さっき麦さんを抱き止めたときの胸の高鳴り。
いつも真剣に俺の話に耳を傾けてくれる麦さんの表情。
笑い合った日々。
一方で、彼のことを思う。
テレビで麦さんを見て、いてもたってもいられなくなったあの人。
あんな優しい顔をして、胸のうちでは五年間、夢も麦さんも追い求めていた彼の情熱。
あの人なら麦さんを幸せにできる。
「うん。…彼の夢はかつての麦さんの夢でもあるわけでしょ?それに、今の夢だって彼と一緒なら叶えられるよきっと」
「『夢はひとりじゃ叶えられない』?」
「そんなこと言ったっけ」
って頭をかいて笑った。
ふとカウンターを見ると、綺麗に折りたたまれた赤いバンダナとエプロンが置きっ放しになっていた。
朝顔のやつ、持って帰るの忘れてる。
「俺には…」
パンを作っているときの朝顔の真剣な顔。失敗したときの焦った顔。
夕顔って俺を呼ぶ朝顔の声の優しさ。子どもみたいな笑顔…。
「朝顔がいるから。…あいつがいないと、ここもやってけなかったと思うし」
仕事だけじゃない。朝顔がいなかったら俺は…自分の性格からいって、どれだけ孤独な人生を歩んでいたかしれない。
「彼には、もう誰も…いないんでしょ?」
そう言うと、麦さんの目が潤んだ。
優しい人だ。麦さんは。
「ついてってあげなよ。麦さんが決めた答えが正解だよ」
麦さんの目から涙がポロリとこぼれ落ちた。
「なに泣いてんだって」
「だって…」
「言ったろ?物事は収まるべきところに収まるようになってんだって」
麦さんが涙を拭いて、笑った。
俺も微笑み返した。
「ありがとう」
「じゃ…気をつけて」
「さよなら」
「さよなら」
カランカラン…。
麦さんが出て行くのを見送って、洗い物をしようとカウンターに引っ込んだ。
と、
カランカラン…とまたドアが開く音がして、麦さんが戻って来たのかとドキッとして顔を上げた。