中村けんです。
12月1日の未明、市議会の新家喜志男議員がご逝去されました。
僕にとっては本当に大きな存在で、喜志男さん(生前と変わらずこう言わせていただきます)がいたから今の自分があると言っても過言ではありません。
平成25年5月26日に投開票された西尾市議会議員選挙。
その年の1月31日をもって市の職員を退職した僕は、それから4か月、死に物狂いで政治活動をしていました。
当時は、自分が当選することを考えるだけで精一杯の状態で、他の候補者を敵視していた面も否定できません。
そして、投開票日の夜は、当選確実の情報を得て、ただ無邪気に喜んでいました。
その時、目の前に現れたのが喜志男さんで、握手を求めながらこう言われました。
「おめでとう。同じ会派で一緒にやらないか。」
僕にとってはとても衝撃的な一言で、この時のことは今でも鮮明に覚えています。
この一言が、その後の僕の歩む方向性を決めました。
同じ会派(議会内のグループ)に入る決心をした僕は、以降の4年間、校区が同じこともあっていつも目をかけていただき、政治家として育ててもいただきました。
普段は温厚で、いつもニコニコ笑顔が印象的な喜志男さん。
その一方で、芯は強く、一刻なところもあり、叱られたことも度々ありました。
でも、その一言一言に思いやりが感じられ、それが人となりをよく表していたように思います。
次の選挙には立候補せず、引退する意向をずいぶん前から表明されていました。
これからの三和地区を頼むぞと、何度もよく言われたものです。
それと同時に、これまで妻に迷惑をかけていたので、引退後は奥さん孝行したいということもよく仰っていました。
平成29年に行われた市長選挙及び市議会議員選挙では、紆余曲折あり、自分自身が市長選挙に立候補することとなりました。
三和地区の議員をなくしてはいけないということで、喜志男さんも急きょ市議会議員選挙に立候補することに。
堂々たる成績で当選されましたが、選挙後に地元の方々の集まる会合に出席した際には、引退すると表明していたのに立候補することになったお詫びを毎回しておられました。
言ってみれば、自分が鞍替えして市長選挙に立候補したがゆえに、喜志男さんも立候補せざるを得なかったのが実情であり、原因はすべて僕にあるにも関わらず、大先輩にそのようなことを言わせてしまっているのが忍びなくて忍びなくて。
何度も謝りましたが、気にしなくていいよという言葉と共に、いつも僕の当選を心から喜んでくれていました。
その裏で、選挙の際のしこりが残っていることを気にかけていたようで、市長就任後もご心配をおかけしっぱなしでした。
そんな、偉大な大先輩がご逝去され、本日お別れをしてきました。
どれだけ返しても返しきれないご恩がありますが、市長として自分の信念を貫き、市民のため、市のために精一杯頑張ることが、僕にできる一番の恩返しなのだと思います。
喜志男さん、今までありがとうございました。
これからは、空の上から僕の頑張りを見守っていてください。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。