桐壺の更衣を抱き上げて立ち上がる帝を、女房たちは見上げた。
桐の花の紋様をあしらった帝の青い夏のお召し物。腕の中にはぐったりとした白い着物の儚げな人。床まで届く豊かな黒髪。
「今、輦(てぐるま)を用意しますゆえ!」
女房たちは慌てて帝にすがりついた。
「離せっ!下がれっ!無礼者!」
「どうかっ…!上様!」
「どうか、更衣様をお離しくださいませ!」
「上様っ!」
「今、輦が参りますゆえ!」
帝は、足元に跪いてすがりつく女房たちを蹴散らすようにして、
「いらぬ!」
と一喝した。
帝の気迫に周りの者は、畏れおののいて後ずさった。額を床にこすりつけて拝む者。蒼ざめて震える者…。
帝は、混乱する人々を見下ろして、ひとつ息をついた。
この者たちの慌て様…。
このまま、我が清涼殿にお連れしたいのはやまやまだが…
帝は、腕の中で、眉をひそめ浅い呼吸を繰り返している愛しい人をじっと見つめた。
万一、禁忌を破るような事態になれば、非難され、貶められるのは…いったい、誰だ?
私のせいだとわかっていても、誰も帝たる私を貶めることはできない。
死んで尚、この方に誹りを受けさせるわけにはいかぬ。
ならば、せめて…
「私が…牛車まで連れて行こう」
牛車にお乗せするまでこの腕に抱いて行こう。
ところが、またしても女房たちは全力で押しとどめた。
更衣の身分の者を見送るなど、帝にはあるまじき行為であったからだ。
騒ぎを聞きつけて、男たちも止めに入った。
帝は、諦めざるを得なかった。
最愛の人を見送ることもできない。
その人が更衣であるがゆえに。
そして、帝が帝であるがゆえに。
それほどまでに、身分の違いというのは、残酷であった。
更衣を乗せた牛車が音を立てて去ってゆく。
帝は更衣の実家にやった使者の便りを待つしかなかった。
庭の草木を渡る微かな風。
夏虫の声。
涙の乾いたあとに汗を滲ませ、帝はまんじりともせず夜を過ごす。
やがて、使者が戻ってきた。
「…真夜中過ぎに、お亡くなりになりました」
使者が言うには、屋敷の外まで人々のむせび泣く声が聞こえていたそうだ。
「まことか…」
帝は使者の短い報告を受けて、呆然とした。
それから我が手を前に出して見つめ、ギュッと胸の前で拳を作った。
その拳がプルプルと震えた。
固く閉じた目から涙が頬を伝って、流れ落ちた。
パタパタと夏の薄いお召し物に涙が零れ落ち、そこだけ色濃く藍に染まった。
帝は、歯を食いしばった。
言葉にならぬ嗚咽が、その口から漏れた。
両の拳が白くなるほど強く握り締め、その拳を我が胸に押し当て、
帝は、全身を震わせ、激しく慟哭した。