※画像は「真忠組騒動」を題材にした優れた小説林清継著者『九十九里叛乱 幕末真忠組事件』の表紙カバー
その1からの続き
憲さんほどの“義民マニア”かつ“千葉県マニア”になると千葉県における義民、義人の“義挙”についてはこと細かく調べがついている。
当然ながら佐倉惣五郎(木内宗吾)などは全国に名を轟かせる「義民」であり、それらについての史跡にも当然ながら足を運んでいる。
参考
↓
宗吾霊堂周辺を巡る ~義民ロード~
憲さん随筆
走れ!宗吾!ひた走れ! 憲さん感動のコクーン歌舞伎『佐倉義民伝』を泣きながら鑑賞する!の巻き
そしてそれら千葉県の“義民”“義人”を調べるなかで、この幕末の“真忠組”の「騒動」にも当然ながら行き着くのである。
しかし、この真忠組事件の一件はウィキペディアにも書いてあるように「幕末期に(おける)房総半島・九十九里浜片貝地方での(尊皇)攘夷派(中略)が指導する貧民たちが、次第に九十九里一帯で(北は八日市場から南は茂原まで)武器、資金を強制的に富裕農民、網主、商人から徴収する中で『世直し』的要素を一部持ったと言われる」運動(カッコ内は憲さん補足)。とあるように、幕末期における「尊皇攘夷」運動の一環として捉えていた。
ご存知の通り憲さんは一貫した「佐幕派」であり、反「尊皇攘夷」派であるので、この九十九里での幕末期における運動もその延長として捉えており、これは今回改めて「真忠組事件」を研究し直すまで変わらない認識であった。
(※「反幕派」の真忠組を評価しているのに「佐幕派」を称するのも矛盾であるが、これについてはまた別の機会に説明したいと考えている)
事実、最近の随筆でも憲さんは真忠組についてこう書いていた。
以下、引用
①真忠組ですが・・・
そこにはこうあります。
「1863 千葉九十九里で武士・僧侶・漁民・商人ら200人で構成する『真忠組』が政権を確立、村役人・富商から金・米・武器を供出させて貧民に分配し、高利の禁止・ 婦女子の売買禁止・悪人懲罰の公開裁判を実施。」と・・・。
しかし、この主体は農民で、武士はほとんどいませんでした。また、「政権を確立」とありますが約200人でいくら「江戸時代」といえどもそこまで「コンミューン」らしきものを作ったと評価されるのかは甚だ疑問です?
私はちょっと眉唾です。
(中略)
私にはこれは幕末期の“ゴロツキ”による自暴自棄の「最後の徒花(あだばな)運動」にしか見えません。
以上、引用終わり。
参考
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憲さん随筆
吉田松陰は本当に『革命の指導者』か? 革命的左翼の『明治維新史観』を真剣に問う!
しかし、それがいかに世俗に流布している「喰いつめ者の浪人共が、尊皇攘夷倒幕などと大袈裟に騒ぎたて、刀を抜いて富豪や富商・網元たちを脅迫して騙りとり、救民などと称し施米・割付などしたのもその言い逃れに過ぎず、野盗の類と異ならず・・・」という言説に糊塗された妄説であったかを思い知らされた次第である。
そもそも憲さん、なぜ10年以上も経過して改めてこの「真忠組事件」を調べ直すに至ったかというと、憲さんが以前所属していた地域合同労組の創設者であり初代委員長であり、憲さんも敬愛していた故A氏の遺稿を整理している中で、このほとんど歴史から忘れ去られていた「真忠組事件」について言及したレジメを発見したからであった。
そして、そのレジメの表題は「日本社会発展史」であり、その中には寺尾五郎氏の著作『草莽 吉田松陰』から借用した「徳川時代の農民一揆の図表」も添付されていた。
ちなみに、このA氏のレジメを一読して直感的に思った感想が前出の「憲さん随筆
吉田松陰は本当に『革命の指導者』か? 革命的左翼の『明治維新史観』を真剣に問う!」の随筆である。
そして、A氏の「日本社会発展史」もこの寺尾五郎氏の著作から多くを引用していることがわかり、早速その『草莽 吉田松陰』の改訂版『革命家 吉田松陰 草莽崛起と共和制への展望』を読んでみた。
参考
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【寺尾五郎著『革命家 吉田松陰 草莽崛起と共和制への展望』】
そしてその本の第Ⅳ章「松陰の継承者と背教者」の第二節「松陰路線の継承者」の三に「草莽崛起の典型・真忠組」とあった。
そこでは、表題にあるように真忠組を吉田松陰の革命路線の真の継承者であり、それを実践した闘争が九十九里浜での真忠組の闘いであったと結論付けている。
そもそもこの著書の“まえがき”で著者の寺尾氏はこう書いている。
「私は、幕末・階級闘争のなかに、ひとすじの光芒が、大塩平八郎-吉田松陰-三浦帯刀-相楽総三の草莽革命の系譜となって貫いているように思える」と・・・。
そして、その三番目に書かれた三浦帯刀こそ、真忠組副将格の小口順之助に他ならない。
この小口順之助は若い頃東金に寓居していた佐藤信淵に師事し、信淵の著した『垂統秘録』の社会変革論に陶酔していた。
参考
↓
【佐藤信淵】
【垂統秘録】
また、真忠組の闘いにおいてはこの佐藤信淵の四民平等論を実践して、闘う百姓や漁夫、部落民などの姓のない仲間に対して姓を名乗らせる「創氏改名」を実践していた。
このように寺尾五郎氏は真忠組を大塩平八郎の闘いと共に相楽総三の赤報隊とも同系列で語り、もっと言えば相楽総三が文久3年11月12日の上州慷慨組の赤城山挙兵-武州天朝組の高崎城乗っ取り・横浜洋館焼打ち-そして房州真忠組の九十九里蜂起と関東における尊皇攘夷派の一斉武装蜂起のリーダーであったと推測しているのである。
寺尾氏のその部分を引用する。
「関東一円における一斉蜂起の『秘密中央部』なるものも、連絡協議会的なものとして存在していたと思うし、その事業に専念していた人物も存在したと思う。関東一斉蜂起の中心オルグこそ、相楽総三その人であったと推定している」
うんにゃ?
赤報隊の首領、相楽総三が一斉武装蜂起のリーダー?
参考
↓
【相楽総三】
ここまでいくとさすがに憲さんもついていけないが、逞しい想像力である。
寺尾五郎氏はこの著作で真忠組を「草莽崛起の最高形態」として最大限に評価している。
それはその章の冒頭と文末を読むだけでもよくわかる。
こうである・・・。
【冒頭】
草莽崛起の白眉九十九里叛乱
草莽崛起が下層民衆のエネルギーをひきだし、人民武装の大衆蜂起となり、尊攘イデオロギーと四民平等、人民解放とが一体となって幕軍と対決したものに、文久三年末の九十九里浜の叛乱がある。この真忠組の蜂起は、その革命性、人民性の質において、奇兵隊の水準をはるかに抜き、幕末における草莽崛起の最高形態であり、世直し勢力が真に地方権力を樹立し、二ヶ月間にわたって維持した稀有の例とみてよいものである。
【文末】
幕末の尊攘倒幕の革命運動のなかで、私の知るかぎりでは、この九十九里浜の真忠組の闘いにこそ、生活者と主義者との接点をみるのである。黒潮の磯の香も高き松林を疾駆するかれらのなかに、真の人間の集団をみる思いがするのである。
以上のように、寺尾五郎氏は幕末における「真忠組」を手放しで称賛しているが、憲さんも改めて真忠組を研究し直してこれに関しては寺尾氏と同じ感想を抱くに至った。
そして、この寺尾五郎氏の真忠組に関して肯定する論拠となっている出典が学者の高木俊輔氏の各著作である。
特に『明治維新草莽運動史』が図書館にあったので借りて読んだが、これが大変参考になった。
参考
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高木俊輔著『明治維新草莽運動史』
「明治維新草莽運動史」 高木俊輔 勁草書房
特にここには憲さんの「真忠組」観を180度転換する記述があったので紹介したい。
憲さんの「真忠組」観はやはりその「尊皇攘夷倒幕」路線に引きずられて前述した通り否定的であった。
それは例えばこの真忠組のリーダー楠音次郎の名前にも表れている。
この楠(くすのき)という名前は言わずと知れた大楠公(だいなんこう=楠木正成からとっている。
参考
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「真忠組」の理想と現実 「カネなし!コネなし!未経験から始めた尊皇攘夷」
楠木正成は元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の招集に応えて鎌倉幕府打倒の兵を挙げて倒幕を成し遂げ、その後も足利尊氏の大軍に勝ち目のない戦を挑んで湊川で非業の最期を遂げた。
そして、現在もなお天皇の忠臣として皇居外苑にその騎馬像が建っている。
参考
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【楠木正成】
【楠木正成像】
また、楠木正成は明治以降は「大楠公」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、最期の地にある湊川神社の主祭神となり、皇民化教育の象徴となっている。
参考
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【日本人の心 楠木正成を読み解く】序章(4)戦時下、利用され、消され
このように真忠組のメンバー、特にそのブレーンとなった中枢は幕末において吹き荒れた「尊皇」の思想が色濃く反映されていて憲さんは生理的に受け付けない側面をもっていた。
さらに、真忠組ナンバー2の三浦帯刀こと小口順之助は下総国香取郡佐原村(現在香取市佐原)に知行地を持つ津田英次郎の家来である。
佐原においては水戸藩尊攘派の「天狗騒動」とそれに便乗する「偽天狗」事件が相次いでおり、中でも文久三年秋に起こった「佐原騒擾」は小口順之助を政治活動に立ち上がらせる直接の契機になっていると前出の高木俊輔氏は書いている。
参考
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長柄町デジタルアーカイブ真忠組騒動
芹澤鴨と水戸天狗党佐原騒動について
↑
ちなみにこのブログに出ている講師の酒井右二氏とは、憲さんの高校2年生の時の担任の恩師である!
下村嗣次(芹沢鴨)と佐原騒動
【偽天狗】
このように真忠組の思想的リーダーは、あのゴロツキ集団「水戸天狗党」の影響があったことも否定できない。
参考
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憲さん随筆
日本を破壊した「水戸学」の源流 会沢正志斎の民衆蔑視
↑
ここで憲さんは水戸天狗党の卑劣さを徹底的に批判している!
しかーしっ!
それは、憲さんの真忠組に対する「先入観」と「偏見」であったと猛烈に反省している。
真忠組に対して、憲さんがそのような評価に変わったのが、前出の高木俊輔氏の「明治維新草莽運動史」のこの一節である。
それは、本文中「真忠組をその頃文字通りの掠奪を重ねていた水戸浪士や新徴組崩れなどの片われとしてしか認識していなかったようである」の部分(実は憲さんもそう思っていたのだが・・・)の「水戸浪士」に対する注釈にこう書いている。
引用する。
既に文久元年には、香取郡佐原などで、水戸浪士=天狗が追剥・泥棒・強奪を恣(ほしいまま)にしており、佐原の在村からの抵抗を受けていた。彼らは真忠組とほとんど同じことを言い、軍用金として金を出させていたが、それを地域の民衆に再び分配して与えるという発想は全くない。
以上、引用終わり!
Σ( ̄□ ̄;)ハッ!
天狗党と真忠組は「ほとんど同じことを言」っていたが、豪商等から調達した“軍用金を”真忠組は「地域の民衆に再び分配して与え」たが、天狗党はその「発想は全くない」!
これが決定的である!
結論からいえば水戸天狗党と九十九里真忠組はその思想性は「似て非なる」ものであり、まさに180度その方向性は違っていたのだ!
かたや民衆、とりわけ貧民に寄り添い“義民”として世直しを志向する革命集団であり、かたや乱暴狼藉を働く無頼の徒の集団である。
憲さん、思い切り認識を改めた!
確かに真忠組は当初「尊攘」を掲げてはいたが、それは当時の流行のスローガンに便乗していたに過ぎない。
寺尾五郎氏の言葉を借りればこうである。
以下、前出寺尾五郎著『革命家吉田松陰』より引用。
ここ(真忠組の主張)では攘夷が、開港による外国資本主義の経済攪乱、諸物価騰貴、生活困難という人民生活の立場から主張されている。それは、幕権安泰のための攘夷でもなければ、神州不滅を絶叫するだけの名分的、観念的な士族的攘夷でもなく、まさに人民的攘夷である。この炳々(へいへい)たる人民性のまえには「鎖港」を主張する視野の狭さなどは問題にするにたるまい。
以上、引用終わり。
寺尾五郎氏は時に乱暴な主張を展開する嫌いがあるが、ことこの真忠組の「鎖港」を主張する「視野の狭さ」を「問題にするにたるまい」と言い切る主張には憲さんも圧倒的に同意する。
確か、憲さんが思いを馳せる「武州世直し一揆」も同じスローガンを掲げていたはずである!
参考
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憲さん随筆アーカイブス 受け継がれる革命『武州世直し一揆』考
まさに、九十九里真忠組の蜂起は貧民救済のコミューン実現世直し運動=革命であったのだ!
・・・・・・・・・
千葉県九十九里浜の片貝にその石碑はひっそりと建っている。
今や隣に建つ竹久夢二の碑と同じく省みるものは誰もいない。
しかし、そこには封建社会を覆し人民中心の社会を作ろうと九十九里を駆け巡った革命家と人民がいたことを忘れてはなるまい。
文久四年(1864年)1月17日早朝、小関村の真忠組旅館に討手(福島藩兵)が押し寄せ、楠音次郎は自刃した。
茂原東光院に拠点を置いた三浦帯刀らも小関村に向ったが、その途中上総一宮藩兵百五十と遭遇。剃金中の台で包囲されて三浦以下五名は捕縛され獄門となり刑死した。
矢野重吾郎は、最後まで抵抗したため討ち取られた。
そして、多くの真忠組の組員が殺され、打首獄門となった。
そして真忠組は壊滅した。
参考
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【真忠組矢野重吾郎終焉之地碑】
しかし、そこには社会変革の思想と実践があり、そして何よりも幕末期に九十九里コミューンが短期間ではあったが現実に存在したのだ!
それは、「喰いつめ者の浪人共」の「野盗の類」などでは決してないのである!
社会変革を指向する人民の命懸けの決起に他ならなかったのだ!
心ある人は是非とも、九十九里浜片貝にある彼らの“鎮魂碑”と彼らの墓所の前にたち、命を懸けて闘った革命家の生きざまに思いを馳せてみてはいかがだろうか?
憲さん、もう一度片貝に行き彼等の生きざまに寄り添い敬意を表してきたいと心底思った。
幕末期、革命に命を懸けて闘った人々に心からの敬意を表すると共に、その魂が安らかなることを祈り・・・
合掌。
どーよっ!
どーなのよっ?
※参考文献
林清継著『九十九里叛乱 幕末真忠組事件』
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この小説はかの寺尾五郎氏が「きわめてすぐれた史観と綿密な調査によってかかれた」と絶賛している。
また本文で触れたように、この本の巻末に付している著者解説「九十九里 幕末真忠組事件メモ 超歴史志向の光芒」は“真忠組事件”を知る上では大変参考になった。
図書館にもなく、入手しにくいが憲さん古本をネットで購入した。
※参考サイト
真忠組始末記
※このように真忠組は“知る人ぞ知る”事件となり歴史に埋もれてしまっているが、千葉県、そして地元九十九里町、匝瑳市、茂原市、東金市、大網白里市等が連携し、広域にわたって町おこしも兼ねて「九十九里浜真忠組まつり」を開催してはどうかと思う。
もし、誰もやらないようであれば憲さんか発起人となってやってみようかしらん!
( ̄ー ̄)ムフフ