2017秋 衆議院解散総選挙で問われるもの | 経済評論家・政策アナリスト 池田健三郎オフィシャルブログ「健々囂々」(けんけんごうごう)Powered by Ameba

2017秋 衆議院解散総選挙で問われるもの

早いもので2017年も第四四半期を迎えたが、今年初においてはとても衆議院解散総選挙が行われるとは想像し難い状況であったことを思うと、10月下旬に衆議院総選挙が行われるのはかなり驚くべき事態といえなくもない。まったく「政界は一寸先は闇」とはよく言ったものだとつくづく思う。


今回の総選挙に際し、マスコミや野党の主張は当初、「今回の衆議院解散に大義はあるのか」に集中しており、総じて「大義がない」、あるいは「森友・加計問題隠しの為の目眩まし」といったものであった。


しかし過去何回かの解散総選挙を顧みて、そもそも明確に「大義のある解散」などあったのだろうか。


敢えて「大義」らしきものが掲げられた事例といえば、小泉内閣の際の「郵政解散」くらいしか思いつかない。ただ、これとても「郵政民営化法案をねじれ国会における参議院が否決したこと」が嚆矢であり、衆議院に端を発したものではなかった。


また、総選挙となれば、本来は各党が政権公約やマニフェストを掲げて総合的な政策論争を展開するのが当然であり、実際のところわが国には、少子高齢化、経済財政、外交、安全保障、社会保障、農林漁政、教育・子育て、地方再生、防災、政治改革等々のあまたの重要課題がずっと横たわっている。にもかかわらず、敢えて「郵政」という特定分野のみに関し民意を問うとした解散は、やはり特異であって、これが「大義」といえるか否かについては疑問視する声が大勢であった。


いずれにせよ解散権は、「前回選挙で国民の負託を受けた政権を持つ側が、諸条件を勘案してもっとも有利と判断した結果、行使する」ということに尽きており、そこに大義の有無などという答えの出ない概念を持ち込むことは時間の空費にしかなるまい。


もとより衆議院は、「常在戦場」であり、政権を持たない野党は、何をおいても「一日も早い解散を求める」が常套句であって、いざ解散となれば日頃の主張が実現し、政権奪還の機会が訪れたとして、これをポジティブに受け止めるのが当然であろう。


野党として、表向き「政権交代」を標榜しながら、いざとなると解散の大義の有無を持ち出し批判するという姿勢が有権者に与える違和感は決して軽視すべきものではなく、寧ろ野党側に不利に働く可能性が高いかも知れない。


さてそれでは、今回の解散総選挙における争点は何か、である。


わが国の課題は上述の通り、総花的に各分野に存在し、きわめて多岐にわたることは言うまでもない。ただ、2017年秋という点を踏まえてやや中期的に眺めれば、次の選出される衆議院議員の任期は2021年秋までということになるので、2020年の東京五輪・パラリンピック後に来るであろう経済の閉塞感や人口減少・高齢化問題にどう対処し、成長を確保しつつ国民の幸福度を増進していくかがより切迫した課題として問われて来よう。


だとすれば、今回の選挙戦を通じて、各党が明確なビジョンの下で練りに練った政策パッケージ(政権公約やマニフェスト)を素材として、活発な政策論争を展開することが今回の解散総選挙を意義あるものとするためにどうしても必要であることは論を待たない。


もはや抽象的で噛み合わない議論に国民は飽き飽きしている。今回こそ、正面からの政策論争をみたいものである。