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No.299 宮崎県五ヶ瀬町桑野内の古戸野神社⑥

 
宮原誠一の神社見聞牒(299)
令和7年(2025年)12月23日
 

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古戸野神社 令和7年(2025年)11月13日



桑野内の「五ヶ瀬ワイナリ」の東の奥まった山間地に古戸野神社(ふるどの)があります。
吉野朝の忠臣・芝原性虎が押方の芝原から桑野内の横通に移った時、芝原の熊野三社権現をこの地に勧請したのが起源。また、地神楽に高千穂神楽を合わせ、古戸野神社に奉納したのが古戸野神楽の始まりとされる。

社殿前の広場に入った時、この境内の静かさは、年代を経て積み重ね、さらなる静寂の雰囲気、「静かなること林の如し、動かざること山の如し」といった感です。
そして、社殿の左前にそびえる巨木の杉を見上げ、圧巻のひと時。

 

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入り口参道、左折は駐車場

 

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鳥居扁額「古戸野神社」

 



古戸野神社(ふるどの)
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内4668

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旧称は熊野三社権現、又は王子権現という。
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・迦具土神(かぐつちのかみ)、藤原道真公を合祀。
古くは熊野三社権現と称し、明治4年に古戸野神社と改名した。
創建年代は不明。
社伝によると、吉野朝の忠臣芝原又三郎性虎(後の入道性虎)が押方村芝原から桑野内・横通に移った時、芝原に祀られていた熊野三社権現をこの地に勧請したのが初めといわれる。
古来より「火の神様」であり、氏子の家に火難が罹っているときは、神社の中で不可思議の音響が起こって、これを告げたので、氏子は社殿にお籠りして火難除け祭事を行ったとされています。芝原性虎の旧名は興梠姓(こうろぎ)。

※熊野三社権現とは、結宮(天照女神)、速玉宮(大幡主)、那智宮(天照女神、大幡主)

 

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みごとな鳥居杉です



※芝原神社
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字押方3371-3
祭神 事解男命 伊弉冉命 速玉男命
芝原神社の創建は不明、古くは熊野三社権現と称され、1522年(大永2)、三田井右京大夫右武が再建し、明治6年 芝原神社と改称さる。

※宮崎県神道青年会 芝原神社
https://www.m-shinsei.jp/m_shrine/芝原神社(しばはらじんじゃ)/
地内には、県史跡に指定された吉野朝勤王家芝原又三郎の墓がある。南北朝時代、芝原又三郎入道性虎は一族を率いて九州の宮方の主力であった菊池・阿蘇氏を助け、武家方の小弐・大友氏と戦った勤王家である。地元の人々は芝原様の墓、性虎の墓、入道の墓として親しんでいる。『宮崎県地名大辞典』によれば、当社はこの芝原入道性虎が熊野から勧請したと記している。

 

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静かさに重みを増す境内 左は神楽殿

 

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拝 殿

 

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熊野神社なのに、拝殿の向拝は四本柱の高良神社造りです

 

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本殿の龍の彫刻



※古戸野神楽 https://www.pmiyazaki.com/kagura/hurutono/
古戸野神楽は、旧暦11月19日、ご神体を神楽宿に移し、夜を撤して33番の神楽を神々に奉納。室町時代より地神楽として舞われていたものに、南朝忠臣 芝原又三郎性虎が高千穂町芝原村より此の桑野内に移り住んだ時、地神楽に高千穂神楽を合わせ、それを古戸野地区に祭祀していた熊野三社大権現に奉納したのが始まりといわれている。

明応七年(1498年)高千穂領主 三田井惟房の代、内倉惟増の古戸野神社殿改築に伴い盛んになったようであるが、その後、南朝・北朝の争乱により一時廃れていく。そのような流れの中で、後日再興される過経で伊勢神楽が混じり、他の地区より遅いテンポの舞になったといわれている。その後、明治15年(1872年)古戸野の小田伝次郎が、現在見られるような33番の神楽にまとめたという。

 

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再び、社殿左前(神楽殿横)にそびえる巨木の杉

 

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樹齢約700年の杉

 



※「こうろぎ」とは
こちらの芝原氏の興梠姓(こうろぎ)は大幡系南朝方となります。
荒良木(あららぎ)は、神漏岐(かむろぎ)が語源だという。
神漏岐(かむろぎ) → こうろぎ → 興呂木 → 荒良木(こうろぎ) → あららぎ

私の柳瀬の玉垂神社は、明治遷座の前の社殿は私の苗代田にありました。その字名が「宇津呂木」(うつろぎ) でした。
今まで、この字名の意味が分かりませんでした。
「梠」は「ひさし」「のき」、「呂」は「せぼね」
「宇津」は「天の」あるいは「神の」という意味。すると、

「宇津呂木」→「神呂木」→ 神漏岐(かむろぎ)

宇津呂木も神漏岐に起源があることになります。
柳瀬の玉垂神社は、鎌倉時代から江戸時代までは、「柳瀬八幡神社」でした。現在の大字八幡(やはた)は、この「八幡神社」から採られました。明治の遷宮で「玉垂宮」と元の宮号に改称しました。


柳瀬の玉垂神社
福岡県久留米市田主丸町八幡(柳瀬)394

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拝殿の五三桐紋は大幡主の神紋



※「ふるどの」とは
「古戸野」を「ふるどの」と呼んでいますが、高千穂神社がある字名の神殿(こうどの)が本来の字ではないかと思うのです。そして、さらに、
古戸野(ふるどの) → こどの → 神殿(こうどの) または 許殿
「古」は、許玉黄の「許」の隠し文字、「古殿」の意味は「天照の御殿」。

「ひめこそ神社」の「こそ」は「古曽」「社」「語曽」が使用されていますが、本来の「古曽」文字は「許曽」ではないのかと。「許」は天照女神に、「曽」は大幡主に関係します。

「許曽」(こそ)がつく神社 (No.294)

1.媛社神社 福岡県小郡市大崎1
 祭神 市杵嶋姫
2.姫古曽神社 佐賀県鳥栖市姫方町189
 祭神 市杵島姫
3.比売語曽社 大分県東国東郡姫島村5118
 祭神 比売語曽神(=天照女神)
4.比売許曽神社 大阪府大阪市東成区東小橋3丁目8-14
 主祭神 下照比売命(=天照女神)
5.許曽志神社 島根県松江市古曽志町松尾466
 祭神 猿田毘古命(=大幡主)、天宇受賣命(=天照女神)
6.波牟許曽(はむこそ)神社 大阪府東大阪市長瀬町1丁目10-9
 祭神 天照皇太神

波牟は蛇を指し、許曽は社なので、要するに蛇の社です。
蛇神は天照女神です。
姫許曽神社は織姫の天照女神を祀る神社となります。

小郡市の七夕神社 福岡県小郡市大崎1

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よって、古戸野神社は
天照女神、迦具土神(かぐつちのかみ=大幡主)
を祀る神社と言えます。
さらに進めて、古戸野神社も二神を祀る二神神社と言えます。




市杵島姫は壱岐島姫
市杵島姫(いちきしまひめ)の神紋は「三つ鱗 みつうろこ」で、白龍(白蛇)です。白龍(白蛇)は天照女神です。(Note No.22)

※市杵島姫の本来の表記は?
市杵島とは壱岐島(いき、いちき、一木)のことです。壱岐対馬の壱岐島のことです。
壱岐市郷ノ浦町田中触に天手長男神社(あめのたなかおじんじゃ)があります。

 

天手長男神社 Wiki
長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730
長崎県壱岐市にある神社。式内社(名神大社)論社、壱岐国一宮後継社で、旧社格は村社。『延喜式神名帳』に載る式内名神大社で壱岐国一宮の天手長男神社に比定されているが確証は薄い。鉢形(はちがた)山に鎮座
主祭神 天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命
また、『延喜式神名帳』に載る名神大社と比定されている「天手長比売(天手長比賣)神社」(あめのたなかひめ)、小社の「物部布都神社」(ものべふつ)を合祀している。

宗像大社の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長 みたなか」という二本の旗竿に紅白旗をつけ、これを上げ下げして、操船の指令を出し、敵を翻弄し、最後に息御嶋(玄界灘の沖ノ島)に立てたという。天手長男と天手長比売の社名は、この「御手長」に由来するという。



指来神社 福岡県宗像市多禮589

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※宗像の指來神社の由緒から (No.277 281)
阿蘇津彦は、神功皇后異国征伐の時、御旗を司る神であるという。宗像大菩薩縁起によれば、強石将軍は御長手(みなかた) の竹竿に紅白の二流の幡をつけ、軍の前陣に掲げて進まれ、作戦を指揮されたことが書かれています。それ故、この神を旗指大明神(はたさし)という。今は訛りて「指来明神」(さしたり) という。

宗像大菩薩縁起に、宗像大菩薩(強石将軍)が新羅海戦の指揮をされたたことが書かれています。 赤白二流の旗を「御長手」の竹竿に付けられ、これを軍の前陣に掲げて進まれた。これから軍に旗をさしかざすことが始まったという。御長手とは旗指物で、旗を付ける竿であった。新羅海戦において、宗大臣(宗像大菩薩)が「御長手」を振下ろせば、藤大臣(高良大菩薩)が乾珠を海に入れて潮を引かせ、次に宗大臣が「御長手」を振上げれば、藤大臣が満珠を海に入れて潮が満ちたという。
赤白二流の旗をつけた「御長手」の竹竿は、潮の干満の状態を伝達する手段に使用されています。
凱旋の後、強石将軍は、白旗と赤旗の「御長手」を筥崎の浜に立て置かれた。その後、根本御影向の地たる沖ノ島の「三竹の瓶中」に「御長手」を立て置かれた。今は増減なく生長する不思議があるという。

※宗像大菩薩とは
宗像大菩薩(強石将軍)=宗大臣=藤大臣(高良大菩薩)=大国魂大幡主
宗像神社の宗大臣は宗像大菩薩(強石将軍)、高良神社の藤大臣は高良大菩薩で、大幡主と同一人物です。よって、宗像神社の祭神も高良神社の祭神も同一人物で、大幡主です。宗像神社の基底は高良神社です。

※御長手(みなかた)
御座船に赤幡(天照女神)、白幡(大幡主)をかかげる竹竿。
長手(なかた)の神は長田神、手長(たなか)の神は田中神。
よって、御長手も御手長も同義の神となり、巳(へび)と大幡主です。
みあれ祭とは、天照女神(中津宮)と大幡主(沖津宮)を辺津宮に迎える神事で、三女神を絡めるから複雑になるのです。辺津宮は天照女神と大幡主の二神を祀ります。

 

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御座船、両舷に赤幡と白幡をかかげる竹竿(御長手 みなかた) があります

 

弘仁2年(811年)に「天手長雄神社」(アメノタナカヲ)創建 Wiki
後に「天手長男神社」。『大日本国一宮記』(一宮記)には、天手長男神社と天手長比売神社が物部村にあり、天手長男神社を壱岐の一宮としたとある。『一宮記』では天思兼神を祭神としている。
その後、元寇により廃れてしまい、所在も不明となっていた。

現在の天手長男神社は、江戸時代にそれまで「若宮」と呼ばれていた小祠を、平戸藩の国学者、橘三喜が名神大社の天手長男神社に比定したものである。
三喜は、当神社の位置する「たながお (たなかを)」という地名から天手長男神社は田中触にあるものと推定した。そして、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡1面、弥勒如来の石像2座を掘り出し、石祠を造って祀った。
延宝5年(1677年)に発見された弥勒如来像には延久3年(1071年)の銘があり、後に重要文化財に指定され、2012年現在は奈良国立博物館に保存されている。
元禄元年(1688年)には松浦藩主の命により社殿が作られた。
(後略)


天手長男神社、天手長比売神社の所在地は元寇により廃れてしまい不明です。
しかし、「若宮」を天手長男神社(天手長比売神社)に比定した平戸藩の橘三喜の推定も捨てたものではありません。「若宮」は天照女神を祀るからです。天手長男は大幡主、天手長比売は天照女神だからです。
その天照女神は、別名、市杵島姫(=壱岐島姫(いちきしまひめ)です。
また、市杵島姫は、「杵島姫を斎き祀る」とも解釈します。杵島とは佐賀県武雄の杵島であり、天照女神の所縁の地です。