先週末に休んだから機嫌を損ねたのか(笑)。

仕事用PCの調子がどうもおかしい。

まず、Edgeでダウンロードができない。

ファイルをダウンロードしようとしても動かない。

だったらChromeを使えばいい。

……と思ったら、

Chromeは起動すらしない。

なんだこれ?

さらに気になるのが、ブラウザに表示される、

「Trend Microによって組織で管理されています」

みたいなメッセージ。

会社のPCなので何らかの管理が入っていること自体は不思議ではない。

でも、昨日まで普通に使えていたものが突然使えない。

当然、

「セキュリティソフトが原因か?」

「会社のポリシーが変わった?」

「ブラウザの設定?」

と疑う。

ベンダーにも聞いた。

ほかのシステム会社にも聞いた。

いろいろ確認してもらった。

でも直らない。

仕事ではファイルをダウンロードすることも多い。

Webシステムも使う。

ChatGPTも使う。

調べ物もする。

つまり、

ブラウザがまともに動かないと仕事にならない。

仕方がないので、とりあえず持参していた自分のPCで仕事を継続。

こういう時、予備のPCを持っている自分を褒めたい(笑)。

とはいえ、会社PCをこのままにはできない。

そこからChatGPTと二人三脚で原因を探す。

設定を確認。

ブラウザを確認。

Windowsを確認。

一つずつ潰していく。

そして最終的には――

復旧!

 

 

原因を完全に特定できたわけではないが、どうやらWindows側のシステムファイルに問題が起きていたらしい。

ブラウザそのものを疑っていたのに、もっと下のWindows側だったというわけだ。

いやぁ、参った。

昔なら、

「ブラウザが一つ使えない」

くらいで仕事が止まることは、それほどなかった。

でも今は違う。

モニターはマルチ。

ブラウザも複数。

クラウド。

Webシステム。

メール。

AI。

業務のほとんどが、ネットとブラウザの向こう側にある。

だからPCやブラウザが壊れると、

仕事そのものが止まる。

もはやブラウザは単なる「インターネットを見るソフト」ではない。

仕事をするためのインフラである。

電気が止まれば仕事ができない。

ネットが止まっても仕事ができない。

そして今では――

ブラウザが止まっても仕事ができない。

考えてみると、結構怖い時代になったものだ。

それにしても今回も、

最後まで付き合ってくれたChatGPT。

ベンダーより先に直しちゃったぞ(笑)。

 

先週、叔母が亡くなってから1週間。

仮通夜、通夜、葬儀。

慌ただしい数日が終わり、ようやく普段の生活に戻り始めたところだった。

まだ気持ちの整理だって、完全についているわけではない。

そんな中――

いきなり郵便が届いた。

内容を確認してみると、

実家についての文書。

現在は誰も住んでいない空き家なのだが、どうやら建物の傷みがかなり進んでいるらしい。

簡単に言えば、

「崩壊する危険があるので、何とかしてください」

という内容だった。

……。

朝から、ずっしり。

またか。

叔母を送り出したばかり。

仕事も通常に戻ったばかり。

ようやく自分の時間も動き始めたと思ったら、

今度は実家。

なんだろう、この負の連鎖。

実家というのは、単なる古い建物ではない。

自分が育った場所。

父や母がいた場所。

いろいろな思い出が残っている場所。

でも、人が住まなくなれば建物は傷んでいく。

思い出があるからといって、時間まで止まってくれるわけではない。

分かってはいる。

いつかは何とかしなければならないことも分かっていた。

でも――

なぜ今なんだ。

そんな気持ちになってしまう。

人が亡くなる。

葬儀を仕切る。

会社へ戻る。

そして今度は実家の問題。

一つ片付いたと思ったら、また一つ。

人生というのは、こちらの都合なんてお構いなしに次の問題を持ってくる。

今日は朝から、さすがに気持ちが沈んだ。

いつものように、

「よし、頑張ろう!」

とは、ちょっと言えない。

そんな日もある。

まずは文書の内容を確認して、一つずつ考えるしかない。

それにしても――

もう少し間を空けてくれないかな、人生。

今は、それだけ言いたい。

 

朝、会社に出勤すると、例の問題上司から突然一言。

「明日の会議の準備はできてる?」

……はぁ?

ちょっと待て。

その会議、招集したのはお前だろう!

そもそも会議の趣旨も聞いていない。

何を話し合うのか。

何を決めたいのか。

どんな資料が必要なのか。

そんな説明は一切なし。

それで突然、

「準備はできてる?」

……できてるわけないだろう!(笑)

当然、会議の趣旨も聞いていないことを伝える。

すると返ってきた言葉が、

「じゃあ、会議は中止する!」

しかも、ちょっと切れ気味。

……。

なんだ、お前!?

なぜそうなる?

会議を中止する前に、まず説明すればいいだけの話じゃないのか?

そもそも、人間には言葉という便利なものがある。

自分の考えを伝える。

相手の意見を聞く。

分からないことがあれば確認する。

そして、お互いの認識を合わせる。

これがコミュニケーションというものだろう。

言葉は一方的に投げつけるものじゃない。キャッチボールするものだ!

ところが世の中には、ボールを投げるだけ投げて、相手が受け取れなければ怒る人間がいる。

しかも、何の説明もなく、いきなり剛速球。

それで受け取れなければ、

「じゃあ、もういい!」

……。

子供のドッジボールか!(笑)

会議というのは、開催することが目的ではない。

何を話し合い、何を決めるのか。

そこを明確にして初めて意味がある。

そんな当たり前のことすら、こちらから聞かなければならない。

困ったものである。

そして、そんなやり取りをした後。

結局どうなったかというと――

今日も黙々と会議資料を作成している自分がいた。

しかも、そつなく完成。

……。

だから、いつまでたっても変わらないんだろうなぁ。

人間は言葉のキャッチボール。

でも、うちの会社では少し違うらしい。

相手が投げなかったボールまで、自分で拾いに行くシステムになっている!(笑)

 

連休があり、さらに叔母の葬儀も重なって、先週は結局1日しか出社していなかった。

そして久しぶりの会社。

たった数日なのに、なんだか随分長い間休んでいたような気がする。

別に仕事を忘れたわけではない。

いつもの机。

いつものパソコン。

いつもの顔ぶれ。

何も変わっていないはずなのだが、なぜか調子が戻らない。

「あれ、これはどうなっていたっけ?」

そんな場面もちらほら。

不思議なものである。

先週は親族の葬儀で慌ただしく過ごしていた。

仕事のことを考える余裕もなく、目の前のことをこなすだけで精いっぱい。

ところが会社に戻ってみると、まるで自分がいなかった数日間、時間が止まっていたような感覚になる。

でも、実際にはそんなことはない。

 

 

自分がいなくても、会社の時間は進んでいる。

メールは届いている。

仕事は積み重なっている。

新しい案件も発生している。

そして、いつもの日常が何事もなかったように始まる。

人間の生活というのは不思議なものだ。

誰かとの別れがあり、悲しい出来事があっても、世の中はいつもどおり動いていく。

自分だけが、少し違う時間を過ごしていたような気がする。

さて、今日からまた通常運転。

仕事もあるし、開発途中のプロジェクトもある。

やることは山ほどある。

立ち止まっていた自分の時計も、そろそろ動かさなければ。

とはいえ、いきなり全速力は勘弁してほしい。

まずは、いつものペースを取り戻すところから。

人生、いろいろあるけれど、今日もまた仕事は進んでいく。

 

9月24日。

この日は、亡き母の誕生日だった。

その日の夜、いとこから一本の電話が入った。

母より10歳年下の妹、つまり私の叔母が永眠したという知らせだった。

死因は脳梗塞。

突然の知らせに、言葉を失った。

それから週末にかけての3日間。

仮通夜から通夜、そして葬儀まで、慌ただしい時間が過ぎていった。

今では親族の中でも自分が一番年上になってしまった。

そのため、今回も葬儀の段取りなど、ほとんどを取り仕切ることになった。

考えてみれば、こうして葬儀を仕切るのは何回目だろう。

これまで、本当にいろいろな人を送り出してきた。

父、母、そして親族。

 

 

いつの間にか、送られる人を見守る立場から、送り出す側の中心になっていた。

それだけ自分も年齢を重ねたということなのだろう。

今回、何よりつらかったのは、いとこの男泣きだった。

普段はなかなか見せることのない男の涙。

母親を失った悲しみは、何歳になっても変わらない。

その姿を見ていると、かつて母を送り出したときのことが思い出された。

親を亡くすというのは、いくつになってもつらいものである。

そして、今回の知らせが届いたのは、偶然にも母の誕生日。

何か不思議な縁を感じずにはいられなかった。

慌ただしかった3日間が終わった。

悲しんでいる暇もないほど忙しかったが、すべてが終わると、何とも言えない寂しさが残る。

そして今日から、またいつもの仕事が始まる。

仕事もある。

やらなければならないことも山ほどある。

立ち止まってばかりはいられない。

でも、こうして身近な人を一人、また一人と送り出すたびに思う。

当たり前のように迎える明日が、決して当たり前ではないということ。

自分も残された時間を大切にしなければ。

叔母さん、長い間お疲れさまでした。

どうか安らかに。

そして今日から、また頑張ろう。