いつもの従者にそれを届けるよう命じるつもりだった。
ところが、緋剛が所用で伎の国へ向かうついでに手紙を届けましょうと申し出た。
「ふむ。…では…頼む」
「かしこまりました」
緋剛がこのタイミングで伎の国へ向かうことに違和感を感じなくもなかった。健白の胸はざわついた。その理由もわかったような気がした。だが、あえて健白は何も考えないでおこうとした。
手紙を見て、桃花は喜んでくれるだろうか…。
緋剛の滞在は長かった。ようやく帰国した緋剛の顔つきは、精悍さを増していた。
鋭い目はいつも以上に濡れて輝き、髭を蓄え、伸びた前髪は後ろに撫で付けていた。精悍さもさることながら、男らしい色気に溢れていた。少なくとも、健白の目にはそのように映った。
「ただいま、戻りました」
健白は、すぐにでも桃花からの返事を読みたかったが、緋剛が言い出すまでは黙っていようと思った。
ところが、伎の秀王や、国の様子を一通り報告したきり、緋剛が黙り込んだので、健白は我慢できずに、一番気になっていたことを尋ねた。
「で…、師範や、…桃花殿は元気にしていたか?」
すると、
「健白様」
と、緋剛が床に両手をついて健白を見上げた。
「なんだ。急に改まって」
「……」
緋剛はじっと健白を見つめて唇を舐めた。
「実は、お許しいただきたいことがございます」
健白はドキッとした。
「なんだ?」
「私と、桃花殿のことでございます」
その瞬間、健白の顔に動揺の色が浮かんだ。隣に座っている黄准は、健白の横顔を見守った。
「師範の家に寄り、健白様の手紙を渡しました。それから、しばらく師範の家に滞在致しまして…桃花殿と色々お話しするうちに…」
緋剛は言い淀んで、目を伏せた。
「…ただ…お話しするだけの関係では、なくなってしまいました」
健白の顔色がサッと変わった。
緋剛はガバッと床に額をつけた。
「どうか…っ!桃花殿をこの緋剛にお譲り下さいますよう…お願い致します!」
黄准は、眉をひそめて目を閉じた。健白の顔を見ていられなかったのである。
緋剛の、物事を前に進める行動力は人並み外れている。
そして、緋剛はずっと先を見越して動く男である。今この瞬間、健白を傷つけたとしても、桃花の幸せを願う健白にとって、緋剛以上に頼もしい男はいない。
しばらく、緊迫した空気が流れ、やがて、健白がハハ…と力なく笑った。
「譲るも何も、もともと桃花殿は俺のものではない。桃花殿さえよければ…」
「桃花殿は、健白様のお許しがあれば、俺のところに来てもよい、と」
「ハハ…。桃花殿もおかしなことを言う。なぜ俺の許しが必要なんだ。ふたりがよければ、それでいいだろう」
「では、お許しいただけるのですね?」
やっと緋剛が顔を上げた。
「桃花殿の結婚も、緋剛の結婚も、俺がとやかく言うことじゃない」
「ありがとうございます」
緋剛は深々と頭を下げた。
そして、懐から手紙を取り出し、健白に渡した。
「桃花殿からの返事でございます」
「うむ」
健白はそれを受け取った。微かに手が震えていた。
黄准は健白の心中を思うと、胸が痛んだ。
ふと、緋剛と目が合った。黄准は、こくりと頷いた。
わかっている。この件に関して、健白様のフォローは緋剛にはできない。あとは俺に任せた、ということだろう。
健白は、黄准の隣でジッと封をしたままの手紙を見つめている。
まるで、それ自身が桃花であるかのように、愛しげに、そして寂しげに…。
それから、目を伏せて、そっとそれを懐にしまった。