宮原誠一の神社見聞牒(006)
平成29年(2017年)04月19日

 

No.06 荒神信仰の起源を探る(修正)


1.高良下宮社

高良大社の下宮社は久留米市御井町の第一の鳥居の南にあります。高良下宮社は上宮から早く切り離され、仏教の影響が少ない社であるといわれる。その点、古代の神社姿を探索するのに良き例です。神殿は中央殿、左に素盞鳴神社(素盞鳴神)、右に幸神社(大倭根子彦国牽天皇)とあるます。神社の案内板には次のようにあります。
中央殿の祭神は、高良玉垂命、左に物部膽咋(いくひ)連命、右に武内宿禰、末社(右) 幸神社の祭神は大倭根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくる)=孝元天皇である、と云う。

 

006-1

高良下宮社
 

『福岡県神社誌中巻』高良下宮社
村社
旧鎮座地  福岡県三井郡御井町字麓
現所在地  福岡県久留米市御井町387番
祭神 高良玉垂命、左・物部膽咋連命、右・武内宿禰命
由緒 社殿に創立履中天皇元年(400)の鎮座地と云ふ、或は天武天皇の白鳳二年(662)の鎮座とも云へり、然して古来之を下の宮の宮と称し両社並立し禁廷より専ら御尊崇ありし趣舊記に見えたり。(中略)
祭神味耜高彦根命は同大字々麓無格社秋葉神社として祭神ありしを明治四十四年五月十日合併許可を受け合祀したるものなり、大正三年八月五日村社に列せらる。従前祭神武内宿禰、味耜高彦根命なりしが、大正十一年七月十三日高良玉垂命、左物部膽咋連命、右武内宿禰命に訂正の件許可。(兵第二、九三一)
本省指令同年七月三日内務省兵社第二号
境内神社 素盞鳴神社(素盞鳴神)
     幸神社  (大倭根子彦国牽天皇)、
     天満神社 (菅原神)


『寛文十年(1670)久留米藩社方開基』
三井郡安居野組
  覚
高良大明神
一、下宮     府中
  右は高良大明神御下宮之由申伝候。開元建立何之御代共承伝不奉候。
  茨葺之片
  原庇御座候。神体無御座候。
  寛文九年酉ノ年より十月十三日二朝妻下宮ニ御幸
  御座候
  右末社
一、祇園社    同村
  右九尺三間茨葺。神体木像御座候。毎年六月十四日御神事御座候
  右同
一、高礼大明神社 同村
  右は茨葺片平庇御座候。神体木像三体御座候
一、朝妻七社 神功皇后・国長袖・古父・古母之宮・乙宮・妙見二社
  右は七神之御社御座候様二承伝申候得共、只今は一社も無御座候。
  御神体無御座候
一、本尊木像阿弥陀 真言宗遠通寺  同村
  右之寺五拾ヶ年以前迄ハ生持御座侯得共、今程は住持無御座候。
  茨葺片平庇御座候
 右之通、書付差上申候。已上
                   府中庄屋
 寛文十年戌十二月朔日          市郎右衛門
      稲次八兵衛様

 

高良下宮社の創建は履中天皇元年(400)、あるいは天武天皇白鳳二年(662)の鎮座とも云う。
高良下宮社の祭神は、福岡県神社誌では「従前祭神武内宿禰なりしが、大正十一年七月十三日高良玉垂命、左 物部膽咋連命、右 武内宿禰命に訂正の件許可。(兵第二、九三一)」とあり、祭神の入れ替えが武内宿禰から高良玉垂命に大正11年に行われている。
高良玉垂宮の祭神は昔から議論されてきており、曖昧のままです。いつの頃、時の権力により「玉垂命」の祭神隠し、あるいはすり替えが行われ、祭神不明のまま現代に至っています。江戸時代になり、有馬候が久留米に入国し、現在の高良社本殿は万治三年(1660)頼利候によって建てられた。「寛文十年(1670)久留米藩社方開基」作成にあたり、祭神は「武内宿禰」とされた。そして大正11年祭神の名称が玉垂命に変更され、左に物部膽咋連命、右に武内宿禰命と脇神が追加された。

高良山雑記に物部胆咋のご身体(木像)を鏡山神社から高良下社に移したとあります。そして武内宿禰は脇神に移動。福岡県神社誌では玉垂命と武内宿禰は別人としています。

 

物部胆咋連の木像 高良山鏡山神社御本体所に在った物部胆咋連の木像は、其後御井町下ノ丁高良下社の神殿に移る。(高良山雑記)
幸大明神 物部胆咋の夫人を祀る(馬淵庸五郎談)

『高良山雑記』
久留米藩士・稲次成令翁(1849~1932)の聞書から、浅野陽吉翁(1868~1944)が抄録編集したもの。それを古賀寿(たもつ)が出版する。



 

2.幸神社の祭神考

まず「高良山雑記」から。
「幸大明神 物部胆咋の夫人を祀る」(高良山雑記)。
高良山雑記からすると幸神社の祭神は物部胆咋(いくひ)の夫人となります。高良社の正式HPでは「さぎじんじゃ」と読むとなっています。
しかし、福岡県神社誌からは、境内神社 右に幸神社(大倭根子彦国牽天皇)とあります。寛文十年(1670)久留米藩社方開基からは、末社「高礼大明神社」とあります。

 

006-2


福岡県久留米市大橋町蜷川の箱崎八幡神社の境内社に「片淵神社」という水神社があります。
旧浮羽郡田主丸町片ノ瀬のすぐ西に位置する。開基は、智僧二年(566年)で「大化」の年号より古く(「智僧」は九州年号)、当初は「荒霊宮」と称し、明治2年(1869)に片淵神社と改称し、大正元年(1912)に現在所に移っている。鳥居の扁額には「荒霊宮」とあります。片淵神社の案内札から。

 

祭神 弥都波能売神(みずはのめのかみ)=水神
   荒霊大明神(荒五郎大明神)=筑後川の水神
縁起
智僧二年(567年) 蜷川村発祥の頃、氏神として初めて片淵に勧請す。
初め、荒五郎大明神と崇め、荒霊宮と称したが、明治2年(1869)に至り、片淵神社と改称し、大正元年(1912)に現在所に移る。祭神は千歳川(筑後川)氾濫の元となる荒魂なり。御神徳は能く水災を除き田畑の豊稔を司る農業神として尊崇さる。
尚、祭神には水難と共に火災を防ぐ霊力あるため、古来、子供の守護と火災の除災招福の神として厚き信仰あり。

寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」には次のように記載されている。

山本郡柳坂組
蜷川村
筑後国山本郡蜷川村荒五郎大明神、牛馬之守護神、祢宜号酒見次大夫と龍宮神智僧二年十一月廿三日ニ此界ニ上給候。荒五郎大明神を祝初候。其時酒見大学と申者祢宜仕、十一月廿三日ヲ祭礼日ニ定、祭礼仕初候。以来千百余、代々之祢宜私迄退転不仕、祭礼仕、牛馬安隠と令祈修候(中略)
            山本郡蜷川村酒見次大夫
  寛文十一年戌九月            安重
      稲次八兵衛殿

 

荒霊宮の祭神名は「荒五郎大明神」また「荒霊大明神・筑後川水神」とも云う。そして、「牛馬之守護神」でもある。こうれい大明神は文字こそ違え、高礼大明神として高良下宮社の「久留米藩社方開基」に祭神として出てくる。右殿末社の祭神です。
また、荒五郎大明神は久留米水天宮祭神として「久留米藩社方開基」にも出てきます。

 

寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」久留米水天宮
久留米町中
今度就九ヶ條之御書出書付差上中覚
当社尼御前大明神、千年川之水神にて御座候。左に荒五郎大明神、右に安坊大明神同殿に三社御座候。古之宮地は京隈梅林寺山に社御座候。山之下に御池御座候。何之代より開元建立御座候哉伝不奉承候。然処、慶安三年庚寅九月、忠頼様ヘ言上仕、瀬之下宮屋敷致拝領、社再興仕候事(中略)
  寛文十年戌九月晦日   新町壱丁目社人 忠左衛門
       稲次八兵衛様

 

寛文十年(1670)時点で、久留米水天宮には、尼御前大明神、左に荒五郎大明神、右に安坊大明神が祀られていると云う。尼御前社は安徳天皇・高倉中宮建礼門院徳子・二位尼時子を祀ると云う。

筑後川水神に共通することは、荒五郎大明神=荒霊大明神。そして、こうれい大明神の宮を「荒霊宮」といった。
高良下宮社案内では下宮社の右殿末社を幸神社といい、祭神は高礼大明神が孝元天皇(大倭根子彦国牽天皇)であるという。寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」では、ご神体が神殿に三体あると云う。「高礼(こうれい) 大明神」と「荒霊大明神」からすると、「孝元天皇」と「孝霊天皇」と他一体ではないかと思われます。
※荒五郎水神は大幡主です、また「さぎ神社」の祭神も大幡主です。



 

3.孝霊天皇考

孝霊天皇の和風諡号は大倭根子彦太瓊(ふとに)天皇という。
後漢書に「桓霊の間、倭国大乱。更に相攻伐、歴年主なし。一女子有り。名は卑弥呼という。年は長。嫁せず。鬼神道に事え、よく以って衆を妖惑す。ここに於いて共立し、王と為す。」という記述があります。後漢書は「桓霊の間、倭国大乱」と書き、桓帝(147-167年)と霊帝(168-188年)の間に倭国は大いに乱れたという。
桓帝の在位は147年~167年。霊帝は168年~188年。桓霊の末・孝霊天皇の在位中、倭国大乱が引き起こされ、150年代~170年代の間、約20年続いたとみる。
漢風諡号「孝霊」は倭国大乱時の後漢の帝から採られている。孝霊天皇が倭国大乱の主人公であり、この天皇のあと、孝元、開化と三代の和風諡号に倭根子彦(ヤマトネコヒコ)が付きます。

 

百嶋神代系譜では、孝霊天皇の后は卑弥呼の宗女・壹與(いよ)で、その皇子が孝元天皇。孝元天皇の后は倭迹迹日百襲姫、その皇子が開化天皇とする。
 

倭国大乱はおおいに荒れた時代であった。孝霊天皇は后・壹與と共に、倭国大乱を荒々しく戦い、終結したのでしょう。孝霊天皇は「荒神」として崇められ、「桓霊」の字でなく「荒霊」の字が採られ、「こうれい大明神」と云う神名で語り継がれることになったのでしょう。


 

4.幸神考

「幸神」は人の感情からして、「さちがみ」と読みたくなります。
しかし、起源は「荒霊大明神」「荒五郎大明神」から採られ、略して「荒神(こうじん)」と当てたのでしょう。一般に、荒神(こうじん)は、一般世間では荒神様を三宝(仏法僧)荒神ともいい、竈神(かまどがみ)、火の神で修験者の間で荒神信仰が生まれた。また、荒神は「牛馬の守護神」でもあり、牛荒神の信仰でもあった。
荒神は「筑後川水神」であると共に、「農業神」でもあり、「牛馬の守護神」でもあり、「火災防止の神」、「招福の神」でもあり、幅広い霊力ある神様でもあった。
「牛馬の守護神」「火災防止の神」、「招福の神」は荒神信仰そのものです。
兵火を抑え、村々の火災防止に努め、倭国大乱を終わらせた孝霊天皇は平和を招いた神として崇められた。
その「荒神」の起源は孝霊天皇であったとみます。
「荒神」に好字を当てて「幸神」とした。よって、「こうじん」と呼ぶ。
神社案内の「幸神社」は「こうじんしゃ」と読むのでしょう。

 

006-3

朝倉郡筑前町(旧三輪町)弥永の大己貴神社の入口の摂社「幸神」さま
 

どうして、幸神様(さぎ神=大幡主)が大己貴神社の入口に立つのか。それは、倭国大乱、建南方の乱に孝霊天皇と大国主(=大幡主)が係わったことに起因すると考えます。

福岡県久留米市大橋町蜷川の箱崎八幡神社の境内社に「片淵神社」という水神社があることは先に紹介しました。その祭神「荒五郎大明神」、こと荒神様は「筑後川水神」であると共に、「農業神」でもあり、「牛馬の守護神」でもあるという。神様の神徳「牛馬の守護神」について、これに関する「祭り神事」を今でも原始的に行っている神社がある。今みたいに電気・石油動力で農業を行う時代と違って、昭和30年代までは、牛馬は農耕・運搬の大事な家畜であった。その牛馬が病にかかったり、動けなくなることは、その家にとって死活問題でもあった。それで牛馬の安寧を願って、「牛馬を守護」する祭り神事が神社の例大祭で毎年行われている神社があります。
その神社は、大橋町蜷川の筑後川の対岸の隣村、北野町八重亀の天満神社で、「早馬取り」の神事です。天満社なので、祭神・荒神様と直接関係しないが、神事の行事は隣村に伝播した可能性があり、今でも例大祭で毎年行われている。
この祭り神事を行っている神社は久留米地方で唯一この八重亀天満神社だけと云う事です。

※早馬神(はやめ)も大幡主です。 牛馬守護神、荒五郎水神、荒神(こうじん)、幸神(さぎしん)も大幡主です。



 

5.風浪宮

所在地、福岡県大川市大字酒見726-1。代々阿曇氏が祭祀を司る。
風浪宮の参道にも幸神さまが鎮座されている。寛政3年(1791)という。神社の説明では由来と神格は詳しくはわからないと言われる。ご神体は大己貴神社と同様に石体に「幸神」と刻む。どこから勧請されたのか気になるところです。寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」には末社・南酒見に荒人神社があると云う。この荒人神社が幸神社として移転されたものかもしれません。

 

006-4

「幸(さぎ)神社」江戸期寛政3年(西暦1791年)に祀られた
幸神社は、当宮大鳥居参道に向き鎮座されている。

 

【参考】荒神(こうじん)
三宝荒神ともいう。竈神 (かまどがみ) および地神のこと。地主神,山の神をもいう。屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。
地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。                       Wikipediaより



 

6.さんほう荒神考

荒神は仏教の神仏習合と修験者から三宝荒神と呼ばれるようになり、また、仏教の「仏、法、僧」の三宝を守護する神様ともみられた。この「三宝」の表現とは別に、神道では意味が少々異なる「さんほう」があります。元来、「さんほう」は「三方」と書き、三人を意味する。よって、三方荒神と称する。「荒」を好字の「幸」としたように、「三方」を好字と仏教用語に合わせ「三宝」としたのでしょう。
(注)「三方」は神道では「さんぼう」と読む。

再度、寛文十年(1670)久留米藩社方開基、高良下宮社の書き上げについて。

 

高良大明神
下宮     府中
 右は高良大明神御下宮之由申伝候。開元建立何之御代共承伝不奉候。
 茨葺之片原庇御座。神体無御座候。
 寛文九年酉ノ年より十月十三日に朝妻下宮に御幸御座候
右末社
祇園社    同村
 右九尺三間茨葺。神体木像御座候。毎年六月十四日御神事御座候
右末社
高礼大明神社 同村
 右は茨葺片平庇御座候。神体木像三体御座候
朝妻七社
 神功皇后・国長袖・古父・古母之宮・乙宮・妙見二社
 右は七神之御社御座候様二承伝申候得共、只今は一社も無御座候。
 御神体無御座候

 

下宮中央殿では、「神体無御座候。寛文九年朝妻下宮に御幸座候」とあり、今、寛文十年(1670年)神体はないが、寛文九年(1669年)朝妻下宮社にあると云う。しかし、朝妻七社では、「只今は一社も無御座候」と一社もないと云う。そして、高礼大明神社(右殿)では三体の木像神体があると云う。この内容では、中央殿の主祭神は高礼社に移った、ととれます。また、神功皇后の社殿は朝妻にあったが、今はないと云う。今の高良下宮の高礼社には三人の神様がいると云う。
 

006-5


ここで、下宮の高礼社の神紋は右三階松である。「三階松」は九州王朝の紋です(百嶋神社考古学)。そうすると、三人の天皇が考えられます。

 1.孝霊天皇(大倭根子彦太瓊天皇)
 2.孝元天皇(大倭根子彦国牽天皇)
 3.開化天皇(稚倭根子彦大毘毘天皇)

何れも、「倭根子彦」の共通の名がつきます。三天皇は倭国の礎を造った天皇で、倭国大乱、狗奴国の乱、新羅征討と動乱を生き抜いた天皇です。開化天皇(玉垂命)に至り倭国の体制が固まった。
話は逸れますが、三方は神饌の供え物を載せる膳台ともいう。仏教語では「三宝」という。

 

さんぼう【三方】
神前や貴人に物を供える時などに使う、儀式的な台。四角な折敷(おしき)の下に胴がついていて、胴の前と左右に穴がある。寺院でも同様のものが使われ三宝(仏・法・僧)にかけて【三宝】(さんぽう)と書かれる。

 

006-6


三方と三宝、偶然の一致でしょうか。
「三階松」紋は、九州王朝の紋であす。三階松の意味ですが、「三代にわたって、事業が成就されていく象徴」であり、目出度い紋であるという。
そうすると、冒頭に戻って、高良下宮社の案内に、末社 幸神社の祭神は孝元天皇である、とあるように、あながち間違いではないようです。三祭神の一人であった。

福岡県一帯には荒神に因み、「荒人」「荒仁」「現仁」「現人」の名が付く神社が所々に鎮座です。福岡県那珂川町に現人神社(あらしと)がある。住吉神社の元宮という。これらの神社は古代九州の主だった神々の名を秘めた名称ではなかと思うのです。



 

7.三人の荒神様

福岡県筑紫野市原田の筑紫神社では主祭神として白日別神、五十猛命が祀られている。五十猛命は筑前と筑後の境の山の荒ぶる神であった。
福岡市西区西浦の白木神社の祭神は五十猛神であり、「ヒョウカリィライ」(この野郎来るなら来てみろ)といって、東の隣接地区・福岡市西区宮浦の大歳宮(祭神・大歳神こと海幸彦)と祭りでけんかをなさっている。かつての嫁さん・天鈿女命を中心とした争いである。
この五十猛命は荒ぶる神であり、別名・山幸彦、猿田彦大神という。
そして、山幸彦は九州中国四国地方を主に荒神様として祀られている。
また、宮崎県児湯郡川南町の白髭神社では荒神様として猿田彦大神が祀られている。三宝荒神を祀る神社としても有名です。この白髭大明神は山幸彦、猿田彦大神の後年の神名です。
すると、荒神様は三人おられる。これらからして、荒神様は三人で異なった形で祀られていることになります。まとめると次のように整理される。

 1.高礼大明神こと孝霊天皇
 2.豊玉彦 荒神名:荒五郎 社号:幸神社 こうじんしゃ
 3.五十猛こと山幸彦こと白鬚大明神 荒神名:矢五郎 社号:庚申社 こうじんしゃ

庚申社の祭神は「庚申」もしくは「猿田彦大神」、「矢五郎」です。

素戔嗚尊(建速須佐之男命)も荒ぶる神であり荒神さまです。古事記では天照大神をいたずらで困らせたり、八岐大蛇(やまたのおろち)退治でも有名であり、凶暴な一面、一転して英雄的な性格を持ち、荒神ぶりを発揮される。

私の田舎では家を建てる(設計)とき「鬼門避け」を考慮する。北東の角が鬼門構造にならないように、また、玄関、出入り口を避ける習慣があります。しかし、町中では道路が区画されていて、思うように間取りを取ることができない。どうしても鬼門構造にならざるをえないと云う。この災いを抑えてくれるのが荒神さまであると云う。よって、町中・市街地となる都市部では、この鬼門を抑えるために大幡主を祀る祇園神社があるのだという。

夏祭りで有名な神事・夏越し祓えの「茅の輪」の神事がある地域は、孝霊天皇が絡んでいる。倭国大乱の中心地・福岡県、孝霊天皇の皇子・吉備津彦の中国平定の伝説のある地域は「茅の輪」の神事と荒神伝承が多い。これは、倭国大乱(狗奴国乱)のおり、孝霊天皇がある識別をするために「茅の輪」を腰に付けさせた故事による。
また、別の伝承として、荒神さま・素戔嗚尊(大幡主)と絡めて、蘇民将来(そみんしょうらい)伝説があります。蘇民将来伝説が多く残る地域は吉備津彦の中国平定の伝説と重なるようです。そして、荒神信仰も多い。特に、有名な備後国風土記逸文がある岡山県を中心に広まっている。九州(特に福岡県)では蘇民将来伝説は表に出なくて、「茅の輪」神事そのものが行なわれています。

 

荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である。県内に荒神社が一つもない県も多い。    Wikipedia
 

福岡県では「荒神」「幸神」「庚申」「荒人」「荒仁」「現仁」「現人」の名が付く神社を拾うと、かなりの数になる。

備後国風土記逸文(びんごこくふどきいつぶん)備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民と(の)女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。

(注)上記逸文には「弟の巨旦コタン将来」の記述はなく、「弟の将来」となっている。「巨旦将来」の記述は後世の修正追加話でしょう。



 

8.夏越しの大祓・茅の輪

茅の輪(茅萱で作られた大きな輪)は、半年間の罪穢を祓う夏越しの大祓(6月30日)に使用され、それをくぐることにより、疫病や罪穢が祓われるといわれる。
 

茅の輪くぐりの由来
大祓の時に茅の輪をくぐる由来は、奈良時代に編集された備後国風土記(びんごこくふどき)によると、次のように説明される。日本神話の中で、ヤマタノオロチを倒した素盞鳴尊(すさのおのみこと)が、南海の神の娘と結婚するために、南海で旅をしている途中、蘇民将来(そみんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めたところ、弟の将来は裕福であったにもかかわらず宿泊を拒んだのに対し、兄の蘇民将来は貧しいながらも喜んで厚くもてなした。
その数年後、再び蘇民将来のもとを訪ねた素盞鳴尊は「もし悪い病気が流行ることがあった時には、茅で輪を作り腰につければ病気にかからない」と教えられた。そして疫病が流行した時に弟の将来の家族は病に倒れたが、蘇民将来とその家族は茅の輪で助かったという。
この言い伝えから茅の輪信仰が生まれ、茅の輪も当初は伝説のとおり小さなものを腰に付けるというものであったが、大量の茅の輪を作るのも大変で、江戸時代初期になり、大きな茅の輪をくぐって罪や災いと取り除くという神事になった。というのが由来のようです。

 

006-7

茅の輪
 

福岡県高良大社の夏越祓えでは、6月1日に川渡祭(かわたりさい)が行なわれ、特に、男女児数え7歳、還暦や厄年の方が、厄除・長寿息災を願うお祭りと云う。高良大社社殿の前に設けられた大きな「茅の輪(ちのわ)」をくぐり、ご祈願(お祓い)を受けると、高良の神の力によって災難をのがれ、大難を小難に、わざわいを福に転ずると昔から言い伝えられている。
高良大社の神事「茅の輪」は蘇民将来伝説に基づくものでなく、川渡祭として行なわれている。大社では、従来の腰に付ける「茅の輪」が季節限定で、お守りとして販売されています。

 

006-8

高良大社の6月限定の「茅の輪お守り」茅の輪守

 

006-9

福岡県北野町八重亀 天満神社「夏越し祓・茅の輪くぐり」1999年(平成11年)7月4日


 

9.大国主を祀る幸神社

大国主を祀る幸神社があります。
幸神社をどのように呼ぶか。「さいじんじゃ」「さぎじんじゃ」と呼ぶのが、昔の正しい呼び方でした。現在では、文字の好感にあやかり、「さいわい神社」と呼ぶ神社があります。
祭神は「幸の神 さいのかみ」、「塞の神 さいのかみ」、即ち、大国主(大己貴=大幡主)です。
「幸の神」は「塞の神」を好字に変更したものです。
「塞の神」の神格も誤解されやすい名称で、意味は「邪」を塞ぐ神ということですが、「邪の神」と誤解されそうです。同じような名称に「疫神」があります。疫病神と誤解されそうですが、反対で、疫を防ぐ神様の意味です。祭神は大国主(大己貴=大幡主)です。
「塞の神」は誰を塞ぐ神様か、「岐の神 くなとのかみ」です。
「岐の神」は長髄彦(ながすねひこ)です。倭国大乱を引き起こした神様で、悪者扱いにされていますが、本当はそうではありません。東北地方では一番人気の神様です。
倭国大乱の折、大国主と猿田彦(彦火々出見命・ニギハヤヒ)は孝霊天皇のもと、物部軍団を結束させ、長髄彦軍に立ち向かい、乱を終結させました。大国主と猿田彦は大の功労者といったところです。それにより、大国主と猿田彦は孝霊天皇にあやかって「幸神」と呼ばれるようになりました。これが、幸神様を大国主だったり、猿田彦だったりと、混乱の原因になっています。
しかし、後の時代、猿田彦は「庚申(かのえさる、こうじん)」という呼び名に貶(おとし)められ、各地の境内に立つ「庚申」石塔で祀られています。

 幸神(こうじん) → 庚申(こうじん) → 猿田彦(ニギハヤヒ)
 幸神(さいのかみ) →塞の神(さいのかみ) →大国主(大己貴)