※画像は真忠組首領楠音次郎の画。「真忠組騒動記」より
 
待てど暮らせど 
来ぬ人を宵待草の 
やるせなさ 
今宵は月も 
出ぬそうな
 
これは大正時代に美人画で一世を風靡した竹久夢二が絵入り小唄集で発表した詩「宵待草」の一節である。
 
参考
【宵待草】
 
(歌・倍賞千恵子)
 
この詩を刻んだ碑が、千葉県の九十九里浜にある片貝漁港に近い作田川河口の道路沿いにある。
 
参考
宵待ち草(九十九里片貝漁港に近い作田川沿い)
 
宵待草とは九十九里一帯に夏の夕方に開花するオオマツヨイグサ・アレチマツヨイグサ・ツキミソウなど。一般的には「月見草」と呼ばれる。
 
ちなみにこれと同じ内容の詩碑が銚子にも二つ存在する。
 
参考
竹久夢二『宵待草』詩碑
 
明治43年の夏、竹久夢二(27歳)は、前年に離婚した岸たまき、2歳の息子・虹之助を伴い、銚子へ避暑を兼ねた旅行に出かける。
 
文人たちの定宿でもあった海鹿島(あしかじま)の宮下旅館に滞在するが、隣家の三女、秋田出身の長谷川カタ(19歳)に出会い、恋心を寄せ君ヶ浜へと散歩に連れ出す。
 
翌年、この地を再訪した夢二は、長谷川カタが嫁いだことを知り実らぬ恋を憂う気持ちが、『宵待草』を生み出したそうである。
 
しかしこの竹久夢二という御仁、本当に女タラシで憲さんは何ら共感するところがない!
 
これはモテない男のヒガミであろうか?
 
この九十九里にある夢二の詩碑だが、憲さんは直接見たことがあるのだが、これがある場所、取り立てて風光明媚なところでもなく、また観光地でもない。
 
もっと言えば作田川の河口にあるうらぶれた片貝漁港の港の入り口にひっそりと建っており、これを見にわざわざ出かける人など、相当の“夢二マニア”しかいないのではないかと思われるくらいのところにあるのだ。
 
では、何故憲さんはそれを見に行ったのか?
 
それはその竹久夢二の詩碑などが目的ではなく、その碑の隣に建つ記念碑が目的であった。
 
それが、“真忠組志士鎮魂碑”である。
 
参考
【真忠組志士鎮魂碑】
 
うんにゃ?
 
真忠組?
 
それは、佐幕派の新選組の仲間?
 
参考
【新選組】
 
それとも尊皇攘夷派浪士の一団天誅組の仲間?
 
参考
【天誅組】
 
【天誅組の変】
 
“真忠組”
 
この名称はおそらく聞いたことがない人のほうが多いだろう。
 
地元千葉県の人でも知らない人が多いと思われる。
 
※先日、地元九十九里町の教育委員会に取材電話をかけたら、電話に出た若いアンちゃん職員すらも知らなかった!
 
(´Д`)=*ハァ~
 
しかし、実は憲さんも20年前までは知らなかった。
 
宜(むべ)なるかな。
 
この“真忠組”、高校の日本史用語集にも出ていない。
 
現在においては完全に“歴史の闇”に葬られてしまっているのである。
 
彼らはこの九十九里一帯では“真忠組騒動”もしくは“大村屋騒動”として幕末期の「騒擾事件」の主役として記憶されている。
 
“真忠組”はその「騒動」の中心となった“浪士隊”の自称である。
 
「真忠組騒動」とは「攘夷と貧民救済」をスローガンに掲げ、房総半島九十九里浜の片貝を中心に、北は八日市場から南は茂原まで武器、資金を強制的に富裕農民、網主、商人から徴収する中で「世直し」を掲げて約2ヶ月間徳川幕府の権力から解放されたコミューンをこの地で確立させた運動である。
 
参考
【真忠組】
 
憲さん随筆
日本義民“烈”伝 世界初!『新潟コミューン』を指導した涌井藤四郎に思いを馳せる
この随筆に「コミューン」について長々と説明がされている。
 
“御一新(いわゆる「明治維新」)“の約四年前、文久3年(1863)11月12日、山辺郡小関村新開(現九十九里町)作田川の川岸にある大村屋旅館に「報国救民館真忠組当分住所」と書かれた表札が掲げられた。そこを本拠として野州浪人楠音次郎正光を首領に多くの浪人が屯集し、真忠組を名乗って攘夷運動を展開した。
 
さらに、茂原村妙光寺(藻源寺)塔頭東光院と八日市場村福善寺には、それぞれ分営を設置した。本拠小関館の大将は楠音次郎正光、茂原館大将は別将の三浦帯刀有国、八日市場館大将は山内額太郎正直であった。
 
真忠組は、攘夷決行の準備として在地の富裕な農民や商人たちから金穀や武具を徴発しては、その金穀を貧民に施したり、また村民の訴状を取り上げて独自の裁判を開いたりした。
 
参考
大網白里市デジタル博物館
真忠組騒動
 
そして真忠組は、軍資金集めの活動に入るに先立って、以下の触廻状を九十九里地方一帯に発していた。
 
「皇国の民諸品の高価に苦しみ困民凍餓の難に罹るは近来横浜開港夷人来舶する所以なり。依て鎖港攘夷の為めに同志を集め義兵を挙げ、百姓塗炭の苦を救わんとす。又有福の者は貧民救助の為め施米金差出」すべし。
 
このように真忠組は活動開始当初から貧民救済と鎖港攘夷を活動目的として掲げ、最盛期にはその組員は187人にのぼったともいう。 
 
彼らが「攘夷」を掲げたことについては水戸天狗党の影響を受けてのことと思われるが、彼らは当時の他の尊攘グループのように名家や公卿の支援を受けることなく、九十九里地方の豪商や豪農、網元から「強請」してその金を貧困にあえぐ農民、漁民に分配していった。そして、次第に貧民救済の義民的運動の色彩を強め「世直し」を掲げるようになる。
 
また、全隊員に「姓」を付けさせて武士も町民も農民も漁民も一切差別を認めなかった。そして各地に触書を出して大きな運動への発展を計画していた。それは短期間であったが南房総における「地方権力」=コミューンの様相を帯びつつあったのだ!
 
これに対して、当初は幕府国家権力も「水戸“天狗党”の影響」を危惧して傍観を装っていた。
 
参考
【天狗党】
 
しかし、真忠組に強請された商人たちは江戸勘定奉行や各地の領主に被害届を提出し、遂に元治元年1月17日(西暦換算1864年2月24日)、幕府が差し向けた福島藩、一宮藩、多古藩、佐倉藩らが藩兵1500人を動員して真忠組の三拠点を攻撃。その結果真忠組は1日で壊滅した。
 
大村屋では東金周辺に領地を持つ福島藩兵を中心に、関東取締出役配下の案内人などにより、大砲、小銃で攻撃され楠音次郎以下七名が自刃、討死したが大半の組員は逃亡したとされる。大村屋襲撃の報を受け藻原寺東光院在の三浦帯刀(たてわき)他は大村屋へ向かうが途次、剃金村(現白子町)で一宮藩兵に迎撃され捕縛された。また八日市場福善寺在の組員も大村屋に向かうが、途中大村屋が制圧され七名が死亡したとの情報によりその場で解散したがいずれへ立ち回ったかは不明である。
 
・・・・・・・・・
 
歴史はいつも勝者によって書かれる。
 
秩父困民党の蜂起もそうであった。
 
参考
【秩父事件】
 
真忠組もまたそうである。
 
この“九十九里コミューン”ともいえる一件を歴史はどう伝えたか?
 
前述した通り、この事件は「真忠組騒動」あるいは「大村屋騒動」などと事件後に呼ばれた。
 
そして、当時にあっては大変に評判悪く、喰いつめ者の浪人共が、尊皇攘夷倒幕などと大袈裟に騒ぎたて、刀を抜いて富豪や富商・網元たちを脅迫して騙りとり、救民などと称し施米・割付などしたのもその言い逃れに過ぎず、野盗の類と異ならず・・・などと言われていた。
 
また彼らが事件後に獄門首に晒されたのもその悪行の当然の報いであるとも語り継がれ、そしてそれはいかにもまことしやかな風説となって今日まで、当時の支配者側の一方的な言説がおしつけられてきたのである。
 
これが、この事件が「“歴史の闇”に葬られてしまっている」といわれる所以である。
 
しかし、もう一度振り返って見てみよう。
 
彼ら真忠組がどのような意志と決意でどのような行動をとってきたのかを・・・
 
真忠組が文久3年12月17日の朝より、茂原の東光寺を出て近隣一帯に撤布したと伝えられる「以書付申触候事」 という七文字を表書きにした触書は以下の内容である。
 
これは少し長いが大変貴重かつ重要な文章なのでここに採録する。
 
「以書付申触候事」(書き下し文)
 
この世に生を受けたる者にして四民平等の世を願わぬ者なかるべし すでに武家専横の世久し幕府の酷政二百数十年民に生色なく飢えに死する者その数知れず これを訴うる者を獄につなぎこれに反く者を獄門に晒して天道に愧(は)じず人を人と思わず犬畜生の扱いにて斬捨御免の暴虐をきわむること甚だしく民心の幕政を呪うこえ山野巷(さんやちまた)に満ち世情騒然として倒幕攘夷勤皇のこえ挙がる 我等は全国津々浦々の義勇の志ある者と同盟を結び身命を投じて救国救民倒幕を旗じるしとして事挙げするもの也 外に夷狄条約を迫り 内に幕府役人驕奢賄賂酒色に耽り人民の酷税に喘ぐをかえりみずかくの如き天地神明に背くこと民心断じて許さざるところなり ようやくにして倒幕蹶起の機至り 我等房総支配役として任命され当地の人々とともに全国一斉蜂起の一翼を担いて起つ也 永い間の悪政に耐え来たりし農民漁民よ 起ちて倒幕の旗を進むるため結束すべし 驕る平家は久しからずとか 徳川の命脈またようやく尽きんとす 我等真忠の義士ひとたび起たんか 江戸幕府の剿滅期(そうめっき・悪や害敵などを滅ぼしつくすこと。すっかり平らげること)して待つべし 我等は貧窮者のため施米割付の救恤(きゅうじゅつ・貧乏人、被災者などを救い恵むこと)をなし 幕府に代りて政事の根本を正し司る者なれば此事大惣代惣代各村役及び富豪富商等よく弁え分に応じたる金員米穀の寄財に応ずべし 又武具類一切隠さず差出すべし 更にすべての借金の棒引 婦女子の売買を禁じ 高利を禁じ下婢下男及び納屋衆の前借金の棒引を申付るもの也 当支配所は理非曲直を糺す訴願訴訟を聴き公開の上にて裁判をし無道なる者に懲罰を加え善政の範を示し民心を安んぜんとす 右の趣旨各々よく弁え決して当支配所を侮るべからず 此事各寄付村々組々へ筆写の上本紙に継紙致し拠出金員米穀武器等 明細記載の上次寄場に早々に廻し即刻完了の事を命ず 尚窮民の者共併せ調べ最寄支配所に届け出すべき旨申付るもの也 百姓小前下々に至るまで此触書の次第分明せしむべし これを怠りたる者屹度糾明厳罰あること心得べし
 
文久三年亥十二月
 
天朝之赤心同盟
 
真忠組総支配所 松本熊太郎組 
房総支配役 三浦帯刀有国 
同     楠音次郎正光
茂原東光寺役所 林寅之助忠広 
片貝大村屋役所 大高泰助久信 
八日市場福善寺役所 山之内額太郎兼忠 
 
以上
 
参考
「文化の白子」第37号(白子町文化協会編)PDFファイル
 
そして以下の解説も「文化の白子」から引用させてもらう。
(後に調べたらこの『文化の白子』の“真忠組”の項は後述する林清継著『九十九里叛乱 幕末真忠組事件』の著者解説「九十九里 幕末真忠組事件メモ 超歴史志向の光芒」からの抜粋であった)
 
「このような触書がかつて有っただろうか?
 これが、痩せ浪人共、無頼の徒の、公然と名乗り出た姿であったのである」
 
まさに、幕藩体制の悪政に苦しむ人民を救わんとする救民思想に貫かれた格調高い宣言文であり、ことに「永い間の悪政に耐え来たりし農民漁民よ 起ちて倒幕の旗を進むるため結束すべし」は日本の幕末における『共産党宣言』に等しい内容ではないだろうか?
 
憲さん、今回この「真忠組事件」を改めて研究し直してこのような感想を持つに至った。
 
しかし、上述した通り憲さんは一度この「真忠組事件」の史跡を2012年1月3日に見学に行っているが、その時はそれほどの興奮を覚えなかった。
 
何故だろうか?
 
その2に続く!