心のお話と雑記ブログ 

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心理のお話などを独断と偏見も交えてお話します!!

☀ 人が変わる時の「条件」にはなにがあるでしょうか?

 

心理カウンセリングにおいて初期段階、中期段階、最終段階すべてに共通するのは「気づき」でしょうか。

 

なにかに気づいたときに人は変わり始めます。

 

もちろんこれは簡単ではありません。

その人のためにと誰かを説得したことのある人は、その人が「考え」を変えるためにあらゆるアドバイスをしたり、ときに脅しのようなことを言ったり、手練手管でアプローチしても効果がなかった経験があるかもしれません。効果がないどころか逆恨みされることさえあります。

心理カウンセリングでは「考え」だけではなく、「感情」や「記憶」の部分にもアプローチして変化をうながさなくてはならないのでより大変です。

それって無理じゃないかと思われる方もいるでしょう。

 

しかし、心理カウンセリングでは人の変わる場面に立ち会います。

 

その瞬間に共通するのが「気づき」です。

 

心理カウンセリングでの最初の気づきは何でしょうか?

 

人によって違いますが、「自分中心なんだ」というのが一般的なパターンでしょうか。

 

それは普段の生活において年齢があがるほど自分中心ではなくなることが多いからでしょう。

心理カウンセリング、ことに来談者中心療法(クライアント中心療法)はその名のとおりクライアントが中心となって進行します。

主役はあくまでクライアントであり、カウンセラーではありません。

もちろんカウンセリング全体を俯瞰し、改善の方向性へと導くのはカウンセラーですが、とにかくクライアントを中心に話を聴いていくわけです。一回50分として、ひたすら自分の話をするのです。しかも共感的に話を聴いてもらいながらです。

普通の人間はそのような経験は多くはないでしょう。

幼児の頃は自分が世界の中心のように感じて生活していても、小学校くらいからは級友や教師や習い事の先生など多くの人の中の一部という感覚になっていきます。もちろんそれは集団生活を学ぶという点でよいことです。

しかし心になにか問題が起きた時、落ち込んだ時などには自分が中心なのだというだけで安心感が得られます。

なのでその点だけでも心理療法的には効果があるのです。

この「自分が中心で話を聴いてもらえる」という気づきがあると信頼形成も進んで心の中の弱い部分や他人に知られたくない部分も話せるようになるのです。

逆にいえば、こういった気づきがなく、いつまでも「話をしたって問題解決にならない」とか「心理療法は怖いもの」という固定観念から抜け出せないと治療効果は得られないでしょう。

こういう人の辿るルートは大抵同じかと思います。

 

問題がいつまでも残り続ける

 

改善していないのですから、当然の結果です。その結果、よくあるパターンは治療者を渡り歩くというものです。

最初の段階で常につまづくわけです。

不信感が強いことそのものは仕方ありません。

そもそも傷ついた人はみな他者への不信感は強まりますから。とくにセカンドレイプなど二次障害的に裏切られ体験をした人はなおさらです。

なのでその場合はこの不信が強い部分へのアプローチをしたりするのですが、そもそも固定観念にとらわれた人は1回でやめてしまうことも多いでしょう。

「やっぱりそうだ」

そういう人はこう考えがちです。

なぜなら最初から結論を自分で決めているからです。

しかも悪い結果で、です。本当なら改善したほうがクライアントの方自身にとってよいことのはずなのですが、みずから真反対の方向へ向かうということも起こりえます。人間の心理の複雑さ、でしょうか。

 

なので、「気づき」は心理カウンセリングの進行段階で何度かおとずれるものですが、けっこう早い段階でも必要な要素なのだと感じさせられます。

人生において「絶望」はつきもののようです。

 

受験の失敗や失恋など多くの人が経験するもの、いじめや虐待などのトラウマ、中には犯罪や災害、戦争など大事な存在の理不尽な死など。

 

挙げればキリがありません。

 

心の問題を抱えた人はとくに心の力が落ちていることも多いので「絶望」に引きずられます。

ただ時間は確実に流れています。

「そのまま」ではないのです。

そのことを意識するだけで、「絶望」の印象も変わるかもしれません。

 

どんな大失恋をしても、生きている限りはいずれ異性に出会います。

学校でのいじめやトラブルは、転校したり、卒業すればいったんはなくなります。

小学校が一番長いですが、80年以上の平均寿命の人生を考えれば短いものです。

 

ただ心の深い傷は、時間の経過とともにより大きく、かつ変質したりもします。

その事実は消えませんし、記憶も消えません。しかし、心理カウンセリングでの改善がうまくいけばその「捉え方」が変わり、癒され、よりその人らしい生き方へ向かえるでしょう。

 

良いことも、悪いことも、そのままということはなく、絶えず変化し、流れています。

もちろんどんな優秀な専門家でもどうしようもない現実はあります。

しかし、捉え方を変えると楽になれることがあります。

 

発達系の問題を抱えたお子さんの親御さんは健常域のお子さんとどうしても比べて「なぜうちの子は」と落ち込んでしまうことが多いようです。

もちろんコミュニケーション自体が困難だったり、能力的な面で悩むのは否定できないでしょう。

この場合、一番は「他の子と比べない」でしょう。

誰でも言うことかもしれません。

しかし、私のニュアンスは少し違うかもしれません。

 

なぜなら「健常域の子は親からの虐待、学校でのいじめ、教師からの虐待、過酷な受験競争、就職先の運ゲーでの失敗などなど次から次に高リスク案件が降りかかる」からです。

 

健常域だから幸せになれるわけではないのが現実です。

 

超高学歴で各段階の学校の成績が最優秀、職場も超有名大企業に就職。友人も多く、恋愛も順調。家族関係も問題なし。それなのに職場の上司がパワハラ気質で心を病み、うつ病を発症。若くして自死を選んでしまったケース。

 

途中までは順調だったのに、たまたまパワハラ上司と出会ってしまったことがその人の人生を狂わせてしまったわけですが、これは自己責任で片付けられるものではないと考えます。

いくら成人していても上司は選べませんし、業績などの情報は調べられますがこの手のハラスメント情報はいくらネット情報が広範かつ迅速でも表に出ない方が多いでしょうから就職前にわからないケースも多いでしょう。

この上司の個人的資質による部分が大きければ猶更です。

 

だからこそ社会自体がハラスメントに対しては厳しくなっているわけです。

 

いくら優秀でも避けられない災厄のようなものは常につきまとうものなのだと思います。

 

ある程度福祉が充実していることが前提ですが、人並みの愛情と、その子にとってベターな方向性を指し示せれば親の役割はほぼ果たしたと私は考えます。ベスト、ではありません。それはキリがないので。

 

昔は老親の介護は嫁がほぼ一人でなんてことも多かったようです。

しかし、その負担の重さからくるマイナス面、共働きが普通になった時代から、施設による介護はもはや当たり前です。

それを悪く言う人は世間知らずの時代遅れか、現実を生きていないかと言われてしまうでしょう。

必要だから改善が進んでいるわけです。

 

発達系のお子さんをお持ちの親御さんはどうしても自分を責め、自分に厳しく、自分を否定してしまいがちなように感じます。

とくに遺伝的な部分においては強く「自分のせい」と思いがちです。

しかし遺伝子を変異させる宇宙線は二十四時間365日降り注いでいますし、食事、化学物質、その他遺伝子の変異は生きていれば誰にでも起こるものだと考えています。

 

だからこそ周囲の理解を深めたり、制度を整えたりは大事です。

 

本人を大きく変えるのは難しくとも、環境を変えることは可能でしょう。

 

これも捉え方を変える、ということです。

 

もちろん現実化するのは大変ですが。

 

ただ現実の厳しさも多少は知っているので他害傾向だけは最小化できるならしたほうがよいとは考えています。ただいずれはこういった部分も遺伝子治療や薬の開発などで大幅な改善もできるとは思います。

 

やはり時間は流れていくのです。

 

「寄り添う」という姿勢は対人関係において大事です。

 

それは日常生活でも、仕事でも、心理療法においてはなおさらです。

 

しかし、「寄り添ってはいけない」という場合もいくつかあります。

 

例えばですが、妄想の話、幻覚の話などは寄り添い、共感しつつ話を聞いただけで症状が悪化することがあります。

というのもある程度の割合の人はこういった症状があっても(重度かどうかの区別はありますが)自分自身、頭のどこかで「これは現実じゃないんじゃないか」「これはたんに自分の頭の中だけで起こっているのではないか」などと気づいている部分があるのですが、これを「寄り添い」共感して聞いていると「自分のこの話自体が肯定されている=現実の話なんだ」と妄想や幻覚をよりリアルに感じてしまい症状がどんどん悪化することがあるからです。

もちろん心理カウンセリングにおいては基本的な部分はクライアントに寄り添うのですが、こういった部分は心を鬼にして受け入れてはいけないのです。昭和のころの有名なユング派の心理カウンセラーの先生はずばり「それは妄想で現実の話ではないよね」という感じで答えたそうです(表現は思い出しながらなのでそのままではありません)もちろんこれはある程度の信頼関係を築いていて、かつその先生に資質と技量があったからできたことで、私はもう少し慎重ではありますがそういった部分に関してはやはり肯定的態度はとりません。

クライアントのためには時には寄り添うことや共感もコントロールしないといけないのです。私のメイン技法の来談者中心療法(クライアント中心療法)の3つの原則のひとつ「無条件の肯定的配慮」は「すべてに無条件降伏する」「クライアントのすべてを肯定」という意味ではありません。もしもそんなに単純な話ならば「病気(問題)のあるあなたはそのままでいい」ということになりかねず、心理療法を施す意味はなくなるでしょう。

 

前回お話しした「他害傾向」や「暴力」も同様です。

 

寄り添いや共感を悪用する人も世の中にはいます。

それを盾に「暴力を受け入れろ」と脅迫するケースもあります。(なので心理カウンセリングの開始時の契約書には暴力や犯罪行為があった場合は警察へ通報する、カウンセリングは中止するなどの条項があります)

脅したり、暴力をふるう人間は意外と相手を見ています。

通り魔でさえ反撃されないような相手を選んでいます。一見して極度の興奮状態にあっても「自分がやられる」「返り討ちにあう」という恐怖心は頭のどこかを冷静にさせているものだからです。

なので「暴力は受け入れない」という意思表示をしておく=習慣づけておくのはとても重要です。

ライフスペースを守るという心理学の基本によって結局は双方が安全でいられるわけです。

 

もちろん先天的な癇癪の場合、とくに会話が成立しない、コミュニケーションが著しくとれない場合は極めて困難ではあります。

それでも赤ん坊や幼児の癇癪などでは時には(優しくですが)拒否の態度をとることもあるでしょう。成長のなかでの自我と他者との境界で起こる、時期がくれば収まるものなのでより受容度は高いと思いますが、それでも自分や他者を傷つける行為は「危ないからダメ」と優しくやんわり拒否するでしょう。

もしもとくに自分が痛みを感じない他者への暴力を肯定したらどうなるでしょうか。

下手をすると「遊び」と解釈してしまい、こういった問題行動が強化されてしまうかもしれません。

なので基本的には寄り添い、共感しているわけですが、もしも問題のある行動があれば優しい形ではあっても拒否の態度も必要なのです。

そうしないと下手をすると「精神的奴隷」のように悪い意味での全肯定しか道がなくなり、関係性そのものが悪化しかねません。

言葉を換えれば「拒否」という態度も正常な、相手のためのものならば、寄り添うことの一部ともいえるでしょう。もちろん悪意のある、相手の否定目的のものは絶対ダメですが。

もちろん重度の自閉傾向のある人の場合にこうすればいずれ収まるという意味でのお話ではありません。

世の中が情報過多で、ドラマなどフィクションにも登場し、あまりに「寄り添う」「共感」が当たり前だとなってしまうと、先述のようにそうしないほうが良い場合もあるのに実質クライアントが見捨てられ状況が悪化する、またお子さんの他害傾向を否定する自分を責めてしまう親御さんなどが出てくるなどという本末転倒なことが起こる気がするのです。

 

私自身、「心理カウンセリングはクライアントを全面的に肯定するものなんでしょ」などと言われたことがありますが、ある面ではそうですが、例外もあるのが実際です。

「自分の問題を改善したい」という趣旨で来訪したのに、「問題あるあなたもあなたなんだから」なんていきなり言われたらどうでしょうか?

治癒可能なのに、寛解まではできるのに、今よりは楽になれるのに、です。

 

今現在を全肯定する=未来を極めて困難にする

 

そんなルートもあるわけです。