No.315 もう一つの宇美八幡宮(糸島市川付)⑥
宮原誠一の神社見聞牒(315)
令和8年(2026年)05月30日
宇美八幡宮(うみはちまんぐう)
福岡県糸島市川付787
糸島市川付の長野川のほとりに宇美八幡宮があります。
以前から気になっていた神社ですが、糸島にありながら、粕屋郡の宇美八幡宮と同じ社号です。誉田別王(応神天皇)の生誕の地が一ヵ所増えるのかと思いましたが、仲哀天皇にかかわる神社でした。上宮と下宮があり、上宮は仲哀天皇を祀り、下宮は気比大神(清瀧権現=天日鉾尊)を祀ったのが創立のようです。社説では、仁徳天皇10年とあります。
神社の参道は長野川の岸まで伸び、海、川から船で参拝できるようになっています。
不思議なことに、社殿と参道が向かう先が朝倉市寺内の神功皇后伝説の羽白熊鷲(はしろくまわし)の塚です。雷山神社、上宮の曽増岐神社も同様に羽白熊鷲の塚に向いていました。
糸島市の宇美八幡宮は神功皇后に関係するものか、あるいは、羽白熊鷲に関係するものか、興味深いところです。
古墳群と宇美八幡宮がある長嶽山(ながたけやま)
(Google Map から)
■長野川岸の船着き場
近くに、弥生時代の長野宮ノ前支石墓の移築復元があります。
一の鳥居「八幡宮」
◎長野 宮ノ前支石墓
この支石墓は現在地から300m東に位置する長野宮ノ前遺跡から発見され、当地に移築復元したものです。
長野宮ノ前遺跡は、弥生時代の初めころ(今から2300年前)の総数40基にのぼる共同墓地で、昭和62年(1987年)の県営ほ場整備工事の際に発見されました。宮ノ前支石墓の大石は重さが約3トンあり、石の下から大きな壺の棺が出土しました。
支石墓とは墓穴に遺体を埋葬した後、地表に大石を据えて墓石としたものです。通常は大石と地表の間に人頭大の支え石を挟んでおり、これが名前の由来となりました。宮ノ前支石墓の大石は重さが3トンもあり、石の下からは大きな壷の棺が出土しました。
支石墓は、ユーラシア大陸で発生した墓制、ドルメンの一種で、日本には朝鮮半島から伝えられました。糸鳥市の志登支石墓群(国史跡)、新町支石墓群(国史跡)、石崎矢風遺跡、唐津市の葉山尻支石墓群(国史跡)など、西北九州の沿岸地域から発見されていますが、その数は少なく、古代における朝鮮半島の人々との活発な交流を物語る貴重な貫料です。 平成7年3月31日 糸島市教育委員会
■宇美八幡宮
福岡県糸島市川付787
船着き場から社殿まで一直線に並んでいます
国土地理院の地図では、石段参道がずれています
二の鳥居「宇美八幡宮」 左は藤棚
三の鳥居「八幡宮」
石段登り口の左右に境内社があります
左から、猿田彦神社、三社合祀(宮地嶽神社、両神神社、風神神社)
右に、二社合祀(生目神社、金刀比羅神社)
三の鳥居後から振り返る
拝殿 社紋は「左三つ巴」
拝殿向拝の龍の彫刻
拝殿奥の神額 二神祭祀です
氏子さんは川上、溝口、武内、吉丸さんが多いようです
社紋の三つ巴紋
葡萄と獅子?(左) ウサギと波(右)
本 殿
本殿を後ろから撮影
本殿に架かる神額
左から、気比宮、宝満宮、八幡宮(中)、聖母宮、天降宮
本宮 気比大神(天日鉾尊=清瀧権現)
追祀 応神天皇(八幡宮)、神功皇后(聖母宮)、玉依姫(宝満宮)
合祀 瓊々杵尊(天降宮)
◎福岡県神社誌 宇美八幡宮
糸島郡長糸村大字川付字長岳山
祭神 上宮 仲哀天皇
本宮 気比大神(清龍大神)
追祀 誉田別天皇、気長足姫尊、玉依姫命
合祀 瓊々杵尊
由緒 (再整理)
上宮は神社境内林南方、丸塚堅山陵上の石祠にして、神功皇后三韓征伐の際、香椎より仲哀天皇の御棺を遷し、陵を築き賜ふ所と云う。
本宮は、仁徳天皇10年、平群木莵の宿禰の子(武内)博公を神主として、気比大神(清龍大神)天日鉾尊を祀らせたのが起源。
称徳天皇の神護景雲元年、祭神 誉田別天皇(八幡宮)、気長足姫命(聖母宮)、玉依姫命(宝満宮)は社務公実と云者の奉斎する所なり。
明治44年5月、祭神 瓊々杵尊は字大原無格社天降神社として祭祀ありしを合祀。
奈良平安朝時代、大社にして九月の御神幸大祭では、御神輿三輦深江子負ヶ原なる鎮懐石八幡宮境内迄渡御あり。
江戸期、中津領(奥平領)東怡土郡十二ヶ村の惣社なり。
当社は古来社号を宇美八幡宮と称し、宮号を唱へ神社号を称せず。
宇美と云へるは応神天皇御降誕の地なるに因ると云ふ。又この地を和名抄の長野郷なるに依り、長野八幡宮とも称す。
氏子区域及戸数 大字長野、大字川付、戸数計百三十戸
境内神社
金刀比羅神社(顕仁天皇、豊玉比古命)
宮地嶽神社(勝門姫命、阿部助盛命、阿部高盛命)
風神神社(志那津比古、志那津比売命)
両神神社(大山祇命、埴安姫)
猿田彦神社(猿田彦神)
生目神社(活目入彦五十狭茅)
※大幡主(黒龍・青龍)、豊玉姫(青龍)、天照女神(白龍)、罔象女神(白龍)、市杵島姫(白龍)
※氣比神宮の祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)と表記されますが、実態は天照女神(五七桐)と大幡主(右三巴)です
◎ 境内社
境内社の祭神
猿田彦神社(猿田彦神)
宮地嶽神社(勝門姫命、阿部助盛命、阿部高盛命)
風神神社(志那津比古、志那津比売命)
両神神社(大山祇命、埴安姫)
生目神社(活目入彦五十狭茅)
金刀比羅神社(顕仁天皇、豊玉比古命)
※宮地嶽神社
福津市の宮地嶽神社の祭神は天照女神と大幡主
安倍丞相(ジョウショウ)→大幡主
息長足比売命() →天照女神 →勝門(守)姫命
勝頼大神(藤高麿) →朝日豊盛命 →阿部高盛命 →大幡主
勝村大神(藤助麿) →暮日豊盛命 →阿部助盛命 →天照女神(勝村姫)
置き換えです。
「盛」は、守、森の置き換えで、子守観音、小森観音は天照女神です。
※宇治土公(うじとこ)の猿田彦神社
氣比神宮の元宮とされると同じとみています。
宇治土公が邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦大神を祀っていた。明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社である。本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造である。千木は平削ぎの女千木である。
祭神は佐用姫(天照女神)と猿田彦神(大幡主)、土公元宮を氣比神宮の元宮とみています。
※土公(元宮) 福井県敦賀市曙町11
氣比神宮境内の北東方角の敦賀北小学校校庭に「土公(どこう)」と称される小丘がある。土公は神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。社伝では、気比大神はこの土公に降臨したといい、大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたという。
※氣比神宮(けひじんぐう)
福井県敦賀市曙町11−68
祭神 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)
宇美八幡宮縁起
◎宇美八幡宮縁起(案内板)
祭神 (※表記を一部変更)
上宮 仲哀天皇
本宮 気比大神(天日鉾尊=清瀧権現)
追祀 応神天皇(八幡宮)、神功皇后(聖母宮)、玉依姫(宝満宮)
合祀 瓊々杵尊(天降宮)
由緒
上宮
長嶽山南方に鎮座。丸型山陵(周囲四十五間)頂上に石祠がある。
祭神は仲哀天皇。当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、武内宿禰に命じ、香椎に在る所の先帝のお棺を当山に収めて、築陵したとある。皇后の三韓御渡航の折の御殯斂(ひんれん)の地か。
本宮
古命を長野八幡宮と言う。神功皇后、三韓御渡航のおり、船上に神あり。吾は新羅の神、清龍権現なりと皇后の国土を守護せん。因って、神功皇后が無事御帰朝の際、当山にて奉斎の祭りを執り行ったという。その後、第16代仁徳天皇の10年、平群木莵の宿禰の子博公を神管として、この霊蹟に神社を建立し、気比大神天日鉾尊を祀らせたのが本宮の起源である。
下がって、第48代称徳天皇の神護景雲元年、社務公実が、八幡宮、聖母宮、豊満宮の三社を勧請され、以後八幡宮の威徳霊験があらたかになって、社名を宇美八幡宮と称するようになった。
(中略)
○奈良、平安の頃は大社であり、二月初卯日には、七日間の大祭が行われ神輿三輩、供奉行列とともに深江子負ヶ原海岸に至り、筑前、筑後国の大競技会が行われていたという。
○江戸の頃、中津領怡土郡十二ヵ村の総社として、風雨疫病の祈願祭などがあり、中津藩の藩史が出役して祭時にあたっていたという。社殿の改修には、中津藩費を充てていた。現神殿は、奥平大膳大夫昌邦の建立によるものである。
○明治維新の頃、長野庄の氏神社で、明治5年郷社となり、大正4年県社に昇格した。
手洗鉢の地紙紋(扇紋) 大幡主系です
生目神社前のソテツと宮司宅(武内)
福岡県神社誌と宇美八幡宮縁起(案内板)からみる由緒
宇美八幡宮の祭神
上宮 仲哀天皇
本宮 気比大神(天日鉾尊=清瀧権現)
追祀 応神天皇(八幡宮)、神功皇后(聖母宮)、玉依姫(宝満宮)
合祀 瓊々杵尊(天降宮)
宇美八幡宮の創立は、
気比大神(けひおおかみ)である天日鉾尊(あめのひほこ)を祀ったのが起源です。神功皇后の三韓征討御渡航の折、気比大神(清龍大神)が船上にあり、守ったという。神功皇后が無事帰朝後、長嶽山に気比大神を斎き祭ったという。その古名を長野八幡宮と言った。
上宮は、
長嶽山南方の1号墳(前方後円墳)の頂上に石祠としてありますが、仲哀天皇を祀ります。神功皇后三韓征伐の折、陵を築き、香椎より仲哀天皇の棺を遷した、と云う。
本宮は、
仁徳天皇10年、平群木莵(ツク)宿禰の子(武内)博公を神主として、気比大神(清龍大神)である天日鉾尊を祀らせたのが起源。長野八幡宮と称した。
第48代称徳天皇の神護景雲元年(767年)、誉田別天皇(八幡宮)、気長足姫命(聖母宮)、玉依姫命(宝満宮)が、社務の公実によって追祀。以後、長野八幡宮を宇美八幡宮と称するようになった。「宮号を唱へ神社号を称せず」とあります。
この地が和名抄の長野郷であり、「宇美」と云へるは応神天皇降誕の地なる故と云ふ、とありますが、「応神天皇誕生の地」とは、ちと行き過ぎではないかと。それとも、「宇美」は粕屋郡の「宇美」を指すのか? 社務の公実は宇美三神をどこから勧請されたのでしょうか。
※粕屋郡の宇美八幡宮
福岡県糟屋郡宇美町宇美1丁目1番1号
祭神 應神天皇、神功皇后、玉依姫命、
住吉大神、伊弉諾尊
※嘉穂の大分八幡宮
福岡県飯塚市大分1272
祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫命
明治44年(1911年)明治政府合祀令により、字大原の無格社「天降神社」の祭神・瓊々杵尊(天降宮)を合祀。
平安の頃は大社であり、二月初卯日の大祭では、神輿三基が深江の鎮懐石八幡宮に幸行された。
江戸時代は、怡土郡十二ヵ村(長野、川付の他)の総社であり、中津藩奥平家の藩領であった。(中津藩の飛び地)
※氣比神宮の祭神は気比大神といい、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)と表記されますが、ここ糸島の長野八幡宮(宇美八幡宮)では、祭神表記が天日鉾尊(清瀧権現)です。
※伊奢沙別王とは、伊国に坐します「佐の神」の別王、という意味であり、大幡主を当てます。すると、
伊奢沙別命=天日鉾尊(清瀧権現)=大幡主=佐の神=伊根(稲)の神
■上宮に向かいます
拝殿から南(左)へ上宮に向かいます
◎長嶽山古墳群(ながたけやまこふんぐん) 糸島市指定史跡
宇美八幡宮の両脇に広がる丘陵は長嶽山と呼ばれ、その稜線上に、大小14基(前方後円墳1基、円墳13基)の古墳が築かれています。これらは、紀元5世紀から7世紀ごろ(古墳時代後期から終末期)にかけての古墳群です。
この場所から見渡すことのできる、現在の川付、飯原、長野などの地域を、当時支配していた一族のお墓だと考えられます。
このうち、1号墳は、後円部に比べて前方部が短い前方後円墳(帆立貝式古墳)で、墳頂には宇美八幡宮の上宮の祠があり、神社の縁起では仲哀天皇の棺を納めたとされていて、古くから重要な(中心的な)古墳と考えられていたことが想像できます。また、この場所は「奥の院」と呼ばれ、1号墳は「奥の院古墳」とも呼ばれています。
この古墳群に眠る一族が治めていた この地域には、発掘調査によって、川村宮の前遺跡、飯原門口遺跡、長野宮の前遺跡などの、弥生時代前期(紀元前5世紀ごろ)から古墳時代後期(紀元7世紀ごろ)にかけての集落遺跡や墓の存在が明らかになっています。
糸島市では、長嶽山古墳群を平成21年に市の史跡に指定し、大切な文化財として、保存、活用することにしました。
平成28年3月 糸島市教育委員会
上宮、奥の院参道入口
上宮、奥の院
祠の向きはN+31.3度で、志賀海神社へ向かいます
◎奥の院古墳(長嶽山1号墳)
長嶽山古墳の最も南に位置するこの古墳は平成4年の測量調査こよって全長38mの前方後円墳であることがわかりました。
古墳ので平面形が帆立貝に似ているのが特徴で、墳丘は2段に土が積み上げられ、その斜面に葺石と呼ばれる河原石の貼石(はきいし)が施されていることもわかりました。
古墳の詳細な調査は行なわれていませんが、墳丘の形状から今から1550年ほど前に築かれた長野川流域一帯を治めていた首長の墓であると考えられます。
なお、宇美八幡宮の縁起によれば当古墳は仲哀天皇の陵と伝えられており、社の上宮として祭られ、現在にいたっています。
当古墳は長野川流域の歴史・文化を研究するうえで貴重な文化遺産です。
平成7年3月 糸島市教育委員会
神社社説によれば、
長嶽山1号墳は、香椎にある仲哀天皇の御棺を、武内宿禰に命じ、当山に収めて築陵したという。三韓征討の渡航の間の殯宮(もがりのみや)ということになります。
現在、その墳丘上に石祠が置いてあり、上宮となっています。
※「古事記」では、三韓征討前の香椎宮の夜、神功皇后、建内宿禰と三人おられる時、仲哀天皇は突然死されています。
「日本書紀」では、仲哀天皇の御棺は長門の豊浦宮に移したことになっています。
※香椎宮は、神功皇后みずから仲哀天皇の御神霊を祀られたのが起源で、神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(723) 皇后の御神託により社殿の運営が始まり、聖武天皇の神亀元年(724)に竣工。この両宮を併せて香椎廟と称した。
しかし、さらに調べていると、仲哀天皇は香椎で亡くなっていないとい伝承があるそうです。
ブログ「ひもろぎ逍遥」管理人の「綾杉るな」氏によると、仲哀天皇の殯の地に疑問を抱き、真実を知ろうと神社隣の宮司宅を訪問され、宮司から仲哀天皇が亡くなられた所は糸島の雉琴神社近くの室小路で突然死されたことを聞かされたそうです。詳しくは下記にて。
ひもろぎ逍遥 宇美八幡宮・糸島(1)仲哀天皇の殯斂地と特殊神事 2012年02月27日
https://lunabura.exblog.jp/17536581/
綾杉るな著 神功皇后伝承を歩く(上)不知火書房 2014年
さらに、別伝では、仲哀天皇の死について、「橿日宮で亡くなった説」と「羽白熊鷲討伐の折、福岡県小郡市の御勢大霊石(みせだいれいせき)神社付近で亡くなった説」があります。(No.302)
◎橿日宮(現香椎宮)で崩御
『古事記』によると神功皇后に神がかったとき、仲哀帝は琴を弾き、建内宿禰は神の言葉を受けた。皇后は西海の宝の国(新羅)を授けるという神託を告げた。しかし、仲哀帝は、これを疑い琴を弾くのをやめてしまった。神はとても怒り、仲哀帝へ死を宣告した。建内宿禰は恐れおののき琴を弾き続けるように奏上した。仲哀帝は渋々従ったものの、そのうちに琴の音が聞こえなくなった。灯りをつけると天皇は崩御していた。
◎第1次羽白熊鷲戦争中、小郡から秋月にかけて狙撃された
御勢大霊石神社由緒によると、羽白熊鷲征伐に当り、橿日宮の本陣より此の地に軍を進められ、大保の里が白州で清浄であったので天神地祇を祀り、仮陣地とし軍を指揮された。隅々近臣を従え志気を鼓舞するため、戦線を廻られた折、敵の毒矢に当られて、この地にて崩御された。皇后は時恰も激戦中で、志気の沮喪をおそれ、深く秘して仮に御殯葬申し上げた。 熊襲征伐後、軍をまとめて御崩御を布告し、御霊柩を橿日宮に移して発喪された。
◎大分八幡宮・由緒記
神殿裏山の小高い丘状の盛土は、全国でも珍しい皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇御陵」として考古学者の学問的期待をかけている聖地であり、往古旧社殿は小高い丘の前にありて跡地に礎石のみ残れり。
仲哀天皇の死については、死亡の地が増えて三か所となりました。
しかし、上宮の石祠は香椎も近畿にも向いていません、N+31.3度の海神(わたつみ)を祀る志賀海神社へ向かいます。仲哀天皇は海神と関係ありません。
また、本宮の社殿参道は羽白熊鷲の塚に向いていました。
これらは何を意味するのでしょう。
https://lunabura.exblog.jp/17536581/
2012年02月27日
宇美八幡宮・糸島(1)仲哀天皇の殯斂地と特殊神事
宇美八幡宮 福岡県糸島市長野
北に本宮が有り、南に仲哀天皇を祀る石祠があって上宮と言います。
縁起では、「香椎宮にあった棺をここに収めたので、三韓に渡航する間の殯斂地としたのか」とあります。
大分宮(だいぶぐう)の裏の山にも仲哀天皇の殯斂地があるので、天皇の御印のようなものを棺に入れて、共に行動したのだろうかと、ちょっと考えました。
真実はどうなんだろう・・・。
宮司さんの家がすぐ隣にあったので勇気を出して訪ねました。
ちょうど在宅で、話を伺うと、
「仲哀天皇は幡振山(はたふりやま)→ 不動池
→ 筒原(神籠石の水門の下)の不動滝
→ 嵯峨里の集落 → 雉琴神社の横のしょうずの水
(雪が降っても積もらない所で、25度~26度の湯が湧く)
を通って室小路で急に亡くなられた」
という話でした。死因は分からないそうです。
(話を聞いた時は地名がよく分からず、順や名称が違っているかも知れません。)
※神功皇后伝承を歩く(上)綾杉るな著 不知火書房 2014年
『日本書紀』では仲哀天皇の亡骸は長門の豊浦宮に移送したことになっている。どういうことだろうか。宮司に直接伺うと、当宮では次のような別伝を伝えていた。
「仲哀天皇は神功皇后とともに雷山から幡振山、不動池、筒原の不動の滝(神籠石の水門の下)、嵯峨里、雉琴神社のしょうずの水を通って、室小路を通りかかった時に急に崩御された。そこで仮埋葬する殯の宮の地を占った結果、この長嶽山に決まった。のちに武内宿禰がやって来て棺を掘り出していったという。死因は伝わっていない。」
この口伝は仲哀天皇の突然の崩御という一大事を伝えていた。「縁起、略記」とも少々違っているので何度かお尋ねしたが、膨大な歴史の累積があるように思われ、聞き取りとして一部をここに書き留めておくことにした。
■伊奢沙別命を祀る氣比神宮(けひじんぐう)
神功皇后の三韓征討渡航の折、気比大神(清龍大神)が船上にあり、守ったという。神功皇后が無事帰朝後、報恩として、長嶽山に気比大神(けひおおかみ)を斎き祭ったという。
仁徳天皇10年、平群木莵(ツク)宿禰の子(武内)博公を神主として、気比大神(清龍大神)である天日鉾尊を祀らせたのが起源。長野八幡宮と称した。この時が社殿の創立とみています。
宇美八幡宮では、気比大神は天日鉾尊(あめのひほこ)であるという。
気比大神を祀る本宮は、福井県敦賀市の氣比神宮で、祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)です。由緒では、伊奢沙別命は誉田別王(応神天皇)と名の交換を行ったという。
伊奢沙別命とはいかなる神で、「名の交換」とは何を意味するのでしょう。
◎氣比神宮(けひじんぐう)
福井県敦賀市曙町11−68
祭神 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)
(写真は Google Map から)
天照大神の両部鳥居、六角灯籠(土公元宮)、「五七桐」と「右三巴」の神紋があります。
気比大神・御食津大神(みけつおおかみ)・笥飯大神(けひおおかみ)・保食神とも称する
大宝2年(702年)、氣比神宮はそれまでは、伊奢沙別命を祀る神社であったが、
文武天皇の勅命で大神とのご神縁により、祭神六柱が追祀。
本殿(本宮)
主祭神 伊奢沙別命
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
四社の宮
東殿宮:日本武尊(やまとたけるのみこと)
総社宮:応神天皇(おうじんてんのう)
平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命)
『気比宮社記』では神功皇后の妹の虚空津比売命とする
西殿宮:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
神々が追祀され、祭神は七柱になった。(Wikipedia)
「古事記」では、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があった。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、後に、その名が「気比大神」になったという。
当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係するといわれる。(Wikipedia)
氣比神宮は伊奢沙別命を祀る神社であったが、大宝2年(702年)、文武天皇の勅命で大神とのご神縁により、仲哀天皇、神功皇后が本殿に、日本武尊、応神天皇、玉姫、武内宿禰が別殿に追祀されています。
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇は気比大神・伊奢沙別命と縁があるという。
伊奢沙別命は別名、御食津大神、保食神ともいう。御食津大神・保食神は正八幡神の大幡主です。応神天皇は大幡主と縁があるという。
氣比神宮の鳥居は天照大神の両部鳥居、「五七桐」紋と「右三つ巴」紋の神紋は、それぞれ天照女神、大幡主の神紋です。
結宮(けつのみや)=天照大神
猿田彦神社 氣比大神の案内をされる神様
兒宮(このみや)児宮(このみや)→許宮(このみや)=天照女神
兒(こ)の舞は彦火々出見命を浦島太郎に因んだ神楽といわれる
玉姫(豊玉姫)は天照女神となります
※氣比神宮の祭神は天照女神(五七桐)と大幡主(右三巴)です
すると、玉姫(豊玉姫)=天照女神、彦火々出見命=大幡主となります
※伊奢沙別王とは、伊国に坐します「佐の神」の別王、という意味であり、大幡主を当てます。すると、
伊奢沙別命=天日鉾尊(清瀧権現)=大幡主=佐の神=伊根(稲)の神
※誉田別王とイザサワケとの名の交換について
八幡神・誉田別命(贈・応神天皇)の血縁
父・崇神天皇(御間城入彦)、母・神功皇后(息長帯比売命)
祖父・宇治大神(阿蘇の神)、祖母・(鴨)玉依姫
曾祖父・大幡主(住吉大神)、曾祖母・天照女神
(No.88 八幡神・誉田別命の両親の痕跡を残す小江八幡神社 ⑬ 2019年1月3日 参考)
誉田別王は正八幡神大幡主から見て、ひ孫と解します。
「名の交換」については、イザサワケの正八幡大幡主が誉田別王に「八幡神」の称号を譲渡された、と解釈します。
よって、誉田別王は別八幡神、つまり、応神八幡神になられるのです。
これが大幡主(=大国主)の国譲りの原典となるのでしょうか。
八幡神の本宮または準本宮とされる宇佐神宮、さらに大分八幡宮、筥崎八幡宮もですが、これらの八幡宮の祭神は、天照女神と高良神大幡主が本来の祭神です。
※「応」は「應」の略字であり、「雁」は鷹(夕力)の意味。
応神は鷹神であり、大幡主の神であり、応神八幡神は正八幡神大幡主の置き換えとみます。
久留米地名研究会 百嶋先生講演 2011年2月5日
誉田別命に十字剣をバトンタッチ
高良大社の神紋はユダヤ系統の紋章・高格式ユダヤ系統の紋章・イスラエル系統の紋章といってよい。横幅が長いなと思われたら花菱、四角いと思われたら剣花菱です。必ず剣でないといけません。
そして、崇神天皇のお后は荒木のシズちゃん(五十鈴姫)、福岡県久留米市荒木です。更にそれに割り込んでいる勇ましい方がいます。その代表が応神天皇です。
現在の糸島市前原町に応神天皇の神社がある。贈・誉田別(ホンダワケ)の命、別王です。天皇の祖先であることには間違いありませんが、正当皇統ではありません。この誉田別に十字剣をバトンタッチした、彼らのシンボルであるユダヤイスラエルの紋章を、鴨玉依姫から、この紋章(ユダヤイスラエルの剣)を誉田別・応神天皇にバトンタッチされたのです。それで別王の座、兼、八幡宮の祭神の座を取得された。
宇佐八幡宮は決して、八幡宮では有りません。宇佐神宮が本当です。宇佐の大親分は大元宮です。田の神様、タノカンサーと呼ばれています。田の神様は那国の王様大幡主と大山祗の神様のお二人です。
※月弓尊=大山祗=大幡主(五三桐紋)
※月夜見尊=天照女神(五七桐紋)
◎二田・月読神社 福岡県久留米市田主丸町益生田(二田)187
祭神 月夜見命(女神)、月読命(男神)
◎東町・月読神社 福岡県久留米市田主丸町田主丸(東町)546-1
祭神 月読命(男神) (No.257 233 260)
月読神社 益生田(二田)187 月読神社 田主丸(東町)546
■宇美八幡宮の祭祀線
神社の参道は長野川の岸まで伸び、社殿と参道が向かう先が、E+9.5度の朝倉市寺内の神功皇后伝説の羽白熊鷲(はしろくまわし)の塚です。雷山神社、上宮の曽増岐神社も同様に羽白熊鷲の塚に向いていました。
上宮の石祠は香椎も近畿に向うでもなく、N+31.3度の海神(わたつみ)を祀る志賀海神社へ向かいます。
雷山の曽増岐神社(石祠)、雷神社の社殿は東を向いており、社殿向きの祭祀線は、
雷神社-熊鷲墓(E+7.7)祭祀線は、筑紫神社参道、大己貴神社参道を通ります。
上宮-熊鷲墓(E+6.3)祭祀線は、筑紫五郎山古墳を通ります。
雷神社-羽白熊鷲墓・祭祀線は、大幡主と羽白熊鷲との結びつきを強くします。羽白熊鷲は大幡主と天照女神の御子か直系子孫と考えられます。(No.309)
雷山の祭神(推定)
下宮の笠折神社(かさおり)の祭神 天照女神
中宮の雷神社(いかづち) の祭神 天照女神、大幡主と羽白熊鷲
上宮の曽増岐神社(そそぎ)の祭神 天照女神、大幡主と羽白熊鷲
宇美八幡宮本宮(下宮)は朝倉市寺内の神功皇后伝説の羽白熊鷲の塚へ向かいます。下宮は当初、伊奢沙別王=大幡主を祀り、
応神天皇、神功皇后、玉依姫の八幡三神を祀るのは後の時代の称徳天皇の神護景雲元年(767年)の事です。
上宮の石祠は海神(わたつみ)を祀る志賀海神社へ向かいます。志賀海神社は綿積神を祀りますが、本殿には綿積神として天照女神の一柱を祀ります。
上宮は仲哀天皇を祀るという。ここ糸島の雷山および麓は羽白熊鷲の領域です。その羽白熊鷲の領域に仲哀天皇を祀るでしょうか。
宮司口伝の「仲哀天皇は糸島の雉琴神社近くの室小路で突然死された」というのは、仲哀軍が雷山の羽白熊鷲軍を攻めた帰りに狙撃されたのではないかと、想像をたくましくするのです。さらに、長嶽山古墳群の被葬者は羽白熊鷲一族の方々ではないか、と思うのです。
◎雉琴神社 福岡県糸島市飯原2105
祭神 日本武命(やまとたける)
由緒 神功皇后三韓征伐の時、此の所に生息する雉子の鳴き声を琴の音の様に聞いて、日本武尊が雉子となって現われ給うたとて、帰朝の後、ここに日本武尊を祭り、神号を雉琴神社とされたという
※それで、氣比神宮の本殿(本宮)に仲哀天皇、神功皇后を、四社の宮の東殿宮に日本武尊を追祀されたのでしょうか。この神社は、宇美八幡宮と氣比神宮を結びつける役目のようです。そして、仲哀天皇は雉琴神社近くの室小路で突然死された、という宮司の口伝があります。「事実は小説よりも奇なり」
拝殿左前(南)から雉琴神社の飯原方面を望む
※雉が目の前を歩いて通り過ぎました
No.312 異説白木神社・・③ 2026年4月13日 の原稿を書いている時、
コタツから窓越に堤防を見ると、
雉が西から東へ原っぱを歩いていくのを見ました。
目が合ったので、お互いに気づいたと思います。
スマホのカメラを構えるも、すでに望外。
今日の記事に雉が出ていました。
不思議ですね。
香春の古(許)宮八幡宮参拝の時、
子供のイノシシと遭遇したのと同じみたいです。
香春の古宮八幡宮と糸島の宇美八幡宮は天照女神と大幡主でつながっているのか
生まれて初めて実物の雉を見ました。
そういえば、諏訪神社のご神体は薙鎌(なぎがま)で、雉の形をしています。
ここで、建南方神と羽白熊鷲と大幡主が結びつきます。












































