No.270 日田市夜明の鶴(天照)と鷹(大幡)を祀る有王社⑤

 
宮原誠一の神社見聞牒(270) 
令和7年(2025年)03月07日 
令和7年(2025年)4月30日追記
 

有王社本殿 大分県日田市夜明関町3185

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三隈川が日田盆地から夜明の狭い谷を通り、袋野でS字型に大きくわい曲し、筑後平野に出ようとする深い渕は、夜明の「有王渕」と呼ばれています。その曲流部の丘に有王社があります。

 


この夜明の国道210号を約20年、日田天瀬町本城(五馬いつま)に通いました
思い出多く、印象深い所です、有王渕の橋を通る印象が何とも言えません

 

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左の丘の頂部に有王社、右は夜明ダム

 

※有王淵(田主丸町誌水天宮から)
筑後川本流が、日田盆地から夜明の狭長な谷を潜って、まさに筑後平野に出る直前の部分に当たる袋野の険しいS字型の曲流部の深い淵は、有王淵と呼ばれている。『浮羽郷土伝説集』(21)によれば、鬼界島に流された僧俊寛を求めて、その子有王が都からここまで辿り着いたが、前途の遥遠を知る。そして彼は、絶望に心を捕えられて、この淵に身を投じた。これが、地名の由来だという。同地の別の伝承では、身投げしたのは、有王丸という俊寛の従者で、硫黄島からの帰路の事であったとする。

※有王(俊寛と有王丸)  (WIKIから)
有王(ありおう、生没年不詳)は、平安時代後期の人物。
法勝寺執行俊寛の侍童だったが、安元3年(1177)俊寛は鹿ケ谷の陰謀に連座して鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。「平家物語」によると、師を慕う有王は鬼界ヶ島をおとずれ、変わり果てた姿の俊寛と再会。有王は俊寛の娘の手紙を渡し、それを読んだ俊寛は死を決意して食を断ち自害する。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を持ち帰り、高野山奥院に納め、蓮華谷で出家して菩提を弔ったとされる。有王の墓は、和歌山県かつらぎ町と三重県桑名市(有王塚)にある。


ここ、日田市夜明の(旧)関村は、日田盆地の入り口の関門にふさわしく、守りの関所です。鎌倉初期には、大蔵氏の日田城支城としての櫛崎出城(くしざきでじろ)が大蔵永秀によって築かれました。かつて、その櫛崎出城に有王社があり、江戸中期の宝永2年(1705)に、夜明ダム向いの小高い丘に移されました。「有王渕」の地名も平安末期だとすると、その後、大蔵永秀公によって櫛崎出城が築かれ、城内に有王社があったとすれば、有王社の創立は大蔵永秀公によるものでしょうか。有王社と「有王丸」とは関係ないようです。
「有王」とは天照女神か正八幡大幡主のこととなります。

有王社 大分県日田市夜明関町3185

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注連掛け柱の前に石の太鼓橋

 

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天神を祀る石の太鼓橋です、左の石塔は猿田彦の「庚申尊天」→「幸神尊天」

 

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鳥居の扁額「有王宮」

 

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2023年7月の大雨で参道横の斜面が崩れ落ちています

 

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久大本線のトンネル口と参道の間の斜面が壊れています

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緩やかな登りの長い参道が続きます

 

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前日の大雨で夜明ダムが放水され、激しい流れの音が左から響きます

 

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鳥居の扁額「有王宮」

 

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拝 殿

 

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拝殿向拝の龍の彫刻

 

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朱(天照)と白(大幡)のコントラストが美しい本殿です
同様の美しい本殿を持つ神社が近くにあります

 

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宇奈岐日女神社 大分県由布市湯布院町川上 杷木神社 福岡県朝倉市杷木町池田54

 

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賀茂神社 福岡県うきは市浮羽町山北2090 . 正八幡神社 福岡県うきは市浮羽町西隈上

 

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日隈神社 大分県日田市庄手601 . . 水沼神社 宮崎県児湯郡新富町日置679

 

いずれの神社も祭神は天照女神と大幡主です。賀茂神社は大蔵子孫の河北家(山北四郎大蔵永高)の創立であり、日隈神社は大蔵永興の創立です。正八幡神社以外は川辺あるいは水辺にある水神社の性格を持ちます。
※水沼神社のある地名が水沼君、日下部氏、日置氏に因む「日置」です。

 

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有王社(ありおうしゃ)  大分県日田市夜明関町3185
祭神 瀬織津日女命(せおりつひめ) 罪穢れをば大海原に持ち出でなむ(祓戸の神)
由緒 人皇80代高倉天皇の御代(1168-80)、大蔵永秀(大蔵5代)の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永2年(1705)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す。
境内社
天満宮 祭神 菅原神 嘉永5年(1852)建立。字丸尾山鎮座を明治9年境内に移す
水天宮 祭神 二位尼霊(二位尼時子)

※豊後国の関門とは
「大蔵永秀(大蔵5代)の豊後国の関門守護を任」の豊後国の関門は「日田夜明の関村」をいう。そこに、櫛崎出城(くしざきでじろ)があった。大蔵氏日田城支城。大蔵永秀築城。 1183年、大宰府に落ちてきた平宗盛ら平家に抵抗するために築かれた。城の位置がはっきりしないが、関村入り口の西の山、標高100mの所か?

※日田城(ひたじょう) 大分県日田市北豆田慈眼山公園とその一帯にあった日本の城。大蔵城、鷹城、高城ともいう。

※祓戸大神(はらえどのおおかみ)
天照大神(内宮)→八十禍津日神=神直日神=湍織津媛=ヒミコ(天忍雲根神)=天照女神
豊受大神(外宮)→ 大禍津日神=大直日神=氣吹戸主=イキメ(天忍穂根神)=大幡主

※【祝詞】大祓詞(おおはらえのことば)一部
罪と言う罪は在らじと 祓へ給い清め給う事を
高山の末 短山(ひきやま)の末より 
さくなだりに落ち湍(たぎ)つ
速川の瀬に坐す
瀬織津比売と言ふ神 大海原に持ち出でなむ
荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開都比売と言ふ神 持ち加加呑みてむ
気吹戸に坐す気吹戸主と言う神 根国底国に気吹き放ちてむ
根国底国に坐す速佐須良比売と言ふ神 持ち佐須良い失いてむ
かく佐須良い失いてば 罪と言う罪は在らじと 祓へ給い清め給う事を
天つ神 国つ神 八百万神等共に 聞しめせと曰す

 

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有王社拝殿の神紋・三つ柏紋(大幡主の神紋)上部の鷹と下部の鶴(天照女神の紋章)

 

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天満宮(左)と水天宮(右)

 

※千歳川と水天宮
筑後河の別名の千歳川(ちとせかわ)・筑間川(ちくまかわ)、日田の三隈川(みくまかわ)は水天龍王に因む名称です。
水を司る龍神を水天と言い、龍神は水天の使いの象徴です。龍神には、大幡主(黒龍)、天照女神(白龍)、罔象女神(青龍)、豊玉姫(青龍)、市杵島姫(白龍)があげられます。 大幡主は海神(わたつみ)であり龍王といわれ、別名、筑後川水神、牛馬之守護神であり、荒五郎水神 (水天八大龍王)ともいわれた。
天照女神も水神様であり、龍宮神であり、筑後川及び巨瀬川筋の水神様の罔象女神(=天照女神)は安坊水神といわれた。
大幡主(荒五郎水神)、天照女神(安坊水神)は夫婦神であり、祀られる宮を本来の「水天宮」といった。水天宮の祭神は天照女神の別名である瀬織律姫・撞賢木厳之御魂の神名でも表記されます。筑後川一帯の水神社は水天宮を「徳満宮」として祀る村が多数あります。

※有王
「有王」という名称は京都府にもあります。
橘族の神社・玉津岡神社(京都市城陽市井手町井手東垣内63)は、有王山(京都府綴喜郡井手町井手山吹)に祀られていた有王天満宮(祭神・菅原道真)を合祀しています。有王山は元弘の変(1333年)に破れた後醍醐天皇が笠置山から落ち延び、捕らえられたと伝わる所

※帰りの参道

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有王社の祭祀線
有王社の祭祀線を調べました。
博多櫛田神社~太宰府天満宮~有王社 がラインに乗ります。有王社の有王淵鎮座は江戸時代であり、広い地域を選べないので、偶然性が大きいですが、祭祀は天照女神と大幡主で一致します。天満宮は菅原公単身を祀る神社とは限りません。
参拝線は筑紫野市原田の筑紫神社に向かいます。大幡主・天照女神の祭祀線です。

 

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有王社から大神宮に向かう途中に、国指定重要文化財の「行徳家住宅」があります。訪問人は私一人でしたので、係りの方から案内して頂きました。

行徳家住宅 大分県日田市夜明関町3256

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※国指定重要文化財【行徳家住宅について】
行徳家は、武蔵七党の一つ私市氏(きさい)の出で、熊谷姓を名乗り九州に下って南朝方として働いていたが、天正中期、筑前岩屋合戦で島津軍に敗れ、その後は、福岡県竹野郡(田主丸町)行徳村に住み、行徳姓を名乗り大庄屋をつとめた。
江戸時代中期からは久留米藩の御典医となり、代々有馬候に仕え、元潤の代、文政7年(1824)長男元亮は、長崎回米倉所が置かれ米の集散で賑わっていたこの地「関村」に分家し眼科医を開業した。元亮の子・元遂は医業にとどまらず、法橋(ほっきょう)の称号を受け、私財を投じて住民福祉に尽くした。
この住宅は、天保13年(1842)、2代目元遂(げんすい)の代に建てられたもので、大分県西部に分布する鍵屋形式の家屋様式である。(リーフレットから)



大神宮
「行徳家住宅」を大分自動車道に向かって進むと、自動車道の下に大神宮があります。その前に、宗教団体「御嶽教日田春日教会」があります。「御嶽教」「春日」が気になります、「御嶽宮」「春日宮」は天照女神と大幡主を祀るからです。

 

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大神宮 大分県日田市夜明関町

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鳥居扁額は「大神宮」

 

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左は観音堂、右が大神宮(ご神体は神宮大麻でした)


かごめの歌と夜明
「かごめかごめ」の歌の中に「夜明」「鶴と亀が統べた」と意味深な言葉があります。「かごめ」は「籠目」であり、ニワトリを庭に放ち育てる時の籠です。網目が六角形をしています。意向が、日田、夜明、有明と「明るさ」が続くイメージと重なるのです。

玖珠九重を水源とする玖珠川の白水と小国阿蘇を水源とする大山川(阿蘇川)の白水は、日田で合流し三隈川となり、玉川の玉垂宮を過ぎ、夜明の有王淵を過ぎると筑間川となり、朝倉の恵蘇宮を過ぎ、東の横綱の柳瀬の玉垂宮を過ぎ、西の横綱の片瀬蜷川の玉垂宮を過ぎ、御井合川の玉垂宮を過ぎ、大川の風浪宮を過ぎて、有明海にそそぐのです。
筑後川は別名・筑間川(ちくまかわ)で、筑前と筑後の間を流れる川を意味しますが、筑紫を流れる川でもあります。

かごめの歌の意趣を考えてみました。

「かごめかごめ」の歌詞
「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
 夜明けの晩に 鶴と亀が統べた 後ろの正面だあれ」

日神・日天は大幡主で亀・鷹・八咫烏がシンボル、月神・月天は天照女神で鶴がシンボルです。

太陽と月が統べった → 太陽と月が重なるのは日食、月食の時 → 天照女神と大幡主が結ばれた。

その結果、「天照女神と大幡主」の神名を後ろに隠した神名は「イザナギとイザナミ」。イザナギとイザナミの名によって、大幡主と天照女神の関係は徹底して隠されました。ようやく、天照女神と大幡主の関係が明るみになる時がきました。

籠(カゴメ)の中の鳥とは
天照女神=鶴(ツル)・ニワトリ、大幡主=鷹・梟(フクロウ)・八咫烏 です。
鶴(天照女神)と鷹(大幡主)が、日の当たる所に出る機会がやって来たのです。

 

※参考メモ 無間勝間(まなしかつま)=目無勝馬(めなしかご)
古代、大型船から小型船に乗り換えて上陸用に使用した船を目無籠(めなしかご)という。竹ひごで編んだ大きな籠で、水が浸入しないように表面を土で固めた。福岡市志賀島(鹿ノ島)北端の「勝馬」の地名はその名残だという。
日本神話の邇邇藝命(ににぎ)と木花咲耶姫の子が火照命、火須勢理命、火遠理命で、兄弟のうち、海幸山幸神話の火遠理命(ほおり)が山幸彦の彦火々出見命とされ、「塩椎翁に目無籠で竜宮につれられて・・・」竜宮の帰りに着いたところが鹿児島の枕崎とされる。
また、木花咲耶姫との出会いの舞台が鹿児島の笠沙の岬(旧笠沙町の野間半島)。その東の万之瀬川の左岸に加世田市宮原があり、その宮原の丘は、邇邇藝命と木花咲耶姫が「笠沙の宮」を営んだ地とされる。



参考資料(Wikiから) 有王山
玉津岡神社、梅宮大社は橘にとって大事な神社です

玉津岡神社 京都市城陽市井手町井手東垣内63
祭神 下照比賣命 (したてるひめ)
 . 味耜高彦根命 (あじすきたかひこね)
 . 天児屋根命 (あめのこやね)
 . 少彦名命 (すくなひこな)
 . 素盞嗚男命 (すさのおのみこと)
 . 菅原道真公 (すがわらみちざね)
由緒 飛鳥時代540年、下照比賣命が兎手(いで)玉津岡南峰に降臨し祀ったことに始まるという「玉岡の社」が玉津岡神社の起源。「玉岡の社」は「玉岡春日社」、江戸時代に「八王子社」と称号を変え、現在は玉津岡神社となる。
略歴
540年、兎手玉津岡南峰に下照比賣を祀る
731年、井手左大臣・橘諸兄は、橘一族の氏神として椋本(くらもと)天神社を創建
1878年、八王子社 (下照比賣命 玉津岡)
春日社 (天児屋根命 西垣内)
田中社 (少彦名命 宮の前)
八坂社 (素盞嗚男命 西前田)
天神社 (下照比賣命・味耜高彦根命 玉の井)
の5社を八王子社(玉岡社)に合祀
1881年、玉津岡神社と改称 1890年、有王山(京都府綴喜郡井手町井手山吹)に祀られていた有王天満宮(祭神・菅原道真)を合祀。有王山は元弘の変(1333年)に破れた後醍醐天皇が笠置山から落ち延び、捕らえられたと伝わる所
境内社・橘神社 祭神・橘諸兄(たちばなのもろえ)

梅宮大社 京都府京都市右京区梅津フケノ川町30
奈良時代に県犬養三千代(橘三千代、橘諸兄母)によって山城国相楽郡井手庄(現・京都府綴喜郡井手町付近)に祀られたのが創祀といわれ、のち平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座したとされる。橘嘉智子は、第52代嵯峨天皇の皇后にて、第54代仁明天皇を出産し、外戚としての橘氏の中興に貢献した人物。
現在の祭神は、本殿4柱・相殿4柱の計8柱。相殿4柱は仁寿年間(851-854年)の合祀という。
祭神 本殿
酒解神(さかとけのかみ). - 木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)
大若子神(おおわくこのかみ)- 大幡主
小若子神(こわくこのかみ) - 天照女神
酒解子神(さかとけこのかみ)- 神主玉命(木花咲耶姫の子・橘の祖)
相殿 嵯峨天皇、橘嘉智子(檀林皇后)、仁明天皇、橘清友公(橘嘉智子の父)
※大若子神・小若子神は博多櫛田神社の祭神です


もう一つのアリ王
近くの浮羽町の巨瀬川(こせかわ)の上支流の妹川(いもかわ)谷沿いの樫ケ平に高西郷(こせのごう)水天宮があり、さらに上流の元有(もとあり)に大山祇神社があります。この由緒に「蟻権現」の由来があります。

元有の大山祇神社
福岡県うきは市浮羽町妹川(元有)3725

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祭神である大山祇神像敷板に、次の銘文が残されています。(現代語訳)

「妹川は昔、巨勢氏の所領であった。巨勢太夫と云う者、白鳳年間に勅令により賊を討とうとし敗れ、罰を受けたのち妹川に来て住んだ。その子は蟻入道と云って諸国を巡り修行したが、祖先の地を慕って此の地に帰り住んだ。入道は大宝2年(702)、田畑の守護神として山神を祀った。樋による濯漑の方法等を教えた。それ以来、鳥獣の害や旱魃の災害もなく五穀豊饒で村々は益々栄えた。入道は「九十瀬入道」と号して、元気に滝のほりで瀬浴み等をして晩年を通していたが、ある日、山に行ったまま遂に帰らなかった。村民は敬慕のあまり、滝のほとりに祠を建て、蟻権現と言って崇め、祀った」浮羽町史(昭和62年より抜粋して略記)

この由緒は御神体の胎内に記してあったが、痛みがはげしく永年保存に耐えられないので、作り直して御神体の敷板に刻み込まれたものです。
蟻入道=蟻権現=九十瀬入道(こせ)は巨瀬川の水神として、九瀬宮(こせぐう)庄前神社(久留米市大橋町常持)に祀られています。庄前神社は久留米水天宮と関連神社であり、水神社の性格を持ちます。「蟻」「有」は水神の感覚がするのです。

夜明の「有王社」の基層は水神社です。瀬織津姫(天照女神)と荒五郎水神(大幡主)を水神として祀る水神社となります。由緒書きでは瀬織津姫(天照女神)が主祭神ですが、本殿屋根の千木は外削ぎの男千木、鰹木3本で、荒五郎水神(大幡主)が主祭神となります。

 
 
※以下の Note 記事に追加補強をしています
https://note.com/kenbuncho/n/n0a30842360f0

No.16 日田市夜明の有王社は蟻通水神社⑤

 

https://note.com/kenbuncho