中村けんです
最近、謝罪会見についての情報を、目にしたり、耳にすることが多いように思います
今週の西尾市の件も然り、STAP細胞の小保方さんの件も然り、みんなの党の渡辺代表(当時)の件も然り、猪瀬知事(当時)の件も然り、作曲家の佐村河内さんの件も然り、食品偽装問題の件も然りです。
これらに限ったことではないのですが、僕が感じるのは、真実を知るということは極めて難しいということです
なぜなら、発言や行動など、ある物事の一部が事実としてはっきり表に出ていたとしても、それがどのような意図や目的でなされたかによって、解釈がずいぶん変わってくるからです
客観的には同じ事象であっても、妥当(適法)にもなり得るし、不当(違法)にもなり得ると思うのです。
しかも、それを正式に判断できるのは、時には裁判官だったり、時には何かの検証チームだったり、権限のある一部の人たちに限られます
そして、然るべき立場の方が、妥当(適法)または不当(違法)であると結論付けても、認定した事実が必ずしも真実であるとは限りません、極論ですが…。
そのように考えると、会見の場で説明されていることが真実なのか否かは結局のところ分からないわけなので、真実を伝えることよりも、実際に口に出して説明した内容が理にかなっているか、聞き手の感情を逆なでしていないか、ということの方が重要になってくるという考え方も成り立ちます
世にある謝罪会見が、そのような趣旨で行われていると言いたいわけではありませんので、ご了承ください。
そうすると、会見の前にしっかり準備をし、いかに論理的なほころびを見せないかということが重要になってきます
報道がなされてから会見までに時間が空けば空くほど、敏腕弁護士のような、当人をサポートする人間がしっかり脇を固めれば固まるほど、真実を伝えることよりも優先されていることが他にあるのではないか
そのように考えることも、できないことではありません。
記者会見という場を用意する以上、しっかりとした体裁を整えることは当然なのでしょうが、装うことなくむき出しの姿で当人が会見する、そんな会見があってもいいのではないでしょうか