桜が続いたので、

そこで

今回は箸休め……。

 

 

4月7日、

久しぶりに

桜並木とSLを

撮ってみようと…。

 

 

SLが通過する

約30分前に到着。

そばにいた男性と会話。

「桜がまだ少ないですねぇ」。

「本当は反対側にも

桜の木があったのだけれど、

病気で伐採された」と。

「病気のせいで、

こちら側の桜の枝も

かなり切られた」そうだ。

そう言えば、

テレビのニュースが

「足利市の桜並木が

外来のカミキリムに因る被害で

全部伐採された」と

報じていたのを思い出す。

 

 

 

 

SLが来るまで手持ち無沙汰なので、練習に…。

何模様?市松模様?目がチカチカしそう。

 

 

 

あっという間に

SLは通過してしまい、

あとは手持ち無沙汰。

昼食をどこかに入って食べても、

上りSLが戻って来るまで

まだまだ時間が余る。

Google Mapを眺めると、

“二宮尊徳資料館”が目に留まる。

(SLは後日に)

 

 

桜はやめて

資料館に行こうと…。

長いこと

交流してくださっている方は、

お気づきでしょう。

放浪の旅の旅先で

雨に降られたり

時間調整のときに、

私には

その地方の郷土資料館や

博物館・美術館で

時間を潰す習性がある。

 

 

二宮尊徳資料館に

入る前に

「二宮尊徳墓域」の看板が

目に入り、

そちらの墓地を訪ねる。

そこには

領主の墓の隣に

墓石が建てられ

遺髪だけが

埋葬されていること。

それに

「本人は尊徳と呼ばれるのを

好きではなかった」と。

「尊徳」とは

諱(忌名)とのこと。

本来の読みは

「たかのり」。

 

 

 

二宮尊徳資料館

緊張し手が震えたのかも…。

資料館前の二宮尊徳像

 

尊徳の教えを記した石碑

 

二 宮 神 社

資料館の隣にある。

二 宮 尊 徳 像

当時の男の平均的身長は150cm、尊徳は182cmの大男だった。

 

館内の撮影は禁止ゆえ、フロント付近にあった掲示物だけ撮影。

 

 

 

桜町陣屋跡の説明板

資料館の敷地奥に、尊徳の居住兼役所がある。

傷みが酷かったので、解体修復された。

桜 町 陣 屋

 

 

 

 

 

パ ン フ レット

 

 

 

 

 

 

 

    

資料館で気づいたこと

 

 

 

①二宮尊徳は全国区の人物である

 と思い込んでいたが、

 神奈川県小田原市で生まれ

 関東特に栃木県で

 農民のために力を尽くした。

②農民に生まれたが、功績が認められ幕府の役人になった。

③修身の教科書で教えられた人物ではあったが、

 GHQに睨まれた人物ではない。

④多くの小学校に建てられた”負薪読書”の像は

 最初に愛知県豊橋市前芝小学校に建てられた。

⑤薪を背負うのではなく、

 地域性を考慮して魚を入れる籠を背負った像もある。

⑥7世代あとの末裔は、女性作家である。

  (名前は忘れたが、二宮姓ではない)

 

 

 

私は

現役の頃は

東京で仕事をしていたので、

友人は栃木にはいなく

ほぼ東京や千葉・埼玉なのだが

特に

コロナ禍だったこともあり、

友人など他の人との

接触を断っていた。

そんなこともあり、

資料館で

私は

特にこの頃は

独善的、自己中な

生き方・考え方になっていたと

思い知らされた。

私は

単純な性格なので、

訪れてよかったと

単純に思った。