No.304 橿日の神・名島弁財天④
宮原誠一の神社見聞牒(304)
令和8年(2026年)01月30日
名島神社は当初、名島の神宮ヶ峯山頂に鎮座でしたが、天正16年(1588年)、ここに小早川隆景が名島城を築城の折、現在の場所へ移されました。慶長5年(1600年)、福岡初代藩主 黒田長政が入城、まもなく、福岡城の築城に伴い、名島城は廃城となりました。
江戸時代までは名島弁財天社と呼ばれ、明治維新の神仏分離令により、現在の名島神社となった。祭神は宗像三柱姫大神とあります。
現在の名島神社は海岸にあり、海から上がる構造になっています。
また、南隣に宗栄寺があります。島原天草の乱の折、黒田家の将・岡田半左衛門利良とその子佐右衛門が戦死し、奥方は二人の菩提を弔うため博多妙楽寺を再興し、父子の遺品を名島の古塁の麓に納めて宗栄寺を開基されています。名島の弁才天宮の別当寺神宮寺の末寺でしたが、神宮寺は明治初年の神仏分離令により廃寺となり、弁才天社は名鳥神社となります。本尊弁才天は博多・芦屋等を転々され、明冶7年名島へ戻られ、宗栄寺が別当寺となり今に到っている、と宗栄寺の案内版にあります。
名島神社
福岡市東区名島1丁目26−1
前面は海岸です。
先に名島檣石(帆柱石)があります
周囲にそう見える所はありません、奥の海岸線です
(Google Map から)
福岡市の文化財・名島の檣石(ほばしらいし)
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/457
東区名島の名島神社境内の海岸に露出する珪化木である。これはカシ属の樹木の幹材が珪酸分に置き換えられてできた化石で、古第三紀漸新世前期(約3500万年前)に形成された砂岩・礫岩層を主とする志免層群名島層とよばれる地層にはさまれて横たわる。
この幹の珪化木は輪切りにされた9個のブロックに分離し、その大きさは直径56~60cm、長さ50~140cmである。満潮時にはほぼ水没する。付近の地層からは、カシ属などの木の葉の化石が産する。
別名を帆柱石ともいい、神功皇后の三韓出兵の際に使用された船の帆柱が化石になったものだ、という伝説がある。円柱状の岩が15mにもわたって直線状に伸びた様は、いかにも帆柱をしのばせる。
※檣石も神功皇后の三韓征討の伝説にひも付けです
昭和初期(1930年)の地図から見る名島妙見島付近の現在
名島檣石の北の地先には妙見島がありましたが、現在は埋め立てられ、「みなと百年公園」の丘になっています。
■名島神社(なじまじんじゃ)
天照女神(市杵島姫)の両部鳥居
大幡主のソテツと六角灯籠
2025年12年29日撮影
福岡県神社誌の由緒
社説に曰く、神功皇后御征韓御出発の際、この地に於て宗像三女神に三韓服従のことを御祈請遊ばされ、従軍将士の氏名を名乗らせ給ひ(元黒崎と云ひしをこの時より名島の称あり)御乗船遊され、御凱旋の御帰途、この所に御報賽の為め宗像三女神を御奉斎せられたるを起源とし、その時供奉の官人をして御社創立の為め残し社務に当らしめ給へりと云ふ。
中世宗像神を仏名に替へて弁財天と称せしが、明治維新の際、復旧して名島神社と称し今日に至れり。
天正年間、関白豊臣秀吉公社参あり、小早川隆景公当国主となり、当地に城を築かれし時、社殿を改造神領を寄附せられ、その子秀秋公に至り社領没収の事あり。慶長五年、黒田長政公入国と同時に名島城は廃せられしが、当社に社領を寄附せらる、以後国主より社殿の造営度々あり。この頃よりは士庶民の信仰深く、別て6月20日(現今7月20日)の祭礼は特に賑はしく城下及遠近の庶民、舟より又陸より参詣するもの多かりしと云ふ、尚現在は 己巳日を祭日 として参拝者多し。境内約六千坪、老樹繁茂し博多湾に臨み風光明媚なり。
境内社
恵比須神社(大名持命、保食神)由緒不詳、祭神保食神は同大字宇内掘無格社保食神社として祭祀ありしを明治44年合併
豊宇気神社(豊宇気命)由緒不詳
※己巳(つちのとみ)の日
大幡主(土神)と天照女神(巳神)の日です。
巳の日(みのひ)は十二支のヘビの日。その「巳の日」の中から、十干の「己(つちのと)」と重なる日を「己巳の日」と言います。己(つちのと)と巳(み)が重なることから特に縁起の良い吉日。60日に1回、1年に6回しか来ないことから、とても縁起がよく、特に金運が向上する日とされます。
2026年 2月24日(火)、 4月25日(土)
2026年 6月24日(水)、 8月23日(日)
2026年10月22日(木)、12月21日(月)
※己巳(みみ)の神
己巳の神は、耳の神で表記されています。
神沼河耳命(かみぬなかわみみ)
神八井耳命(かみやいみみ)
天忍穂耳命(あめのおしほみみ)
聖徳太子(豊聡耳皇子) とよとみみおうじ
東の後ろ口(駐車場)から
外削ぎの男千木に鰹木が五本
本殿の北の豊川稲荷神社
福岡市の名島神社説明板
天正16年(1588年)、九州を平定した豊臣秀吉は、この地に城を築くよう小早川隆景に命じ、名島城を九州守護の拠点としました。慶長5年(1600年)には福岡藩初代藩主黒田長政が入城しましたが、福岡城の築城に伴い廃城となりました。また、名島神社は当初、神宮ヶ峯山頂にありましたが、築城の際に現在の場所へ移されました。江戸時代までは名島弁財天社と呼ばれていましたが、明治維新の神仏分離令により、現在の名島神社となりました。祭神は、宗像三柱姫大神です。
社説には、神功皇后征韓の出発の地とあります。
これを、地禄帝(天照女神、大幡主)の征韓の出発の地と改めて、その旧跡を、のちに神社創始とされたのでしょう。
祭神は、神社構造からして、天照女神、大幡主とみました。
■宗栄寺(名島弁財天社)
名島神社社殿の南隣に下ると宗栄寺があります。
宗栄寺から名島神社に入るように鳥居は立っています
天照女神の花菱紋があります
宗栄寺(名島弁財天社)
福岡県福岡市東区名島一丁目25−1
お寺さんというよりは神社そのものです
扁額は「弁財天」
宗栄寺
天台宗 総本山は比叙山延暦寺
本尊 薬師瑠璃光如来
別本尊 弁才天(弁財天)
徳川三代将軍の冶世、肥前島原で天草一揆が起こり、幕府はこれを制圧するため九州の諸大名に攻めさせた。福岡藩主黒田忠之も出陣し攻めるも屈せす、寛永15年11月21日夜、一揆の兵が黒田、鍋島等の陣を攻撃した。この時、黒田の将として一万石を領していた岡田半左衛門利良とその子佐右衛門も出陣していたが、この時の戦いに於いて父子ともに敵の銃丸により戦死した。利良の妻は二人の菩提を弔うため尼となり、藩主に乞い博多妙楽寺を再興して父子を埋葬するとともに、父子の遺品を名島の古塁の麓に納めて精舎を建て、利良の家士、手島半兵衛の次男で比叡山で修行していた心性坊俊道を招き開基とした。これが宗栄寺である。
亦同じ名島にあった弁才天宮の別当寺神宮寺の末寺であったが、神宮寺は明治初年の神仏分離令により廃寺となり、弁才天社は名鳥神社となり、弁才天尊は没収され博多・芦屋等転々としたが、名島地区民の強い要請と運動により明冶7年1月名島へ還御、宗栄寺が別当寺となり今に到っている。
※本尊の薬師瑠璃光如来は大幡主の本地、弁財天は中世頃から市杵島姫と習合、本来の姿は天照女神とします
土神・大幡主の笹竜胆紋
弁才天(弁財天)
当寺の弁才天は平安時代の天台僧慈覚大師円仁が、唐より帰国に際して弁才天に祈願して、無事帰国できたことを感謝して勧請したものともいわれる。現在の名島神社の所に名島弁才天として祀られていたが、明治維新の神仏分離令により宗栄寺に祀られるようになった。 弁才天は弁財天・美音天・妙音天等ともいわれる。
歓詠・音楽のことを掌る女神で無礙の弁才を有し、仏法を流布し、寿命増益・怨敵退散・財宝満足の利益を施すといわれる。もとはサラスバティーといい、息味は(水に富む者)で印度の大河の女神である。山々より海へと流れ広大なる富を与え、その清流の水音より音楽の神、弁舌の神、芸術の守護神とされ、また河水が肥沃な土地を作ることより財宝を与える神として弁財天とも書くようにもなった。
像は弁才天の経である金光明最勝王経弁才天品では八臂とあり、それぞれ弓・箭・刀・矟・芹・長杵・鉄輪・羂索を持つ姿である。これ等は武器であり諸悪に打ち勝つことを表している。経にも戦いで常に勝つとある。一般には二臂像で琵琶を弾ずる姿が知られている。後世では頭上の宝冠に華表があり白蛇を頂いているのもある。
七福神のなかの只一人の女神で弁才・財宝・福徳・権威名声・長寿・技芸・行法を授ける神として信仰されている。
弁才天の眷属は宇賀神将と十五童子及び八万四千といわれ、宇賀神とは白蛇の姿といわれる。
神仏混合時代では宗像三神(多紀理毘売命・市杵島比売命・多岐都比売命)と習合しており、現在でも三神を祀っているところの近くには弁才天を祀っていることが多い。
弁才天真言 おんそらそばていえいそわか。
※宇賀神(うかのかみ)とは白蛇の姿といわれる→稲荷神→天照女神
社殿の両脇には大幡主のソテツがあります
本殿の屋根にも土神・大幡主の笹竜胆紋
本殿の欄干には天照女神の花菱紋が打ってあります
天照女神の神紋・花菱紋
こうしてみると、宗栄寺と弁財天社は大幡主と天照女神を祀る寺社といえます。








































