官僚たちの夏 | 経済評論家・政策アナリスト 池田健三郎オフィシャルブログ「健々囂々」(けんけんごうごう)Powered by Ameba

官僚たちの夏

公務員志望の学生ならば必読といわれる(私が学生のときもそうでした)城山三郎作「官僚たちの夏」がドラマ化され、私もときどき観ています。TVだと小説のような細かな描写は難しいため、背景の事実関係もどうしても荒削りにならざるをえないので、やはり原作を読んでからTVをみるほうが楽しめるのかもしれません。


それはともかく、ここに登場する官僚たちは、自分の天下り先の確保や、所属省庁の権益拡大を第一の行動基準とするのではなく、ましてや出入りの業者と入札で癒着してOBを送り込んだり、帰りのタクシーを居酒屋代わりに使ったりもせず、あくまで「国益」を糧に私心を捨ててがむしゃらに働くという、まことに頼もしい存在として描かれています。


確かに、東京五輪前後の日本は、まだ「戦後」の香りが色濃く残る発展途上国でしたから、勉強ができる優秀な人材を海外に送って見聞を広めさせ、戻った彼らは欧米に追いつき追い越すにはどうすればよいかを思う存分議論し、具体的な政策に落とし込んで実現し、その成果を実感しながら進むことができた、官僚たちにとってはまことに良い時代でした。


しかし、いまや日本は世界第2位の経済大国(まもなく中国にその地位を明け渡しますが)となり、お金さえだせば何でも買える「豊かさ」を享受する一方、人口は減少へと転じ始め、高度成長期を支えた働き手たちを次世代が支える社会構造へと急激に変化を遂げています。経済の自由化・グローバル化は果てしないものとなり、コミュニケーション手段、移動手段も格段に発達し、世界中どことでもすぐに連絡がとれ、地球上のたいていの国には2日以内に出掛けていくことができるようになりました。


こうした中で、現在の官僚たちに求められ、期待されるのは、いったいどのような事柄なのか、このドラマをみながら改めて考えさせられています。


世間ではきょうから衆議院総選挙の本番がスタート。多くの行政は事実上の一時停止状態ですが、この間に霞ヶ関の官僚たちはどのようなことに考えを巡らせているのか、少し気に掛かるところです。


ひとつ具体的に苦言をいわせてもらえば、先月に行われた財務省・金融庁の幹部人事は、永田町における選挙前のドサクサに紛れた筋の悪いものであったように思われます。


わが国の1990年代の痛い教訓である不良債権問題を機に、護送船団方式の金融監督行政と決別するために、わざわざ行革と逆行してまで新しい役所である金融監督庁を新設し、後にこれを発展改組させて現在の金融庁の姿にしたことは、まだ皆さんのご記憶にあることでしょう。


このとき、権力が強大すぎる大蔵省を財務省へと名称変更させると同時に、金融監督を牛耳っていた銀行局・証券局を切り離し、財務省から新しい金融監督官庁への幹部の移籍は認めるが、その逆は一切認めない(認めると、結局、新設官庁の役人は大蔵省の顔色ばかりみて意味がなくなるから)、すなわち「財務→金融の幹部異動はOK、しかしその逆はNG」というノーリターン・ルールを設けたのです。


平成10年以来、この7月までの11年間、この「財金分離」の人事ルールは歴代大臣と内閣の監督の下できちんと守られてきました。それが、麻生内閣の混乱により与謝野馨氏が財務・金融・経済財政担当の3大臣を兼務することになり(本来ならばこの兼務こそが問題だったのですが)、ここにきて財務官僚が「禁じ手」を打ったわけです。


本来ならば片道切符で金融庁に移籍させたはずの総括審議官を財務省関税局長として呼び戻し、財務省の地方局長を金融庁の検査局長に据えるなど、完全に金融庁の人事を「財務省人事の一環」として連動させたのは、余りに露骨なルール破りと批判されても仕方がないでしょう。


日本がこれまでのさまざまな「教訓」を糧に、押しも押されもされぬ金融立国としての地位を確立しているならまだしも、米国の金融ショック以来、日本の金融機関は大手から地方零細金融機関まで、さまざまな問題を抱えていることは周知の事実です。こうしたときに、財務省が自らの省益拡大とポスト対策のために金融庁の植民地化を推し進めるとは、いくらドサクサ紛れとはいえ、やり過ぎもいいところです。「日本の金融監督行政は再び護送船団方式に戻ってしまうのでは」といった、市場におけるネガティブな反応も、先月来、耳に入ってきており、わが国の国益に照らしてプラスになることは一つもありません。


ついでに言えば、本年2月に中川昭一財務大臣がG7会合の際、「風邪薬でヘベレケに酔っ払って」の朦朧(もうろう)会見が世界の恥晒しだと大問題になり、これがもとで大臣辞職となりましたが、このとき大臣と同席していてワインを「注文」した国際金融局長は、この夏の人事で財務官僚としてはナンバー2(事務次官とほぼ同格)といわれる財務官(英語のタイトルは”副大臣”)に昇進しています。「ワインを一口含んだだけ」の元大臣は連日、選挙区では有権者の罵声を浴び、土下座せんばかりのお詫び行脚の日々をおくり、それでも「落選の危機」といわれる状況。かたやワインを注文した役人はさらに出世を重ねているという実態に今の日本の不条理がよく表れています。これでは自民党自体、「こんな腐った官庁をコントロールするなんてまっぴらだ」と投げ出したくなっても不思議ではありません。


今次総選挙の結果がどうなるかは最後までわかりませんが、仮に自民党が54年間にわたる政権の座を、民主党に明け渡すことになるとすれば、新政権最初の重要な仕事のひとつは、「7月の財務省・金融庁人事をやり直し、財金分離を元通りに徹底すること」であることをハッキリと指摘しておきたいと思います。


これすらできないようでは、民主党が主張する「官僚主権を廃し、政治主導に」など、完全に画餅に終わることは間違いありません。民主党マニフェストにあるとおり、「100人の国会議員を霞ヶ関に送り込む」ことをやっても、全員に人事と予算を細部までコントロールする覚悟と粘り強さがなければ、とても官僚の厚い壁を突き崩すことなどできる筈はないのですから・・・。