No.264 阿蘇の神々 阿蘇神社を語る前に①
宮原誠一の神社見聞牒(264)
令和7年(2025年)01月07日
阿蘇神社を語る前に、阿蘇神社の神々の阿蘇津彦と阿蘇津姫が、火の神は正八幡大幡主として、水の神は天照女神として祀られる由縁の資料を覚書きメモとして整理し備えます。
弥生時代の神々は、古代中国からの移動と見るのです。
覚書きメモ
○ 呉の太伯・姫氏
古代中国の周の王子であった太伯と虞仲は、聖人の資質を持つ末弟・季歴に王位を譲り南方の地に去り、文身断髪して後継ぎの意志のないことを示した。太伯は自ら勾呉(くご)と号し、呉の太伯と呼ばれた。倭は呉の太伯の後裔という。
寿夢(BC585~BC561)の時、国名を句呉から呉に改名
春秋時代(BC770~BC402)、江南には呉(江蘇省)と越(浙江省)の強国が建つ。呉は太伯、越は禹の苗裔で、ともに「夷」であるが「華」の後裔を称した。
○ 会稽の恥(かいけいのはじ)
春秋時代の越(えつ)の国王勾践(こうせん 在位BC496〜BC465)の父・越王允常(いんじょう)は、呉王・闔閭(こうりょ)と争い,闔閭はそのとき負った傷がもとで亡くなる。
BC494年 呉王の夫差は、越の国王勾践を破り、父・闔閭の復讐をはらす。越の国王勾践は会稽山で包囲されて敗れ、生き延びるために家臣になることを約束する、屈辱的な講和を結ぶ。
越の国王勾践は、命だけは許されて国に帰り、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)と、名臣の宰相范蠡(はんれい)の助力を得ると共に富国強兵につとめ,BC473年呉王の夫差軍を会稽山で滅ぼし,ついに夫差を自殺に追い込む。
※臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
夫差は、勾践を憎み、喪に付す間(25ケ月)復讐を忘れないよう、硬い薪の上で寝たと言われる。(臥薪)
勾践は、食事のたびに、苦い肝をなめて、夫差から受けた時の悔しさを忘れず、毎日苦い思いをして、苦節20年で夫差に打ち勝った。(嘗胆)
※会稽山(かいけいざん)
中華人民共和国浙江省紹興市南部に位置する山、杭州(はんちょう)の南に会稽山
夫差王の子・忌王は熊本県球磨盆地に移ってきます。
○ 楚国と滇(てん)国
白族(大幡主)の本願地は楚国ではないか。
楚国の国王名の通字は「熊 ゆう」です。「熊」「隈」は大幡主に関連する名称につきます。「熊襲 くまそ」は「熊楚」に由来するのではないかと。
※楚国の歴代君主
1.鬻熊 2.熊麗 3.熊狂 4.熊繹
5.熊只 6.熊䵣 7.熊樊 8.熊鍚
9.熊渠 10.熊毋康 11.熊摯紅
12.熊執疵 13.熊勇 14.熊厳
15.熊相 16.熊徇 17.熊咢
18.若敖 熊儀 19.霄敖 熊坎
20.蚡冒 熊眴 21.武王 熊徹(在位BC740-BC690年)初めて王号を名乗る
22.文王 熊貲 23.堵敖 熊囏
24.成王 熊惲 25.穆王 熊商臣
26.荘王 熊侶 27.共王 熊審
28.康王 熊招 29.郟敖 熊員
30.霊王 熊囲 31.訾敖 熊比
32.平王 熊弃疾 33.昭王 熊珍
34.恵王 熊章 35.簡王 熊中
36.声王 熊当 37.悼王 熊疑
38.粛王 熊臧 39.宣王 熊良夫
40.威王 熊商 41.懐王 熊槐(BC328年-BC299年)
42.頃襄王 熊横(BC298年-BC263年)
43.考烈王 熊完 44.幽王 熊悍
45.哀王 熊猶
46.負芻(熊負芻)(BC227年-BC223年)
○ 滇(てん)国
滇は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。 中国では「滇」の字は鱒(ます)の意味も持ち、その場合は「滇魚」といったように読み方が異なる。後に雲南省の別称となり、現在の中華人民共和国においても雲南省を「滇」と略す。 楚の将軍荘蹻(そうきょう)が遠征した時に、秦によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。(Wikipedia)
○ 荘蹻(そうきょう)
史記によると、戦国時代に楚の将軍荘蹻は長江の沿岸をさかのぼり、滇池まで攻め入り平定した。帰国しようとした時、秦が楚を破って、道が塞がれて帰国出来なかった。そこで、荘蹻は滇の王となったとある。戦国時代の七雄のひとつの楚は、漢民族でなく長江文明の流れを汲む苗族の系統とされている。荘蹻はもとの楚王の末裔で苗族の系統であり、荘蹻を王と受け入れた滇国も、もとから苗族が作った国であった。現在は、雲南省や貴州省・湖南省・広西省などに住む少数民族である苗族であるが、苗族は舟を漕ぐのが得意であった。苗族は海人族の原型です。
雲南省 省都は昆明市 略称は雲、又は滇(てん)
湖北省湖南省 古代は楚の国であり、神農ともゆかりがある
○ 楚の詩人・屈原の投身自殺
愛国詩人としても知られる屈原は、秦を信用することは危険であると主張したが、楚の懐王は秦の張儀の策略にはまり、秦との同盟に踏み切る。BC299年に同盟を結ぶために秦に赴いた懐王は幽閉され、間もなくその地で亡くなる。
BC278年、将軍白起に率いられた秦軍によって楚の都・郢(エイ)が攻撃され、都を南方に移さざるを得なくなった。(滇池への民族大移動)
このとき、楚の政治家で詩人屈原は、祖国が秦のはかりごとで衰微したことを嘆き、汨羅(べきら)の淵に投身自殺したと伝えられている。屈原は策略を王に進言していたが、聞き入れられなかった。楚の国力は秦に負けないほどの国であったが、ついに、楚はBC223年、秦に滅ぼされた。
南方に遠征していた将軍荘蹻が、滇王国の初代王で、滇(てん)池(昆明)王。
日本人の源流は湖南省湖北省の楚が源流で、楚が秦に攻め滅ぼされ、雲南省昆明へ逃れて来た。
※「粽 ちまき」は屈原の死により、姉によって作られた。
紀元前278年、中国の楚の国に屈原という人望の厚い国王の側近がいた。陰謀によって失脚。深く失望した屈原は5月5日に汨羅(べきら)江に投身自殺をした。屈原を慕った楚の国民は太鼓を打って魚を脅かし、餅を笹の葉で巻き茅で縛った粽(ちまき)を川に投げ込んで屈原の遺体が魚に食べられないようにした、という。
○ 白族と耳族ご一行は阿蘇に移動した
阿蘇族は中国大陸にいた頃は黎族といっていた5000年前、黎族(苗族)の一部が通称、漢民族に追われて、3000年かかって追いこめられた場所が雲南省で、そこの盈江(えいこう)にシナ城を作った。そこも追われて、二つのグループにわかれ、一つは櫛田神社(大幡主)の白族グループの大半は昆明(こんめい)から紅河を下ってベトナムのハノイに到着する。シナ城の耳族グループはメコン河を利用して南ベトナムの方に流れ込んだ、そして、二つのグループとも海南島で態勢を整えて、日本に移住することを打ち合わせた。
日本に来て天草・苓北に上陸し、そこにしばらくとどまった。日本に来てからは黎族とはいわず耳族と称した、そして、八代郡氷川に上陸し、氷川をさかのぼり、緑川に出、緑川をさかのぼり、幣立宮付近を通り五ヶ瀬に至った。ここで、木花咲耶姫(天照女神)と邇邇芸命(大幡主)が出会い、天孫降臨の神話として語られる。さらに、ご一行は高森を経て阿蘇に移動となります。
阿蘇神社の神々の阿蘇津彦と阿蘇津姫は、火の神は正八幡大幡主として、水の神は天照女神として、阿蘇の神が二柱として祀られる由縁となった。
※調べてみたかった場所です
2023/05/02 火曜日 15:25
中国の昆明市に六甲がありました。
六甲神社の瀬織津姫と繋がるかは??わかりませんが。
※楚と大幡主
大幡主の熊・球磨・隈 等は楚王の氏の熊(ゆう)から来ていると察します。楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)。「楚」と「白族」が結び付く。
素戔嗚は島根県松江市八雲町熊野の熊野大社の「熊野大神櫛御気野命」で、「熊野大神」に「櫛」です。素戔嗚は大幡主そのものです。
※波に兎の彫刻について
禹帝(うてい) 越の国の人々は皆「禹」の子孫と称し、「禹」に対する祭祀活動を伝統的に行っている。呉越楚の人々が海を越えて九州に渡ってきたことの象徴ではないか?浙江省紹興市の会稽山に大禹陵がある。
○ 呉国王女の大日女と稚日女
揚子江の南、西湖の景色で名高い浙江省杭州(越)は絹や水銀を産する。
稚日女(わかひるめ)は、江南の呉王国の妹王女、姉王女は大日女(おおひるめ)と云う。この地は遙か東の倭国に至り中央構造線の西端に当たる。
BC473年、呉は越に滅ぼされ、BC334年、越は楚に滅ぼされた。BC223年、楚国は始皇帝の秦に滅ぼされ、呉越の遺民は、揚子江以南の海岸沿いに国を構えた。
金属採取に長けた越人の一族は呉王女姉妹を奉戴し、呉越同舟で船出し倭国へ向かった。
南九州に上陸、姉の大日女姫はこの地に伴侶を得てとどまり、後に天照女神と呼ばれる女神の原型となった。妹姫の稚日女姫は肥前藤津に移動、罔象女神、すなわち丹生都比売神の原型となった。
日本書紀では、大日女姫は木花咲耶姫(天照女神)として、稚日女姫は磐長姫(罔象女神)として、姉妹関係が逆転して語られている。さらに、天孫降臨の神話では、木花咲耶姫(天照女神)と邇邇芸命(大幡主)が筑紫の日向の襲の高千穂(二上山の地)で出会う設定にされています。
※現在の神社の祭神としては、大日女=天照女神=罔象女神=丹生都比売=木花咲耶姫 として扱っています。
丹生神社
佐賀県嬉野市塩田町大字馬場下甲3657
祭神 罔象女神(丹生都比売)
丹生神社の総本社
枚聞神社(ひらきき)
鹿児島県指宿市開聞十町1366
祭神 大日霎貴命(天照大御神)
○ 日本書紀・神代下の第九段一書(四)の天孫降臨神話
第九段一書(四)では、高皇産霊尊は真床覆衾(ふすま)を、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せ、天磐戸を引き開けて、天の幾重もの雲を押し分けて降りまつる。
時に、大伴連の遠祖である天忍日命(あまのおしひ)が、来目部(くめべ)の遠祖である天槵津大来目(あまのくしつのおおくめ)を率い、背(そびら)には天磐靫(あまのいわゆき)を背負い、腕には稜威高鞆(いつのたかとも)を着け、手には天梔弓(あまのはじゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)をとり、八目鳴鏑(やつめのかぶら)をそえ持ち、また頭槌劒(かぶつちのつるぎ)を帯びて、天孫(あめみま)のさきに立ちて、行き降りて、日向の襲の高千穂の槵日(くしひ)の二上峯の天浮橋にいたりて、浮渚在之平地(うきじまりたいら)に立ちて、・・・、吾田の長屋の笠狭之御碕(かささのみさき)に到る。
時に、その地に一神有り。名を事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と言う。天孫がその神に、「国在ありや」と尋ねると、「在り」と答える。「勅(みことのり)の随(まにまに)奉らん」と言う。それ故、天孫はその地に留まりたまう。その事勝国勝長狭は伊弉諾尊の御子なり。またの名を塩土老翁(しおつちのおじ)という。
一書(四)の内容は本文とほぼ同じです。宮崎県五ヶ瀬町の二上峯の西麓の桑野内に地域が当てはまります。登場人物は、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊とその配下の天忍日命と大来目命を率いて二上峯の麓に至ります。そこには事勝国勝長狭=塩土老翁=大幡主が居たという。
天津彦国光彦は天津彦国照彦で、彦火火出見命であり、瓊瓊杵尊と重なっています。
彦火火出見命(猿田彦)は天忍日命と大来目命を率いて、熊本県球磨を出立したとみます。
結局、ここには大幡主と天照女神(木花咲耶姫)と彦火火出見命(瓊瓊杵尊)が居ることになります。さらに異名同神を当てると、大幡主と天照女神が居たことになり、この地域の大幡主と天照女神は神漏岐命(かむろぎ)と神漏美命(かむろみ)となります。
※No.166 綾惶根尊(埴安姫)を祀る筑紫の扇祇神社 2021年3月20日
やよい語 カムロミ カムロキ
オモダル アヤカシコネ
カムロミ 目に見えない世界
カムロキ 目に見える世界
オモダル 産みの男根の神、多細胞
アヤカシコネ 産みの女陰の神、遺伝子
参考 萩原継男「弓前文書は天児屋根からの伝言です」から
※幣立神宮(へいたてじんぐう)
熊本県上益城郡山都町大野712
祭神 神漏岐命、神漏美命 初期の祭神
.. 天御中主神、天照大神
.. 阿蘇友成により900年頃追祀
.. 阿蘇十二神
.. 阿蘇友孝により144年追祀
日の宮(ひのみや)ともいう。日の少宮(大幡主)と日の若宮(天照女神)を合わせて日の宮
由緒 社伝によれば、健磐龍命が阿蘇に下向した際、この地で休憩し眺めがとても良い場所であり、幣帛を立て天神地祇を祀ったという。
その後、延喜年間(901-923年)、阿蘇大宮司友成が神殿を造営し伊勢両宮を祀り幣立社と号した。天養元年(1144年)には、阿蘇大宮司友孝が阿蘇十二神を合祀し大野郷の総鎮守とした。
○ 百嶋講演「日本列島へやって来た人々の移住経路」2015年8月3日
阿蘇家の草壁吉見さんの歌です。
観世流の能、大和舞の葛城
「道しるべする山人(やまと)の笠は重し、呉山の雪、鞋(わらじ)は香ばし楚地の花」
道案内する山人(楚)の笠には呉山(天皇家)という重たい雪が乗っかっている。
しかし、自分たちが履いている鞋(わらじ)は芳しい、自分たちの先祖が住んでいた楚の国の花で織り上げた草履だから。
楚の国の地名が、阿蘇家一族の名前が、そっくり玉名の大神宮地区の集落名(玉杵名たまきな)になっております。熊本県玉名市玉名(元玉名)4600「どしゃの里ツージャーツゥ」
○ 二型の妙見菩薩
妙見菩薩は二通りあります。
大鳥妙見と亀蛇妙見
それは伊弉諾伊弉冉系と神漏岐神漏美系に置き換えられます。
大鳥(鷲鷹)妙見は半島経由→現人大幡主と許黄玉系天照女神
亀蛇妙見は南西諸島経由→越楚国(苗族白族)大幡主と呉国天照女神
越と楚は、元は黎族の同一族です。
百嶋先生は、これを区別するために、
半島経由の大鳥妙見を高木大神として区別されています。
しかし、神社祭神となると、これが異名同体神となるのです。
呉の人々が、山東半島を廻り朝鮮半島に入り、南岸に弁韓(伽耶)を建設。
さらに、伽耶は馬韓(百済)と辰韓(新羅)に合併される、
という説があります。
これだと、大鳥妙見と亀蛇妙見は合体します。
日本の歴史は馬韓(百済)族と辰韓(新羅)族の対立の歴史です。
見方によっては、呉と越と楚の対立です。
今でも水面下では、戦っています。
※百嶋説 朝鮮半島経由(いわゆる北方経由)
朝鮮半島経由の新羅を伊弉諾伊弉冉系ととらえ、その祖を「除福」とされています。
佃収説でも辰韓を秦韓人の国と呼んで、秦人に似ているとされている。
百嶋説は、伽耶をヒッタイト系(トルコ系匈奴)の国とされています。
○ 鷲子山上神社(とりのこさんしょう)
栃木県那須郡那珂川町矢又1948
栃木県那須郡那珂川町(旧馬頭町)矢又と旧茨城県那珂郡美和村鷲子の県境にあるフクロウで有名な神社です。
まーりん
鷺はウサギにつながるのかな、鶴にも似てるし、フクロウって木菟
鷲子山上神社、鳥の子か~八咫烏、ちょつと大鳥=鷲妙見系かな
「木兎」は「ぼくと」と読みます。
ミミズクの古名で、樹上性のウサギを意味する漢名です。
羽角をウサギの長い耳にたとえたもので、三冬の季語にもなっています。
桜庵
ほんとだー、あら、びっくり
フクロウがウサギになるとは、、木兎
宮原
フクロウは大幡主の神使いで、福岡県那珂川市の伏見神社にフクロウの彫刻があります。
この伏見神社は佐賀県大和町の川上淀姫神社の分祀です。
川上梟(たける)の梟は「ふくろう」です。
よって、川上タケルは大幡主。
祖母山麓の穴森神社では川上梟が祀られていました。No.248
ヤマトタケル神話のウソつき!
ウサギ=ウ+サギ=兎+鷺=天照女神+大幡主の合体です。
社殿彫刻にある「波乗りウサギ」は天照女神と大幡主が海を越えてやってきた、という意味です。
※社殿彫刻「波乗りウサギ」
伏見神社 福岡県那珂川市山田879
乙子神社 福岡県那珂川市別所(井尻)488