※画像は憲さんの敬愛する幕末の幕臣、川路聖謨
 
天津神(あまつかみ)に 背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは
 
池之端というから不忍池の畔である。
東大の医学部と台東区立忍岡小学校に挟まれたところに大正寺という日蓮宗のお寺がある。
 
参考
【大正寺 (台東区)】
 
そこに彼は眠っている。
 
憲さん10年くらい前に掃苔に伺ったことがある。
 
その墓にちょうどおられた年配のご婦人は子孫の方だったのであろうか?
それとも縁のある墓守の方であろうか?
 
その時お話を伺うことが出来た。
 
「彼はそりゃ、今でこそ“幕末の偉人”と呼ばれている坂本龍馬や勝海舟などに比べても頭脳明晰で頭の作りが違う。時代が時代なら日本を背負ってたつ大人物であった。」
 
そう語られていたのが大変印象的であった。憲さんも同感である。
 
憲さんの敬愛する幕末の幕臣に川路聖謨(かわじとしあきら)である。
 
参考
【川路聖謨】
 
憲さんが評価する川路聖謨の一番の歴史的偉業は外国奉行として日露和親条約をロシア特使プチャーチンとの間に交わしたことである。
 
その際、川路とプチャーチンとの間には並々ならない国際的な友情が芽生えたことはよく知られている。
 
日露交渉の応接でロシア側が川路の人柄に魅せられて、その肖像画を描こうとするが、それを聞いて川路はロシア人に「私のような醜男を日本人の顔の代表と思われては困る」と発言し、彼らを笑わせている。
 
川路は子供の時に疱瘡を患い、あばたを沢山残し、眼は金壺眼で、引っ込んでいて確かに颯爽とした美男子ではないが、その良識、機知、炯眼、そして物腰までも卓越した人物であった。
 
さらに彼の眼は世界へと、そして未来へと向けられておりお玉が池にある自宅を「種痘所」設置のために提供している。
 
参考
お玉ヶ池種痘所跡
 
川路の評伝『落日の宴』を著した吉村昭氏にして「これまで書いた主人公の中でもっとも心動かされる人」と評している。
 
参考
【講談社文庫 落日の宴―勘定奉行川路聖謨】
 
「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」 吉村昭著 講談社文庫
 
また、川路はその業績からお堅い徳川家の官僚というイメージをもちがちだが、さにあらず。
 
氏家幹人氏著『江戸の性風俗』の第1章では「川路家の猥談」として、聖謨のウィットに富んだ「猥談」話が描かれており憲さんとしては大変親近感を覚えるのである。
 
参考
【『江戸の性風俗―笑いと情死のエロス』】
 
そして何よりも川路の偉大なところはその目が民衆に向けられているところにあった。
 
それは川路の事跡を概観すればわかることである。
 
参考
【川路桜】樹齢170年の桜の巨木は幕末に活躍した「名奉行」ゆかり
 
そして冒頭の歌は川路の辞世である。
 
天上の神々に背くことになるかもしれないが、それもよかろう。わらびを摘みながら餓死した故事を思えば。
 
・・・という意味である。
 
参考
川路聖謨 最後の言葉〜辞世の句
 
この川路聖謨については、いつかじっくりと語ってみたいと憲さんは考えている。
 
そして、今回の随筆のマクラで川路聖謨を取り上げた理由はその「死に様」についてである。
 
憲さんはクリスチャンてはないが、基本的に「自死」を潔しとしない。
 
どんなに辛く、どんなに絶望しても地べたに這いつくばり、生に執着してこそ人間は価値があると考えているからだ。
 
しかし、この川路聖謨の“死に様”に触れたとき憲さんは心を揺さぶられた。
 
彼は慶応4年(1868年)3月15日、割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自裁した。享年68。
 
このときすでに戊辰戦争が始まっており、3月15日は新政府軍による江戸城総攻撃の予定日であった。彰義隊の上野戦争のちょうど2ヶ月前である。
 
自身の病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したとも、江戸開城の報を聞き、滅びゆく幕府に殉じたとも言われている。
 
凄まじい最期であった。
 
「自死」をよしとしない憲さんもこの川路聖謨の自裁についてだけは共感し感情を移入してしまう。
 
これは、『痩我慢の説』を著し明治政府に出仕した本幕臣を批判した福澤諭吉、さらには福澤に批判された勝海舟。さらにはもっといってしまえば武士の棟梁にして大坂城から尻尾を巻いて逃げ帰って、明治になって天寿を全うした“負け犬”徳川慶喜などよりもどれだけ人間らしく誠実な生き様であり死に様であったかと憲さんは思っている。
 
参考
『痩我慢の説』
 
・・・・・・・・・
 
3月29日の東京新聞夕刊文芸コラム「大波小波」に興味深いコラムが掲載された。
 
「Nの本心はどこに」という題で保阪正康氏の『Nの廻廊』 (講談社)について紹介されていた。
 
参考
【『Nの回廊』】
 
ここでの“N”とは西部邁氏のことである。
 
保阪正康さんと言えば半藤一利さんとの対談もので憲さんも良く知っているノンフィクション作家であるが、彼の北海道札幌の中学で1学年違いの先輩が西部邁氏であったようで、その西部氏についての物語らしい。
 
しかし、同じ言論界に居ながら両者は対極の道を歩んだのではなかろうか?
 
そしてこのコラム子もこう書いている。
 
以下、コラム引用。
 
N(西部邁)は雑誌『発言者』などを主宰し、保守派の論客として活躍する。だが「Nの憲法改正論や核武装論は、それ自体が目的ではなかったように思う」と「私」(保阪正康)は記す。教条主義的な左翼を挑発するための物言いだったというのである。
 だが、老いていくに従ってNの発言はエスカレートする。「私」と編集者を交えての酒席で、「日本の『軍国主義』についてもっと寛大な気持ちで見るべきだ」とまで言うようになる。
 Nの、いや西部邁の本心はどこにあったのか。言論界が左傾しているから、あるいは世の中が平和ボケしているから、あえて極右的なことを言ってみただけなのか。それとも正直な思いだったのか。
 
以上、引用おわり。
 
Σ( ̄□ ̄;)ハッ!
 
「教条主義的な左翼を挑発するための物言い」!?
 
ということは、憲さんはその挑発にのって踊らされていたというのであろうか?
 
西部は東大で学生運動を指導した幹部活動家でブントの理論家でもあった。
 
参考
【西部邁】
 
それが、その後の転向により上記の酷い言説である。
 
憲さんが一目置く「保守リベラル」を自称する気鋭の学者中島岳志氏も西部邁氏を評価して対談などもしていたが憲さんは全く評価できない。
 
参考
【中島岳志】
 
そしてその究極が彼の死に様である。
 
このコラムにもこう書かれている。
 
「信じてもいない極右的言説を戦略的に吐いたとすれば、彼の悲劇的な最期は、自らの言葉に復讐されたものと言うべきではないか。」
 
どうなのであろうか?
 
悲劇的というより、憲さんから言わせれば「喜劇的」で醜い彼の最期は彼の“生き様”により必然的に用意されていたのではないだろうか?
 
憲さんは彼の自裁について以前随筆を書いている。
 
参考
憲さん随筆アーカイブス 命を守るハーネスを自裁の道具に利用した西部邁の惨めな死
 
この随筆でも書いたが「命を守るための道具」であり、建設労働者の文字通りの“命綱”である「ハーネス」を自裁の道具に使った“死に様”にその思想が表れている。
 
まさに醜く惨めな死である。
 
本気で自裁するのであれば単身で端座し刃物で頸動脈を切断し果てればよかったものを・・・。
 
または、樹海を彷徨するか東尋坊に身を投げるとか・・・
 
彼の死には憲さん、川路聖謨と同じように心を動かされることは全くなかった。
 
保阪正康氏はどうなのであろうか?
 
そこには同郷の郷愁と、思想性の違いによる忸怩たる思いが交錯していたのであろうか?
 
時間があれば読んでみたいとは思ったが、さしあたり江戸川区の図書館には無いようてすな!
 
残念!
 
皆さんはどう考えますか?
 
どーよっ!
 
どーなのよっ?
 
以下、念のためコラム全文
 
Nの本心はどこに
 
保阪正康『Nの廻廊』 (講談社)は、同郷の友人、西部邁についての小説である。ただし作中に西部の名前は出ない。中学生時代を振り返るときは「すすむさん」、成人して再会してからは「N」と記される。一学年違いの中学生時代と、それぞれが言論界で活躍するようになってからの中年以降とが、往還するように語られる。
 Nは雑誌『発言者』などを主宰し、保守派の論客として活躍する。だが「Nの憲法改正論や核武装論は、それ自体が目的ではなかったように思う」と「私」は記す。教条主義的な左翼を挑発するための物言いだったというのである。
 だが、老いていくに従ってNの発言はエスカレートする。「私」と編集者を交えての酒席で、「日本の『軍国主義』についてもっと寛大な気持ちで見るべきだ」とまで言うようになる。
 Nの、いや西部邁の本心はどこにあったのか。言論界が左傾しているから、あるいは世の中が平和ボケしているから、あえて極右的なことを言ってみただけなのか。それとも正直な思いだったのか。それとも正直な思いだったのか。
 たまたまその状況で、信じてもいない極右的言説を戦略的に吐いたとすれば、彼の悲劇的な最期は、自らの言葉に復讐されたものと言うべきではないか。(縄)
 
以上