No.256 ヤマトタケルとカワカミタケル

 
宮原誠一の神社見聞牒(256)
令和6年(2024年)07月21日
 

佐賀県神埼市脊振一帯には日本武(ヤマトタケル)を祀る神社が集中します。
そして、須佐之男と櫛稲田姫を祭神とする櫛田三社宮があります。その一つである佐賀県神埼町の櫛田宮は須佐之男と櫛稲田姫と日本武を祀り、博多櫛田宮の元宮に比定されています。でも博多櫛田宮の祭神の大幡主と天照女神は祀られていません。

この一帯の主な神社です。

広瀧神社  佐賀県神埼市脊振町広滝559-1
倉岡神社  佐賀県神埼市脊振町広滝3435
仁比山神社 佐賀県神埼市神埼町的1692
八天神社  佐賀県神埼市神埼町城原3672
白角折神社 (櫛田三所大明神)佐賀県神埼市神埼町城原
櫛田宮 (櫛田三所大明神) 佐賀県神埼市神埼町神埼419−1
高志神社 (櫛田三所大明神)佐賀県神埼市千代田町下板1229

 

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神社公表の簡略説明です。

広瀧神社 佐賀県神埼市脊振町広滝559-1
祭神 広瀧神社(天之忍穂耳命)、兼大明神(日本武尊) 実際は男女神二組を祀る

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境内には市杵島姫(天照女神)の「鹿の子百合」が咲いていました(2024.07.18)。


倉岡神社 佐賀県神埼市脊振町広滝3435
祭神 素盞鳴尊 櫛稲田姫命
(天照皇大神 天忍穂耳尊 久々迺知神 菅原道真)

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素盞鳴命を祭神とする神社です。倉谷地区の倉岡神社と同名の神社ですが、『神埼郡村誌』では、今屋敷の神社を「倉岡神社(素盞鳴尊)」、倉谷地区神社を「倉谷神社(櫛稲田姫命)」と記され、倉谷神社は明治41年に倉谷の倉岡神社に合祀されています。実際には祀られているのは男女神の二体です。


仁比山神社 佐賀県神埼市神埼町的1692
祭神 大山咋命、鴨玉依姫神、日本武尊

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社伝によれば、天平元年(729)この地に松尾大社を勧請したことを創始とする。その後承和11年(844)に慈覚大師が唐から戻る際この地に立ち寄り、土中より日吉宮の額を発見したことを朝廷に奏上したところ、比叡の神威を感じた仁明天皇の命により近江坂本の日吉宮の御分神を合祀し朝廷の祈願所とした。そのときにこの地を仁明天皇の「仁」と比叡山の「比山」を併せて「仁比山」としたとされている。
従前は日吉神社、日吉社、また神宮寺として仁比山護国寺を併設し、山王権現、山王社と称していた。参道一の鳥居は「山王権現」、二の鳥居は「日吉宮」の扁額。
明治4年(1871)に神仏分離令により仁比山護国寺と分離し日吉神社となった。1910年(明治43年)に仁比山村内の13社を、翌1911年(同44年)9月には村内の白角折社をそれぞれ合祀(神社合祀令)、同年10月に仁比山神社と改称した。なお、白角折社は後に旧地に復座している
境内社として松尾宮、松森稲荷神社を置く。

仁比山 地蔵院 佐賀県神埼市神埼町的1688
仁比山地蔵院に薬師如来、千手観音、えびす神が祀られています。

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※薬師如来と千手観音は大幡主と天照女神の本地仏で、えびす神=大幡主です。
千手観音の背後には天照女神の神紋・五七桐紋、八重十六菊紋です。

 

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参道左手には市杵島姫(天照女神)の「鹿の子百合」が咲いていました(2024.07.18)。

※鹿の子百合(かのこゆり)
鹿児島県川内市沖の甑島で、下甑島の北部には鹿島町という鹿島大神を祀る鹿島があります。ここは春日大神と市杵嶋姫の由緒ある地と言われています。その鹿島に「鹿の子百合」が生えています。鹿の子百合は市杵嶋姫の代名詞で、鹿の子模様の斑点があり、下を向いて咲くのが特徴です。日本海の秋田県の男鹿半島の「なまはげ」は甑島の「としどん=大歳神(大幡主)=春日大神」と関係します。
笹ユリは古くは「さいぐさ」と呼ばれ、狭井(さい)姫は市杵嶋姫のことで、三枝氏(さいぐさ)、武田氏は九州王朝に関係し、三枝氏の家紋は三階松紋、武田氏の家紋は四ツ割菱紋(花菱紋略章)で、大幡主・天照女神の神紋です。
弁財天は市杵嶋姫で、佐賀の脊振神社は「三つ鱗」紋の白龍神の市杵嶋姫を祀ります。

※甑島と小川氏
甑島は地頭小川氏(違い鷹羽紋)が鎌倉時代、承久の乱(1221)の恩賞として所領を得て土着。約400年にわたり甑島の島主として活動し、島津家に属しながら統治を行った。小川氏の歴史は謎に包まれている部分もあるが、文化的遺産は現在でも甑島に伝えられているという。
承久の乱(じょうきゅうのらん)
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争い
執権の北条義時が幕府の実権を握り、後鳥羽上皇との関係が悪化し、上皇は義時追討の院宣を発布し挙兵したが、幕府軍に敗北し隠岐に配流された。



八天神社 佐賀県神埼市神埼町城原3672
祭神 火結神(軻遇突智神)

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土器山(かわらけやま)標高430メートルの山頂に上宮あり
由緒 開山 行基菩薩により元正帝の御宇、養老5年(721)土器山(八天山)に開基。
土器山(八天山)は、上古より山岳信仰の霊山で、山全体を御神体、上宮の巨石を磐境とし、附近一帯は聖なる禁足地であった。平安末期丹波国愛宕山より、火伏の神である軻遇突智神を勧請。以来、修験霊場として聞こえ「天狗の棲む山」と畏敬された。戦国期には、菊地氏、江上氏、神代氏、などの崇敬を集めたが、明治初頭の神仏分離、修験道廃止令により、現在の八天神社となった。

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※火結神(軻遇突智神)は正八幡大幡主です。
※土器山は王城山の置き換えで、王城(おうぎ)神社は正八幡大幡主を祀ります。
 「土」に「、」は「王」の略字です、土器→王器→王城→扇 白土+「、」=白王
※天狗は天の狗(いぬ)=犬です。大歳神は天忍穂根命=大根の神=大幡主

犬祖伝説と稲荷の起源
古代では動物を飼う分業職があり、特に犬については「犬飼」と呼ばれるように、身近な家畜として、狩猟用、番犬、運搬としも使われたようです。
中国南部の少数民族である、黎(り)族、苗(みゃお)族には犬祖伝説があります。
日本列島の天草・阿蘇に移住してきた黎族の天忍穂根命は別称・犬飼神とも呼ばれます。犬祖族と呼ばれる少数民族で、漢民族の攻撃に南に押しやられた犬祖族は日本列島に新天地を求めて移住してきました。
「人々は、天の神様が持っていた稲モミがどうしても欲しい、と犬を使者に立ててお願いに行ったが、断られた。犬は干してある稲モミの中をわざと転がりまわり、体中に稲モミをつけて地上に帰ってきた。が、途中、天の川を渡っている時にほとんど流されてしまった。幸い尻尾についていた一粒が地上の稲作の基になった。」
犬が稲を荷(いな)ってきた。それが稲荷(いなり)と呼ばれ、犬はお稲荷様の神使いとなった。 お稲荷様の使いは「狐」でなく「犬」であるといわれる由縁です。
稲荷社の祭神は天忍穂根命(大幡主)と天照女神が主祭神です。


白角折神社(おしとり)  佐賀県神埼市神埼町城原

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神埼荘の鎮守として櫛田宮および高志神社とともに三所大明神、三社宮と称された。慶応2年(1866)6月の水害によって古い記録は失われ、足利氏や少弐氏に関する文書があったという。1866年の水害では社殿も流失し、その後、現在の拝殿と神殿が再建された。
1911年(明治44年)9月に日吉神社(同年10月に仁比山神社と改称)へ合祀され、ご神体も同社に移された。神殿には女神と男神の2体の神像を所蔵する。女神は貞和2年(1346)の銘がある楠を用いた木像。男神は桐の一木造の像であるという。
※三所大明神社ですので、祭神は素盞鳴尊と櫛稲田姫ですが、本当は。


櫛田宮 佐賀県神埼市神埼町神埼419−1
祭神 須佐之男命、櫛稲田姫命、日本武命

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神埼荘の鎮守として高志神社および白角折神社と共に三所大明神、三社宮と称された。
高志(たかし)神社(千代田町、陣内喜弘宮司)・白角折(おしとり)神社(旧仁比山村、朝日晃司宮司)とは三所一体の神社です。


高志神社 佐賀県神埼市千代田町下板1229
祭神 素盞嗚命 櫛稲田姫 日本武尊

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神紋は十字剣です。氏子さんの家紋はほとんどが剣花菱紋(高良玉垂命)です。




素盞嗚命と櫛稲田姫は大幡主と天照女神の置き換えです
八天神社、白角折神社、倉岡神社、櫛田宮、高志神社は大幡主と天照女神を祀る神社です。
さらに、仁比山神社、白角折神社、櫛田宮、高志神社は日本武命をも祀ります。
この地方では、日本武命のみを祀り、宮簀媛(みやずひめ)は祀られていません。
筑豊の剣神社関係の祭神は素盞鳴尊or伊弉諾尊、日本武尊(やまとたける)、宮簀媛尊(みやずひめ)がよく祀られています。

白角折神社 佐賀県神埼市神埼町城原字朝日

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「白角折」を「おしとり」と呼びます。「しらとり」と私は読むのですが。
神埼の白角折神社は櫛田宮と高志神社と共に三所大明神として同一扱いです。
ご神体は女神と男神の二体の木像と紹介されており、大幡主と天照女神を祀ります。

神埼市の近くの久留米市に二社の「しらとり神社」があります。

白角折神社 (しらとり) 福岡県久留米市白山町180
祭神 日本武尊(鏡) 中筒雄尊(右・住吉大神木像) 応神天皇(左・八幡大神木像)

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境内社 宮地嶽神社、正一位稲荷社(共に祭神は天照女神と大幡主)
境内に蘇鉄があり、大幡主が祀られています、住吉大神=八幡大神=大幡主

白鳥神社 久留米市荒木町白口362
祭神 日本武 合祀 菅原道真公

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境内社 名釼大明神
※神紋は五七桐紋に十六菊で天照女神の紋、鳥居の横に大きな蘇鉄あり

いっそのこと、
「名釼」をカッコして、「妙見」と書いてくれば、
「日本武」をカッコして、「倭武」(やまとたける) と書いてくれれば、
大幡主を祀る神社とわかるものを。
古い時代は終わったのだから、カッコの説明書きを加えてもいいのでは
と思うのですが。
倭武が川上武を討ったとさ、大幡が大幡を討ったとさ。なんということ。
やはり、ひとりつぶやきか!
そんなに、大幡を自滅させたいのか!
もう、つくづくあきれる
※倭姫は天照女神です、倭武は大幡主です。

※天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
三種の神器の天叢雲剣=天村雲剣→名剣=妙見・天村雲命=大幡主
剣花菱紋の剣は大幡主の剣でした。
それで、花菱は天照女神を、剣は大幡主を象徴します。
私の家紋は「陰陽二段菱紋」で、もう一家の宮原の家紋が剣花菱紋です。天照女神と大幡主で一致します。柳瀬の玉垂神社は天照女神を主祭神に、八幡大神の大幡主を祀ります。
剣花菱紋は佐賀北茂安、朝倉寺内におられます。
剣カタバミ紋は球磨の宮原です。村上、河野さんです。




日本武と川上武(梟帥)
小碓命(こうずのみこと、後の日本武)が熊襲建(川上梟帥)を征討する説話が「記紀」にあります。ヤマトタケルの表記は、日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命となっています。

 

日本武が熊襲建を征討する説話
小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。小碓命(倭建命)は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように斬り殺した。(Wiki古事記)


小碓命(日本武)と熊襲建(川上梟帥)の征討伝説の地が、九州北部に二ヶ所あります。

行縢の滝 行縢神社 (むかばきじんじゃ)の上流 宮崎県延岡市行縢町741
五社明神社(大願寺廃寺跡)  佐賀県佐賀市大和町大字川上3667



行縢神社と行縢の滝
布引の箭筈(やはず)の滝を射てみれば、川上梟師落ちて流るる

行縢神社 (むかばき) 宮崎県延岡市行縢町741
祭神 熊野権現(天照女神・大幡主)

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宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト
http://www.m-shinsei.jp/modules/gnavi/index.php?lid=179&cid=28
行縢神社(むかばきじんじゃ)2013-11-6 13:23
養老2年に紀州の熊野権現を勧請したもので、県領主土持氏歴代の祈願所で篤く信仰された。日本武命が熊襲の将・川上梟師征討の伝説地であって、皇子、駕を舞野の里に駐めて、この山をご覧になり、その形状が行縢に似ているので行縢山と言い、其の滝を箭筈(やはず)と言って、歌われた歌は「布引の箭筈の滝を射てみれば、川上梟師落ちて流るる」と、いまも延岡地方の神楽歌として用いられている。


行縢の滝

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土持神社 宮崎県延岡市妙町
祭神 反正天皇、田部宿禰直亥(なおい直猪宿祢)、土持高信公

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反正天皇の五世の孫、田部宿禰直亥は欽明天皇の31年、豊前宇佐八幡宮の造営勅使として、九州に下向、その功により「土持」の姓と日向の国を賜り、縣の庄(延岡)に居城して、日向の国を治めている。(570年に宇佐神宮を造営した際に、田部宿禰直亥の盛った土が崩れなかったのを欽明天皇から褒められて「土持姓」を与えられたとあります。)
土持氏は宇佐八幡宮の社人とされ、平安時代末期から戦国時代前期にかけて、日向国北部を中心に勢力を有した一族で、元々の家紋は「亀甲に桐」紋といわれる。
行縢神社は土持氏歴代の祈願所です。

土持高信→田部宿禰直亥(直猪宿祢なおい)→反正天皇→仁徳天皇→日下王

仁徳天皇の皇子・尚盛王(くさかおう 日下王 草香皇子)で日下部につながります。
高良玉垂宮の五姓仕人は丹波氏、安曇氏、前田氏、草部氏、草賀部氏であり、
高良玉垂宮の八人の神官は稲員、田尻、小祝、外湯、諸司代、印塚、福成、福成であり、
稲員氏は草部氏であり、水沼君の本拠地の久留米市北野町大城稲数に居を構えています。
水沼君→稲員氏→草部氏→日下部→日置氏と流れていきます。
八木氏、朝倉氏、橋本氏、岩切氏等がその流れとなり、大幡主系となります。

球磨の旧宮原村の北方、球磨川の北岸の多良木町黒肥地(くろひじ)に王宮神社が鎮座です。
王宮神社は古来より王宮と称し、明治元年(1868)に黒肥地神宮(くろひじじんぐう)と改称されています。由緒によれば、創建は大同2年(807)日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網が久米蓑毛(現・多良木町久米)に住み、多良木源島(げじま)に帝廟(天子のみたまや)を勧請し、その後、現在地に遷座。

王宮神社 熊本県球磨郡多良木町黒肥地1278

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主座 神武天皇 玉依姫命
相殿 建磐龍命 比咩神(阿蘇津姫) 天照皇大神
※神武天皇=建磐龍=大幡主、玉依姫=阿蘇津姫=天照女神
※王宮神社は天照女神、大幡主を祀ります



五社明神社(大願寺廃寺跡)
健福寺の昭和49年の寺報「健福寺」落慶法要記念号に「大願寺の伝説」として“大和町大願寺で酒宴中の熊襲タケルが小碓尊(こうずのみこと)に討たれた”と書かれています。

五社明神社(大願寺廃寺跡)  佐賀県佐賀市大和町大字川上3667

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健福寺 佐賀県佐賀市大和町大字川上3881

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百嶋学では、川上タケルは熊襲の統領となって反旗を起こし、ヤマトタケルの討伐にあい、佐賀県背振の広滝(廣瀧神社)で降服して命は助けられます。

広瀧神社・兼(かね)大明神 佐賀県神埼市脊振町広滝559-1

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兼(かね)大明神の由来
この大明神は日本武尊と吉備武彦神を祀る。
日本武尊は川上梟帥を天賦の知勇を持った征伐された。
仁徳天皇の御代に広滝川の北岸に一社を創建され氏神とされた。

由来記
神埼郡村誌(明治14年)によると、広瀧神社は天之忍穂耳命、兼大明神はヤマト武尊
を祀っていた別の神社で、当時まではそれぞれの場所に鎮座していました。
今は現在地に合祀されています。地元では広滝神社とも兼大明神とも呼ばれているようです。


兼大明神が日本武尊と吉備武彦神であるとすれば、
吉備武彦神が天之忍穂耳命に置き換わったとしても、広瀧神社には大幡主と天照女神が二組祀られていることになります。

小碓命(日本武)が熊襲建(川上梟帥)を征伐するという日本書紀・古事記の伝説は、大幡主(日本武)が大幡主(川上梟帥)を征伐するという、自己矛盾の伝説となってしまいました。
それほどに、記紀の作者は大幡主の存在を消したいのでしょう。
見方を変えれば、壮大な創作歴史小説と言ってよいかもしれません。
私説ではありますが、かなり事実に近いと思っています。




覚書メモ
福岡県内の白鳥神社
020 白角折神社 久留米市白山町字中牟田     現・久留米市白山町180
012 白鳥神社  田川郡伊田町大字伊田字白鳥山  現・田川市伊田2251−1
188 白鳥神社  田川郡猪位金村大字猪国字宮藪  現・田川市猪国1721
154 白鳥神社  八女郡大淵村大字大淵字田ノ下  現・矢部村北矢部11242
255 白鳥神社  三潴郡荒木村大字白口字宮ノ脇  現・久留米市荒木町白口362
045 白鳥神社  山門郡三橋村大字白鳥字宮本   現・柳川市三橋町白鳥68-1

福岡県内の白鳥の地名にある神社
285 天神社   朝倉郡福田村大字白鳥字富永屋敷 現・末吉天神社 朝倉市倉吉(100)
287 天神社   朝倉郡福田村大字白鳥字白鳥屋敷 現・白鳥天神社 朝倉市白鳥224
046 天満神社  山門郡三橋村大字白鳥字島田   現・山門郡三橋町大字白鳥574
047 八幡神社  山門郡三橋村大字白鳥字西大野  現・山門郡三橋町大字白鳥(399)