Twitterで流れてきたのだが、スポーツ側にいる人の感覚がこれほどのものだったとは、私の予想の上を行っていた。スポーツ側の人は「スポーツが嫌いな人がたくさんいる」こと自体を認識していないようだ(この人はスポーツを離れたから気づいたようだが、離れなければ気づかないというのが恐ろしい)。スポーツ嫌いというマイノリティに対する理解どころではなく、存在自体が認識されていないのだ。私はこの人を批判したいのではなく、むしろ感謝している。このツイートで、スポーツ側の人は「スポーツが嫌いな人がたくさんいる」ことを認識していない ということを知ることができた。私にとっては「スポーツが嫌いな人がたくさんいる」ことは自明だったので、衝撃を受けている。スポーツ側の認識を知ることで、長年謎だったスポーツ界の意味不明な行動、思考が少し理解できそうな気がしている。

 

以下、スポーツ嫌いの一方的な意見であることは十分に承知の上で、なぜなら彼らの中では「スポーツ嫌い」はいないのだから (正確には「いない」ではなく、「ごく少数しかいない」なのだろうが簡略化して「いない」と記載する)をキーフレーズにして、スポーツ側の(スポーツ嫌いに対する)暴力的、差別的な言動、行動の背景を推測してみたい。

 

なお、関連するネタは「スポーツ嫌い」というテーマにしてある。

 

 

スポーツ側の人は「スポーツが嫌いな人がたくさんいる」こと自体を認識していない がどれだけおかしいのか、例として「スポーツ」を「数学」に置き換えてみる(「数学」には特に意味はないのだが、わかりやすそうな例としてあげてみた)。

 

 数学が好きな人は「世の中には数学が嫌いな人がたくさんいる」ということを認識していない。

 

これだと、世の中の多くの人が「アホではないか」と言うだろう。そして、現実世界の数学が好きな人(例えば数学者)は「数学が嫌いな人がたくさんいる」という認識はある(はずだ)。ところがスポーツの世界では、スポーツ嫌いはいない、いたとしてもごく少数と思っているようだ。さらに「(スポーツ嫌いがたくさんいることを)知らないのは仕方がない」などと擁護する人まで出てくる始末である。私に言わせれば、スポーツを嫌っている人がたくさんいることに気づいていない人も、気づいていない人を擁護する人もマイノリティに関する感覚がにぶいとしか思えない。スポーツ嫌いは見たことがないほどのマイノリティではない(はずだ)。具体的に言うと1クラスに少なくとも数人はいるはずだ。

 

22/04/04追記 いるはず では説得力がないので調べた。

 

 

 

追記ここまで

 

数学とスポーツで何が違うのかというと、好き嫌いの分布が異なっており、数学嫌いはマジョリティなのに対して、スポーツ嫌いはマイノリティだという点であろう。マイノリティの存在は無視されるのだ。はじめのTwitterに「(スポーツを)憎んでいる」という記述があることにも着目したい。数学嫌いはたくさんいても、数学を憎んでいる人はそんなにいないのではないか。これは、数学好きは数学嫌いに対して害を及ぼしたりはしないのに対して、スポーツ好きはマイノリティであるスポーツ嫌いに害を及ぼしているということだ。「スポーツ嫌いはいない」と思っているから、スポーツ好きが無意識にやっていることがスポーツ嫌いにとっては害になるのだ。

 

私はスポーツ(≒体育)を嫌い、憎んでいる。しかし、他の嫌いだった科目(音楽、古文、漢文、世界史など)のことは嫌いではあるが、憎しみはない。体育には憎まれるだけの構造的な問題があるとしか思えない

 

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体育とスポーツについて、脱線するが書いておく。

 

はじめのTwitterの人は別のツイートで、「体育とスポーツは違う」と言っているのだが、スポーツ嫌いの認識は大きく異なる。スポーツ嫌いにとって、学校で強制的に体験させられる体育がスポーツのほぼ全てであり、スポーツという言葉の印象は希薄だ。なので、「スポーツ嫌い」という言葉もしっくりこない。「スポーツ」に対しては好き嫌いというよりも「テレビの中の話で、無関係なもの、無関心」という感覚が強い。「スポーツ嫌い」という言葉は、はじめのTwitterにあるから便宜上使っているだけで、私の中では「体育嫌い」の方がよほどしっくりくる。自主的にスポーツを体験したら、体育とスポーツの差分が広がるのだろうが、スポーツ嫌いは概して自主的にスポーツなどしない。従って、スポーツ≒体育 となる。以下、体育とスポーツを明確に区別せずに書いているが、スポーツ嫌いからするとどっちもほぼ同じだ。ついでに言うと「運動」もほぼ同じだ。

 

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話をスポーツ側の人の認識に戻す。

重要なのは、体育教師などのスポーツ指導者はほぼ確実に「スポーツ好き」であることだ。「スポーツ嫌いの存在を認識していない」ことに加えて、教師という立場が相まって害を加える当事者となる。今思い返しても、体育教師から、何かを出来ない状態からできるようになるための技術的な指導を受けた覚えがない※1。基本的に「やれ」と言うだけなのだ。球技などでもルールの説明さえろくになかったと思う※2。ルールくらい知っていて当然ということなのか。なぜなら彼らの中では「スポーツ嫌い」はいないのだから。

 

他教科の教師でこんなことがあり得るだろうか。今まで不思議だったのだが、全員がスポーツ好きだと思っているからこそ、あのようなふざけた授業になることがやっと理解できた。他教科には多少なり存在する「嫌い/苦手な人に楽しさを理解してもらう」という精神が全く感じられないのだ※3。

 

スポーツ側の人間の中では「できない」=「(スポーツ嫌いはいないのだから)好きなのにできない」=「サボっているor根性がない」 という式が成立しているのだろう。彼らの中に「嫌いだからできない」という理屈は存在しない。なぜなら彼らの中では「スポーツ嫌い」はいないのだから。

 

それにしても、「やれ」と言うだけ で指導と言うのだろうか。「問題を解け」というだけの数学教師、「計算を間違えるのは根性がないから」と罵倒する数学教師 などと置き換えてみれば、体育教師のおかしさが理解できるのではないか。

 

他教科と比較した体育の独自性については、「晒し者効果」と「過剰な集団行動」がスポーツ嫌い養成装置として機能していることを指摘したい。晒し者効果については以前書いたので省略する。

 

 

 

体育では、なぜか何でもかんでも複数人での集団行動にする。簡単なところではキャッチボールのような単純なことでも2人組を作らされる。私のような人間とペアになると、何かとうまくいかない※4 ので敬遠される。スポーツ側の人間が私とペアになってしまうと、舌打ちされたりすることもあった。スポーツ側の人間にとっては、「スポーツが出来ない人間」を卑下することは問題ではないらしい。なぜなら彼らの中では「スポーツ嫌い」はいないのだから、単にサボっている人間とみなされているのだろう。果たして、数学の成績が良い人は悪い人に向かって舌打ちすることがあるか? と考えてみればよい。スポーツ好きがやっていることの無神経さが伝わるだろうか。

 

数学では集団で何かをしないから、舌打ちする機会がそもそもないのだ。体育も全てが1人でやることなら舌打ちする機会はなくなるだろう。スポーツ好きだから舌打ちするのではなく、体育の授業のあり方が舌打ちするスポーツ好き人間を生み出している が正確だと思う。だからと言って当人の目の前で舌打ちするのは人間としてどうかと思うが。私が憎んでいるのは、個々のスポーツ好きではなく、舌打ちするような人間を生み出す体育業界(?)の構造だ。

 

上に示したブログでは、体育が自己肯定感を下げている と指摘したのだが、こんなことになるのは、スポーツ側の人間の「スポーツ嫌いはいない」という認識から来ているのではないか。

 

自己肯定感といえば、今でも覚えているのは、高校の体育でクラス全体をいくつかのグループに分けて対戦することになったときのことだ※5。出席番号順などでランダムに分ければ何の害もないのに、各グループのリーダー※6 が1人ずつ指名して取り合うようにした。すると体育嫌いの私のような人間が最後まで残って、どのグループも欲しがらない というプロセスが全員の前で可視化される※7。

このような公開いじめのようなことをしても何とも思わないのが、「スポーツ側の人間」の特徴だ。なぜなら彼らの中では「スポーツ嫌い」はいないのだから、私のような人間は単なるサボりであって、晒し上げても構わない存在なのだろう。

 

数学に置き換えると、「グループを作って、数学のテストの合計点を競う」授業などあり得るだろうか。そんな授業があったら、数学嫌いの人は数学を憎むようになるのではないか。上に書いたグループ作りの例は、数学の成績順にメンバーを取り合っていることに相当するのだが、他教科でそんなことをしたらすぐに問題になるだろう。体育なら許容される理屈が私には全くわからなかった。しかし、「スポーツ嫌い」はいないのだから問題ない という理屈なのではないか? と考えると、腑に落ちる。このような考えを許容しているスポーツ界の体質がスポーツ嫌いから憎まれているのだが、「存在しない」ことにされている人間が何を言ったところで変わらないだろう。

 

 

他にもスポーツが憎まれる原因として「スポーツ界が撒き散らしている自己中心的な思想」があるように思うのだが、長くなったので別の機会に書く。→22/05/07追記 書きました。

 

22/04/20追記 「体育が憎まれる理由」について、続きを書いた。

 

 

 

※1 小学校の教師は体育嫌いもいたので、できないものをできるように教える教師もいた。ひどいのは中学以降で、100%体育好きしかいないのだ。専科だから当然だが。

※2 例えば、高校の体育ではサッカーを散々させられたのだが、私はいまだにオフサイドの意味を理解していない(知る気がそもそもないというのは認める)。授業としてどうなのだろうか。それどころか、まっすぐボールを蹴るコツさえ聞いたことがないと思う。スポーツ好きにとってはそんなことは常識以前なのだろう。

※3 この点に関しては、音楽にも同じ傾向があると思う。ただし、グループに分けて競争させたりはしないので害は少ない。音楽を憎んでいる人の少なさから体育は学ぶべきだ。

※4 例えば、キャッチボールだとボールが変な所に飛んでいくので毎回歩いて取りに行かないといけない 等

※5 分けたあとに何をしたのかは全く覚えていない。こういうところにも私の体育嫌いが表れていると言えよう。

※6 リーダーをどうやって選んだのかは覚えていないが、リーダーがスポーツ側の人間だったことは間違いない

※7 嫌々入れられたグループに参加させられるバツの悪さがスポーツ好きに理解できるだろうか。いっそのこと、「私はどのグループにも入らずに運動に参加しない のがお互いにとってベストでは?」と提案したら良かったのかもしれないが、体育教師はそんなことを認めたりはしない。

 

 

関連

 

ここに書いたことも、多くがなぜなら彼らの中では「スポーツ嫌い」はいないのだから で説明できそうだ。

 

これもなぜなら彼らの中では「スポーツ嫌い」はいないのだから で説明できそう。