チバユウスケが死んだ。正確に言うと、11月26日に死んでいたということが発表された。悲しいけど、現実を受け入れるしかない。と自分に言い聞かせ、この文章を書こうと思う。

 

1982年生まれの私がチバユウスケを知ったのは、確か13歳の頃。当時、天王寺のTSUTAYAにあったCDコーナーで知ったのが「ミッシェルガンエレファント」というバンド。それまで邦楽に全く興味がなかったが、一気にハマった。それからずっと追いかけてきた。

 

南港で開催されたFM802のイベントでは、曲が始まって数分で、柵が壊れて中断。Zeppでのライブでは、最初から最後まで、一緒に行った友達と会えず。それだけ客が盛り上がっていたというか激しかった。

 

ミッシェルが解散したのは大学生の時。最後の幕張でのライブは観に行けなかったが、映像で何度も何度も繰り返し見たので、あの時の光景は今でもすぐに思い出せる。

 

ROSSOのライブを観に、札幌まで行ったこともある。雪が降り積もる会場で、終演後すぐにドアが開けられ、雪の中に放り出されたのも良い思い出。

 

The Birthdayを結成してからも、よく観に行った。それこそ全国各地に。武道館は全て行ったし、Tシャツもツアーごとに買った。家のクローゼットには「ツアーT」という段ボールがあるほど。それだけ歴史があるバンドだということ。

 

盟友のアベフトシが亡くなった時もよく覚えている。フジロックでチバが「今日のライブは、俺たちの大親友だったアベフトシに捧げます」と言ってから始めた演奏は、もはや「伝説」となっている。

 

その他にも、イマイアキノブ、中村達也と組んだ「The Golden Wet Fingers」を沖縄outputや長野ジャンクボックスで観たり、同じくイマイアキノブと二人でやっている「Midnight Bankrobbers」を新宿ロフトや鶯谷のキネマ倶楽部で観たりした。

 

チバがDJとして出演したイベントでは、本人と何度も握手をしたり、乾杯をした。最前列で楽しんでいたら「誰か時計ある?」と言われ、すかさず左手に付けていた時計をチバに見せたら、そのまま腕をつかまれ、しばらく時間を確認するという嬉しいハプニングもあった。

 

そこにチバユウスケがいたら、とりあえず観に行く。こんなライブ生活を、30年弱、ずっと送ってきた。それはきっと私だけではない。会場でよく見かける人は多かったし、それがきっかけで仲良くなった人もいる。

 

直近でいうと、2月に荻窪の「TOP BEAT CLUB」でやったワンマンが最後になった。キャパが300しかないので、チケット争奪戦が激しいだろうと思っていたのだが、運良く一般発売で取れた。結果、それが「最後のチバユウスケ」になってしまった。

 

その時は普通に見えたし、2時間弱のライブを「完走」できるくらいだから、まさかその後、休養に入るとは思ってもいなかった。1月に大阪で行われたスカパラのライブに姉と母が行き、とても楽しそうに歌っていたと聞いたので、それも含めて、病気やガンの気配はまるでなかった。

 

本音を言うと、ガンによる休養が発表された時点で、こうなってしまう可能性は「50%」くらいはあるかもなと「覚悟」はしていた。だから、意外と冷静に受け止めれた。「あぁ、遂にか。仕方ないな」というのが、率直な感想。

 

偶然にも、12/5の午前中に、チバと最も長くバンドをやっているドラムのクハラカズユキ氏(通称キュウちゃん)のブログを久々に読んでいた。そこに「ミッシェル」とか「バースディ」という固有名詞が今まで以上にたくさん出てきていたので、あれ?という違和感はあったのだが、キュウちゃんはキュウちゃんなりに、あれこれ思うことがあるんだろうなと理解した。

 

人はいつか死ぬ。必ず死ぬ。だが、いつ死ぬかは分からないし、どういう死に方をするかも分からない。会いたい人には会えるうちに会っておいた方がいい。観たいライブがあるなら、観れるうちに観ておいた方がいい。

 

もう二度とリアルには観れないけど、チバユウスケは私の心の中で生き続ける。これからもチバの作った音楽を聴くし、チバについて、友達や家族と語り合うだろう。そうして「語り続けていく」ことが、チバユウスケにとって最大の供養となるはず。本当に惜しい人を亡くした。早すぎるよ、チバ。心よりご冥福をお祈りします。