八龍神社」は戦前までは社号を「津古神社」と称していました。
祭神は彦火々出見命(山幸彦)、豊玉姫です。戦後は社号を豊玉姫に因んで八龍神社と改められている。祭神の彦火々出見命(山幸彦)と豊玉姫は夫婦でおられるが、社号は旦那さんの由来でなく、妃の出自に因んで社号を変えられたことになります。
八龍神社略記の由来から、「嘉元二年(1304)創建。祭神・豊玉姫が龍神であり、龍王・豊玉彦の八大龍王から略して八龍神社と名づける。」とあります。
豊玉彦は龍王とも海神(わたつみ)とも呼ばれ、大幡主(大海神おおわたつみ)の子とされる。豊玉姫は豊玉彦の嫡女です。豊玉姫の子、鵜草葺不合命は大海祗(おおわたつみ)であり、その子、安曇磯良は海祗(わたつみ)といわれる。いわば大幡主、豊玉彦は海人族の筆頭となります。
八大龍王の由来ですが、豊玉彦の龍王からとられた神仏習合の仏教名です。

八大龍王(はちだいりゅうおう):仏法の守護神で天龍八部衆に所属する龍族の八王
1.天龍八部衆難陀(なんだ)
2.跋難陀(ばつなんだ)
3.沙伽羅竜王(しゃがらりゅうおう)
4.和修吉(わしゅきつ)
5.徳叉迦(とくしゃか)
6.阿那婆達多(あなばだった)
7.摩那斯(まなし)
8.優鉢羅(うはつら)

  福岡県福岡市西区今津の「八大龍王神社」由緒から

創立(1168年~1187年)明菴栄西(鷲峰山壽福寺関山千光禅師)
八大龍王は、天竜八部衆に所属する龍族の八王。法華経(序品)に登場し、仏法を守護する。 霊鷲山にて十六羅漢を始め、諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大龍王も幾千万億の眷属の龍達とともに釈迦の教えに耳を傾けた。釈迦は「妙法蓮華経」の第二十五 観世音菩薩普門品に遺されているように「観音菩薩の御働き」を説いた。その結果、「覚り」を超える「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)」を得て、護法の神となられるに至った。

八大龍王を略して、八龍とも言う。村名でも、字名でも、よく「八龍」があります。
神社名でも「八大神社」「龍神社」の社号をみかけますが、さらに「十王」も見かけます。これは龍王が訛って「十王」ともいう。「八大神社」「龍神社」「十王神社」「八大龍神社」「八龍神社」は本来すべて豊玉彦を祭神とする神社です。


八大龍王神社 福岡県福岡市西区今津

011-01(2)


ところで、神社をあちこちと見て廻っているうちに、豊玉彦を祭神としない八龍神社に出会うことがあります。闇神(くらおかみのかみ)=神俣姫(かみまたひめ)=素戔嗚尊の姉君を祭神とする八龍神社である。闇龗神は難しい漢字なので当て字が「闇淤加美神」として使われています。
百嶋神代系譜(阿蘇ご一家)では (贈)綏靖天皇=神沼河耳命=金凝彦=高龗神の妃は神俣姫=闇龗神であり、その間に生まれた(贈)孝昭天皇こと草部吉見・天忍穂耳命の娘(阿蘇津姫)婿が健磐龍命です。
数例の紹介です。

1.八龍(鷹取)神社 福岡県うきは市吉井町鷹取

祭神は闇淤加美神。八龍区の村の人々は1675年頃、熊本県菊池から移住してきて、神社を建立されたのこと。村名は「八龍」です。豊玉彦に関係がある橘族であろうと思いきや、その氏神が闇淤加美神です。

011-02


2.八竜神社 福岡県うきは市浮羽町妹川2793  祭神:久良袁加美神(くらおかみのかみ)


3.石浦の天満神社の境内社・八大龍社 福岡県久留米市大橋町石浦

011-04


境内社として、龍神社として闇淤加美神を祀り、八大神社として雷神を祀り、合祀して八大龍神社と云う。ここでは、闇淤加美神と雷神(豊玉彦)が合祀されています。

石浦・天満神社 福岡県神社誌中巻
所在地  福岡県久留米市大橋町合楽(石浦)字屋敷
祭 神  菅原神、闇淤加美神、雷神、菊池氏俊霊
由 緒  不詳、明治6年(1876)3月14日村社に列せらる。
祭 神  闇淤加美神は同字無格社龍神社として、同雷神は同無格社 八大神社として、同菊池氏俊霊は同無格社 菊池社とし祭祀ありしを 明治44年5月10日合併許可。
寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」では八龍神社となっている。



2.八龍神社に阿蘇族の神沼河耳命の妃 闇淤加美神を祀る不思議

闇淤加美神は素戔嗚尊の姉君で神俣姫(かみまたひめ)ともいいます。この間にできた子が天忍穂耳命(天児屋根命・大年神)です。天忍穂耳命と豊玉彦との接点は素戔嗚尊の子・瀛津世襲足姫を天忍穂耳命から後妻として豊玉彦が娶る関係があります。
それでは、八龍神社(豊玉彦)と闇淤加美神の接点はというと、百嶋先生の講演の中にヒントがありました。
その百嶋先生の講演の一部。

「春日神社について」百嶋先生講演 2011年4月23日
静岡県静岡市静岡浅間大社、もとは大年御祖神社であり、本当の祭神は大年神の義理の御母君(罔象女神)であった。ほとんどの人は勘違いして、現在の海幸彦と勘違いしている。山の上にはこの大年御祖神社が山の上に鎮座しており、山の下には神部様が鎮座している。神部様はこの博多の神様である豊玉彦(別名を八咫烏、京都下鴨大社では建角身神)。世阿弥の桜川、いま、本当の桜川が茨城県桜川市になっている。この世阿弥の桜川『ああ、桜川、桜子や、桜の雪か涙かな、筑紫を離れ、海山越えて、花の名所の桜川、親子並びはつかぬものを』の歌に該当する女性は、皆さんご存知のお方です。木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)のことです。
この方の場合は、お父さんの大山祗とお兄さんの大国主が邪馬台連合とけんかをして説得された。もちろん戦争もしたが、ごまかしの戦争で無事戦争は終わったが、そして戦後処理をやる訳だが、日本における施政地はとりあげられます。すると自分達の施政地は韓国の金海となるが、金海に戻っても、他の連中が快くは迎えてくれないので、生活のためにはどこかに頼らざるを得ない。そこで自分達の母親の本拠である奴の国の統治者、八咫烏(豊玉彦)に頼らざるを得ない。それで女はぞろぞろと八咫烏に頼るので、新しい子供が生まれる。そのお子さんと木花咲耶姫の悲しい別れの話であったとお考え下さい。本当か嘘かは別として、真実、このような舞台裏が存在したと連想して下さい。
とにかくそのようにして負ければ賊軍ですが、そのようなことが倭国乱れるの度に、繰り返し、繰り返し起こっていた。しかし決して、負けたから悪人ではなく、民族の対決ですから、長髄彦は悪もんになっているといっても、決して長髄彦のお子さん達は悪い待遇は受けていない。最高の待遇を得ています。そこが政略結婚の神様達のとてつもなく偉かったところです。
とにかくどえらい事件があったといいながらも、裏ではそういう立派な待遇をやってくれていた日本人の祖先たちがいたということです。

浅間大社は、もとは大年御祖神社であり、本当の祭神は大年神(天忍穂耳命)の義理の御母君(罔象女神・罔象女神は妃・天鈿女命の母にあたる)でした。
ほとんどの人は、大年御祖神社の祭神を天忍穂耳命(海幸彦)と勘違いしている。
山の上には、この大年御祖神社(罔象女神)が鎮座されており、山の下には豊玉彦が鎮座されている、という。
浅間大社は本来、罔象女神と豊玉彦を祀るものであったが、大年御祖を天忍穂耳命の母・闇淤加美神と罔象女神を取り違いしてしまった。そのため、闇淤加美神と豊玉彦が親子で祀られているかのような錯覚を与えてしまった。
そこが、豊玉彦を祀る八龍神社に闇淤加美神が祀られる一端となった。
これは大年御祖神社の神格を正確に判断できなかったことによります。


         百嶋神代系譜・天忍穂耳命・神沼河耳 神代系図(1)

011-05



浅間大社
所在地 静岡県富士宮市宮町1-1
主祭神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)
別称:浅間大神(あさまのおおかみ)
相殿神 瓊々杵尊(ににぎのみこと)大山祗(おおやまつみ)

浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的である。浅間神社の祭神が木花之佐久夜毘売命となった経緯としては、木花之佐久夜毘売命の出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされる。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。木花之佐久夜毘売命は、大山祗神の息女にして、瓊々杵尊の妃となられる。ご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち出産する。しかし、いつ頃から富士山の神が木花咲耶姫命とされるようになったかは明らかではない。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祗神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。
                    富士山本宮浅間大社HPより編集

「菅原道真の先祖神は何か」百嶋先生講演 2012年1月21日
向山土本毘支王(むこうやまとほひこおう)といえば、こちらからの向こうは朝鮮半島の大邱(テグ)です。ここに日本人の祖先の碑が、堂々たる碑が立っております。日本人の故郷となっております。これは嘘です。嘘ですけれども、彼等は何が何でも日本のクソヤロウと言う意識があるものですから、そういうことを言いたがる。
それで、それに怒った山梨県の人たち、それで、ニニギはケチョンパン。浅間大社に残っているのはほんの一部だけ、大半は浅間大社からニニギは追放されています。それで現在の浅間大社のご祭神はほとんど、木花咲耶姫、そして、この木花咲耶姫は浅間大社で通用しますが、それ以外のところでは、木花咲耶姫はだめです。

「宇佐神宮とは何か」百嶋先生講演 2012年3月17日
木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の旦那は邇邇芸命(ニニギ)ですが、この期間はたったの1年間以下です。その後はずっと豊玉彦の奥さんになられています。さっさとニニギとお別れになった後、前玉姫(さきたまひめ)と名前を変えられ、しばらく居られた場所は鹿児島空港付近の溝辺です。鹿児島県にいらっしゃる時、木花咲耶姫(前玉姫)の代名詞は『桜』となっている。そして神話も桜で有名になってしまった。その後、茨木県に行かれた。茨木県、栃木県のあちらでは"さくら姫"となっている。磐長姫は豊玉彦の姉であり、豊玉彦の妃・罔象女神を通しての木花咲耶姫の義理のお姉様です。
磐長姫は伊弉冉命の娘で、母親が同じである素戔鳴(天日槍)と本当の妹だが、父親が違います。素戔鳴の父親は伊弉諾(イザナギ)、磐長媛姫の父親は大幡主命、豊玉彦の父親も大幡主命。
木花咲耶姫の父親は大山祗です。大山祗は罔象女神の父親で、木花咲耶姫と磐長姫は義理の姉妹になります。
とにかく、こういうことで磐長姫は長い間、秘密にされていましたが、非常に格式の高い神様です。磐長姫とは「神様にお祈り専門」の人々が祈りだした名前です。


3.豊玉彦と6人の妃たち

豊玉彦は神名、称号を多数持っておられる。
  1.天穂日(あめのほひ 天菩火)
  2.天太玉命(あめのふとだまのみこと)
  3.龍王(りゅうおう) 十王は龍王の訛り
  4.八大龍王(はちだいりゅうおう) 仏教名
  5.豊国主(とよくにぬし)
  6.豊日別(とよひわけ)
  7.八意思兼(やこころおもいかね)
  8.小若子(こわくこ)
  9.鴨建角身(かもたてつのみ)
  10.秩父大神(ちちぶおおかみ)
  11.中将(ちゅうじょう)
  12.ヤタノカラス(八咫烏)

親族同士が「けんか」をし、その関係で、妃がひどい目に会われ、それを救ったのが豊玉彦でした。これらの神名は離婚された妃を引き取られ、妃の名前を変えられると共に、それに応じたご自身の名前を付けられている。
まず、百嶋先生の講演の一部から。

「菅原道真の先祖神は何か」百嶋先生講演 2012年1月21日
長髄彦とは神武天皇とけんかした人です。その関係で、えらいひどい目にあって、それを救ってくれたのは天皇及び豊玉彦でした。皆様にお配りした系図、これの右のほうに豊玉彦の奥様の名前がずらーっと並べてあります。豊玉彦系図、一番左の最初の奥様から申し上げます。
最初の奥様は、高木大神の長女、万幡豊秋津姫、そして、そのお嬢様が豊玉彦の嫡系の子孫である豊玉姫です。
その次にお生まれになったのが、八心大市彦(ヤゴコロオチヒコ)、そのお母さんは罔象女神(ミズハノメ)です。この罔象女神が何で素戔嗚尊のお后の座を捨てて、豊玉彦のところに嫁いでいらしたかと申しますと、実は、これです。
"上野の勢田の赤城の韓やしろ大和にいかで跡をたれなん"
鎌倉三代将軍源実朝の歌です。
この頃までは、国定忠治の赤城神社が存在したんです。ところが、その後、秘密化されて、この方の名前は消されたのです。そして、現在この方のお名前は、公的には只一箇所、私的には数箇所残されています。公的にはとは、出雲大社の一番奥に客人の部屋というのがありまして、一般の人は入ることはできません。そこに、金越智の名前を消して、宇麻志阿斯詞備比古遅(ウマシアシカビヒコチ)の名前で鎮座しておられます。そして、非公式には、何箇所か内緒でお祀りしているところがございます。
この赤城神社と同じ群馬県内に金山彦を祀った榛名神社がございます。これが喧嘩を始めたのです。それで、赤城神社のお嬢さん(罔象女神)、そして榛名神社のお嬢さん(櫛稲田姫)、両方とも引退ですよ。スサノオのところから逃げ出して、そしてすぐに、それを助けたのが、両方の危機を救ってくれたのが、天皇家と豊玉彦です。
そういう関係で、ここには豊玉彦に回ってきた姫たちが、一家の生活を助けてくださいということで嫁いでいらしたのです。豊玉彦のお妃様たちには、万幡豊秋津姫、罔象女神、イカコヤヒメ(櫛稲田姫)、杉山大神(阿蘇津姫)、前玉姫(木花咲耶姫)、武内足尼(タケウチタラシニ・瀛津世襲足姫)という方々があります。
菅原道真公のご先祖は、一番お若い武夷鳥(タケヒナドリ、母・武内足尼、父・豊玉彦)となります。
赤城大明神の社になんで金越智さんは鎮座しておられるのか、朝鮮半島の人なのに、朝鮮に鎮座すればいいのにと。この人は朝鮮人ですが、普通言う、朝鮮人ではありません。トルコ人(トルコ系匈奴)です。


       百嶋神代系図メモ・豊玉彦と6人の妃たち

011-06



6人の妃達とその子をまとめると次のようになります。

   (夫豊玉彦の名)     (妻)           (子)
 1.豊玉彦(トヨタマヒコ)     万幡豊秋津姫       嫡女・豊玉姫
 2.八意思兼(ヤココロオモイカネ)  罔象女神ミズハノメ      八心大市彦(ヤゴコロオチヒコ)
 3.鴨建角身(カモタテツノミ)   イカコヤヒメ(櫛稲田姫)  鴨玉依姫
 4.天太玉命(アメノフトダマ)   杉山大神(阿蘇津姫)    天日鷲
 5.小若子(コワクコ)      前玉姫(木花咲耶姫)    神主玉命・橘一族の祖
 6.天菩火(アメノホヒ)     武内足尼(瀛津世襲足姫)  武夷鳥(タケヒナトリ)・菅家の祖


4.赤城神社(大山祗)と榛名神社(金山彦)の争いとヤマタノオロチの説話

出雲地方のヤマタノオロチ神話は有名で、ほぼ誰もが知っておられることと思います。
足名椎夫妻とその娘・櫛稲田姫をヤマタノオロチから素戔嗚尊が救う物語で、退治したヤマタノオロチを切り裂いたら、アメノムラクモの剣が出てきたという話です。
実は、この説話は大山祗と金山彦との争いを説話化したものと云われています。
大山祗と金山彦との百年戦争と言われ、ヤマタノオロチの説話の材料にされ、金山彦夫妻が足名椎(あしなつち)夫妻、大山祗はオロチに例えられる。その争いを仲裁したのが素戔嗚尊となります。
よって、金山彦は素戔嗚に対して大きな借りを受けることになる。このことが、後の巨旦将来・蘇民将来の茅の輪の説話につながっていきます。
結果、大山祗は金山彦の妻・埴安姫を奪取、素戔嗚は金山彦の娘・櫛稲田姫と大山祗の娘・罔象女を得ることになります。
説話の場所は同神社がある群馬県内ではなく、島根の出雲地方でもなく、候補地は九州北部が候補地に挙げられます。

1.福岡市の中部付近を流れる樋井川の上流・福岡市南部。
  地域名は檜原(ひばる)・柏原(かしはら)地区での出来事。
2.佐賀県背振山麓東部。古代遺跡がある有名な吉野ケ里の近くである。
3.熊本県山鹿地方、櫛稲田姫が稲田姫として生まれられた所。

候補の背振山麓東部の佐賀県神埼市には櫛稲田姫を祀る櫛田神社、その北高地に金山彦を祀る八天神社がある。さらに、その上の山地に素戔嗚を祀る今屋敷の倉岡神社、櫛稲田姫を祀る倉谷の倉谷神社があり、現在、両神社は合祀されて、倉谷の倉岡神社となっている。さらに、その上の西方向の北山ダム湖付近には、神功皇后生誕に関係の神社・野波神社があり、その南に神功皇后の両親を祀る下の宮があります。
倉岡に戻って背振山頂に向かうと豊玉彦と市杵島姫を主祭神とする背振神社があります。
後に上宮王家(天智天皇)に関係する上宮の神社です。
また、佐賀県背振山東部の鳥栖地域・朝倉方面は大山祗の領域でもあります。
地域としては舞台がそろっている。しかし、この地域には斐伊川に相当する川がない。この地域の谷を流れるのは城原川が相当します。

一方、福岡市南部の檜原・柏原地区には強い舞台があります。
同音名の樋井川が流れていることです。柏原地区には大国主を祀る羽黒神社、その樋井川の下流で川が合流する長住には神武天皇を祀る御子神社、距離は離れて、西区の金山彦を祀る五道神社があります。
ヤマタノオロチの騒乱の後、時代は下がりますが、柏原地区は呉の大伯太子・神武天皇が天皇に即位されるところです。神武天皇が即位された地域は奈良県の橿原(かしはら)ではありません。神武天皇は福岡県糸島市曽根(伊都国)で生まれ、後に福岡市の柏原に移られる。ヒミコも同様に糸島市曽根で生まれ、後に福岡市の柏原の隣、檜原(ひばる)に移られる。そして、その東には大幡主の奴国(春日市、那珂川町)が展開します。

熊本県山鹿地方は「肥の川」の菊池川が流れ、櫛稲田姫が稲田姫として生まれられた稲田があります。金山彦と大山祗の舞台が揃っています。


         八岐大蛇(ヤマタノオロチ)と素戔嗚尊 柳瀬・玉垂神社

011-09


               佐賀県背振・倉岡神社

011-10




5.素戔嗚尊と闇淤加美と茅の輪

素戔嗚尊(スサノヲ)と闇淤加美(クラオカミ)とくると夏祭りで有名な神事・夏越し祓えの「茅の輪」の神事が思い出されます。備後国風土記逸文に出てくる素戔嗚尊と絡めた蘇民将来(ソミンショウライ)伝説です。

茅の輪くぐりの由来
大祓の時に茅の輪をくぐる由来は、奈良時代に編集された備後国風土記(びんごこくふどき)によると、次のように説明される。
日本神話の中で、ヤマタノオロチを倒した素盞鳴尊(すさのおのみこと)が、南海の神の娘と結婚するために、南海で旅をしている途中、蘇民将来(そみんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めたところ、弟の将来は裕福であったにもかかわらず宿泊を拒んだのに対し、兄の蘇民将来は貧しいながらも喜んで厚くもてなした。
その数年後、再び蘇民将来のもとを訪ねた素盞鳴尊は「もし悪い病気が流行ることがあった時には、茅で輪を作り腰につければ病気にかからない」と教えられた。そして疫病が流行した時に弟の将来の家族は病に倒れたが、蘇民将来とその家族は茅の輪で助かったという。
この言い伝えから茅の輪信仰が生まれ、茅の輪も当初は伝説のとおり小さなものを腰に付けるというものであったが、大量の茅の輪を作るのも大変で、江戸時代初期になり、大きな茅の輪をくぐって罪や災いと取り除くという神事になった。というのが由来。

ことは素戔嗚尊が、わが姉・神俣姫(かみまたひめ)の処遇に腹を立てたのが発端です。
神俣姫は阿蘇の神様・神沼河耳命の妃であり、その間に天忍穂耳命の子があった。
神沼河耳命には兄の神八井耳命がいた。(百嶋神代系譜・天忍穂耳命・神沼河耳 神代系図(1)を参照)
弟の神沼河耳命は高淤加美(タカオカミ)であり、巨旦将来(コタンショウライ)である。一方、兄の神八井耳命は蘇民将来とされる。
当時、神武天皇の皇后は金山彦の姫・吾平津姫である。神武は皇后・吾平津姫を神沼河耳命に下賜され、間に生まれた子が建磐龍であり、吾平津姫は名を蒲池姫に変えられる。神沼河耳命は天皇家並の扱いとなる。そして、神俣姫は離縁され、丹生津姫と改められる。元々、天王(てんのう)と云われた素戔嗚、神武天皇と同等の天子の資格を持つ出自の素戔嗚は姉・神俣姫の処遇に激怒した。
素戔嗚の激怒を知った天忍穂耳命の妻であり素戔嗚の娘である瀛津世襲足姫は、夫に神沼河耳との親子を離縁して、兄・神八井耳命の養子になることを勧められる。結果、天忍穂耳命は阿蘇の惣領を弟の建磐龍(阿蘇神社)に譲ってしまう。そして、名を彦八井耳とされる。
かくして、素戔嗚は武塔神となり、巨旦将来こと神沼河耳命の討伐となる。
茅の輪説話の裏舞台である。
素戔嗚の暴挙の結果、櫛稲田姫と罔象女は素戔嗚の妃の座を捨てて、豊玉彦のところに助けを求められる。素戔嗚のヤマタノオロチ紛争の仲裁が裏目に出てしまった。
「神武の失政」と言われる出来ごとです。
この状況下、父・素戔嗚、伯母・神俣姫の姿を見かねた息子・長髄彦がいた。
素戔嗚と同様に怒りは心頭に達した。倭国大乱の前兆である。
これら一連の騒動の調整・沈静に努められたのが大幡主。神武天皇・大伯太子は大幡主に庇護され(亀甲に大の紋)、素戔嗚命、金山彦、大山祗は大幡主の配下となり、天皇家の実権は姉のヒミコに移ることになり、しばらく平穏となる。
大山祗の息子・大国主は幼名「大奴彦おおなひこ」として大幡主のもとで春日の玖須岡本(奴国)で成長される。
阿蘇では天忍穂耳命・草部吉見は阿蘇の南に下がられ、本拠地を豊前・筑豊の瀛津世襲足姫の故郷に移される。息子の建南方は南九州を本拠地とされ、長髄彦の乱に呼応して「建南方の乱」を起こされる。第一次倭国大乱の始まりである。
この頃の豊玉彦は活動地を京都山城に移される。


御子神社 福岡市城南区樋井川3丁目43-16
祭神:安徳天皇

011-11(2)


素戔嗚尊と闇淤加美と豊玉彦に絡んで、「ヤマタノオロチ説話の裏舞台」、「神武の失政」、「長髄彦の乱の前兆」と簡単にまとめてみました。
説話の世界からどれだけの現実を引き出せるかという、思考の冒険ですが、説話は単なる物語ではなく、現実から生み出されたと考えています。古代の実情が隠されているはずだ。実証は極めて難しいが、百嶋神社考古学と見合わせていけば何らかの実情が浮かびあがって来ると思っています。


     百嶋神代系譜・大幡主・月読命・伊弉諾命・金山彦 神代系図(2)

011-07



       百嶋神代系譜・大幡主・伊弉諾命・金山彦 神代系図(3)

011-08