「コンプライアンス祭り」でいいのか | 経済評論家・政策アナリスト 池田健三郎オフィシャルブログ「健々囂々」(けんけんごうごう)Powered by Ameba

「コンプライアンス祭り」でいいのか

 以前は殆どの日本人にとって不知の言葉であった「コンプライアンス」(法令遵守)が、いまや企業・団体のマネジメントにおいて常識中の常識となっていることにはまことに感慨深いものがある。

 しかしながら、その一方で本当の意味で法令・諸規則の遵守やデュー・プロセス(適正手続の担保)の概念が適切に浸透しているかというと、遺憾ながらこれは必ずしもそうではない。

 むしろ、コンプライアンスという言葉だけが先行するなかで実態が言葉の普及に追いつかず、結果として未だに「様式美の確立」の域を出ていないという気がするのは筆者だけではあるまい。

 事実、どの組織においても、コンプライアンスという用語を聴かない日はないほどで、筆者の周囲においても、「何かにつけてコンプライアンスが持ち出され、そのために必要性が甚だ疑わしい書類が何枚も作成され、いちいち署名捺印させられるので辟易させられる」とか、「これでは単なる『コンプライアンス祭り』でから騒ぎをしているに過ぎず、本質的な経営品質向上には何ら役立たない」といった嘆きの声を聴くこともしばしばである。

 こうした中にあって、今般の東芝事件のように、わが国を代表する大手企業の不祥事が報じられた際に、問題とされた関係者の行動をみてみると、現状これだけコンプライアンスが世間で叫ばれながら、よくもこのような行動をとる感覚があの高名な企業内部で罷り通っていたのかと訝しさを禁じえない。

 結局のところ、コンプライアンスという言葉がいくら組織内に踊っていても、人間の行動それ自体が変わらなければ何ら意味がないという、事の本質をよく表している事案であるように思われる。

 マスコミの対応についても疑問が残る。例えば、本事案は端的にいえば「東芝粉飾決算事件」であり、これ以上の明快な表現はない。それにもかかわらず現状、ずばり「粉飾決算」の用語を使う大手媒体は皆無であり、マスコミ全体としての用語使用に関する統一基準も当然ない。したがって、疑惑をもたれた当事者(東芝)との距離感や利害関係に応じて、各々の媒体がいわば自己責任において「不適切会計」、「不正会計」などと本質をぼかすがごとき表現を「工夫」しているのが実情となっている。

 これは、今日のようにコンプライアンスが喧しく論じられる以前には、到底考えられなかった対応であり、今日余りにもコンプライアンスが形式的に広がり過ぎた弊害ともいえよう。このためにメディア側が企業としての利害に囚われる余りかつてのようなストレートな用語の使用を躊躇したり、組織内において責任を分担する必要から果断な意思決定に二の足を踏む体質が生まれたりしている可能性も完全には排除できまい。

 さらには、東芝が設置した第三者委員会のレポートにも違和感を感ずる部分がみられる。その一例は、東芝の会計監査人である新日本監査法人に対する評価であるが、一流のプロ集団に対して「東芝側が確信犯で嘘をついていたのだから、監査人がその嘘に基づく計数を鵜呑みにして決算を承認したことは致し方ない」旨の判断をしたことであろう。

 このようなことが平然と罷り通るのであれば、世の中のあらゆる組織の監査人にはプロとしての知見など不要であって素人同然でも構わないということになってしまう。経験に基づく研ぎ澄まされた感覚をもって、社会的影響の大きな大手企業の監査に注意深く当たるからこそ、彼らはリスペクトされ、市場の信認が形成・維持されるのが資本主義の大前提であることは今更言うまでもないことである。

 このようにみてくると、今般の東芝事件は、昨今のコンプライアンス等に係る様々な「歪み」が凝縮された事案ではないかと思えてくる。

 本件については、本質的な意味から、これを奇貨としてコンプライアンスにおける形式主義や、共同責任の名による事勿かれ主義を排し、実質面でのリスク管理を志向する風土を醸成していくべきと考える。それがなされないならば、未来永劫「コンプライアンス祭り」のから騒ぎが続いてしまうことを強く危惧するところである。

※大樹通信8月号掲載原稿
 文中の意見にわたる箇所は筆者の個人的見解である